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フレンチキス

 正午も大分過ぎた時刻にようやく目的の駅に辿り着き、並んで降り立つとほぼ同時に3人から大あくびが出た。長時間揺られた上に乗り継ぎを重ね、電車に揺られて続けてきた体はギシギシと音を上げるように固まっている。
「まいったぁ…」と情けない声を上げる仙道の隣で、牧は大きく伸びをすると、思ったより冷たい空気が肺に満ちてくしゃみが出た。梅雨のこない土地の曇り空の大気は涼やかで心地よいが、牧が思わず身を震わせると、体を寄せた仙道が「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。つくづくマメなヤツ、と牧が呆れた目をやると、仙道は特に気にした様子もなくニッコリと愛敬を乗せた笑みを浮かべる。その二人の間から福田が、「あー」と一台の車を指さした。
「あれだ、迎えの車。連絡しておいた」
 先に立って歩きだした福田が手を振ると、路肩に泊まっていたワゴン車の運転席が開き、飛び出してきた人影があった。
「…え?」
 隣に立つ仙道が声を上げる。その驚いて動きを止めた様子に、牧は仙道の視線の先の走り寄ってくる人間を見た。自分の父親ぐらいの年齢だろうか。それよりはもう少し若いのかもしれない。
「福田…あれ…え…? オヤジ…?」
「彰ーー!! 息子! よく帰ってきたーー!!」
 その人間は自分を指差した仙道に抱き着き、行き交う人が振り返るほどの大声を響かせる。
「え…? だって…病気で死にかけてるって…」
「そんなこと一言も言ってない」
 自分よりも一回り小さい中年の男を体に張り付かせたまま、仙道は焦ったように福田を振り向いたが、福田は無表情のまましれっと首を横に振った。
「連絡も寄越さずに今までナニしてた?!」
 張り付いていた顔をせわしく上げて、今度は怒鳴り始めている。そんな男を見て、呆気にとられたままの仙道を見て、牧は不意に笑いがこみ上げて、堪えきれずに大声で笑い出していた。通りに今度は笑い声が響いてまた人の目を集め、男も含めた仙道と福田がびっくりしたように牧を見る。
「ははっ! 仙道、おまえ…! おまえも騙されるとそんな顔すんだな!」
「ハハハッ!! 騙されやがって! バカめ! ハハハッ!」
 すると男も仙道から手を離し、おかしそうに笑い始めた。
 憮然とした仙道を中に、二人は福田に遠慮がちに促されるまで笑い続けた。


  車は街中を突っ切り、緩やかな勾配の続く山間部へと分け入っていく。曇り空は登るに従って晴れ始め、光を受けて光る山々の緑の濃さが際立つ。いつもであれば心を穏やかにさせてくれる風景が次々に牧の虚ろな目に映る。
 笑いが解け、男4人のおかしな緊張感の中で牧が自己紹介をすると、姿勢を正した中年男は「田岡です。彰の父です。これがいつもお世話になっております」と名乗って丁寧に頭を下げた。にこやかに、うれしそうに仙道を見上げる顔は、仙道の説明から牧がイメージしていた養父とは大分異なる。それに向けられる仙道の顔もまた、理不尽に縁を切られて家を追い出されたという養父に対するものではなく、牧は少しばかり混乱した頭を整理する。元がウソばっかりのちゃらんぽらんな胡散臭い男の言うことだったが、二人の信頼が互いに感じ取れる遠慮のないやり取りを見ていると、騙されたという不快感は不思議に感じられなかった。
 それでも牧は、一体自分は今何をしているのだろう、どこへ連れて行かれるのだろう、という一抹の不安を抱え、しかも連れていかれる家の息子の同性の恋人という設定が嫌でも思い出され、車窓のその美しい風景も脳を素通りしていくようだった。なぜ自分はそんなバカな事に頷いてしまったのだろうと後悔ばかりが押し寄せる。が、ほぼ徹夜での強行移動が堪えて、牧は悩みを抱えたままいつの間にか寝入ってしまっていたようだった。
「…牧さん、牧さん起きて」
