フレンチキス




「牧さーん…?」
 部屋に戻るなり何も言わずに牧がバスルームに直行してから、かれこれ30分近く経っている。着替えも何も持っていかなかったからトイレかと思ったが、さすがに30分では気分でも悪くなっていたのかと心配になる。
「大丈夫?」
「…大丈夫だ。放っとけ」
 酒に酔ったいつもの上機嫌ではない。かと言って具合が悪そうな声でもない。
 そういえば部屋に戻るまでも牧は言葉が少なかった。俯き気味で、声をかけてもわかっているようないないような曖昧な相槌が戻ってくるだけで、またしても自分は牧の気に障るようなことを何かやっちまったのかとバスルームの前を仙道はうろつき、だが名案など思い浮かばずに弱った声で牧の名を呼ぶことしか出来ない。
 二人の意表を突く登場の仕方は成功したと、と仙道は思う。信長は明らかに慌てていたし、相手の神という男も冷静でいるように見えたが動揺はさせられただろう。信長に牧と二人だけで話し合う約束をさせることも出来たし、あの流れでは神はその場についてくることが出来ない。「とりあえず信長と二人だけで話がしたい」、という牧の希望通り、明日の夜、牧とあの信長という男は二人きりになる。
 二人きり。二人になって牧は何を話すのだろう。
 そこに考えが至ると、バスルームのドアの前を無為にうろうろしていた仙道の足が止まった。
 一応、今はまだ。あの牧と付き合っているという人間だった。しかも強請り倒して付き合い始めたとか一体どんな迷惑ヤローかと思っていたら、まだ少年のような面差しを残す、性格も成熟しているとは言い難い子供のような男だった。いや、子供ではない。まっすぐに自分を睨みつけてきた目は雄そのもので、まだ信長が牧に心を残していることがはっきりと見て取れた。
 牧はどうなのだろうか。信長が神と離れるつもりがないと分かればきれいに別れてやる、とは言っていたが、やはり牧も信長のことが気になるのではないのか。そう考えると寝言にまで信長の名前を呼んでいた牧を仙道は思い出していた。
 仙道の策であんな登場の仕方をしたことを後悔して、だから自分に顔も見せずにバスルームにただ閉じこもっているのではないのだろうか。牧が信長に心を残していなければあれほど苦手な飛行機にだって乗り込んでまで、迎えに行こうなんてことはしないだろう。長時間の過酷な電車移動を耐えていくこともないだろう。
 考え始めるとキリがない。仙道はふっと息を吐き出し、開かないドアに背中を預けて凭れた。その気配を察したのか牧の取り付く島もなかった声が、ドア越しに少しだけ軟化したようだった。
「すまん。…本当になんでもないんだ」
「…その…後悔してます?」
「後悔? なにをだ?」
 心底不思議に思っているような声が返ってきて、仙道は安心する。しかしそれでも胸の中に残るもやもやが口を開かせた。
「んー…やっぱりノブナガくんと別れたくないのかなーって」
「俺は!」
 いきなり上がった声に仙道は驚いて凭れていた背をドアから離した。振り返ってドアを見つめ、牧の言葉の続きを待ったが無情なドアからは何も響いてはこなかった。
 やっぱりかぁ。
 そう思うと立っている気力が不意になくなって、仙道はドアにまた凭れるようにして背を滑らせてそのまま床に座り込み、頭を垂れた。
 ノブナガくんのあの態度。牧さんに未練タラタラじゃないっすか。
 大丈夫、明日の今頃にはノブナガくんは牧さんとまた一緒ですよ。
 いつもの軽いノリで言ってあげられれば、牧は呆れ顔でここから出てくるだろう。わかっているのに。口が重い。 
 気にしないで。俺は平気です。
 でもきっとその後には牧が聞きたくもないだろう言葉が口をついて出てくる。
 あなたが好きです。
