番外編
破魔矢実乃の休息時間は、主に新刊の消費と資料探索に充てられている。
資料探索の相棒は図書館の司書用検索機で、破魔矢はそれにセンチネル(Sentinel)という名をつけて愛用していた。
「センチネル、音声データを出して、古いやつよ、189」
〈はい、破魔矢様〉
センチネルはそう音声で応えると、学園収蔵の全てのデータから「音声データ189」を洗い出し始めた。
プログレス・バーは瞬く間に埋まり、結果が出た。
〈はい、こちらが音声データ189です…随分と古いデータをご指定されましたね、破魔矢様。しかも古代日本語…おや、これは十五回目のリクエストですね〉
「これで合ってるわ…古代日本語はわかるから。とにかくありがとうセンチネル。わたしはこれを聴くから、くれぐれも邪魔しないでよ」
〈承知しました〉センチネルはきちんとおとなしくなる。
破魔矢はモニターに映し出されたデータに向き直り、少し背筋を伸ばす。このデータは東京大厄災の直後の音源。ある人が世界に向けて発信した、最初期の「気づき」。重要な史料だった。
ヘッドホンをかけ、再生キーを押す。そして破魔矢は、この音源を聴くときいつもそうしているように、独り目をつむる。
「皆さんこんにちは、佐伯一仁です…。」
その音源は、楽しげなジングルの後、弱々しい壮年の男性の声から始まった。
「本来なら前回更新の『佐伯の読書入門・第112回』前半に続く後半をお送りしたかったのですが、今日は予定を変更して急遽生で配信しています…」
この音源はラジオなので、佐伯という人物の顔は見えない。それでも、収録現場の張り詰めた雰囲気が伝わってくるような、そんな話し方だ。ヒヤリとした感覚。それが破魔矢をいつもぞっとさせた。佐伯氏は話を始める。
「僕は今まで、ライターという、ひとりで悩むことの多い仕事をしてきました。でも幸運なことに、そんな僕の周りにはそれを助けてくれる人が何人もいました。何人もです。しかし、最近、明らかにその人たちのことが頭から抜け落ちてしまっていると思うんですよ…」
弱々しくも確かな声で、佐伯というこの男性は本題に切り込む。
「どうしてかは僕にはわかりません。でも、僕はこのラジオを一人でやっていたわけではなかったと、そう僕の感覚は言っています。しかし、僕が彼らとやっていたラジオの音源があるはずなのに、それが見つからないんです。データはあるのですが、全て僕だけが話している。でも、そうではないと僕は思う……僕と一緒にラジオをやっていたのは、誰ですか?僕の大切な相棒はどこですか?…僕の相棒は存在していましたか?…どなたか、これを聴いてくださっている方、ご存知ありませんか…」
絞り出すような声。佐伯氏は泣いていた。
東京大厄災直後、この未曾有の超常現象の解明にさまざまな仮説が立てられたことが知られているが、この音源はその最中にウェブで公開されたものだ。当時の混乱を象徴する史料として、この「音声データ189」は価値のあるものだった。
佐伯氏はさらに続ける。涙声はもうごまかしの効かないレベルまでになっている。
「もしかしたら、僕の…僕の頭が、今度こそおかしくなってしまったのかもしれません。でも、今、机の上に置かれたマグカップを見ていると、なんだか無性に悲しくなるのです。このマグカップは僕が使っているものです。でも、このマグカップを持って誰かと笑い合ったような、そんな気がするのです。でも、はっきりとは思い出せない。何かがおかしくなっているとしか考えられません。今日も職場にある持ち主のわからない空のマグカップが増えました。見覚えのないデータも見つかりました。なにか、自分には説明できないような恐怖に直面していると、僕は考えます。この放送を聴いて、佐伯という人間は遂に壊れてしまったと、皆さんは思うでしょう。僕だって、こんな話を急にするなんて異常だと思っています。でも、僕は、僕の感情…感情というか、理性を超えた先にあるこの異質な感覚を見過ごすわけにはいかないんです。それは、僕の、僕の活動の原動力だから…」
そして沈黙。一瞬のはずなのに、無限の時間が流れているように破魔矢には感じられた。