 肩を揺すられて目を開くと、車は見知らぬ民家の広い庭の中に停まっていた。慌てて脇に置いた鞄を抱え、なぜだか笑う仙道に支えられて外に降り立った。
 澄んだ空気の爽やかさにまず目が覚めた。家の周りは一面のぶどう園で、今まで昇ってきたと思われる街が遠く眼下に見渡せる。
 素晴らしい眺めに感嘆しつつ、思わず「いいところだな…!」と呟くと、仙道は先に立って、「こっち」と案内しながら、「ホント何にもないとこですよ」と照れくさそうに笑う。
 既に田岡と福田は家の中に入っていたようで、牧は仙道に並び、昔ながらの木造家屋の玄関までの、古い枕木が埋め込まれた舗道をともに辿った。
「おまえが言っていた実家の様子とも随分違う」
「うん、ごめん。…ホント俺にはもったいないとこなんです」
 仙道の自嘲するような、情けないような顔で浮かべられた笑いに、牧はつと胸を突かれる。いや、もう騙されるな、と頭を振り、「ますますこんな人達を騙すなんて心苦しい」と渋い顔を作った。
「ハハ、俺に親孝行させてくださいよ。フラフラしてた息子がこんないい男を連れて帰ってきたんでもうオヤジ大喜びですよ。昨日風呂にも入れなかったでしょ。先に風呂どうぞって。その間に飯用意しててくれるみたい」
「いや、そこまでしていただくわけにはない! …信長のこともあるし長居はできない」
「そっちは1週間滞在するって言ってたから大丈夫でしょ。すみません、もうちょっとだけ付き合って?」
 お願いします、と調子よく手を合わせる仙道はもういつもの仙道だった。
「わざわざ男の俺を恋人に仕立てなくても…それに俺がどこまで話しを合わせられるかわからんぞ?」
「牧さんだからお願いしたいの。大丈夫だよ。ノブくんのいるところまで責任持って付き合いますからお願いします」
 バスも通っていないような土地で、今更立ち去ることもできない。だからと言って仙道のでまかせに付き合ってやる義理は何もないのだが、どこか今まで見知った様子と違う仙道も気になってしまった。牧はため息をつき、仙道の後について、今は穏やかな光を受ける雪よけの玄関前を抜け、ガタついた音をたてる古い引き戸の中に足を踏み入れた。
「もう一人娘がいるんですが生憎出張中で。男手だけでいたらない物ばかりですが」
 ありがたく使わせてもらった風呂から出ると、仙道の言った通り、通された食堂には夕食にはまだまだ早い時間ながら、皿数の多い食卓がもう準備されていた。入れ替わりに風呂へ向かった仙道の背中を心細く見送り、もう既に始まっていた食卓から賑やかに勧められて恐縮しつつ席に着く。
 義理とはいえ息子の同性の恋人など複雑な心境であるだろうに、田岡は屈託のない笑みでニコニコと、自家製だという赤ワインを勧めてくる。既にちょっと酒が入ったような、会った時より更に上機嫌の田岡の話しと勧められた心づくしの夕飯に、牧も杯を重ね、心地のいい酔いとともに次第に緊張を解いていた。
「牧さんはお仕事は何を?」
「スポーツアナリストをやってます。主にバスケットボールですが、競技や選手のパフォーマンスをデータ化分析して、契約した企業やチームや個人に提供する…裏方の仕事です」
「バスケットボール! 彰と吉兆もやってたな」
 視線を向けられた福田は惣菜を大きく口に入れながらもコクリと頷く。
「二人ともセンスがよくて高校は推薦で行けたんですよ。親孝行な息子どもで」
「そうなんですか!」
 牧が驚きとともに相槌を打つと、田岡はうれしそうに続けた。
「インターハイにも行ったよな?」
 田岡が声をかけると福田は白飯を頬張りながらまたコクコクと頷く。
「俺も行きましたよ。じゃあどこかで二人に会ってるのかもしれないですね」
 仙道とは一つしか変わらない。北海道の高校と対戦はしなかったが、会場のどこかで仙道と福田とすれ違っていたのかもしれない。そう思うと不思議な縁に驚く。
「どこの代表っすか?」
