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キスギ×JK

夜は嫌いだけれど、匂いは好きだ。ビルの照明で星は見えなくて、空気だって排気ガスで酷く汚れているけれど、その汚れすら、清澄に感じるほどに、夜の匂い、特別なのだ。ただ、この静寂と孤独が、大嫌いだ。

月をぼんやりと眺めながら、ベランダの柵に寄りかかって、あることを考えていた。裸足に直に触れるサンダルは冷たくて、服越しに、脇の下に伝わる手すりの温度はもっともっと低かった。

さらさらと吹く風に、私は肩をすくめ、体を震わせた。ビルの隙間からのそれは、寒さと共に、遠くの車のエンジン音も連れてくる。

半袖からむき出した二の腕を擦りながら、私は室内に戻るか、まだここで黄昏ているか、悩んだ。分厚い窓ガラスで隔てられた小さな箱の中には、一人人間が入っている。彼が起きて、私が隣にいないと気付いたら、ほんの一瞬焦るだろう。それなら戻らねば、と思い、手すりから手を離したところ、背後でカラカラと小さな物音がした。

「冷えてしまうよ」

低い声は、時間帯故に囁くように小さかった。マンションの狭いベランダに、ひとつ息遣いが増える。ごうごうと流れる、微かな車の音に包まれていた。

「キョウヤさん」

私は振り返って言った。彼の名前は、キスギキョウヤさんと言うのだと、ぼんやりとした頭が告げている。キスギさんは、私に何かを差し出した。受け取ったものはタオルケットだった。薄い生地には、ほんのりとキスギさんの匂いが残っている。そうしてキスギさんは、私の隣に立って、夜空を見上げた。私は、そんな美しく凛とした横顔を見つめていた。男性の割に白い肌は、月光に照らされ光って、浮かび上がるようだった。

「寒くないかい?」と、キスギさんが上を向いたまま、心配げに気遣ってくるから、私は黙って頷いて、

「寒くはないです」
「そう、よかった。なにをしていたの?」
「別に、なにも。ただぼーっとしてたんです」

私の言い方は、夜の寒さのせいでそっけないものだった。この、寒く孤独な夜の中で、私が彼に添い寝をせず、暖めなかったことは、彼を起こした原因かもしれないのに、この言い方はあんまりだろう。特に、キスギさんは私にタオルケットすら持ってきてくれたのだから、それはもっともっとあんまりだろう。

そう思い私は慌てて、「ありがとうございます」と付け加えた。キスギさんが、ただ頷くだけで何も言わないものだから、静寂に包まれる。遠くを通る車のライトは、水の流れのように黄色く光っている。私はそれを眺めながら考える。あ、がんぷらばとるに似ている。

あまり、ガンダムもガンプラも詳しくないけれど、この隣の男の操るガンプラの光は、清らかに美しく思える。一度だけ、見たことがある。暇なら来てくれないか、と誘われた大会で、ヘッドセットを被ったキスギさんの、好戦的に笑う口元。この唇が電子の作り物の世界で、血気盛んに少年っぽく、笑うのだろう。遠目に見たキスギさんは別人のようだった。

クジョウキョウヤさんとキスギさんは、きっと違うのだ。でも同じなのだ。違うようで、同じところもあって、二人の彼を私は愛せるのかと不思議になる。なんだか、そういうことを考えるのもおかしな気がして、眠くて私の頭は上手く回ってくれなくて、私は呟いた。

「キスギ、キョウヤさん」

夜の静寂に、私の声は溶けて消えてしまいそうだった。キスギさんの耳に入って、鼓膜を震わせる私の声は、きっと酷く震えている。

「ん? なんだい」
「車の光って、ガンプラバトルに似てますね」

キスギさんは、私の発言を意外に思ったのか、目を軽く見開くと細め、くすりと笑った。微笑は余裕であふれていて、私との年齢の差を嫌でも思い起こさせる。

「そうだね」とキスギさんは笑って、穏やかな声で、
「君も、GBNに興味を持ってくれたの?」
キスギさんの声は、恋人がやっと自分の趣味を好きになってくれた、という状況にしては、落ち着きすぎていた。多分、嘘って気づいている。なんだかいたたまれなくって、私は唇を尖らせると、少し突き放すように言った。

