フレンチキス




 約束の時間にバーを訪れると、昨夜と同じ席に信長は既に座っていた。そわそわと落ち着きなくテーブルについていた腕を上げて髪をかき上げ、気付いて目の前の泡の消えて久しいと思われるビールのグラスに手を伸ばし、また引っ込めてを繰り返している。その姿をしばらく見つめていた牧は、近づいてきたスタッフに気づき待ち合わせである旨を伝えた。テーブルに近づいていくと、気配に気づいた信長が焦ったように勢いよく顔を上げた。
 昨夜言った通りに、神と名乗った相手の男はいない。念のためにプールサイドを見渡してもその姿は見つけられなかった。信長の不安そうな顔が牧を認めてパッと笑みに輝き、何を思い出したのかいつもは元気に跳ね上がった眉がまた苦しそうに寄せられる。昔から知った顔でありながら、それはどこか牧には知らない他人のようにも感じられる表情だった。
「牧さん…」
「待たせたな」
「いえ、俺も今来たとこですから」
 向かいに腰を降ろすと、緊張の伝わる顔で、それでも信長はぎこちなく微笑んできた。
「あの…話しというのは…」
「うん、まあ今回のことなんだが」
 オーダーを取りに来たスタッフに昨夜飲み損ねたモルトをロックで頼み、牧はライトアップされて青く光るプールに目をやりながら口を開いた。するといきなり信長は勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした!! 俺から! 俺から無理言って牧さんに頼み込んて付き合ってもらったのに…! …本当に牧さんがここまで来てくれると思わなくて…」
「…『本当に』…?」
 言葉に違和感をかんじて、牧は信長を見つめた。信長はその視線を受けて、ますます赤くした顔をテーブルに当たるかと思うほどに下げてくる。元からどこかおかしいとずっと感じていた今回の件だった。牧の知っていた信長ではありえない行動だった。
「俺…俺、無理言って強引に牧さんに付き合ってもらって…。でも付き合ってるっていっても牧さんは全然変わらなくて。やっぱり牧さんは俺のこと別に恋人として好きじゃないんじゃないかって…不安で…その、…会社の先輩にちょっと前から話してっ…というか…その…相談していて…」
 不安を感じていた、という信長の言葉は牧にやっぱりか、という思いを抱かせた。申し訳ない思いに自然に眉が寄る。それとともにどこか腑に落ちたところがあった。目の前に頭を下げたままの信長の旋毛が見える。自分の後を追いかけていた小さな頃を思い出し、自然と暖かい想いが胸に湧く。それが今は震えているようで、牧はその肩に手を伸ばした。
「いいから。頭を上げろ」
「でも! 俺本当に申し訳なくて」
「人が見る」
 故意に短く厳しく言うと、信長は慌てて頭を上げた。それへ牧は小さく笑った。
「その先輩があの神という男か」
 信長は驚いたように目を見開き、それから頷いた。そう考えると神のあの自分達の様子を見る静かな視線に納得がいった。何かを冷静に見極めようとするような目は、人の恋人を攫ってこんなところまで連れて来るような、刹那的な行動をする男のものではなかった。
「そう…です。会社も辞めてません。辞めたことにして、1週間休暇もらってここに来ました。牧さんが心配して追いかけて来てくれたら、きっと牧さんも俺のこと本気で考えてくれてるんだって。神さんが考えてくれたんです。牧さんを騙して試すようなことして…本当にすみません!」
「…そうか」
 目の前でまた泣きそうな顔を下げる信長を見ても、牧は怒る気にはなれなかった。どころか。
 弟とも思うほどに大切な人間に、どんなに頭を下げても足りない程に。
 なんて自分は傲慢だったんだろうか。なんと酷いことをしていたんだろう、と。
 少し前ならば気が付けなかった。これまではいつも告白されて付き合い、本当に大事に想える前に、相手は他のことに夢中で向き合うことをしない自分に愛想を尽かして去っていった。だが今ならわかる。本当に自分の心の中に住まう人間が現れた今であれば。
