藍蒔く





 今朝は10分ほど遅く、学校にそのまま行ける準備をして家を出た。母親に言ってサンドイッチでも作ってもらおうとして、少し考えて前の夜に自分で台所に立った。サンドイッチってのは何をどうすればいいんだ?と考えて、パンとハムと野菜だな、と思いついて冷蔵庫に顔を突っ込んだ。そこを母親に見つかり、腹でも空いたのかと聞かれて、そうだと答えた。それでサンドイッチ作ろうかと思った。そう言うと母親はひどく驚いた顔をして、それから具を挟む前にパンにバターを塗らないと野菜の水分でパンがしけて不味くなると教えてくれた。それとあなたが今、手に持っているのはキャベツ。と指摘される。取り上げられて、似たような葉っぱの丸い塊を手渡され、これがレタスよ、と教えられた。そこからは母親を追い払ってなんとか形になったものをラップで包み、少し考えて洗面所からフェイスタオルを持ってきてさらに包んだ。
 結局受話器を取って教えられた番号を押す労力は湧いて来なかった。
 牧も「また同じところで明日」と言ったわけだし。
 言い訳とも思える言葉を誰に言うでもなく呟いて家を出て、軽く準備運動をして走り始めた。
 昨日より少し重たくなったリュックで走るとすぐに背に汗をかいて不快だった。夜が明け始めた海岸線はまだ観光客もいなくて、波の音は大きく響いているのに音のない写真のように見えた。昨日よりは波が高い。今日はあんまり粘らずに上がってくるかな、と考えて、三井は階段を上がって砂浜へ下りた。海に向かってそろえられた見覚えのあるサンダルと脇にタオル。この土地に越して来たばかりに朝の海で初めてその光景を見た時はギョッとしたものだが、今では慣れた。こういう連中が置いていってるわけだ。そこに足を向けながらタオルを取り出して汗を拭く。
 目標にたどり着いてそこから垂直に海を見渡せばちょうど大きな波が来て、牧がそれに乗ろうとしていたところだった。波がくだけて海上に大きく白く散る。姿を見失って目を凝らすと、砕けた波を乗り越えて、後ろから来た一際大きな波に乗っている牧が見えた。バランス感覚はやはり抜群で、素人の自分にも牧がサーフィンでも相当のレベルであることはわかった。
 ディフェンスファウルバスケットカウントワンスロー。
 三井は口の中で呟いた。大波に当たって崩れないやつがバスケで滅多なやつにも当たり負けするはずがないのは当然だった。そこに後ろからきた波がくずれて横滑りに牧を巻き込んだ。白い大きな飛沫が高く上がる。波が行き過ぎた後に誰も乗っていないボードが浮き上がってきた。一瞬ギョッとしたところで、ボードに片腕がかかった。頭が浮かんで、それが牧だと確認できて胸をなでおろす。
 馬鹿馬鹿しい。
 三井は牧のサンダルの傍に座りこんでリュックを漁り、スポーツドリンクを気の済むまで飲んでから、タオルに包まれたサンドイッチと途中自販機で購入した缶コーヒーを取り出した。
「うまそうだな」
 持参したものを半分ほど食べ終わったところで頭上から声が降ってきた。もうこれ以上食べたら気持ち悪くなる、と思っていたので、他意はなく「食うか?」と問うと、三井の脇に腰を下ろした牧が顔を上げた。
「いいのか?」
 その顔があまりに嬉しそうで三井は逆にしまった、と思う。
「おれが作ったやつだから。うまくねぇぞ?」
「三井が作ったのか?」
 顔が今度は素直な驚きに変わって、三井はわけもなく照れくさくなりタオルごとサンドイッチを突き出した。まあパンにバターを塗ってハムとレタスを挟んだだけだ。まずいも上手いもないだろうと自分を落ち着かせる。
 牧の一口は大きく、ものの2口でサンドイッチは消えてなくなった。
「コーヒーは?」
「もらう」
 三井が一本余計に買ってきた缶コーヒーをリュックの中に探そうとその中に腕を突っ込んだとき、半分ほど飲んで砂の上に置き、そのままだった缶コーヒーを牧はためらいもなくさらって呷った。
「あ」
 全部飲み切って顔を戻した牧が、驚いて固まっている三井を見て「なんだ、まだ飲むんだったか?」と見当外れなことを聞いてきたので、三井はただ首を振るしかなかった。
 昨日と同じく連れ立って牧の家まで歩き、牧が庭のシャワーを浴びている間に三井はまた縁側から部屋に上がり込んだ。後から上がってきた牧は今度は三井に言われることもなく、タオルで体を拭きながら三井の前を通過し、風呂へ直行する。よしよし、と頷いて時計を見ればまだ6時半をちょっと過ぎたくらいだった。これだったら話を詰められそうだ、と三井はホッとして、また昨日と同じポーズで庭を眺めた。強かった風が少し凪いで昨日よりも穏やかに古い室内を流れていく。波の音に紛れて鳥の囀りなんかも聞こえてきて、やっぱりなんだか寛げる。少しだけ、と思って体を畳に横たえた。
 いい匂いに鼻を刺激されて覚醒した。ジュワッと美味しそうないい音が聞こえて、自宅にいるつもりで三井は瞼を開き、見慣れない風景と自分の家とは違う室内の匂いに記憶が蘇ってきて飛び起きた。
「お、起きたか」
 のんびりした声が台所からかかる。焦って時計を見ると昨日と同じ、既に7時半になっていた。
「起こせよ!」
「なんだ、今日も何かあるのか?」
「あんだよ!くそっ!」
 昨日は遅刻ギリギリだった。今日は制服を持ってきているから学校に直行できるとはいうものの、打ち合わせをする時間はない。仕方ない、また寝入ったのは自分だった。
「また明日な」
 フライパン片手ににっこり笑った牧が手を振る。
 わざとじゃねぇだろーな。
 三井はリュックをひっつかんで縁側から飛び出した。



