潜熱





 見かけた自販機につい寄ってしまって下の方を眺めて、あったか~いの文字に心を完全に持っていかれた。鞄から財布を探す。チャックを開いて小銭を3枚、震える指先でなんとか取り出す。家の近くの自販機の方が絶対安いと思うが、これ以上の我慢など出来まいと屈んで小銭を投入した。
 ガゴン。意外と大きな音と共に吐き出された缶を取ろうと更に身を屈めたところで、冷たい風が容赦なく背中を撫でていった。
「さみぃー」
 耳当てが欲しいと心の底から思う。
 鉛色の空から滲み出るように仄かにコンクリートの色を浮かせる日差しは弱々しいなんてものではなく。大雨が降っている時の真っ暗な様よりは幾分かマシかと思いつつも、暖かかった日差しがひどく懐かしい。その記憶すら約1年前の春だけだったとか、夏なんて論外、秋も結局暑かっただけだったとか、そんな事を思いながら買ったばかりの缶コーヒーを両手におさめる。冷えきった指先はじんじんと痺れていたから缶が尋常でなく熱く感じた。痛みすら感じる、それでも手放す理由にはならないから、ぎゅっと持ち続けたまま通い慣れた他校への道を歩いた。
 見慣れた校門が見えてくる。
 門は解放されているが、まだ下校時刻ではないようだ。閑散とした静かな入り口の少し向こうに、暇そうにゆったりと歩いている厚着の警備員の背中が見えた。
(ちょっと早かったけど、すれ違うよりマシか)
 約束していたのは彼の乗り換え駅のホーム。だが早めにHRが終わって、電車もスムーズに来た。これは久々に迎えに行くチャンスだと、勢いでここまで来てしまった。
 門に寄りかかる。
(付き合う前は割と来てたんだけどなぁ)
 水曜は5時間目までとか祝日の前日の部活は軽めの調整が多いとか、本人から仕入れた情報と高校のサイトの行事紹介を元に部活休みの日に目星をつけては来ていた。回数はそれほど多い訳ではない。月に2度あったかないかだ、10回も来たかどうか。
 それでもこの門にこうやって寄りかかると、必死だったあの頃の自分が想起された。自分を見つけて大きく開かれた後、穏やかに細まっていく瞳を見た時のあの感情の高鳴りを思い出して、仙道は校庭に視線を飛ばした後、空を仰いだ。
 細く吐き出した息が白く伸びて霧散した。背中をつけている鉄からゾクゾクと悪寒が走ってくる。掌で缶を転がしながら白い息が消えていくのを見つめていると、ザッと靴を鳴らす音を立てて警備員が寄ってきた。
「ずいぶんと薄着だねえ」
 いつしか馴染となったこの学校の警備員。聞き慣れた穏やかな声色に、ぺこりと頭を下げて笑顔をつくる。
「朝、天気予報見てくるの忘れちゃって」
「今日は朝が一番暖かいって。昼過ぎから雪が降るって言ってたよ」
 なるほど。それなら寒いわけだ。
 朝は晴れていて暖かかったから長袖のインナーに学ランを羽織って、目に止まった適当なジャンパーを掴んで来てしまった。そうか、雪が降るのか。雪。
「どーりで。寒すぎてコーヒー買っちゃいました」
「カイロ代わりに丁度良いじゃない」
 そんな会話をしていると、大きな校舎の入り口から女子生徒の群れが出てきた。水色のプリーツスカートから生足が見える。よくそんな薄着で平気だなと自分の形を棚に上げて思ったが、膝上丈スカートの生足達の上半身はしっかりと防寒具に包まれていた。カラフルなマフラーがいくつも目の前を通り過ぎていく。ばいばいと警備員に声を掛ける者、訝しげにこちらをちろっと見てくる者、携帯に夢中で顔も上げない者。それらが通り過ぎると今度は男子達が次々とやってきて、それらを眺めていると、やや強めの風が吹いてきた。
「さびぃー!」
 思わず肩を竦めて身を縮こませる。
 寒すぎる。有り得ない。
「いま1℃もないよ。それもすぐ冷めちゃうでしょ」