「謝るのは俺の方だ。すまなかった」
 牧は信長の前に頭を下げた。
「な、牧さん! 牧さんがなんでっ!」
「俺はおまえのことが大切だ」
 それを聞いて信長の顔がキュッと泣きそうに歪む。
「でもそれは確かに恋や愛といったものではなかった。おまえのことは本当に弟のように思っている。大事な人間だ。だが、」
「わかってます!」
 信長は牧に向かって手のひらを突き出し、大きな声を上げて遮った。
「わかってたんです…やっぱり。神さんに相談する前からなんとなく。俺が体を壊してバスケを続けられなくなったこともあって、牧さんが心配してくれてたことに漬け込んだから」
「それは違う」
「いえ! いいんです。牧さん優しいから。わかってる。でもそれでも俺諦めきれなくて。足掻いて。それなのに俺…いつの間にか神さんのことを…ホントに好きになってて。俺、牧さんを巻き込んで大騒ぎした挙句にまた性懲りもなく片思いとかしてて」
「…ん? 待て。神さんと付き合ってはいないのか?」
 また一つ、想像していたことと違った話しを聞いて、牧の頭の中に違和感が湧いた。
「はい。神さんはただ俺のこと心配してここまで付き合ってくれただけで」
「でもエレベーターの中でキス…」
「あっ! あれは! あのホテルで牧さんが来てることに気づいて、俺と神さんが付き合ってるということを信じてもらうためにわざと…」
 いや、ただの後輩の恋愛話に付き合ってあんなキスをするか? 1週間も会社を休んでこんなところまで来るか?
 真っ赤な顔で慌てて回らない舌で説明している信長に、「いや、あれは当てつけだろう」と冷静にツッコミを入れたくなって、それから牧はある事に気づいた。ということは神はフリーで、話を聞けば信長は自覚がないようだが、ここまでするということは神も信長に気があるはずだ。しかも信長が牧とヨリを戻すと予想して、今は一人でいるのだろう。自分が失恋した想いでいるに違いない。
 そこへあいつが。仙道が。
「…いかん…」
「え?」
「いかん、信長行くぞ!」
 牧は立ち上がっていた。焦る手で懐から札を抜いてテーブルに置く。
「え、どこに?」
「仙道が!」
「え、仙道って昨日の? 牧さんの恋人?」
「恋人じゃない。おまえの、いや、神さんを誘惑しに行ってる」
「は??」
「走れ!」
 牧はもう後も見ずに走りだしていた。12時過ぎるまでは部屋には戻ってくるなと仙道に言われていた。「なんなら牧さんそのままノブくんの方の部屋に泊まってもらっていいですよ」とも。
 その時の苦い思いがまた胸に渦巻いて、ホテル内に飛び込みエレベーターのボタンを乱打する。そうこうするうちに信長も追いついて、飛び込んできた。腕時計に目を落とすと11時。信長と話していた時間は一時間にも満たないが、それでも仙道ならあっという間にやることはやっていそうで焦りが先に立つ。
「牧さん、どういうことですか?」
「すまん、仙道は、」
 言いかけたところでやっと到着したエレベーターに乗り込んだ。部屋の階数ボタンを押し、上昇を始めた箱の中で操作盤の上の階数の移動を知らせるパネルを苛々とにらみつける。
「仙道はこんなところまでおまえを連れてきた神さんを信用できないと言っていた。俺の大事な…おまえの相手にふさわしくないんじゃないのかと。だから自分が誘惑してそれにひっかからなかったら合格だと」
「えっ!? なにそれ!! ウソだろ?!」
「すまん。俺もその時はそれが最善の策のように思えて…」
 神のことを好みのタイプだと言っていた仙道の声が脳裏に蘇る。今更言い訳のようだが、その言葉に自分はショックを受けて、ショックを受けたことがまたショックで、神を誘惑するという仙道を止めることができなかった。
