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栄華のはざまに

「あの…私がこの学校に、ここの普通科ではなく他の学校から今年転入してきたというのはご存知ですよね」
「その話を最初聞いたときは驚いたものじゃった、プロデュース科の新設とはの」
「それでですね、私がこの前いた高校は…なんというか…その…すごく、勉強をさせるところだったんです」
 零は相槌を打ちながら聞いている。その姿はさながら仙人のようだと、話をしながら頭の片隅であんずは思う。この人は夢ノ咲三奇人と恐れられる人のひとりであり、確かに変わった人であるけれど、長年この学校にいる人だからなのか、悩みをなぜか話したくなってしまう、そういう魅力を持った人だと感じた。
「そこではまあ…できる方ではなかったんですけど、それなりに頑張って、どこかの大学に行って、まあまあのところに就職できたらいいなって、将来についてそうやって、ぼんやりとですけど考えていたんです。なんですけど……ここは最初思ってた以上に勝手がきかないって、どうやら自分が考えていた将来には向かえなさそうだって、気付いてしまったんですよ。これが『犠牲』のもう一つです」
「なるほど、確かにここは普通と違うところがいくつもあるからの…難儀することも多くあろう。無理はなかろう」
「ええ、それで…自分が何をしているのか、自分がこの先の人生で何をするのか、まったく見えてこなくなってしまったんです……それで…今日のS2です」
 あんずの目に再び涙が浮かぶ。しかし零はそれに気付かないような調子で、
「えーっと…どのユニットが出てたんだったかのう…」
「『紅月』と『Ra*bits』が出てました」
「おお、なるほど」
「ええ、そうなんです…。あの…その…それなんですけれど、……」
 話を挫かれてしまった。この人はここまでマイペースなのかという、一種ほほえましく思う気持ちが沸いたかと思えば、ここから先を本当に目の前にいるこの学園の主のような存在に話してしまってもいいのだろうかという迷いがそれを一瞬で覆っていく。そしてその迷いは、再び大粒の涙となって外に現れることとなった。零がその涙に今度は気付いて、いつの間にか隣に座ってそっとあんずの背中をさすってくれる。すこし冷たい手が、背中の曲線を優しく撫でていく。それをあんずは黙って感じていることしかできない。
「…よしよし、ゆっくりでいい、嬢ちゃん」零は甘く囁く。あんずはそれに心を任せてしまって本当に良いのだろうかと未だ迷うが、それをよそに零はさらに続ける。
「そうか、嬢ちゃんは今日のそれを観て怖くなったということかのう?」
あんずは頷くことしかできない。まずい、完全に読まれてしまったような感じがする。よいことのはずなのに、まだ恐怖を感じる。ここまで来たらもうおとなしくすべて話してしまった方がよさそうだと判断し、体の力を抜くように努める。
「そう、君が今日観た様子が、夢ノ咲の現状じゃ」
「そして、学園は私にそれを変えることを期待している…あなたもですよね、零さん?」
「ああ、その通りじゃ。君ならこの退屈な現状を打破してくれると信じている」
 この言葉を聞いたとたん、今まで漠然としていたあんずの想いは言葉の形をとって勢いよく溢れ出した。
「しかしです…あそこではたくさんの子たちの夢や努力が栄華のはざまに無意味な塵となって消えていきました…あなたたちはそれを変えろと私におっしゃる…でも私にはここにいること自体まだ受け入れきれていない…だって今までアイドルの業界とはほとんど接点を持ってこなかったですし、…実はアイドルに…その、夢を感じたこともあまりないんです……今は私にとって一種の絶望なんです…夢がそこにないのだから…それなのに……彼らの情熱に、夢にその絶望をもって介入することなんて、そんなこと、私にはするのが怖い…怖いんですよ……た、助けて…ください……」
そう言ってしまった後で、肩の荷が下りてホッとした気持ちと同時にあんずを絶望が襲う。これで朔間零がどう動いてくるか読めなくなってしまった。さすがに一気に全部を言い過ぎてしまったのではないか。あんずは後悔する。涙はもうどうしようと自分では止められなくなっている。向こうがどう出ても避けられない――さあ、どう出るだろう?