 先刻、言葉に出して納得した。なんだ、やっぱりそうなんじゃん。俺ってやっぱバカだよなぁとため息が出る。
 欲しいものには迷わず手を伸ばしてきた筈だった。頭を働かせて、利口なつもりで、ちょっとの愛想や嘘や立ち回りで大体のものは簡単に手に入った。でもそれはただの思い上がりで、真実から目を逸らし続けた結果の錯覚だった。
 本当に欲しいもの。それはどんなに手を伸ばしても届かないことがわかっていたから。
 不意に小学生までを過ごした養護施設の、玄関までの暗く長い廊下が頭の中に思い浮かぶ。追いかけた人は自分を振り返ることはなかった。未だにその廊下から立ち去る人が頭を過るだけで恐ろしくて足が動かなくなる。
 本当に欲しいものなんて怖くて手が出せない。また手に入れられなかったら。置いていかれたら。もう二度と立ち直れなくなりそうで。
 背中が触れていたドア越しに牧が動いた気配がして、仙道は膝に伏せていた頭を上げた。
「…牧さん?」
「あの土地を手に入れたら、」
「…うん?」
「おまえ一人じゃ手にあまるだろう。やっぱり人を雇うのか?」
「あーまぁ…見通しがたったらいずれはって考えてます…けど?」
 不意に話が現実に飛んだような気がして、仙道は戸惑いつつ、それでも頭の中で立てていた計画を思い起こしつつ答えた。
「求人かける前に、ちょっと会ってみて欲しい人間がいる。いや、絶対雇えというわけじゃないんだが」
「そりゃ…牧さんの推薦だったら願ってもないけど。でもいつになるかわかりませんよ?」
「うん、急ぎじゃない。雇用もだが、おまえが学んできた農場経営や手法について実践で伝えてやって欲しいんだ」
「あー…研修? 的な?」
「まあそうかな」
「…もしかして引退したお仲間の選手さん…とか?」
「なんだ、おまえも知ってたのか」
 ということは、福田も牧の来歴をやっぱりわかっていたか、と知らされる。
「うん。牧さんあんなにすごかったのに。急に引退してびっくりした」
 牧は日本代表の選出も常連の、卓越した実力を持つ選手だった。バスケから意識を逸らして生きてきた自分でも知っている。外見も相俟って目につかないわけがないのに、本人にその自覚がなくて、あまりにらしくて、仙道はくすりと鼻をうごめかした。
「やりたいことがあってな」
「…それがコレ?」
「まあ、その一つだ」
「そっか。…もしかしてノブナガくんもその一人だったりするのかな?」
「いや、あいつは会社に上手く馴染んでいたようだ。それまでもスポーツ選手の引退後の身の振り方について考えてはいたんだ。だがやっぱい思い立ったのはあいつのことがあったからだな。大学までは将来を嘱望されていた選手だったんだが…体を壊した。バスケ一本、他のスポーツもだが、日本ではそれだけに心血注いできた人間には急に目標が断たれた場合の対処が難しい。引退した人間にも言えることなんだ。引き続きそのスポーツに関連したことで身をたてていける人間はほんのわずかな一握りだ。もちろん農園経営は選択肢の内の一つなんだが時折視野にいれているという話を聞くから」
 バスケで身を立てることができる、その中に確実に入れる選手であろう牧は、だが違う道を選び取った。常にない饒舌さが牧の本気を伺わせる。そのきっかけは恋人にしてくれと強請ってきた幼馴染の男だった。
「…牧さんらしいです…」
 もしかして、と思っていたらビンゴだった。仙道は上げていた頭をまた膝の上に置いた両腕に伏せた。
 これはもう決まりじゃないか。
 もしかしたら、牧が信長への想いを自覚するお手伝いを自分はしちゃったのかもしれないなーとも思う。利口なつもりで本当に自分はバカだ。
「…仙道?」
 不安そうな声。
 自分の背をバスルームのドアが遠慮がちに押していた。しばらく自分は黙ってしまっていたのか、と気づく。仙道は慌てて顔を上げて声を作った。