「ううん。別に、興味なんてないです。大体、キョウヤさんってば、ガンプラガンプラって、私のこと全然構ってくれないじゃない」
「そうかな? 寂しい思いさせちゃってた? ごめんね」
と、キスギさんは私の肩にそっと腕を回すと、抱き寄せて、
「君が一番って言ったら、信じる?」

触れ合った肩の体温は、夜風に当たっていると思えないほど熱かった。キスギさんは私の瞳を覗き込んで、名前を呼ぶ。あぁ、なんだろう、この感じ。寂しさが埋まっていく、この感じ。なにぶんキスギさんの顔は整っていて、喉からくぐもるような低音は、甘く私まで届くものだから、つい顔が赤くなってしまう。血の巡りが早くなる体は、心臓が暴れそうにばくばくと動いて、うるさい音がキスギさんにまで聞こえてしまいそう。キスギさんの背後で、月が嫌味なほど美しく光っている。

「ん、顔赤い」

キスギさんは、肩に回した右腕の、手の甲で私の頰をさらさらと撫でた。肌と肌の擦れ合う音が、狭いバルコニーに反響する。逸らせないほど、かち合った瞳は強かった。キスギさんの膜の張った瞳に、燃えそうに赤い顔をした私がいる。体が焼けそう。このまま、目を閉じて彼から逃げてしまいたい気にすらなる。

私がつい目を固く瞑ると、キスギさんが顔を近づける気配がした。私の瞼の裏には、さっきのキスギさんの背後の月が焼き付いている。それはキスギさんをぼんやりと照らし、暗闇の中でもキスギさんの顔の輪郭を浮き彫りにした。

キスギさんのそっと吐いた息が、私の唇にかかってくすぐったい。このまま、キスでもされる? キスギさんって、少し都合が悪くなるとこうやって黙らせようとしてくるから、ひどいや。もう、何回も経験して知っていることだけど、キスギさんの唇はとっても熱い。熱さに頭がくらくらして、文句も不満も私は毎回言えなくなってしまうのだから、今迫り来る唇は防がなければいけない。私は自分の手の甲を、自分の唇に強く押し付けた。キスギさんの顔と私の唇、あと何センチだろう。

「頰、熱いけど大丈夫?」

緊張に耐え、震える私の手のひらを通り過ぎて、キスギさんは私の耳元で囁いた。耳を擽る計算し尽くされた低音に、腰が疼く。私は自分のスウェットの裾を強く握った。その瞬間、タイミングを見計らったかのように、体温を共有していた体がぱっと離される。キスギさんの手はもう私に触れていないし、身長差もあるせいで顔の距離は遠い。わたし、からかわれたのだ。

「キス……されると思った?」
「いじわる」
「はは、ごめんなさい」

お互い、体を離すと甘い雰囲気は自然と消えていった。タオルケットをまた体に巻きつけて、私は遠くの光の川を見つめた。先程より、車通りは少なくなり、川も細くなっていた。

「私、やっぱりGBNはやりません」

爪をいじりながら、私は言った。なんで? とキスギさんは目線だけで尋ねてくる。だって、わたし――。

「だって私、ガンダムよく知らないし……」
「うん、僕が教えるよ?」
「手も不器用なんです、パーツ壊しちゃいそうだし。それに勉強だってあるし……」
「ガンプラ作りは慣れさ、初めはみんな上手くいかないものだよ。勉強だって、君成績悪くないじゃないか」