「それはつらかったのう……ちょっと失礼」
そう言われたのも束の間、あんずは零に急に両肩をつかまれて引きつけられた。予想した以上にその力は優しくも強い。今この部屋には零とあんずの二人しかいない。しかも、本人の話でしかまだよく知らないが、相手は吸血鬼ではなかったか。終わった。恐怖があんずの心を覆う。しかしそれも一瞬で、気付くとあんずは零の胸に収まっていた。
「…!」あんずの言葉は驚愕に詰まる。零は独り言のようになおも続けていく。
「かわいそうにのう、色々考えておったのじゃな…。…嬢ちゃんがここに来ることになったのは、わしらの責任でもある。しかし…わしらにはどうにもできない問題じゃった」
声に悲しそうな響きが混じっていることにあんずは気付いた。
「この世界はおぬしが見てきた通り、色々な背景をもつ子らが集まっている複雑なところであるし、さらにとても序列を重視する。そしてその序列には、権力が付く。しかもじゃ、仮に上の者がその権力を以って下の者を掬い上げるような真似をすると、その相手のみならず他の者にも失礼とみなされるのじゃ。序列は対等な勝負によって決められなければならないという暗黙のルールがあるの。だから、今のままでは何も変わらない。確実に打開するためには、ユニットでもファンでもない外からの干渉が要る。その役割を託されたのが、嬢ちゃんじゃ。…この学園で、おぬしにしかできない、おぬしだけができる役割なんじゃよ」
「それでも…あれは……。あれは、地獄です…あれには迂闊に近づけない…あんなの、私にいったい何ができるんです」あんずは微かな怒りを込めて言う。あんずの耳元ではRa*bitsのパフォーマンスが終わった後に聞こえた、あの優しい紫之創が泣き叫ぶ声が、まだ聞こえている感じがある。あれを聞いていないからそんなことが言えるのだとあんずは思う。それを察してか零は続ける。
「もちろん嬢ちゃんの悲しみや怒りはそれだけでは解決できないことはよく分かる。そんなことは私ではなく他の人に頼んでほしいって、そう思っているのであろう?」
 あんずは黙って頷く。まだ涙は出ている。しかし、涙の理由が、恐怖からだけではなくなっていることにもあんずは気付きつつあった。やっと誰かに話せた、そして聞いてもらえたという喜びが、少しずつあんずの心を包んでいく。そしてあんずは、その体を零に任せるままにしてしまう。それが先輩に礼を欠く行為であると分かってはいたが、そこの居心地が今のあんずには良すぎたのだった。そうすることで、久しぶりに心が安らいだ。
「わしがここにいる間に、何人もの子たちが夢破れてここを去っていった…いや、今も去り続けていると言った方が正しいだろうの……しかし、だからこそ、ほんとうに、おぬしがそれこそ「迂闊に」間に割って入ることだけでも、ここには必要なことなのじゃ。ここは長い間そのような「外」からの干渉を受けたことがない。だから嬢ちゃんがプロデュース科の生徒として外から関わることで、どのような変化をするかはまだ誰にも分からぬ。だから、ほんとうに少しの関わりでも良い、どうかこれを引き受けてはくれぬか」
零があんずを優しく抱きしめる。驚いたあんずが身をすくめるが、零はあんずの背中をぽんぽんとそっと叩いてなだめる。あんずが鼻をすする音も、もうほとんどしなくなった。
「何かがあれば、また誰かに助けを求めればよい。夢ノ咲を変えたいという思いは、方向は違えど皆いくらか持っているからのう。……おぬしはよくTrickstarと一緒にいるじゃろう。彼らの力を大いに借りるといい。彼らは元々打倒生徒会を掲げて結成したところだというし、何よりわしが特訓したからのう、彼らなら若さもあるし大きな力となってくれるじゃろう――おや」
零が気付いた時には、あんずはもう柔らかく深い寝息を立てて眠ってしまっていた。もしかすると、最後のほうはもう聞いていなかったかもしれない。それでも良いと零は思う。たとえ今自分が話したことをこの若い女の子が覚えていなくても、彼女ならばそう遠くないうちに気付くのではないだろうかという、そんな確信があった。下手にあんずを起こさないようにしながら、零はおもむろに部屋の外に声をかける。