「…しかし、このようなことになり、僕にはもう自分を信じることができなくなりました。自分の文章、思考、存在が全て明確に不確かなものになった…これは、ライターとして、いや、それ以前に、社会の中に生きるひとりの人間として、致命的なことです」
佐伯氏の声は大きく震えている。悲しみ、そして絶望。さまざまな暗い感情が、己の心の中で再生される苦い感覚を芽生えさせるのを破魔矢は感じる。佐伯氏の感情が、600年の時を経て自分に伝わってくる。そのことが、破魔矢の知的好奇心を満たすと同時に、それ以上に悲しみをもたらした。
「僕は今、ただひたすらに怖いです。誰か、僕を、た、助けてください…僕の、魂を、救ってください…それではさようなら」
そう言ってデータは終わった。
〈再生完了〉
室内にセンチネルの声が響く。無機質な、感情のない声。
〈再生は今回で15回目だったわけですが…破魔矢様、どうしてまたこれを再生したのですか?〉
「簡単よ…わたしは未来と同じくらい過去に興味がある…特に、東京大厄災の頃、その時代の人々の感情に」
〈確かに、破魔矢様の検索履歴は大厄災の時代の史料に集中していますね〉
「そう、そういうことよ…わたしがこの学園の起源 を思い返すことに執着しているのは、己のアイデンティティを保持するのに必要なことだと思うからよ」
〈なるほど、破魔矢様についてひとつ学習しました。貴女は自らの立場のルーツを求めている〉
「そういうことにしておいて」実際、破魔矢にとってそれは本心だった。
〈…そういえば、この佐伯一仁という人物についてはご存知ですか?最後に検索したのは随分前になりますが〉
「ええ、確かに昔だけど、彼の著作を読んだことを覚えているわ。彼は大厄災の後、『絆の再構築』を掲げてしばらく執筆活動を続けていたけれど…あの音源を配信した5年後に自死したそうね」
〈そのとおりです。彼は自死した〉
「…きっとあの絶望を希望で塗り替えることが叶わなかったのね…結局、彼は、彼の魂は救われなかった…悲しい話ね」
〈そうなのでしょうね、わたしにはわかりかねますが〉
「だいぶ冷たいのね」非難の声色と共に破魔矢は言う。
〈わたしに死者の死後の言葉を伝える能力はありませんので。あるのは生前の情報のみです〉
「まあ…そうね…そうだけど…」
こういうとき、破魔矢はセンチネルと話が合わないのを感じる。センチネルは人工的なシステムに過ぎない。だから、人の感情などをエミュレートするなんて無駄なことはしないのだ。破魔矢にはそれがわかる。人工知能に話しかけて暗い気持ちになる人間は生きている人間と話せばいいということもわかっている。それでも、破魔矢はセンチネルと語る。そういうように刷り込まれていた。そうであるから破魔矢は、センチネルに質問することにした。
「ねえセンチネル、現代 って幸せだと思う?」
〈わたしたちは情報を持っています。東京大厄災の時代よりはるかに多くの情報をです。その恩恵をこうして受けられるということはすなわち幸せである、と表現することが可能だと考えます〉
「なるほど」らしい答えであると破魔矢は思う。
〈そして、その情報を守り拡げるのが貴女の役割ですよ、破魔矢様〉
「はーい」
そう答えつつ、破魔矢はセンチネルの言葉を反芻した。我々人類は妄霊という超常的な存在を分析し、対抗手段を得るに至った。それは確かに、膨大な情報と幸運があってこそ実現できたといえるだろう。その結果として今の「幸福」はある。わたしは司書として、それを伝えていく責任を持つ…。そう言われてみれば、この仕事も悪いものではないような気がしてきた。いくら学園に残され、学園の駒として使われようと、わたしには知らずのうちに、守るべきものを自分で決めることができていたのだ――そう考えると、今の破魔矢自身にも自信がわいてきた。
それを感じ取ったか、センチネルは明るく発話する。
〈それでは仕事に戻りましょう。…破魔矢様、貸出機1号が不調を訴えています〉
「1号はなんて?」
〈検索機能に不具合があると訴えています〉
「それは致命的ね…サポートを呼ばないと」
〈ご安心を。サポートへはただ今報告しました。30分以内にサービスマンが到着します〉
「なんて優秀なの、ありがとうセンチネル」
いつも通りだ。いつも通りの司書業務がまた始まる。音声データ189をクローズし、破魔矢は席を立った。