「うーん、確かに」
 彼の言う通り、手にしたばかりの時は火傷を負ったのではと思う程の熱を放っていた缶はもう、その温もりを失いつつある。それでも手放すことの出来ないそれを、仙道はジャンパーのポケットに押し込んだ。
 容赦ない寒風が吹き抜ける。女子のスカートを揺すり、男子の肩を竦ませ、雪の気配を存分に含んだ風は門を強襲して校舎へと吹き抜けていく。仙道はポケットのなかで温い缶をひたすら転がし続けた。
 早く逢いたい。早く来い来い。
 強く思いをこめながら視線を飛ばしていた先で、周りより頭ひとつ分は抜けている茶髪の男子が漸く姿を現した。思わず口端が上がる。黒いマフラーで口元までを覆い隠し、きっちりとコートを着込んだ彼がゆっくりと門へと歩いてくる。
「待ち人来たり、だね」
 眉毛を上げて笑う警備員に微笑を返して、自分に気が付いた牧に仙道は右手をあげて返した。
 牧は駆け出す素振りを一瞬見せたが思いとどまったようで、遠目でも分かる程グッと眉を寄せてみせる。笑みを押し殺して近付いてくる彼が、太陽もないのに眩しく見えた。
「待ち合わせは駅だったと思うが」
「待ちきれないんで迎えに来ました」
 自分に会えた喜びを顎を引いて必死に隠しながら、牧は警備員に頭を下げるとそそくさと先へ早歩きで行ってしまった。仙道も警備員に頭を下げて、相変わらず知人の前では素っ気なく振舞おうとする照れ屋の恋人の背中へと駆けた。

 好きなひとが目に映ると、世界がこんなにも鮮やかな色を放つことを再認識した。鉛色の世界は変わらないはずなのに、そこに彼が居るだけで自分の世界は鮮明になるのだ。
 だが身体中を震わせる気温だけは変わる事なく、海南の最寄り駅に着く頃には牧の鼻先が赤くなっていた。
「寄りたいとこあるって言ってましたよね。本屋っすか?」
「今日はいい」
「いいの? 折角の部活休みなのに」
「さっさとお前の家に行く」
 こちらを見る事なくそう告げた牧は、鼻を隠すようにマフラーを持ち上げた。照れ隠しだと悟って心が浮かれる。
(折角の休みなのにどこにも寄らずに早く俺ん家に行きたいだなんて。可愛い!!)
 だらんと途端に蕩ける心を顔に出さないように気を付けながら、それでもやはり笑みが浮かんでしまうのはどうしても制御できない。ホームの先頭へ足を運びながら、また少し開いた距離をニヤニヤしながら歩いた。
「コンビニ寄ります?」
 そのままの顔で真横に並んで覗き込むと、ちらりと目線を寄越した牧は眉を寄せながら大きく溜め息を吐いてきた。
(ありゃ)
 眉間の皺は照れ隠しだと思っていたが、違っていたようだ。少し、いや、かなり機嫌が悪そうに見える。
「どこにも寄らん。お前の家に直行だ」
 声を張りこそしなかったがぴしゃりと吐き捨てるような勢い、そのまま牧はふいと顔を背けた。
 心が、一気に浮き足立った。
「はい」
 何かマズったか。
 ニヤニヤし過ぎただろうか。表情を取り繕うのは割と得意な方だが、牧が相手だとなかなか出来ない。付き合いはじめてからは尚更だ。そういえば、会った時から彼はこんなムスッとした表情をしていたかも。海南の近くで浮かれ過ぎただろうかと不安になる。
(会った時から・・・・・・。もしかして)
 もしくは、勝手に学校まで迎えに行った事がいけなかっただろうか。こちらの方が怒る確率は高そうだ。でも時間に余裕が出来たのだ、牧はその頃は授業かHRだったろうし、驚かせるつもりもなかった。ただ早く会いたかったのだ。
(連絡しなかったのは確かに俺が悪いけど。でもそんな顔しなくたってイイのに)
 様々なマイナスの感情が交錯して、ずんと心が沈む。
 逃げるように、仙道はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。氷のように冷えていた指先が缶に触れて咄嗟に握り締めたが、それはすっかり温もりを失っていて。