「そういうことなら全然受け入れオッケーですよ。いつでも声かけてください。まー軌道に乗るまでお渡しできるものは少ないかもだけど」
「…ああ、ありがとう。本当に助かる」
 牧の低めの声が、やさしい声が胸に染みわたる。
 牧の役に立てるなら。いや、それよりも牧との繋がりが続くのなら。
 俺って意外に健気だったんだ。
 そんなことを考えてまた一人仙道は小さく笑った。
 慣れてる。こういうことは自分は慣れているから。そういう男だろ、俺は。
 牧の前で弱い姿を見せられない。仙道は自分を叱咤した。
「よし! 明日は気合を入れて神を誘惑してやりますよ!」
「あー、それなんだが…」
「明日の作戦立てましょ。牧さん、いい加減出てきてよ」
「おまえが塞いでいるから出れん」
「おっとすみません」
 慌てて立ち上がると、ドアが開いて顔を俯かせた牧が出てきた。その様子を見て、仙道はつと胸を突かれた。顔を洗ったのか、濡れた前髪から水滴が牧の頬に一筋流れた。はだけられたシャツからダイヤのネックレスが覗き、灼けた肌を美しく照らし出している。
「…これ。取れん」
「あ、ごめんね。ありがとう、つけてくれて。…今外します」
 牧の背後に回って、ネックレスの留め具に両手をかけた。その首筋にどうしても目が止まる。
 このまま唇を落としたら。
 湧き上がる誘惑に仙道は顔を振った。
「…なあ仙道…」
「はい?」
 呼びかけて牧はなかなか話そうとしない。珍しく口ごもった様子で、仙道は留め具に集中するフリをした。
「その…神を誘惑する話…」
「ああ! 任せてくださいよ。バッチリ垂らしこみますって。まぁまぁ好みだしラッキーなぐらい…」
 軽口をたたいているつもりなのに、手元に集中できなくてネックレスがなかなか取れない。構造をよく見ようと顔を近付けると、牧が小さく溜め息をついたのがわかった。
「…そうか。あーゆうのが好みか」
「え? なんて言っ…あ、取れた」
 牧の小さな呟きが聞き取れずに聞き返そうとしたところで、手の重みが増してネックレスが手の中に収まった。牧はようやく重みが取れたとばかりに手を添えて首を回した。
「いや…。あぁ、明日このネックレスを持ち込む件なんだが」
「うん、午後一で予約入れてます」
「それ、俺が行こうか」
 振り返って仙道を見上げてくる牧は、もういつもの落ち着きのある牧のように見えた。
「え、牧さんが?」
「おまえより胡散臭く見えないだろ? それに…もしかしたら空港でおまえを待ち受けていた警察が張っているかもしれないし」
 そうか。その手があった。その案に仙道は飛び付いた。
「そっか牧さんなら! え、お願いしてもいいんですか?」
「ああ、おまえにはいろいろ世話になったしな。これぐらい」
 そう言って目を伏せる牧はどこか寂し気にも見えた。まだ不安なのかもしれない。自分に出来ることだったら、この人にはなんでもしてあげたい。
「元気出して。明日の今ごろは牧さん笑ってるよ」
「うん…そうだな。風呂…入る」
「あ、はい、どうぞ」
 着替えを持ってまたバスルームに足を向けた牧のどこかいつもより小さく見える背を、仙道は黙って見送った。


 エレベーターで一階まで降り、店舗の入る区画まで並んで歩いて行くと、その店の控えめなロゴの描かれたプレートが一番奥に見えた。
「話しは通ってるんで。あ、でもこのぐらいの金額大きく下回るようだったら売らないで持って帰ってきてくださいね?」
 仙道がスマホをなにやら操作して見せてきたその画面に、大体のネックレスの価値は魚住から聞かされていたが、牧は目を見開いて驚いた。
「こんなすんのか?!」
「まぁ希望として? 状態でちょっと下がることもあるみたいだけど」
「…そ…うか。じゃあ行ってくる」
