桜雨




 風が強く吹くと目の前が見えなくなるほどに花びらが降る。駐輪場の脇に一本ポツンと忘れられたように立っていた桜が、この季節だけ存在を主張するように満開に花開いていた。
 三井がこの木が桜だと知ったのも卒業した後だった。春休みに母校に報告がてらバスケ部に顔を出した折、流川と待ち合わせた駐輪場で見事に咲いた桜を見てそれと知ったのだ。
 その後輩と今日また待ち合わせたが、流川が指定してきたのは「湘北で」と一言だけだった。雑な男だと知ってはいたが、湘北と聞いて三井も細かく聞き返すことはしなかった。
 二人とも湘北の卒業生とはいえ不法侵入であることは重々承知で、見つかれば面倒になるだろうことは予想がついた。三井は裏門からそっと入り、体育館に行こうとしてその脇にある駐輪場にまず辿り着いた。
 春休み期間の今は止められている自転車は一台もなく、ただ広いだけのコンクリートの半野外は春特有のどこか湿った青臭い匂いがした。自身は自転車通学ではなく用がなかった筈のここに、三井は在学中に少なくない頻度で足を運んだ。今日顔を合わせる後輩がガタガタと古いママチャリを引き出す姿を何度見たことだろう。
 屋根の上、夕暮れの中に幾重にも重なった薄紅が滲んで揺れる。三井は手に持ったカメラを桜の散る駐輪場に向けて、一枚シャッターをきった。軽い手応えとともにカシッと軽いプラスティック音を聞いて、シャッターボタンの右の薄いボタンをギリギリと手で巻く。紙の箱の小さく開いた穴から見える数字が動いて、あと6枚とフィルムの残量が表示される。
 今日中に桜で撮り切って明日にはアメリカに送れるかと踏んでいたが、風流を解するとは思えない後輩が花だけで満足するとは思えなかった。せっかく母校に戻ってきたんだから校庭の懐かしのゴールポストでも撮ってやるか、と桜に背を向けるとその靴先に何かがひっかかった。
 花びらに埋もれていたのは桜の花を模した造花だった。短いリボンがその下につけられていて、そこには「祝 御卒業」の文字が印字されている。見覚えのある小さな造花は、3年前に三井自身照れながら胸に飾っていたものと同じだった。誰かが落としていったらしいそれは花に埋もれて風に吹かれて、本物との見分けがつかない。
 三井は思い立ってそれにもカメラを向けた。カシッとまた音が指先に響く。
「どうせだったら俺が見てないもの送って欲しいんすけど」
 背後から不意に声を掛けられて三井の口が笑みの形に持ち上がる。
「お前、日本にいたって桜なんか見てねぇだろ。あっちに戻ってから見たら懐かしくなるもんなんだよ」
 半分自分でもそうとは思っていないことを口に出しながら、三井は身を屈めて桜の胸飾りを拾った。今年も卒業式にはまだ桜は咲いていなかっただろうが、今日まで雨も降らずにいたおかげで大した汚れもない。
「ほらよ」と声をかけて三井は拾ったそれを流川に投げる。ついた花びらを散らしながら放物線を描いて胸元に飛んできた飾りを流川は掴み、視線を落として眉を寄せた。
「これなに?」
「それつけて去年卒業式出たろ、おまえも」
「覚えてねぇ」
「だろーな」
 ハハッと笑って、三井は流川の姿をカメラのファインダー越しに覗いた。
 ファインダーといってもただ小さな紙の箱に開いた四角い穴で、レンズを通さない流川の姿は近いようで遠い。三井は指を掛けていたシャッターボタンに力を入れて、その姿を自分のカメラに取り込んだ。
 久しぶりに見た流川は、胸の前に不自然に横に皺の寄った白いシャツに丈の合っていない短めのズボン姿で、どう見てもそれは高校に在学していた時に着ていただろうものだった。まさか制服を着ていれば湘北に入ってもいいと考えたわけではない、とは思うけれども。