 二人が見つめ合い、お互いに手を伸ばす。そんな光景が想像すると胸がかき乱されて、混乱して上手く働かない頭が歯がゆくて、牧は片手で髪をクシャクシャにかきあげた。
「牧さん…?」
 不安そうに声をかけられ、牧は我に返り信長を見た。
「牧さんの…そんな顔初めて見た…。恋人じゃないって…でも牧さんはあの男のこと…」
「ちが…」
 答えようとした時に、電子音が目的階の到着を告げた。



「すごい部屋取ったね」
「ここしか空いてなかったから」
「…ふーん?」
 先に立って部屋に足を踏み入れた神は室内を見渡し、勧められもしないソファへとさっさと腰を降ろし、乱暴に長い足を組んだ。その前に広がる大きな窓からの景色は漆黒の闇で何も見えず、無駄に広い部屋の風景と憮然とした態度の神の姿を映し出していた。湖の隣の町の灯りも、今は厚い雲に遮られてここまで届かないのかもしれなかった。
 仙道はつい昨日、ここに立って眼下の眺めに見入っていた牧を思い出した。素直に驚いた顔がうれしくて、がんばってこの部屋を予約した自分を褒めたかった。
 その牧は今。
 考えがまたそこに至りそうで、仙道は首を振った。
「なんか飲む?」
「キッついヤツくれる?」
 座った男の背に呼びかけると、投げやりなような声が返った。そうか、この男も失恋したんだったな、と同情はできないが、成り行きを考えると思わず深いため息が出た。
 ルームバーの方に歩いて行って、並んでいるオリジナルの瓶に模したミニチュアの酒瓶の中にウィスキーを見つけて、また行きの飛行機の中の青い顔で震えていた牧を思い出す。思い出してついにまにまと笑った自分の顔がルームバーの奥の壁の鏡に写っているのに気付き、重症だ、とまた溜息をつく。ウィスキーの小瓶の上を手を素通りさせて、テキーラの小瓶を取って二つのグラスに分けて注いだ。
 神の背後から「どうぞ」とグラスを渡すと、無言で伸ばされた手が受け取って、そのままグラスは顔の前に持っていかれて一気に神の口の中に吸い込まれていった。こっちもこっちで大変だ、と思いつつ、仙道も一口グラスの中味を舐めた。その牧さんの笑顔のために。あまり飲み過ぎないで自分の仕事をこなさなければならない。
「あんたは全然好みと違うけど。遊ぶんなら付き合ってやってもいいよ」
 あれ?と仙道はグラスから唇を離した。誘いをかけたら簡単に部屋までついてきたから、やっぱりか、と思っていたが、風向きが違う。歩いていって神の隣のソファに腰を降ろした。試しに顔を近づけても、冷たい視線が顔の上を撫でただけで乗ってくるようでもない。
「…ノブくんはいいの?」
「あいつは…」
 神は言いかけて唇を噛み、手に持ったままだった空のグラスを仙道に突き返した。
「それはこっちのセリフだよ。昨日は随分牧さんに熱烈なこと言ってたクセに。舌の根も乾かない内に俺を部屋に連れ込んでさ」
 ホイホイついてきたのはどっちだと思いながら、仙道はグラスを受け取り、自分のグラスはテーブルに置いてまた立ち上がった。このまま潰れてくれるのだったら好都合だった。見栄と意地も手伝って牧には大口を叩いたものの、今は鬱々とした気持ちが湧きあがってきて、この男相手では役に立ちそうにもなかった。先刻と同じ鏡に今度は情けない顔が写っていて、それがそのまま口に出た。
「寂しそうだったから」
「ハ!?」
 神の作ったような乾いた笑い声を聞きながら、仙道は今度はジンの小瓶を取り、中味を大きめのグラスに開けてから少し考え、冷蔵庫の中の炭酸水を開けて注ぎ簡単にステアした。近づいてまた背後から手渡すと、生のままの先ほどとは違う気泡の入った液体を見て神は片眉を器用に上げ、つまらなさそうにテーブルに置いた。
「神さんもさ、いいの、あのノブくん。牧さんにまだ未練がありそうだったけど」
 笑いを唐突に止めた神の背中を仙道は見た。こんなところまで逃げるように信長を連れてきておいて、引き際があっさりし過ぎていないか?