(熱なんてあっという間に消えちまう)
 カイロ代わりの物にも見放された気がして、思わず大きな溜め息を吐き散らした。長く伸びた白い息は空気に吸い込まれるようにサッと消えていく。自販機を眺めた時と牧を見つけた時の感情の熱量が、一気に萎んでいくのを感じた。
(・・・いやいやダメだろ)
 ここで自分まで拗ねたらこの後の予定が台無しだ。
 折角、部活休みの午後に一緒にいられるのだ。悄げたまま過ごすなんて勿体ない。時間が経つのはそれこそあっという間だ。今日は寒いのを口実にベッドに連れ込んで、帰す時間ギリギリまでイチャコラする予定なのだ。へこんで過ごす時間なんて1秒たりともない。
 ならば早急に策を講じなければならないのは牧の機嫌を直す、これ一択だ。出来れば家に着く前、いや、牧の家の最寄り駅に着く前までに。下手をしたら「今日は帰る」なんて言われてしまう可能性がある。
(やっぱ勝手に迎えに行ったのを怒ってんだよな。ちょっと自信ないけど多分そうだろ。何に怒ってんのか確認したらもっと機嫌損ねそうだし)
 ホームの先頭まであと少し。せめて電車に乗る前に謝っておかなければ、その先の話題も引っ張り出せそうにない。
 厚着の背中に早く声をかけなければ。しかし思えば思うほど驚くまでに声が出ない。大胆不敵で飄々としているように見えても意外と繊細で柔な方なのだ、牧に関しては特に。
 怖気付いている内にいつの間にか先頭車両の停車位置まで来てしまった。足を止め、牧が振り向く。ばっちりと目線が合った。先程と変わらず不機嫌そうに寄っていた眉が、更にぐっと深くなった。
 今だ。
 声をかけるなら、謝るなら今だ。
 ポケットの缶を握り締めて気合いを入れる。唾をごくんと飲み込んで口を開いたところで、先に牧が口を開いた。
「違う」
「え?」
「違う、別に怒ってない」
 更に濃くなった眉間。
 台詞とは正反対の表情を真正面にして、抑え込もうとしていた感情が瞬時に解き放たれた。どっちが本音なのか分からないあべこべな事をするのはやめて欲しい。怒ってるなら怒ってるって教えて欲しい。そしたらこっちだって謝れるのに。あれこれ思考して落ち着かせたはずなのに、こんなのは理不尽だと心が喚きたてる。
「いやいや、あんた結構ガチで怒ってますよね。俺が連絡なしで勝手に校門まで迎えに行ったからすか」
 迂闊だった。
 そう自覚したのは頭に浮かんだ言葉を一句違わず滑らせてしまってからで、慌てて口を噤んだがもう遅すぎた。言い切った言葉どころか声にも顔にも、この心を出してしまった。怒りに更に火を注いでしまったんじゃないかと正直焦って、せっかく合った視線が揺らぐ。
「そんな事に怒ってる訳じゃない。お前、耳も鼻も真っ赤だぞ。なんでこんな薄着で来るんだ。駅のホームで待っていれば待合室があるだろうが」
 だが牧は、仙道の背後を用心深く確認したあと、首元に手をかけた。黒いマフラーが外されて褐色の首元が覗く。防寒具を失って寒さに僅かに肩を竦ませた後、牧は投げ込むようにそれを仙道の首の裏に両手で通してきた。
「わっ」
「雪が降るっていってるのにこんな薄着で。風邪を引いたらどうするんだ。無駄に身体を冷やすなよ。免疫が下がると冬の厄介な感染症に罹りやすくなるんだぞ」
 声量こそ小さかったが、まるで唸り声。怒りを隠さない声色で、牧はマフラーを自分の首にしっかりと巻いていく。
「一人暮らしなのにインフルみたいな感染症にかかったらどうするつもりなんだ。看病にも行けなくなるだろ」
 遠慮なく首を締められる。