 酒はあまり得意でないと白飯をかきこんでいた手を止めた福田の問いに、「神奈川です」と答えると、またコクコクして箸を動かし始めた。電車で乗り合わせた時よりも更に口数は少ないが、こちらはこちらで嫌な感じは全く受けない。福田も同じように対戦していないからわからない、という考えに至ったのかもしれない。
「そうですか! じゃあその時から彰とご縁があったのかもしれませんなぁ」
「いや…はは…」
 話がそちらの方向に行きそうで、牧は誤魔化すように、また手に持っていたグラスに口をつけた。
「牧さん、プロリーガーだった。前々季まで」
 ぼそっと呟くように言った福田の言葉に、知られていたのか、牧は驚いた。が、それを口にする前に田岡が大声を上げる。
「なんと! プロのプレイヤーでしたか! 大したもんだなぁ…!」
「いえいえ、そんなことは…ないです」
「二人も大学からも声がかかったんですよ。なのに二人とも頑固モンで。彰なんぞ家を飛び出しよるし」
 牧は相槌を打つのにも困り、ただ頷くだけにとどめた。
「どこにいるのかは分かってたんです。初めは探し回っても見つけられなかったが、3年前に彰が身を寄せたワイナリーは実は私の知り合いがオーナーを務めてましてね。何かと様子を知らせてきてくれて。いや、これは彰には内緒にしていただきたいのですが。そこで真面目に勤め上げていると聞いて安心しておりました」
「そうだったんですか」
 家を飛び出していった息子を心配しない親はいないだろう。
 それでも仙道から聞いた話と実家の様子が随分違うのは、なぜか福田と呼ぶ本当の兄弟同様の男に気を遣ってのことかもしれないし、どこかひねくれて露悪的な面がある仙道の性格によるものなのかもしれなかった。
「あんまり質問攻めにしないでよ? 牧さん困ってるじゃん」
 声に振り向くと、頭からかけたバスタオルで髪を拭きながら食堂に入ってきた仙道が、牧の隣に立った。
「なんだ、彰、そんなとこ突っ立ってないで座れ。おまえがなかなか牧さんのこと話してくれないからじゃないか」
「牧さん、ワイン美味しい?」
「ああ、美味いな!」
 牧は突然自分にふられた質問に、手に持っていたグラスの中身が本当に気に入っていたので勢い込んで頷いた。もう少しボディが強いものが好みだと思っていたが、これは軽過ぎず重過ぎず、複雑な香りの中に真っすぐに届いてくるオークがいい。そう言うと仙道の方が得意げに頷いた。
「ウチはオークチップなんか放り込まないできちんと樽で熟成してるからね」
「ハハッ! 牧さんわかりますか! こっちも試してみませんか。ウチで作った中でもちょっと自信がありましてね。いやーうれしいなぁ! さあ、どんどんどうぞ!」
「うん、これ一本もらってくね」
 田岡の手から牧のグラスへ注がれようとしていたボトルを仙道は横から掠めて、ついでに牧の手からグラスも取り上げた。それを牧は不満に睨み上げる。
「あ、こら彰! おまえに言ったんじゃない!」
「牧さん、あんまり酒強くないんだよ。もう顔赤いじゃん。俺の部屋行って少し休みましょ。ごめん、オヤジ。俺の部屋見せたいし」
「う、むむ…そうか…」
「さ、牧さん行きましょう」
 背に手を添えられて促されて、牧は酔いの回った足で立ち上がった。



「牧さん大丈夫? あんたあんまり酒、強くないのに」
「大丈夫!」
 この酒が入った時の上機嫌っぷりは、牧と行動をともにするようになって何度か目にしてきた。そのうちの数回は仙道自身が仕組んだわけだが、今の牧は心底楽し気に見えて、渋っていたくせにと思いながらも、自分の実家で寛ぐ様子に少しくすぐったい気持ちに捕らわれる。牧の足が放り出してあった牧の旅行鞄に取られそうになって、仙道はそれを持ち上げて机の上に放った。
 先刻、牧を風呂に案内しておいて、すぐに部屋に取って返してこの鞄の中を漁った。一つ一つ鞄の中の物を取り出して丁寧に探し、内ポケットの中もチェックし、最後には乱暴に逆さまに振って、それでも目当てのものは見つからなかった。
 ない。
 ない…。…けど。
 仕方ない。
 茫然としていたのも束の間、仙道は苦笑し息を吐き出した。