「そこにおるのじゃろう、渉?」
 声をかけられて、長い銀髪をなびかせた背の高い青年が足取り軽やかに部屋に入ってくる。演劇部長であり、零と同じく三奇人のひとりに数えられる日々樹渉であった。
「おやおや、見つかってしまいましたねえ。…なんと、どなたとお話ししてらっしゃるのかと思えば!これはこれは噂の転校生さんではありませんか…!どうしてこんなところに」
「しっ!しーーっ!じゃ!」
いつものように演劇ばりに声の大きい渉を零は押しとどめながら、
「この嬢ちゃんを保健室に連れて行きたいのじゃが、手伝いを頼めるかの。ほれ、そこにある嬢ちゃんの荷物を持って一緒に来てはくれぬか」
「はいはい、お安い御用ですよ……そういえば、さっきTrickstarの子たちがこの方をお探しでしたよ」
「おや、それは彼らに悪いことをしてしまったのう。さて、早く行こうかのう」
廊下に出て、眠るあんずを抱えながら零は渉と保健室へ向かう。あんずが起きそうな気配はまるでなく、ぐっすり眠りこんでしまっている。相当に疲れていたのかもしれない。よく見ると、普通より少し痩せている様子がある。自分の食事を犠牲にして毎日仕事をしていると推察された。まだぼろぼろというほどではないが、このまま行くと廃人になってしまいそうな心配があった。そうなのだ、この子はまだここに来たばかりで右も左も分かっていないただの女の子なのであって、敏腕プロデューサーなどではまだないのだ。おそらくは自分のエネルギーの注ぎどころをまだ把握しかねている。しかし、この子はたゆむことなくいろいろなことを考え、あらゆるものに対して検討をし続けている。そのうち、きちんとした力の入れ具合は身についてくるだろう。さらに、この子自身はまだ自信が持てていないようだが、そう遠くないうちに自信を持って、その分大いなる飛躍を遂げるだろう――あんずの寝顔を見ながら零は思う。
「見てください零、あんずさん、笑ってらっしゃいますね」
渉に言われてよく見てみると、なるほど確かにあんずの表情が先ほどまでと変わっている。目は涙にまだ腫れているが、幸せそうに微笑んでいるのが見えた。
「おお、本当じゃの。…渉、この子は大物になるじゃろう」
「その確信はどこから来るんです?」渉は訝しげに訊ねる。
「わしはこの嬢ちゃんと話したからの。この子はわしに思いを投げつけてきた。おぬしはこんな嬢ちゃんがどうしたと思うかもしれんが、夢ノ咲で脱落していく人間が総じて苦手としているのは、この学園の誰かを信用して悩みを告白することじゃ。この嬢ちゃんにはそれができる。ほとんど臆することなく。確かにこの子はまだ来たばかりで、本人も戸惑いがあるようじゃが、もうすぐおぬしたちにとって手強い存在になりうるのではないかのう。わしも楽しみじゃ」
「なるほど……?」
「まあ、そのうちわかるじゃろ。ほれ、保健室じゃ。開けてくれんかのう」
手が塞がっている零の代わりに、渉が前に出て保健室の引き戸に手をかける。渉の視線が、保健室にいた養護教諭の佐賀美陣のそれと窓越しに交差する。佐賀美が焦った様子で戸を開ける。
「どうした日々樹。…天祥院か?」
「いえ。彼はまだ入院していますよ」
「ああ失礼、そうだったな。えーっとそれは…転校生か。何があった」零の抱く人物に目を向けつつ佐賀美は言う。
「倒れたわけではないのですが、どうも疲れがたまっていたようでですね、先ほど眠ってからまだ起きないのだそうです」
「見つけたのは?朔間?」
「そうじゃが…できればわしらがこの嬢ちゃんをここに連れてきたということをTrickstarの面々には秘密にしておいてくれんかのう」
「分かった。そのあたりはなんとかしよう。とりあえずさあ、中へ」
眠っているあんずを、零が保健室のベッドに寝かせる。真っ白なベッドに眠るあんずの姿は、零や渉にだけでなく、あんずに普段会うことの多い佐賀美にさえもひどく小さく見えた。こんなに小さな体であの激務をこなしているのは、きっと無理しているところもあるのだろうということは、この場にいた他の三人に容易に想像することができた。
「それでは失礼」