「おまえ、なにそのカッコ」
 指摘すると流川は自分の体に目を落とした。
「仕方ねぇ。急で喪服なかったし」
「…あ、そっか」
 一年前に渡米した流川と思ったよりも早く顔を合わせることになった。一昨日の夜に「そっちに一時帰国するから湘北で待ち合わせ」といきなり連絡が来て、心の準備も何もできないままに、ただ今使っていた使い捨てカメラだけを携えて約束の場所に足を向けた。
「…ばあちゃん、残念だったな」
「うん。でも大往生だったらしいし」
「何歳だった?」
「えーと。88?」
「そりゃ目出…」
 目出度いと口に出しそうになって三井は口を噤んだ。自分の祖母が70になったばかりだと考えると、年下の流川の祖母の高齢が不思議にも思えた。流川の亡くなった祖母が父方なのか母方なのか、一緒に住んでいたのかそうでないのかもそういえばわからない。喪服の準備がなかった流川は、身近な人の死にまだ立ち会ったことがなかったのかもしれない。
 流川の顔を見ても悲しみや寂しさといった表情はなかった。かといってようやく三井に会えた喜びもなく、いつもの仏頂面でもない、三井も見たことのない途方に暮れたような曖昧な表情を浮かべていた。
 風が強く吹いて音をたてて揺らいだ頭上の桜を見上げ、顔に落ちた花びらを邪魔そうに払って、また顔を三井へと向けた。
「いつ戻んの?」
「明後日」
「弾丸だな」
「だから今日会いたかった」
 サイズの合わない白シャツに丈の短いズボン。着替えて来いよ、と心の内でツッコミを入れつつ、その時間すら惜しんで自分の元に駆け付けてきたのだという甘い期待が胸に湧く。
 流川から送られてきた使い捨てカメラがきっかけとなって、お互いに周囲のなんでもない日常の光景を使い捨てカメラに撮って送り合うようになって半年経つ。海を越えて電話を掛けても、二人ぽつぽつと話す内容はカメラに収められたことと大した差異はない。
 それでも会いたいという気持ちは電話を切ってから毎回膨れ上がった。送られてくるフィルムから現像した写真を見る度に、その風景を収めた流川の視点から伝えられてくる想いを感じていた。なのに実際に本人を前にしてしまうと思いつく言葉はどれも陳腐に感じられて下を向いた三井に、流川が先に口を開いた。
「今まで『好きだ』とか『付き合ってくれ』とか全然わからなかった。どーして話したこともない人間にそんなことを考えつくのか。外面だけだったら誰でもいいじゃねぇか。わけわかんねー。胡散臭ぇって思ってた」
 はじめは流川が何について話しているのかわからなかった。つまり今まで女の子達にもらった手紙やら告白のことを言っているのだろうと見当がついて、彼女達と自分は同じじゃないとはわかっていても、どうしてか胸を突き刺してくる思いに三井は苦く笑った。
「…ハハ、おまえらしーな」
「でも俺は今同じこと考えてる。余計なことばっか。あんたのこと考えたくなくても考えてバスケすんのに邪魔で仕方ねぇ。だからあんたのこと憎たらしく思ってたこともあんのに」
「…流川」
「今は少しでも長くあんたといてぇ。少しでも長くあんたのこと見てぇ。あんたに触りてぇ。遠く離れたとこで、俺の手が届かないとこであんたがどっかに行っちまうのかと思うと」
「流川」
 三井は珍しく饒舌に喋り続ける流川の立っているところまで歩いて近づき、二度名前を呼んで言葉の勢いを遮りその顔を見上げた。
 また少し縦に伸びた大きな体の上に怒ったような流川の顔。漆黒の前髪の上には薄紅の桜の花びら。
 持っていたカメラを向けたくなって、その代わりに三井はカメラを着ていたパーカーのポケットにねじ込み、その頬に両手を伸ばした。初めて触れた流川の頬は暖かくて手にじんわりと熱が伝わってくる。覚えていた輪郭より少し線が削げたような気がする。顔を挟まれて流川はさらにぶすったくれた顔になる。