「はい、お願いします。あ、待って」
 今日は牧が仙道の着ていたスーツを着ていた。仙道は手足の丈が短めだとボヤいていたが、自分には少し長めなくらいで落ち着かない。仙道の両手が首にまわり、牧は小さく肩を揺らせた。手は器用にスーツの襟元を整え、またすぐに引っ込んでいく。
「うん、男前。さすが何着ても似合いますね」
「何言ってんだ。じゃあ後でな」
 牧は仙道を残し、店へ足を向けた。
 ガラスのドアに近づくと、内側から滑るように人が出てきて、手を触れる前に牧の前に開かれた。「いらっしゃいませ」とにこやかにスタッフから挨拶を受けて頷き、奥から出てきた大柄な人間に牧は顔を向けた。
「牧さん」
「魚住さん。持ってきました。そちらの方は?」
「店に潜り込んでいたブローカーは既に連行してます。しかし…本当にいいんですか?」
 牧は頷き、手にしていた小ぶりのケースを魚住に差し出した。
「はい。農園型のモデルケース設立のために用意していた資金ですから。仙道も同意して、協力してくれると約束したしなにより…」 
 魚住は牧からケースを受け取り、開いてネックレスを取り出した。手に持って眺め、それから隣に立ったこの店のスタッフにケースごと渡した。スタッフは頷き、ケースを持って奥に入っていった。
「仙道にはあの葡萄園じゃないとダメなんです」
「ふむ。…あいつには言ってやった方がいいんじゃないかと俺は思いますがね」
「いや、俺が力を貸したとわかればまたあいつは甘える。少しばかり手段は悪いが自分の力で手に入れたものとなれば自信もまた違ったものになるでしょう」
「そこまであいつがわかっているなら尚更だと思うんだが…まあ、俺は部外者だからな。これが店から借りて作った契約書です」
 牧は魚住から差し出された書類を受け取り目を通した。
「…ハハハ。仙道に怒られるな。こんな安く売ったのかと」
「あいつ…。どんなもん言ってきたんですか?」
「これの1.2倍くらいかな」
「ふざけんな。ったく」
 呆れたように舌打ちする魚住に牧も笑い、ケースの代わりに封筒に入れた書類を懐に入れた。
「無理を聞いてくださってありがとうございました」
「こちらこそ…というか。本当に牧さんにあいつを見届けてやってくださいとお願いできたらいいんだが」
「ハハハ。それは、」
 仙道が嫌がります。 声に出そうとして牧は躊躇った。
 今夜、仙道は神を誘惑する。ああいう男が好みだと言っていた。もしかしたら、今まで仙道の隣にいた自分の役はそのままあの男に移るのかもしれない。
 そう考えると着ているスーツが急にきつく身体を絞めてくるようだった。
「まあ、あいつじゃ牧さんの邪魔にしかならないか」
「…じゃあ、俺はもう行きます」
「気をつけて、というのもおかしいか。あなたのビジネスも上手くいきますように」
「ありがとうございます」
 店を出ると牧は一つ溜息をついた。後は自分の口座から仙道へ送金すれば終わる。
 何をやっているのか、と自分でも思う。魚住にも言葉を尽くして止められたが、牧の意思は固かった。
 エスカレーターに乗ってロビー階に出ると、先に仙道が牧を見つけて走り寄ってきた。
「牧さん! 大丈夫だった? どうだった?」
「ん、これ」
 仙道は牧から手渡された封筒の中の書類を引きだし、目を通し、うめき声を上げた。
「うわー…ウッソでしょ。こんな安く…うっわーもう牧さんもうちょっと粘ってよー」
「石に傷がついていたらしい。こんなもんだと」
「ウッソー! うぅぅ…ばあちゃんこれでもいいって言ってくれるかなー」
 唇を尖らせてブツブツ言い続ける仙道を見やって、牧はまた一つ溜息を吐き、スーツのタイを緩めた。



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