「疲れてますね」
 コートに寝っ転がっていると声をかけられて、顔を上げればそもそもの元凶の後輩が立っていた。何を言う気力もなく立ち上がって首を回す。ひょんなことで睡眠時間はいつもより多いはずだったのに、これは精神的な疲れだきっと。と三井は自分で決めて宮城を睨みつけた。
「練習試合の打ち合わせさー、もうおまえやってくんね?」
「はぁ?まだやってないの?こないだ牧さんに会うってなかった?」
「うーん、会うには会ったんだよ」
「会ってナニやってたの」
「うーん…」
 何をやってたんだと問われても。牧がサーフィンやってるとこ眺めて牧ん家行って、ずいぶん早い昼寝した。白状すれば大ウケ間違いなしだ。笑える。
「もう日にちは決まってんだろ?じゃーもーいーじゃん、それで」
「でたよ、お得意の投げやり」
「ぅるせーよ」
「だーかーら。安西先生と高頭コーチが日付まで決めてくれて。あとは生徒の自主性に任せるって言ってくれてんだから。決めなきゃいけないことも宿題にして渡してあげたでしょ?」
「う」
 安西先生の名前を出されると言葉に詰まる。それをわかっていて言ってくる宮城はもう勝ったも同然の顔をしている。
「なに、そんなにやりづらい相手だった?牧さん」
「いや…」
 当初自分も思ったやりづらさは全くない。
「思ったより違うっていうか…」
「あんただって聞きたいこととかいろいろあるんじゃないの?」
 怪訝に眉を寄せて宮城を見、言いたいことに気づいた。それで宮城は自分にこの打ち合わせを振ってきたのか?と一瞬考えて、いや違うな。と思い直す。こいつはただ厄介を押し付けただけだろう。そんな気が回ったとすれば後から考えた理由づけだ。
「付属高校通ってたって大学のことまでわかんねぇだろ。敷地も違うし」
 三井に舞い込んできた推薦は海南大からのものだった。だが、海南大のバスケットボール部は大学リーグでは2部で、牧レベルの選手であれば1部リーグに所属する大学へ進学するだろう。そんな人間に敢えておまえの高校の付属してる大学に行きますと報告する必要は感じられない。考え込んでしまったようにみえた三井を前に宮城は眉を顰めた。
「まあ、仲良くなれってんじゃないんだから。頼んますよ~」
 様子を探りに来たな、と一年の指導に戻る小柄な後ろ姿を睨みつける。
 そんなに気になるならテメーがやれっての。
 ブツブツと口では呟いて、明日は自分が食えるだけのサンドイッチを作っていこうと三井は考えた。




 雨の日ってのはサーフィンするものなのか?いや、できるものなのか?
 三井は自宅の玄関を出たところで、激しくはないが身に纏わりつくように間断なく降り続ける小雨に空を仰いだ。このくらいであればランニングぐらいはいつもしていたけれどもサーフィンはどうなのか門外漢にはわからない。
 これは想定してなかったな、と思う。海に行ったところで牧に会えなければ意味がない。
 会えなければ家まで行く…?いやいや。
 背中のリュックの中のサンドイッチを考えた。結局自分の食べる分だけ、と思いつつ、昨日と同じ量を作ってしまった。今日に限って補習もない。
「まーとりあえず行ってみっか」
 三井は門から足を踏み出した。



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