 大切なものを簡単に手に入れようとしていたのがそもそもの間違いだったのだ。
 そんなことをいつの間にか思えるようになっていた自分に仙道は少し驚いた。牧と過ごす時間が長くなって、少し感化されつつあったのかもしれない。乱雑に放り出した、鞄に詰められていた服や小物類を取り上げて、元通りに丁寧に畳み、鞄の中に収めていく。Tシャツを手に取ると、洗濯物の匂いの中にふと牧の香りを嗅ぎとった。戯れに畳んだそれに顔を近づけ、「いやいやいや」と一人首を振りながら、仙道はそれを乱暴に鞄の中に突っ込んだ。
 いつの間にか暮れ始めていたオレンジ色の斜めの光が射す6畳間は、自分が高校を卒業して家を出た時のまま、何も手は加えられていないようだった。畳の上のベッドに、あまり本の入っていない本棚、勉強机の上には教科書まで数冊埃を被ったまま出っ放しになっていて、それをいちいち牧が指摘して歩くのがこそばゆい。
「これはなんだ?」
 牧は覗きこんでいるのは低いタンスの上に置きっぱなしになっていた平たい木の箱だった。一気に昔の思い出が押し寄せてきて、牧の背後から仙道は箱に寄り、手を伸ばして埃の溜った留め具をはずし蓋を開いた。牧がその中の一つを手に取る。
「これは…土…か?」
「まあ、ちょっと蓋取って匂い嗅いでみて?」
「うん?」
 促すと、素直に牧は小さめのメスシリンダーの蓋を取り、その中の匂いを嗅いだ。
「どんな匂いする?」
「うん…土だな」
「はは、そっか。じゃあこれちょっと飲んで?」
 持ってきたグラスにワインを注いで手渡そうとすると、牧は仙道が差し出したグラスにそのまま口をつけた。驚いた仙道が、だが零さないように牧が嚥下しやすいようにそっとグラスを傾ける。小さな子供のように何の疑いもなく、自分の手からコクリと小さく音をさせた牧が赤ワインを飲んだことを確認して、仙道は牧が持っていたメスシリンダーを、手ごと包んで牧の顔の前に運んで軽く振った。牧の目が驚いたように見開かれる。
「うん…うん? 花の匂い…いや、果実の匂いか。ベリー系の」
「そう! わかる? じゃあまた一口飲んで」
 素直に、今度は自分から積極的に仙道の手からワインを一口飲んで、「次はこれ」と仙道が持った別のメスシリンダーに牧は鼻を寄せた。
「森…木の香りか? 雨の後の」
「いい表現、じゃあ今度はー」
 違うメスシリンダーを取ろうとして、自分を不思議そうに見上げている牧に仙道は気付いた。
「…これ、自分で作ったのか?」
「そう。中学の時の自由研究ってやつ? なんで同じ畑でも一反ごとに…下手すると畝ごとにそこでできるワインの味が違うのか不思議でさ。ぶどうで食べると同じ味なのに」
「これだけじゃ…ワインを飲まないとわからないだろう?」
「うん。担任にはなんだこれってすごい怒られたなー。中学生がワイン飲みながら作りましたーとも言えなくて困った」
 笑って、気付くと見上げてくる牧の顔がすぐそばにあった。薄暮れに染まる部屋の中で、その色の映ったような薄い茶の瞳が金色に光って、話しの続きを待っているように大人しく自分を見上げている。薄く開かれたままの唇に目が吸い寄せられて、不意に仙道は列車の中で触れた牧の唇を思い出した。
 あと数センチ、顔を近づければ。
 上機嫌に酔った今ならば、酒に弱い牧は冗談に取って、怒るか笑って終わるかもしれない。だがまた自分のキスを覚えていないのかもしれない。そう考えると、なぜだか仙道にはその数センチを縮めることができなかった。
 今までの自分であれば結果がどうであれ、気になったものには考える前に手が出ていたのに。
 逡巡する仙道の唇は、不意に顔を下げた牧の髪の毛に触れた。
「おまえ、中学の時から飲んでたのか! その頃から不良だな?!」
 また牧は箍が外れたように笑い出した。笑い上戸でもあるんだな、と仙道は苦笑し、牧の手からグラスを取り上げた。
「もう終わり。牧さんあんまり強くないんだからやめておこう?」
「なんだよ、おまえが飲ませたくせに」
「はいはい。また明日ね」
「うん、明日だな」