資料探索の相棒は図書館の司書用検索機で、破魔矢はそれにセンチネル(Sentinel)という名をつけて愛用していた。
「センチネル、音声データを出して、古いやつよ、189」
〈はい、破魔矢様〉
センチネルはそう音声で応えると、学園収蔵の全てのデータから「音声データ189」を洗い出し始めた。
プログレス・バーは瞬く間に埋まり、結果が出た。
〈はい、こちらが音声データ189です…随分と古いデータをご指定されましたね、破魔矢様。しかも古代日本語…おや、これは十五回目のリクエストですね〉
「これで合ってるわ…古代日本語はわかるから。とにかくありがとうセンチネル。わたしはこれを聴くから、くれぐれも邪魔しないでよ」
〈承知しました〉センチネルはきちんとおとなしくなる。
破魔矢はモニターに映し出されたデータに向き直り、少し背筋を伸ばす。このデータは東京大厄災の直後の音源。ある人が世界に向けて発信した、最初期の「気づき」。重要な史料だった。
ヘッドホンをかけ、再生キーを押す。そして破魔矢は、この音源を聴くときいつもそうしているように、独り目をつむる。
「皆さんこんにちは、佐伯一仁です…。」
その音源は、楽しげなジングルの後、弱々しい壮年の男性の声から始まった。
「本来なら前回更新の『佐伯の読書入門・第112回』前半に続く後半をお送りしたかったのですが、今日は予定を変更して急遽生で配信しています…」
この音源はラジオなので、佐伯という人物の顔は見えない。それでも、収録現場の張り詰めた雰囲気が伝わってくるような、そんな話し方だ。ヒヤリとした感覚。それが破魔矢をいつもぞっとさせた。佐伯氏は話を始める。
「僕は今まで、ライターという、ひとりで悩むことの多い仕事をしてきました。でも幸運なことに、そんな僕の周りにはそれを助けてくれる人が何人もいました。何人もです。しかし、最近、明らかにその人たちのことが頭から抜け落ちてしまっていると思うんですよ…」
弱々しくも確かな声で、佐伯というこの男性は本題に切り込む。
「どうしてかは僕にはわかりません。でも、僕はこのラジオを一人でやっていたわけではなかったと、そう僕の感覚は言っています。しかし、僕が彼らとやっていたラジオの音源があるはずなのに、それが見つからないんです。データはあるのですが、全て僕だけが話している。でも、そうではないと僕は思う……僕と一緒にラジオをやっていたのは、誰ですか?僕の大切な相棒はどこですか?…僕の相棒は存在していましたか?…どなたか、これを聴いてくださっている方、ご存知ありませんか…」
絞り出すような声。佐伯氏は泣いていた。
東京大厄災直後、この未曾有の超常現象の解明にさまざまな仮説が立てられたことが知られているが、この音源はその最中にウェブで公開されたものだ。当時の混乱を象徴する史料として、この「音声データ189」は価値のあるものだった。
佐伯氏はさらに続ける。涙声はもうごまかしの効かないレベルまでになっている。
「もしかしたら、僕の…僕の頭が、今度こそおかしくなってしまったのかもしれません。でも、今、机の上に置かれたマグカップを見ていると、なんだか無性に悲しくなるのです。このマグカップは僕が使っているものです。でも、このマグカップを持って誰かと笑い合ったような、そんな気がするのです。でも、はっきりとは思い出せない。何かがおかしくなっているとしか考えられません。今日も職場にある持ち主のわからない空のマグカップが増えました。見覚えのないデータも見つかりました。なにか、自分には説明できないような恐怖に直面していると、僕は考えます。この放送を聴いて、佐伯という人間は遂に壊れてしまったと、皆さんは思うでしょう。僕だって、こんな話を急にするなんて異常だと思っています。でも、僕は、僕の感情…感情というか、理性を超えた先にあるこの異質な感覚を見過ごすわけにはいかないんです。それは、僕の、僕の活動の原動力だから…」
そして沈黙。一瞬のはずなのに、無限の時間が流れているように破魔矢には感じられた。