キスギさんは引く気配がなかった。爪を触り続ける私の手を、両手で包み込むと、「冷えてるね」と言った。

「やっぱり寒いだろう? 中に入ろうか」

私の手を優しく引きながら、キスギさんは部屋に続く窓を開けた。部屋の電気は消され暗く、ベッドの枕元のガンプラが月明かりにちかちかと輝いていた。

眠気はあるのだが、まだ眠る気になれなくて、私はテレビの前のソファに寄りかかり、ラグにぺたんと座り込んだ。

「眠れないなら、ココアを入れてあげるから」と、キッチンに向かいながらキスギさんが言った。私は黙って待っていた。ベランダでキスギさんに触られた頰が、熱い。囁かれた耳元にかかった吐息のくすぐったさを、今でもありありと思い出せる。

あちち、と普段より気の抜けた声が、キッチンから聞こえてくる。その声を録音して、ずっと聞いていたい気分になる。こんな声、昼間のきりりとしたキスギさんからは絶対聞けないのだ。チャンピオンのプライベートの姿を独占しても、まだ足りないと思う私は相当貪欲だと思う。

熱だってそうだ。いくらGBNで熱いバトルをしたって、現実のキスギさんに触れているわけじゃないんだから、私みたいに、腰がうっ、ってなってしまう感覚は、誰も味わえないのだ。こんな独占欲、醜いと思う? キスギさん。でも、あのね、わたしね――。

数分して、キスギさんはキッチンから戻ってきた。手にお揃いのマグカップを二つ抱えて。キスギさんの利き手にあるピンクのマグカップは私ので、反対の手にある青っぽいのはキスギさんのだ。これ、僕の機体に似てる、と雑貨屋さんで目を輝かせていたキスギさんは、少年のようだった。

キスギさんがリビングに入ってきて、辺りには甘い香りが漂う。ココアの香り、私は少し好きだ。どうやらどちらもココアだと思っていたが、キスギさんの分はコーヒーのようで、あと三歩程の距離になって私は初めて気がついた。

私の隣に座ったキスギさんが、ソファに寄りかかる。ソファがズレて高く音を立てる。キスギさんは慌てて、両手が塞がっていたからか、足で位置を直した。私と一緒にいる時のキスギさんは、たまにガサツ。それが素なのかな、と思って、かっこよくて完璧なクジョウキョウヤしか知らないみんなに、私は優越感。ピンクのマグカップを私に渡した時、軽く触れ合った指は、飛び上がってしまいそうなほど熱かった。

「キョウヤさん、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」

にこやかに笑いながらキスギさんは応えて、「それ飲み終わったら、寝るんだよ?」と付け足した。

私は、ココアの水面に映る私の顔と睨めっこをしながら、頷いた。

飲み物を飲んでいる時は、喋れないから、お互い無言だった。甘く温かな液体は喉を通り、腹に満ちて、身体中がぽかぽかと温まってくるのを感じる。ココアの甘さは、優しい甘さをしている。寝てもいいよ、と言っているような……。キスギさんが入れたからかな?

水面の自分とのにらめっこに勝てなくて、私がうんうん唸っていると、キスギさんは、私に顔を近づけてきた。好奇心に満ちた、少年のような顔をしている。少し意地悪げだ。

「なにしてるの?」
「にらめっこ」

私が雑に返答すると、キスギさんは困ったように笑った。ふと、目が合って、小動物でも見つめるように目を細められる。かわいい、とキスギさんの唇が音もなく紡がれた。

「かわいい」

今度は声に出して。キスギさんは、女の子座りをした私の膝に手を乗せると、目をのぞき込むようにして、またさらに顔を近づけた。唇と唇が、少し動かしたら触れ合ってしまいそうな距離。私はその口を手で塞ぐ。キスギさんは、拒まれたことを不思議に思ってか、目を一度瞬かせた。

