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 明らかに流川の調子は悪かった。悪い、というよりはおかしい。三井は手にしたボールをつきながら、目の前の流川の、無表情だけはいつもと変わらない整った顔を見上げた。
 毎日練習終わりに強請られるワンオンワンの誘いがなく、疲れきった体に少しの安堵と、逆に物足りなさも感じて、「今日はヘバったのかよ」と声をかけると、ムッとした勝気な顔が向けられるかと思いきや「いや…しゃす」、とどこか気の抜けたような声が返されてきた。
 始まっても流川は三井のフェイクに騙され続け、自ら放ったボールはリングをくぐることはなく、3Pを使わなくても三井のポイントが続いた。精彩を欠くどころではない。
「なんだよ、どっか調子わりーの?」
「…別に」
「あっそ。じゃー次で終わりな。俺の全勝で終わらせてやる」
「っす…」
 やる気があるんだかないんだか。
 さすがに少しばかり流川の様子が気になり、いつもは闘気を隠そうとしない、しかし今は覇気のない顔を三井は見やった。いつもより高い位置からゆっくりめに床につかれるドリブルも今すぐにボールを奪えそうだ。面倒くせーと考えついたままに右手を素早く伸ばすと、さすがに気づいた流川がボールを背後に回してついた。思ったより重心を流川側に傾け過ぎてバランスを崩したところに、肩が流川の体に当たり、やべっと思った時には、三井は流川を下敷きに床に思い切り倒れ込んでいた。
「わりーわりー…ぃ…?」
 床に手をついて起き上がろうとした時に下腹部に当たった違和感に、三井は体の動きを止めた。
「おま…え…」
 転がっていくボールの音が他には誰もいない夜の体育館に静かに響く。驚いて流川の顔を見てもいつもの無表情で何も読めない。却って三井の方がパニックを起こしそうになり、体を慌てて引き上げようとした時に、伸びてきた手に腕を掴まれた。
「これ…なに?」
「はぁ?!」
 三井は逃げることも出来ずに、呆然と自分の身体の下敷きになったままの後輩を見降ろした。