「俺はどこにも行かねぇよ」
 行っちまったのはおまえだろーが。
 だが流川の言いたいことはそういうことではないとわかる。近くにいても遠くにいても、ずっといると思っていた人間がある日突然いなくなる喪失感は、悲しみよりも純粋な驚きだ。
 大丈夫だ、流川。
「俺はずっとここにいるから」
 頬に伸ばしていた両手を流川の首の後ろに回して顔を引き寄せた。癪だが少し爪先を立てて流川の唇にキスをしてすぐに離した。少し乾いた唇は驚き開いたまま固まっていて動かない。
「待っててやるから。だからおまえは前だけ向いてろ。バスケだけやってろ」
 言った後に三井は照れてパーカーのポケットから使い捨てカメラを取り出し、一歩、二歩後ろに下がって流川の顔を写した。まだ動かない流川に不意におかしさを感じて、三井は誤魔化すように下を向いて笑いを嚙み殺しながらまたフィルムを手で巻いた。
「あんたは!」
 流川は間を大きく一足で詰めて、三井の腕を掴み乱暴に体をかき抱いた。肩に流川の顔の重みを受けて長い腕を上半身に強い力で巻き付けられて、動きが取れないまま三井も流川の肩に額を押し付けた。
 懐かしい汗の匂い。
 バカだから走って来やがった。逃げやしねーのに。逃げることなんてできないのに。
 身じろいだ流川の頬を耳に感じる。自分の鼓動に流川の鼓動がシンクロする。また強く風が吹いて目の前が薄紅一色になる。
 確かに自分の足は地について立っているのに心許ない。二人分の鼓動が重なって眩暈がするようだった。
 ポツ、と顔に水滴を感じて、それは肩と耳に続いた。先刻までの夕暮れはまだ空の端にひっかかったまま、サーッと細かい雨が降ってきて、三井は流川の胸に手をついて体を離し、その手を引いて駐輪場の屋根の下に入った。トントンと屋根を叩く雨音が自分の上がった鼓動を隠してくれるようで、三井はふっと息を吐き出す。
「おまえさ、久しぶりに日本帰ってきてどっか行きたいとことかねぇの。なんで湘北なんだよ」
「先輩と会うって考えたら湘北って頭に浮かんだ。それ以外は…わかんねーっす」
「ハハ。…まあそうだよな」
「先輩」
 繋いだままの手を引かれて、三井は流川を見た。少しまた視線が上がった気がする。いつもの無愛想面が何か言いたげに揺れていて、収まったはずの鼓動がまた跳ね上がるのを三井は感じた。
「んだよ」
「さっきの」
 降りて来た流川の薄い唇を三井は見つめながら、小さく開いたままだった口で受け止めた。
 先刻は微かな感覚だけを拾った唇は、今度はしっかりと熱を伝えてくる。流川の手が上がり三井の頬を両手で押さえこんでいた。少し苦しそうに寄せられた眉と閉じられた青い瞼を、三井は目を開けたまましっかりと自分の脳に焼き付けた。もどかしげに押し付けられる唇に舌で触れると驚いたように動きが止まる。三井は唇を離し、流川の目を覗き込んだ。
「どうして桜の季節に雨って多いんだろうな」
 戸惑ったように長い睫毛が瞬く。三井は自分の頬を包んだままの流川の手のひらに、さらに顔を押し付けた。
「せっかく咲いたのにな」
 明後日にはもう行っちまう。
 じんわりと熱くなってくる目元に自分で歯噛みする。
 もっと強くなりたい。
 流川に伝えた言葉のままの強い自分でいたい。
 頬を包んでいた手が離れて、背中に回った流川の長い腕が三井をきつく抱きしめてきた。
 これからも迷って揺らいで後悔ばっかりしていくんだろうけれども。
 今強く感じている流川の熱を自分が忘れることは一生ない。





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