 どこかひっかかる違和感に、仙道はわざと神を煽る言葉を口に乗せた。神は無表情に仙道を見つめ、それから口の端を引き上げた。
「…牧さんてさ、随分酷いヤローだよね。鈍いし。人の心をなんだと思ってんの」
 仙道はソファを回り込み、今度は神の正面に座った。置いておいたテキーラのグラスに手を伸ばし、神と同じに一息に中味を空ける。カッと熱い刺激は胃を焼き、それとは逆に頭の中が冴えていった。
 人の心をなんだと思ってるって?
「それを言うならあのノブって子だろ。牧さんに泣きついて付き合ってもらうってナニ。どんな事情があるか知らねーけど成人した男のすることじゃねーよな」
 正面の神の口元が笑んだ。それとは真逆に目は変わらずに仙道を鋭く睨みつけてくる。
「それを受け入れたんだから責任は取るべきじゃないの。どっちつかずに宙ぶらりんってさ。随分やり口が残酷だよね」
「牧さんはノブくんのことを本当に大切に思ってるんだ。じゃなきゃこんなとこまで来ない。誰かさんが会社まで辞めさせて連れまわして、」
「辞めてない」
「へ?」
 前のめりに知らず拳を握り込んでいた仙道の口がポカンと開いた。
「会社は辞めてない。休暇取っただけ」
「え、そうなの?」
 神は仙道から目を逸らし、窓の外に視線を投げた。今は何も見えない漆黒のそこからは、窓に映った自分の姿を見るしかない。
「まあつまらないこと考えたけど…俺の負けだな。ここまで追いかけてこられちゃったら…諦めるしかないよな」
「…え…?」
 その時、部屋のドアが大きな音を立てて開かれた。
「神さん!! 待って待って!! ダメダメダメーーーー!!」
 驚いて顔を上げると、今まで話していた信長が泣きべそをかいたような顔で部屋に飛び込んできた。同じく驚いて立ち上がろうとした中腰の神にその体が飛びついてきて、支えきれなかった神ごとソファの背に倒れ込んだ。
「ごめんなさい、神さん! ごめんなさいーー」
 入口にもう一つ気配を感じて顔を向けると、そこには同じように息を弾ませている牧がいた。仙道は牧の顔を見、安心と疑問が胸に湧き、ソファに倒れこんだ神の上に乗りあがったまま泣き続ける信長の姿を指で差して首を傾げた。仙道と目が合った牧の顔も緩み、泣き笑いのような表情を浮かべる。その顔に胸を突かれ、仙道はまた泣きじゃくる信長と、その頭を撫で続けながらこちらも泣きそうな顔をして笑っている神の姿を、なすすべもなくただ見つめた。



 ルームバーの前に行き、備え付けのエスプレッソマシンからカップに指をかけた。つい先刻は情けない表情を浮かべていた自分の顔は、今は戸惑いと自信のなさ気な、しかしやっぱり情けないとしか形容できない顔だった。神が座っていたソファには今は牧が座っている。その姿を後ろから眺め、仙道はそれでも自分の顔から締まりが消えていくのを感じた。
 カップを二つ持ったまま隣に座ろうとして迷い、顔を上げた牧と目が合い、正面のソファを結局選んだ。牧のテーブルの前にコーヒーを置くと、小さく礼を言われる。
「その…残念…だったね…?」
 なんと声をかけたものか迷い迷い仙道が口を開くと、牧は弾かれたように顔を上げた。
「え? あ、あぁ…そうだな…。おまえも」
「え、俺? なんで?」
「神さんのこと好みだって言ったじゃないか」
「あーアレ? やだなぁ、ジョーダンですよジョーダン」
 拳を握り締め殴りかけていた先刻の自分を思い出し、仙道がカラカラと笑うと、牧は驚いたような顔を向けた。
「そうなのか?」
「そうですよ。あんなん好みとはかけ離れてますよ」
「そうなのか…」
 牧の顔に笑みが戻ったように見えて、仙道の心も少し浮上した。今は信長を失って消沈しているのだろう。そこに漬け込みたい気持ちを抑えて、仙道はカップに口をつけた。
「牧さんなら…すぐにいい人見つかりますよ」