 ちょっと苦しい。だが、それを訴えることは赦さないとばかりに怒りの乗った指先はマフラーをぎゅっと引っ張っていく。息苦しさは感じたが、冷え切っていた首周りが即座に温くなる。生地が温かいのは彼の体温が移っているからか。
「会えなくなるのは、勘弁してくれ」
 小さな声が囁くような音量まで下がって、不意に牧は顔を上げてきた。深い皺が少しだけ綻ぶ。上目遣いの目蓋もムスッとしていたが、その瞳は柔らかく自分を捉えていた。
 なんだ。牧さんは心配してただけなんだ。俺がこんな寒い日にこんな格好で外で待ってたから。
 牧の本音を知った途端に熱が噴き出るように感情が沸いた。彼の眉間のこの皺が心配した故の怒りなのだと理解した途端、ぶわりと幸福感が込み上げてくる。
 我ながら実に単純である。
「心配させてごめんなさい。朝、天気予報見るの忘れちゃって。朝は暖かかったから油断してました」
「そうか。朝弱いもんな、お前」
 素直に出た言葉に牧は数回頷いた。再びマフラーに視線を戻した眉にもう皺はない。自分の率直な謝罪を、牧は素直に受け入れてくれたようだ。
「鼻水垂らすなよ。この襟巻き、お気に入りなんだ」
「襟巻きって」
 学ランの襟にグイグイとマフラーを押し込んでいく牧から出た言葉に目尻が下がった。冷えていた分、彼の体温で温められていたマフラーに包まれた首も悄げていた心もポカポカで心地良い。
「今時マフラーのこと襟巻きって言う高校生いませんよ。俺もしかしたらはじめて聞いたかもしれない」
「煩い。黙って鼻も隠してろ。これ意外と伸びるんだ」
「お気に入り伸ばすとか。それに鼻まで隠しちまったら、まるで不審者みたいじゃねーすか」
「こんな寒い日にそんな薄着で耳と鼻を真っ赤にして他校の生徒をニヤニヤ見てる方がよっぽど不審者だ。さっき校門にいたお前を見て、周りの奴等がヤバい奴って言ってたぞ。よく警備の人に通報されなかったな」
「あれま、そーなの? あ、でも確かに、女子には何コイツみたいな視線向けられてたかも。ちなみにあの警備のおっちゃんとはもうダチです」
「ダチって」
「だって去年の秋くらいに待機部屋に入れてもらってダベった事ありますもん。扇風機しかなくて暑かったなぁ」
「お前な」
 呆れたような笑顔をフッと浮かべて、牧が顎を引いて視線を隠す。それは見慣れた照れ隠しのひとつ。僅かに伏せられた目蓋に、もう怒りの影はない。そのかわり、線路を向いた顔と共に見えた彼の耳が赤くなっていた。
 あれは照れているからじゃない。犠牲だ、寒がりなのに自分にマフラーを手放した故の。自分のせいで牧は耳を赤くしている。
 何処にも寄らずに帰ろう。
 早く家に帰って、この耳を温めてやらないと。指でも良いし唇でも良い。大袈裟に身体を跳ねらせて顔を真っ赤にして何か言われるかも知れない。盛大な照れ隠しパンチを食らう可能性もある。むしろそんな想像しか思い浮かばない。
(耳だけじゃない。鼻も赤いし、きっと唇だって冷たい)
 自分の犠牲となった部位ひとつひとつに口付けて、もらった熱を返したい。それが混ざって適温になった時に彼がどんな表情をするのかを、自分はもう知っているから。
(早く帰んねーと。手も・・・・・・)
 落とした視線の先に緩く握られた牧の拳が見えた。咄嗟に握ろうと手を伸ばしかけて、仙道は慌ててジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。先客は完全に冷え切っていたが、内布にまだほんのりと温もりが残っているような気がした。
「早く帰りましょう」
「ああ。丁度電車も来た」
 顔を上げると先頭車両の前面が超低速で視界に入ってくるところで、仙道はそれを掌に収めてゆっくりと転がした。


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