「なんで、やだったの?」
「や! だって、キョウヤさんコーヒー飲んでるですもん。苦いし、わたし飲めないし」

「そっか、ごめんね」とキスギさんは笑いながら言った。別に、謝らせたかったわけじゃない。なんとなく申し訳なくなって、キスギさんの肩に頭をもたれされると、数度ぐりぐりと押し付けた。キスギさんは黙って私の頭を撫でた。その手のひらはゴツゴツとして大きく、丁寧で優しかった。私の髪を梳きながら、キスギさんはもう一度、「かわいい、すきだよ」と呟くように言った。そして、それっきり髪を撫でるばかりで、口を開かなかった。

再度、静寂が包む。冷えてしまわないうちに、と私は急いでココアを啜った。

普段より甘く優しく感じられるココアを不思議に思って、「砂糖でもいれましたか?」と聞いてみたけれど、首を振られた。少し、残念に思う。

コーヒーを半分ほど飲みきって、「僕はね」と、キスギさんは唐突に口を開いた。静寂を破る声にしては優しく、違和感なんてひとつもなく馴染んだ。

「君がGBNをやってくれたら、リアルでも仮想世界でも、ずっと一緒にいれるから、うれしい」
「うーん、はい……はい……」
「GBNも、悪いことばかりじゃない。確かにいまは、 チートが流行ってしまっているけど、いつかみんなが楽しめるときが来るはずだ。僕を慕ってくれる、かわいい後輩も出来たんだ、君より年下だし、君も気にいってくれると思うのだけれど……」

と、キスギさんはつらつらと話していた話を一度止めると、「起きてるかい?」と言いながら、私の肩を揺さぶった。もうこの頃になると私は眠くて、話のほとんどは頭に入っていなかった。瞼は重いし、ココアで暖まった体は、睡眠へと向かっていた。逆らえない波のようなものに身を委ねると、私は自分の体がとろりと、とろけるような感覚に襲われた。これが、眠る瞬間、まどろむ、ということなのだろう。

キスギさんは、ひとつ愛しそうに息を吐くと、私の肩と膝裏に手を回し、体を抱き上げた。襲う浮遊感を、私は恐れることはなかった。「ベッドまで運ぶから、寝てていいよ」と告げたキスギさんの優しい声が、頭の中を反響して、寝てていいよ、いいよ……と次第に消えていって、私は――。

今日の月は満月で――。ココア、あと一杯だけ――。言いたいことは沢山溢れてきて、だが口はぴくりとも動かない。今日の思い出だとか、どきどきが、ぐるぐる回るこの瞬間、また明日も覚えていられますようにと、私は必死に祈って、祈って――。

「キスギさん……」なんとか、かすれた声を私は出した。多分、これは夢なんかじゃなくて、現実で、私はキスギさんに言いたいことがあったんだけれど、なんだっけ、なんだっけと思い出せなくて。

夜の匂いが、ココアの匂いが私に染み付いている。でも、それらを全部吹き飛ばしちゃうくらいキスギさんの匂いを私はしっかりと覚えていて、キスギさんの体から香るこの香りは、ずっとキスギさんのものなんだと――。好きだ、好きだ、キスギさんがだいすき。でも、いまは酷く眠くて、何も言えなくて。

寝ていいよ、寝なさい……とキスギさんが言っている。やまびこでも、聞くような気持ちで、私はそれを聞いている。意識はまどろみに飲み込まれ、遠くまで飛んでいく。まだ、もう少しだけ起きていて、キスギさんとお話ししていたいけれど。キスギさんの唇の感触をおでこに感じた。柔らかくて、ふにふにとしている。とっても優しい。

わたし、GBNやりたくないのは、あのね、キスギさん。夢みたいに、すかすかってなくなくなってっちゃう、ゲームの感覚が、嫌だから。体温だって、心音だって私は感じていたいし、うっ、って体がじわじわする感覚も、好きだから……。と、私は口の中だけで呟いて、結局声には出せなかった。

おやすみなさい、また明日……。おやすみ、明日……。とキスギさんの声が、耳に残って張り付いている。おやすみなさい。大好きです。明日もきっと、良い日になると、わたしも、そう思います――。
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