 自分の言葉に牧の顔がまた強張ったようで、まだ傷は癒えていないのだなと思う。「俺なんてどうです?」なんて軽口めかした口説き文句を舌に乗せようとして、仙道はまたコーヒーを啜った。
「すまんな、こんなところまで突き合わせて」
「いえ。神さんが意外にいい男でよかった」
「意外には余計だな」
「結構なヤツでしたよ? まあノブナガくんに振り回されて同情はするけど」
「うん…」
 いつの間にか飲み干されていたカップに目がいき、牧を見ると、牧は何かを考えるように両手で口元を覆い、肘を膝についていた。目は仙道を通り越して、今は漆黒に塗りつぶされている背後の窓に向けられている。そこに映っていつのは誰の顔なのか、仙道は努めて考えないようにした。
「疲れたでしょ。コーヒーなんて淹れちゃったけど、ウィスキーでも飲み直します?」
「…いや、俺は…もう寝る」
「うん…そっか。そうですよね」
 その前に牧と話しがしたかった。なんとなく自分を避けているような気がして、牧の目を見て、その表情をしっかりと自分の脳に焼き付けたかった。
 立ち上がると、同じタイミングで立ち上がった牧と視線が合った。すぐに逸らされた顔はどこか気まずい様子にも見えて、かけようとした声は喉の奥に消えていった。



 聞き覚えのあるような大きな笑い声が上がって、仙道は駅へ向かうシャトルバスに向けていた足を止めた。今まさに乗り込もうとしていたのは、昨夜泣きべそをかきながら、目の前で熱い抱擁を交わしていた二人連れだった。満面の笑みは二人の間の甘やかな空気の中にどこかすっきりした様子も感じさせられて、仙道はふっと息をついて回れ右をし、足をホテルの中へと引き返した。
 すっきりした顔しやがって。
 悪態が頭の中に浮かんでも、嫌な気持ちは湧いてはこなかった。挨拶は遠慮したいながら、むしろ晴れ晴れとした心地が胸の中に広がる。とはいえ、幸せ真っただ中です、といった様子の二人と顔を合わせるのは、今は勘弁したいところだった。
 最寄り駅へ向かうシャトルバスは30分に1本とフロントから聞いたことを思い出し、しかたなくロビーのカフェで時間を潰すか、と足を向けると、「乗らないのか」と背後から突然声をかけられた。聞き覚えのある声に、こっちも今は勘弁して欲しいなーと思いつつ、億劫ではあったが笑みを作って顔に張り付け、仙道は振り返った。
「奇遇ですね、魚さん。今日はバカンス?」
「今日は事後処理があってな。…乗らないのか?」
「んーもうちょっと休んで行こうかなーと」
 今は身体検査を受けても特に問題はない。牧のおかげで。そう思い至るとまた胸を刺してくる痛みがある。
「あまり人のプライベートに口出しする柄じゃないんだが、」
 なら放っておいてくれ、と思う。今はショックが大き過ぎて、大人の対応をする余裕がない。
 朝起きると既に部屋の中に牧の姿はなかった。
 テーブルの上には『ありがとう。また連絡する』とだけ書かれたメモが置かれていて、念のため開けたクローゼットにも牧の荷物はなかった。メモを片手にしばらく茫然と部屋の真ん中で立ち尽くし、それから大慌てで身の回りの物をまとめて、いや、こんなものなのか、と途中で手が止まった。
 今までの人生の中でもこんなことはいくらでもあった。ひどい時には一緒に暮らしていたはずの女の部屋に帰ってきたら、家具ごとアパートはもぬけの殻だった。
 だがこれは。この心にポッカリ穴の開いたような言いようのない空白感は。
「すいません、魚さん。…俺、今ちょっと、」
 うっかり気を抜くと涙まで流れてきそうで、仙道は魚住をおいて歩き出した。
「もうあのネックレスの件でおまえを追うことはない。安心しろ」
「だからー。俺はネックレスなんか全然知らねーですーってずっと言ってますよね。なんなら今ここでまた身体検査します?」
 面倒になって乱暴な物言いをしつつ足を速める。あのダイヤのネックレスなんかもう二度と思い出したくないのに。
