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冬隣




 不意に息苦しさを感じて流川は車窓に目を向けた。すっかり日が落ちた外は暗く、家々の灯りが現れては消えていく風景よりも、その上に浮かぶ、今、目を逸らしたばかりの横顔に気を取られる。
 難し気に寄せられた眉。真剣な目で手に持ったプリントを睨みつけている。
 流川はその瞳が自分に向けられていないことに寂しさと逆に安堵を覚えて、時折変わる表情を飽くことなく眺めた。
「これやっぱ(ウ)でいいんじゃね? わかんねーけどよ、この主人公の男って…おい、聞いてんのか?」
 いつの間にか車窓の横顔が振り向いて自分を睨みつけていた。顔を向けると自分より少しだけ低い目線の二つ上の先輩が、怒った顔で唇を突き出している。
「おまえがわかんねーって聞いてきたんだろ?! 真面目にやれー」
「…っす」
 頷いてまた先輩が手にしていたプリントを覗きこむと、三井の深く寄せられていた眉が開いた。
「…まー現国なんて一番おまえ苦手そうだもんなー」
 いつもの部活後の帰り道、自転車の後ろに乗せた先輩と今日答案が返されたばかりの中間試験の話しになった。
 さすがに一学期はまずかった。テストの点数で全国大会行きを邪魔されるとは思わなかったから、2学期に入ってからはそれなりに教科書に目を通してみた。が、現国だけはわからない。答えを見てもわからない。そもそもなぜそんな答えを求められるのかがさっぱりわからない。
 そう言うと、荷台の先輩が「ちょっと見せてみ?」と言ってきたのだった。もう駅に着くところだったから、灯りのある電話ボックスの隣りに自転車を止めて、ガードレールに二人並んで座って鞄から現国の答案と問題を取り出した。
「この長文が特にわけわかんねー」
「どれどれ。お、赤点じゃねーじゃん」
 どの科目も今回はギリギリ赤点は回避できた。少しの自慢とともに報告すると、「やるじゃん。ま、俺もだけどな」と偉そうにに威張り返された。
 問題を睨みつける三井の鼻の頭が少し赤かった。見れば耳たぶの先も少し赤い。そういえば今週に入って急に寒くなってきた。部活帰りは汗をかいたせいで余計に冷えるように感じられる。
「センパイ、寒くない?」
「んー、そだな。…おまえさ、今日…ヒマ?」
「…ヒマだけど」
 三井の話しの内容が急に変わるのはいつものことだった。赤点ではなくても、平均点以下の生徒は解き直しは命じられている。そう告げると、問題に目を落としたままの三井が、「…俺ん家来ねー?」と呟くような声で言った。
 本当に気をつけていないと聞き逃しそうなほどに小さな声で、三井の口元を見つめていなかったらきっと流川の耳にも届かなかっただろう。いつも怒った時にするように、少し厚めの唇を膨れたように小さく突き出している。流川は目を瞬き、そわそわするような擽ったいような気持ちを、不思議な気分で抑えつけた。
「センパイ、教えてくれんの?」
「まーな。俺の方が現国いい点だった」
 どうせ2,3点の差だろう。そう突っ込もうとして、やめた。今は三井を怒らせるのはよくないと思った。
「そこの電話で家に連絡入れろよ。ついでに飯も食ってけ。親が仕事で遅いときはカレーだかシチューだかが山ほどあっから」
 急に饒舌に元のトーンを取り戻した声で、すぐ隣の公衆電話のボックスを三井はぞんざいに顎で指し示した。流川は頷き、サイフはどこにしまったか、と考えながら背負っていた鞄を前に回すと、制服のズボンのポケットを探った三井が手に掴んだ小銭を流川に突き出した。礼を言ってすぐ隣のボックスに入り、手のひらを広げて受け取った小銭を見ると、100円玉が二枚乗せられていた。家はすぐ近所だった。三井の座るガードレールとは反対側の電話ボックスの隣に自販機の明かりが見え、流川は電話ボックスを出た。並んだ缶を見て即決し、硬貨を入れてホットの缶コーヒーを買い、釣りの10円玉を握ってボックスのドアをまた押し開けた。
 隣のガードレールに座る三井はまだ問題に目を落としていた。コインを入れるスロットに硬貨を落とし込みながら眺めていると、伸びた首筋がいやに寒そうで、缶コーヒーを先に渡せばよかった、と流川は考えた。電話に出た母親に、「部の先輩の家に行くから遅くなる」と伝えながら、少しでも冷めないようにズボンのポケットに缶コーヒーを突っ込んだ。
「おまえ、先輩の金でナニ買ってやがる」
 缶コーヒーを手渡されると、満面の笑みで憎まれ口を利く先輩を見て、また少し流川は居心地が悪くなった。
 怒ってないということは、自分のやったことは成功だったのだとうれしくなったのに、どこか落ち着かない思いで、「家近所だし」と言い訳にもならない理由を伝えた。
 電車のドア脇に寄りかかって、三井はさっきから、特に自分がわからなかったと言った、長文に描かれた主人公の男の行動の理由を推察している。
 なんて不確かな科目なんだろう。考えられる。思う。そんな言葉がさっきから三井の口から飛び出し続けている。およそこの人には似合わない言葉だらけで、でもそのおかげで今流川は三井の家に向かっているのだった。
 おかげ。
 自分は三井の家に行きたかったのだろうか。
 中間試験の話になったから。どうしてもわからない問題があったから。先輩が教えてくれると言ったから。ガードレールに座る三井が寒そうだったから。
 今の三井の口調を真似て、考えたこと、起こったことを並べてみても何かが足りない。例えば、自転車の荷台に乗った三井の重さや、寒そうだった鼻の頭や耳たぶや、首筋。独り言のようだった、自分の家に誘った三井の声や、車窓に映った俯いた横顔。自分の心を落ち着かなく沸き立たせたものはそれらであって、でもそれらだけではない。やっぱり現国は自分にはわからない。
「お、着いた」
 知らない駅舎に電車が滑りこむと、三井は手にしたプリントを流川に突き返し、鞄を背負い直した。三井の顔を映したドアは横にスライドして消えて、色のついた三井の顔が流川を振り返る。
「さみーな!」
 肩を竦めてホームに降りた背を追って、流川も初めて見る駅に足を踏み出した。先を行く三井の手に握られた缶コーヒーはまだ開けられていない。



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