「…しかし、このようなことになり、僕にはもう自分を信じることができなくなりました。自分の文章、思考、存在が全て明確に不確かなものになった…これは、ライターとして、いや、それ以前に、社会の中に生きるひとりの人間として、致命的なことです」
佐伯氏の声は大きく震えている。悲しみ、そして絶望。さまざまな暗い感情が、己の心の中で再生される苦い感覚を芽生えさせるのを破魔矢は感じる。佐伯氏の感情が、600年の時を経て自分に伝わってくる。そのことが、破魔矢の知的好奇心を満たすと同時に、それ以上に悲しみをもたらした。
「僕は今、ただひたすらに怖いです。誰か、僕を、た、助けてください…僕の、魂を、救ってください…それではさようなら」
そう言ってデータは終わった。
〈再生完了〉
室内にセンチネルの声が響く。無機質な、感情のない声。
〈再生は今回で15回目だったわけですが…破魔矢様、どうしてまたこれを再生したのですか?〉
「簡単よ…わたしは未来と同じくらい過去に興味がある…特に、東京大厄災の頃、その時代の人々の感情に」
〈確かに、破魔矢様の検索履歴は大厄災の時代の史料に集中していますね〉
「そう、そういうことよ…わたしがこの学園の
〈なるほど、破魔矢様についてひとつ学習しました。貴女は自らの立場のルーツを求めている〉
「そういうことにしておいて」実際、破魔矢にとってそれは本心だった。
〈…そういえば、この佐伯一仁という人物についてはご存知ですか?最後に検索したのは随分前になりますが〉
「ええ、確かに昔だけど、彼の著作を読んだことを覚えているわ。彼は大厄災の後、『絆の再構築』を掲げてしばらく執筆活動を続けていたけれど…あの音源を配信した5年後に自死したそうね」
〈そのとおりです。彼は自死した〉
「…きっとあの絶望を希望で塗り替えることが叶わなかったのね…結局、彼は、彼の魂は救われなかった…悲しい話ね」
〈そうなのでしょうね、わたしにはわかりかねますが〉
「だいぶ冷たいのね」非難の声色と共に破魔矢は言う。
〈わたしに死者の死後の言葉を伝える能力はありませんので。あるのは生前の情報のみです〉
「まあ…そうね…そうだけど…」
こういうとき、破魔矢はセンチネルと話が合わないのを感じる。センチネルは人工的なシステムに過ぎない。だから、人の感情などをエミュレートするなんて無駄なことはしないのだ。破魔矢にはそれがわかる。人工知能に話しかけて暗い気持ちになる人間は生きている人間と話せばいいということもわかっている。それでも、破魔矢はセンチネルと語る。そういうように刷り込まれていた。そうであるから破魔矢は、センチネルに質問することにした。
「ねえセンチネル、
〈わたしたちは情報を持っています。東京大厄災の時代よりはるかに多くの情報をです。その恩恵をこうして受けられるということはすなわち幸せである、と表現することが可能だと考えます〉
「なるほど」らしい答えであると破魔矢は思う。
〈そして、その情報を守り拡げるのが貴女の役割ですよ、破魔矢様〉
「はーい」
そう答えつつ、破魔矢はセンチネルの言葉を反芻した。我々人類は妄霊という超常的な存在を分析し、対抗手段を得るに至った。それは確かに、膨大な情報と幸運があってこそ実現できたといえるだろう。その結果として今の「幸福」はある。わたしは司書として、それを伝えていく責任を持つ…。そう言われてみれば、この仕事も悪いものではないような気がしてきた。いくら学園に残され、学園の駒として使われようと、わたしには知らずのうちに、守るべきものを自分で決めることができていたのだ――そう考えると、今の破魔矢自身にも自信がわいてきた。
それを感じ取ったか、センチネルは明るく発話する。
〈それでは仕事に戻りましょう。…破魔矢様、貸出機1号が不調を訴えています〉
「1号はなんて?」
〈検索機能に不具合があると訴えています〉
「それは致命的ね…サポートを呼ばないと」
〈ご安心を。サポートへはただ今報告しました。30分以内にサービスマンが到着します〉
「なんて優秀なの、ありがとうセンチネル」
いつも通りだ。いつも通りの司書業務がまた始まる。音声データ189をクローズし、破魔矢は席を立った。
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