「ある人から善意の申し出があってな。ネックレスはもう受け取って今は証拠保管庫だ。買い取った金はおまえが少しづつその人に返していくということらしいが、」
「…え…?!」
 思わず振り向いてしまい、魚住がいつも顔を合わせれば説教をする気配でもないことに気づく。どこか優しい不器用な笑みを浮かべて、魚住はスーツの内ポケットに手を入れた。
「あんな人には二度と会えないぞ? 乗るんだったら駅行きじゃなくて空港行きのバスに乗るんだな。お、もうすぐ出発するところか」
「え…牧さん? どういうこと?! だって…え? 牧さん飛行機ダメ…」
「餞別だ」
 魚住の腕が伸びて、グイッとシャツのポケットに何か突っ込まれた気配があった。チラッと見えたそれは飛行機のチケットだった。
「もう俺の手を煩わせんなよ」
 そう言うと、魚住はもう足を返し、フロントの方へと歩いて行った。
「ワイン1ダース送りますっ!」
 その背へ仙道は叫び、再びシャトルバス乗り場に向かって駆け出した。



 覚悟を決めてシートベルトを締めて目を閉じ、背もたれに体を預けて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。数秒待っても多少の動悸はあったものの、パニック状態にはなっていない自分を感じて、牧の口元が小さく綻んだ。
 これなら大丈夫。
 足元がなんとなくまだ心許ない気はするけれども。窓の外はまだ見れないけれども。ひじ掛けに乗せた腕に力を籠めれば、自分の意思の通りにきちんと腕は動かすことができるし、冷や汗もかいてはいない。一人でも自分は飛行機に乗ることができる。人を許すことも愛することも。それを伝えることもできるはずだ。今回は難しかったけれども。いつかは。
「ここ、いいですか?」
 高い位置からかけられた声に、牧の笑みが固まった。それからゆっくりと口元が緩むのを感じて、牧は目を閉じたまま口を開いた。
「どうぞ?」
「腕、どけられます? …手、握っていましょうか?」
「大丈夫、自分でどかせます」
 瞼をゆっくりと開くと、そこには思っていた通りの顔が優しく自分に笑っていた。ああ、また先を越されたのだ、と思う。
「ホントに? ウィスキーはいらない?」
「いらない。ああ、でも手は握っていてもらおうかな」
「喜んで」
 自分よりも丈のある体がゆっくりと隣の席に座り、ひじ掛けに乗せられたままだった牧の手を握った。長い指に包まれたまま、手は相手の口元に持っていかれて、それへ牧が目をやると、仙道の笑い泣きのような顔がまた少し歪んだ。手の甲に仙道の唇を感じて、牧も泣きそうな顔で微笑む。
「もう…どこにも行かないで。俺と一緒にいてください。俺のそばにいて」
「…いいのか? 俺で」
「あんたじゃないと嫌なんだ。あんたしかいらない。あんたが好きだから」
 口元は自分の手で隠されていたが、仙道の目は真剣だった。負けた、と初めて思った。
「うん、俺も。おまえじゃないと嫌だ。…おまえが好きだ」
 口に出そうとしてとうとう出せずに、今回だけはと自分に言い訳をしてホテルから逃げ出した。そのまま呆れられても仕方がなかったのに、今ここにいる仙道の存在に、牧は胸が締め付けられて、気が付いたときには秘めていた言葉が自然にこぼれだしていた。
「うん…うん。好きです。あんたが好き」
 仙道の上体が座ったままの牧の上に倒れてきた。自分より嵩のある重く固い体を愛おしいと思った。背中に手を回して滑らせると、その広さが実感できて心に響いた。
「すまん、臆病で」
「そうなの? じゃあ、俺と同じだね」
 牧は目を閉じて笑った。仙道の頬が自分のそれに触れて、仙道も同じく笑っているのだと牧は知った。




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