「…だからよ、小学校の…何年だったっけか、まあ高学年?くらいん時に男子女子に分けられて視聴覚室だかどっかに連れてかれただろ?」
「…あった…ような気もする」
 体育館の隅に積んだまま放置されていたマットレスに腰を降ろし、言葉を選びつつ問いかけると、隣に座った流川が首を捻った。それを見て三井は溜息を一つ漏らした。
 ダメだ。流川のことだった。きっと視聴覚室が真っ暗になった時点で、保健のビデオが流れる前にこれ幸いとこいつは爆睡したに違いない。
「あー…おまえ兄弟とかいねーの」
「いない。一人」
「そっか…。親は? あー父親」
 親に聞くのも気恥ずかしかろうが、そんなことは自分の知ったこっちゃない。期待を込めて訊ねると、「いない。単身赴任中」と絶望的な答えが戻ってきた。
「…そうか…」
「俺、病気?」
 三井は驚きに肩を震わせて流川を見た。流川にしては珍しく、感情の読み取れる表情で床を睨みつけていた。
 や、違う、そうじゃない。…ってかそんなこともなんで知らねーのか?!
 ここは宥めすかせて帰らせて、明日保健室に連れていくか、と考える。そんな三井の脳裏に大学を出たばかりだという保健の先生の初々しい笑顔が浮かんだ。
 …いや、ダメだ。
「…違う。ビョーキなんかじゃない。おまえは至って健康だ」
「なら何? 先輩知ってんの?」
「…う」
 言葉に詰まり、逃げ道を探すように三井は静まりかえった体育館内に遠く視線を投げた。
「今朝もあった」
 そうか。ご開通だな、おめでとう。
 それでこいつは押し寄せる女子達にもあんなに冷淡な態度を取れていたんだな、と納得がいく。個人差があるとは聞くが、男として女子の視線を全部持っていく勢いの流川がここまで性に疎いということに三井は頭痛を覚えざるを得なかった。
「センパイの夢見てその朝、」
「…は?」
 なに?
「三井センパイの夢見て起きたらなんかパンツが、」
「ワーーー!! 言うな! それ以上言うな! ヤメロォッ!」
 いつもは名前なんか呼ばないクセに!
 いや、そうじゃない!
 突然大声を出して立ち上がった三井に流川が驚いたような顔を向けてくる。
 そうか、揶揄ってるわけじゃないんだな。
 そんな器用な芸当ができる人間じゃないもんな。
 三井は立ち上がったまま、見上げてくる流川と見つめ合い、また静かに腰を降ろした。
「やっぱ病気?」
「…違う。それだけは断じて違う」
「じゃあナニ」
 堂々巡りだ。
 いや、状況はさっきより悪い。
 なにせ流川は俺の夢で、…そういやさっきもワンオンワン中におっ勃ててやがったなコイツ。
「…おまえって俺のこと…」
 好きなのか?
 聞こうとしたことに三井は驚き、慌てて口を噤んだ。
 こいつは俺のことが好きなのか?
 自分の時はどうだったかと必死に思い出そうとしても、そんなことは遠い彼方だった。大体夢を見たかどうかも忘れてる。それに夢に見たからといって、こいつが俺のことを好きとか短絡的過ぎる。俺と一緒にいたときに見かけた女の子がモロ好みで目覚めたとか。そうだ、きっとそうに違いない。
「センパイのことが?」
「あー…なんでもない」
「今朝からミョーにセンパイのことが気になんのも関係あるんすか?」
「あー…」
 三井は頭を抱えた。決定か? なんと言って誤魔化す? いや、ここで言葉を濁してどうする? いつか…というかこういうことがあったんだからもう早々にこいつは気付くんじゃないのか?ってか本当にこいつは俺のことを?
「これ、収まんないんっすか? 病院行かないとダメ?」
 そういう話は友達としてくれ。
 いや、お友達いませんでしたね、そうでした。
 思考が空転を繰り返す。
 これ以上マズイ状況が作り出される前に、と三井は腹を決め、一つ息を吐きだした。
「…自分で処理すんだよ」
「ショリ?」
「エロいこと考えんだろ、おまえも」
 そのエロいことが誰のナニかは聞かないでおいてやる。
 考えているようで考えていないようで、実は考えているのかもしれない流川の切れ長の瞳が瞬いた。睫毛長ぇな、と現実逃避のような観察眼が働く。
「…エロいこと…」
「そー。そんで扱いて抜くの。そうすりゃ元に戻っから」
「センパイ、」
「俺?!」
 必要以上にビビッた声が出て、三井は眉をきつく寄せた。
「俺、センパイのことが好きなのか?」
 …思った以上に気づくの早かった。
 せめて家に帰ってから一人で気づいて欲しかった。
 三井は遠い目で正面の檀上を見上げる。
 無事高校を卒業するという難関の前に、こんな最難関が控えていたとは。
 こいつは本当にバスケ以外はポンコツだな。
「そういうことはこういう状態の時に言うもんじゃねぇ」
「こういうって?」
 いちいち世間離れした流川に、三井の頭の中で何かが唐突にショートした。
「今日だけだかんな」
 流川に向き直ると、三井は流川の勃ち上がったままの股間の上に手を置いた。流川の体がビクッと揺れる。戸惑うような表情は初めてみる顔だった。少し上気した頬に顔を寄せると、「センパイ…」と熱のこもった声で呼ばれる。ここまではいらねーだろ、という頭の中の声を振り切って、三井は流川の小さく開いた唇に軽いキスを落とした。手の中のものがまた固くなる。そっと撫でると形までわかるようだった。
「ん…」
 ヤバい。
 自分のものにまで血が集まり始めた気配に、三井は流川から顔を離し、慌てて立ち上がった。
「…センパイ」
「後は自分でやれ。…着替えてくっから」
 背を向けたままそれだけ言って、三井は逃げるようにその場を去った。


 なんとなくそのまま置いて帰るのも憚られるような気がして、制服に着替えた後もロッカールームの残っていると、ほどなく流川がやってきた。その姿はいつも見る通りの後輩で、三井は少し安堵する。
「じゃあ、俺帰っから」
 入れ替わるように立ち上がり、ドアを抜けようとすると、肘を大きな手につかまれた。
「…んだよ」
「さっきの、」
「もー三井センセの個人レッスンは終わり。離せって」
「俺、やっぱりあんたが好きだ」
 三井は思わず動きを止めた。握られた肘が猛烈に熱くなってきたような気がして、その熱が顔にまで登ってきたようで、きっと赤くなっているだろう自分の顔を持て余す。
「そーかよ」
 一言吐き捨てると、体の動きまで止められていたような肘が急に離されて、三井は逆に戸惑い、思わず後輩の顔を見上げた。
「そんだけ。知ってて欲しいっす」
 その顔はつい先刻体育館で己の体に起こったことがわからずに、病気かとまで戸惑っていた子供のものから急に雄のものに変わっていて、三井は思わず息を飲んだ。流川が一人で処理をしたはずの熱が自分に移ったかのようだった。
「…そーかよ」
 同じ言葉しか言えない自分に腹が立った。流川はそれだけ言って満足したのか、背を向けて部室の奥へと歩み去り自分のロッカーの前に立ってさっさと着替え始めた。練習着のTシャツを脱いだ白い背に光る汗の痕を目で追っている自分に気づき、慌てて目を逸らす。
「戸締り忘れんなよ」
 外に出て、わざと音を立ててドアを閉めると、体中の緊張が抜けたようだった。
「くそっ…!」
 キスまでした自分が信じられなかった。手の甲で唇を拭うと、三井は部室を後にした。


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