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栄華のはざまに


 それはあんずが夢ノ咲学園に来てすぐ、S2の直後だった。 
  講堂を出て、あんずは一心不乱に走っていた。見たものを忘れるためかもしれない。あんずにも走っている理由はよくわからなくなっていた。とにかく、ここから離れたいという気持ちから、気付いたら誰にも言うことなく出てきてしまった感じだ。今更戻るわけにもいかない。このまま帰ってしまおうかという思いが心の中に沸くのをあんずは感じる。今日は人もまばらだが、ところどころに生徒の姿も見える。あんずは知っている顔を探しつつもなおも走る。なんのために?――わからない。ただひたすらに、走る。遠くに、知っている顔が見えた。朔間先輩と…あれは…日々樹先輩かな…何を話しているんだろう―― 
 足がもつれたと思った瞬間、あんずの体が地面に叩きつけられる。走っていたから、その勢いで少しの距離をそのままざあっと前に進む。止まったところで、あんずはゆっくりと体を起こした。膝のあたりに鋭い痛みを感じた。 
 すぐそばの縁石に腰を落ち着けて、あんずは怪我の処置にあたる。膝と手のひらを派手にすりむいてしまった。しかも両方である。そのあたりを動かしただけで痛い。患部に軽く消毒液をかけ、絆創膏を貼る。簡単なことであるが、ここに来てから、けがの応急処置の手つきもずっと慣れたものになったとあんずは自分で思う。そうなったのはそれだけ必要があるからであるが、それゆえ、自分の手だけはここに馴染んでいるのかと悲しくなってきた。すると、上から声が降ってきた。 
「おぬし、…さっきは大丈夫だったかの」 
 あんずは声がする方を見る。声の主は三奇人のひとり、朔間零だった。あんずが走っていくのを見ていたようだ。走ってきたからか、少し息が切れているのがわかった。すると、零の姿を見たとたん、あんずの目から涙が溢れて止まらなくなってしまった。 
「……わっ」なぜなのかあんず自身もよくわからずうろたえる。その間にも涙は流れる。 
「…その涙はどうやら怪我だけが原因ではなさそうじゃの。外にずっといるのもなんだから、中に入ったらどうかの?」 
 あんずは涙を止められず応えることができない。零はそれを同意ととることにした。 
「歩けるかの、嬢ちゃん?」 
「ええ、こ、これは大したことないですから」あんずは涙声で答える。恥ずかしさに、零の顔を見ることはできない。すると零はおもむろにしゃがみ込んだ。 
「いや、これはやはり歩かせるわけにはいかんのう」おんぶの姿勢である。 
「や、やめてください、そんな――」 
 あんずは恥ずかしさのあまりに後ずさりをしてしまう。先輩にそんなことをさせている自分が惨めで、どうしようもなく嫌いになっていた。 
「しかし、その怪我では今のおぬしは速く歩けそうにない。しかもこのままではほかの誰かにも見つかってしまうじゃろう?」 
 あんずに反論をすることはできなかった。おとなしく零に従うことにする。 
 零の背中に負われてあんずは廊下を行く。零の背中は微かに温かく、花のような優しく良い匂いがした。しかしその優しさは、今のあんずにはつらく感じるものだった。自分はここで何をしているのだろうという思いが、みるみるうちに隠された大きさを現していくのを感じる。何も考えることができずに、あんずは零の首越しに、怪我をした自分の手を無言で眺めていた。 
 連れてこられた先は、軽音部の部室だった。この前に来たときと変わらず薄暗く、雑然としているのがいかにもという感じで、その様子が完璧に整備された夢ノ咲の庭などよりもあんずを安心させる。零が先に部屋に入って椅子を用意してくれる。 
「ほれ、こっちにおいで。取って食ったりせんから」 
 促されるままあんずは用意された椅子に座る。気を使ってなのか、もう一つの椅子は少し離れたところにあるのが見えた。 
 二人の間に流れた沈黙を、零が破る。 
「そうだ、おぬしは休みの日に何をして過ごしているんじゃ?」 
「えっと…敢えて言うならば紅茶をよく飲んでいますね」 
「ほお、紅茶派かの」 
「ええ、まあ…コーヒーよりは紅茶のほうが好きですね。これは元々ホットチョコレートでやるやつみたいで、ジャンクな飲み方なんですけど、ミルクティーに小さなマシュマロをたくさん浮かべるのも見た目がきれいで前はよくやってましたね。でも…」 
「でも…?」 
 一回深く呼吸をして、あんずは一息に話し始めた。 
「実は、私には最近特に、こうしてゆっくり紅茶を楽しむことがほとんどありません。だから、作法もよく知らないままです。ここに来てからは、できる限り濃く出して、眠気覚ましに啜る…要するに、コーヒーの代わりに過ぎないんですよ。寝る暇もなければ、紅茶を楽しむ時間はもちろんない。これも私が払っている犠牲のうちのひとつなんだと思います」 
「なるほど、『犠牲』か。よかったら、その話をもう少し聞かせてはくれんかのう?」 
「うっ……」 
 「犠牲」という言葉はあんず自身も意図せずに出したものだった。そこを拾われるとは。 
そもそもなぜ自分は今「犠牲」なんて言葉を使ったのだろう?一気に追いつめられる感覚があんずの感情をなぶっていく。 
「もちろん、嬢ちゃんが話したくなければ気にせずそこで休んでいてくれていい。一人になりたかったらわしはこの部屋を出る」 
「えっ…いや…」 
「他に誰が来るかについては気にしなくていい、もうしばらくは誰も来ないじゃろう」 
 零の深い赤色の双眸があんずを見つめている。表情こそ穏やかであるが、瞳の奥には鋭さが光っているのが分かる。これが夢ノ咲に長く所属する者の威厳というやつなのだろうか。それに射すくめられたように、あんずの喉は詰まって声が出せなくなる。 
「実は、さっきおぬしが講堂から走って出ていくところを見ていたのじゃけど…」 
「そ、そうでしょうね」 
あんずはあえて強気に出ることで、対等な立場になろうとする。 
「講堂から出る時に先輩をお見掛けしてましたよ。…なんか…詳しくは存じ上げていませんけれど、日々樹先輩と一緒にいらっしゃいましたよね」 
「おお、なかなかおぬしは鋭いのう。それで…さっき泣いていたのはそのことに関係があるんじゃないかのう?その、他の『犠牲』とやらも。わしは君のことが少し心配なのじゃよ、わしでよかったら聞いてあげたいのじゃが」 
「ええ……その、まったく面白い話じゃないんですけど…」 
「そうと決まっておろう。気にせず話してくれんかの」 
「ああ…はい…。て、手短に話しますね。…あの、できればこれを秘密にしておいてくださいませんか」 
「良いじゃろう。気にせず話すがよい」 
 あんずが重い口を開いて、ぽつり、ぽつりと話し始めた。 
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