ベッドに背を向けて、零が先に保健室の外へ歩き出す。渉が後を追うが、その直前に、どこから持ってきたのか、赤い薔薇の花を一輪、ベッドの傍らに置いていくのを佐賀美は見る。 
あんずと保健室に残った佐賀美は、空いていた花瓶に水を入れ、それにその薔薇を挿してベッド横のキャビネットの上に飾ってやる。薔薇の花は、もう少なくなった夕陽の光を余すことなく受けて輝いていた。それを見つつ佐賀美は考える――あんずの目元の涙の跡らしきものを見るに、これは相当に泣いたものと見受けられる。しかし、今はつらそうな顔をしているようには見えず、非常に穏やかな顔をしている。さらに朔間零と日々樹渉の二人が連れてきたということは、彼女は何かを上級生に相談してきたということだろうか?それで、解決できたのなら良いが。
「…人に頼ることは時には大切だよ」
 うっかり声に出てしまった。その声であんずが目を覚ましていないかを確認してから、佐賀美はベッド周りのカーテンを引いた。


結局あんずが目を覚ましたのは、それから一時間ほど経ってからだった。転んで応急処置をしていたところを朔間零に声をかけられて、その後話をしたというところまでははっきり覚えているが、そこから先がところどころおぼろげになっている。そのうち思い出すのだろうが、まだ頭がぼうっとしている。しかも、場所が変わっている。保健室だ。
「おお、起きたか」
カーテンから、佐賀美先生がそっと顔を出す。
「朔間の兄貴の方と日々樹がお前をここまで連れてきてくれたよ。…どうだ、休めたか?」
「あっ、はい…」
「それなら良かった。…まあ、あまり自分でため込むんじゃないぞ。たまには人を頼れ。大いにな」
あんずはきょとんとした表情を浮かべたかと思えば、何かを思い出したように少し驚いた顔になる。
「ん、どうした?」
「いえ、なんでもありません」しかし、そういうあんずの顔は佐賀美が今まで観たことのない明るさだった。
「あ、そうだ!先生今何時ですか」
「五時半だ。早く帰ったほうがいいかもしれんな」
「そうですね。…あれ、氷鷹くんたちは」
「あいつらもさっき来たんだがな、貧血で休んでいるから先に帰っておけと言っておいた。朔間に自分らが来たことを黙っておいてくれと言われたものでな」
「ああ、そうでしたか…」
 零さんが言っておいてくれていたのか。あんずは安堵する。そしてその時、零に何を話し、何を話されたのかをはっきりと思い出した。プロデューサーとしてこの学園に関わることは私にしかできないし、それはどんな具合であろうと影響は未知数であり、とにかく関わらなければ何もわからない。だからやってみろ、そのためには周りの力を使え――彼らには今日のことは話しにくいが、そのうち話す必要もなくなるくらいに関わり合うことが今度こそできるだろう。あんずは姿勢を正して佐賀美に向き合う。
「この度は失礼しました」
「いやいや、そんなの気にするな。保健室は休む場所なんだから。…そうだ、これ、持っていけ」
佐賀美は一輪の薔薇を花瓶から抜き取ると、その切り口に水を含ませた脱脂綿とビニール袋の切れ端を当て、持って帰りやすいようにしてあんずに渡した。
「日々樹がお前に置いていったやつだ。もらってやれ」
「あ、ありがとうございます……」
「それは日々樹に言え。あと朔間にもか」
「はい。もちろん分かってますよ」
「そうか。じゃあ気をつけてな」
「ありがとうございます。さようなら、先生」
「はい、さよなら」


電気が消え窓からの光もなくなった真っ暗な廊下を、あんずは薔薇の花を片手に歩いていく。零のところへ寄ろうと思ったが、この時間では慌ただしくなってしまうだろう。それは明日にすることにして、一人薔薇の香りを嗅ぎながら帰る。確かに今日はひどく疲れた。でも、すっきりした気持ちが今はある。今日で、今までに対して何かの区切りがついたみたいだった。
「明日は何があるかなあ」
あんずは虚空にふと訊ねた。
その声音には、青春をしているという、深い歓びだけがあった。一
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