 すっかり酔いに機嫌をよくして、明日もここの酒を飲むと宣言しているような牧がおかしくて、切なかった。


 雨戸を閉めずにいた窓のカーテンから漏れる朝の光の中で自然に目が覚め、牧は寝足りた心地の良い気分で伸びをした。体にかかるしっかりと重みのある昔ながらの綿布団と、慣れない空気の匂いに、そうだここは、と思い出して固まり、伸びをした姿のまま周囲に目を動かす。と、寝ているベッドのすぐ隣に敷かれた布団に見慣れない男が寝ていた。いや、洗ったままの前髪が顔の半ばまでを隠しているが、こいつはアレだ。あの仙道だ。
 牧は朝の白い光に晒され、眩しそうに時折顔を顰める仙道の寝顔を見つめた。こうしておかしな格好をせずに黙っていれば、滅多に見かけることのないほどに美しい面立ちをしている男だ。
 だからだ。と思う。だから昨日、中学の頃の自由研究だというおかしなよくわからないものの匂いを嗅がされて、初めて見る熱心さで説明してくるその横顔に惹かれたのだ。すぐ目の前にあってワインよりも誘惑の強いそれに自分の唇を寄せたくなってしまったのだ。そんなあり得ないと思っていた感情に慌てて、いきなり無理に笑った。笑って仙道の傍から逃げた。
 あれこれ自分に言い訳を考えていると、何も考えていなさそうな平和な顔で寝こけている男が憎くなって、牧は手を伸ばして高い鼻を摘まもうとして、やめて人差し指の裏でその頬をそっと撫でた。
 根っからのチンピラかと思えば、驚くほどに真面目な将来に向けての具体的な夢を持っていた。聞いた時はそれでもワイン?と胡散臭い気がしないでもなかったが、寝ている間に到着したこの仙道の実家を取り巻く周囲の山々は、一面が緑が眩しいぶどう畑に覆われていて、その夢も至極自然で真っ当で、不真面目に見えた仙道の心の奥底に触れられたように思えた。
 高校卒業とともにこの家から姿を消したこともなんとなく推察できるような生い立ちを、昨晩は酔いが回って早くにベッドについた牧への寝物語に、畳に引いた布団の上に肘枕で仙道はポツポツと語って聞かせてくれた。
 福田と仙道はそれぞれの事情から家族と呼べる者がなく、児童養護施設で育った。小学校卒業を前に施設が統廃合されることになり、そこで生活していた数少ない幼い子供達は運よく引き取られていったが、仙道と福田はその頃にはもうすでに並みの大人より大きく、最後まで敬遠されて残された。そこの教諭だった田岡は廃校を機に実家のぶどう園を継ぐべく戻る予定だったが、同じ年齢の実子が既に一人いるにもかかわらず、残った二人を一緒に養子として迎え入れてくれた。
「もう自分よりデカかった生意気なガキを二人まとめてなんてね。犬コロよりよっぽど面倒だし金もかかんのに」
 笑ってなんでもないように親のいなかった身の上を話す仙道の横顔を、牧は譲られて横になっていた仙道のベッドから黙って見降ろした。
「まあせめても、と思ってガキながら二人で真面目に家やぶどう園の手伝いをしましたよ。そしたら高校上がってしばらく経つと、俺と福田、どっちかが娘さんと結婚して家を継げばいいなんてて親戚やら周囲やらが無責任に言い出しやがって。俺は越乃のことは妹ととしか見れないし、福田は本気で越乃のことが好きだったけど自分のこと伝えんのホント苦手なヤツでね。あ、越乃ってオヤジの実の娘ね」
 仙道は笑って続けた。
「それに俺もここ以外の土地を見てみたかったんですよね。冗談じゃねーって飛び出した。で、まあそれからはお察しの通りの生き方」
 ヒモやら小悪事やらでその日その日をフラフラと食いつないでいた。だがある日、その時転がり込んでいた部屋の女が持ち込んだワインに目が止まった。栓を抜いて、香りに触れて、一気に育ったここの風景を思い出していた。
「ワイナリー検索したら福田が結構いいセンいってるワインを作ってた。今更だけど負けてらんねーって一念発起して、その時のワインの醸造所に押しかけて住み込みで働かせてもらってました」
「今更なんてない」
「うん…、そうだね」
 擽ったそうに笑う仙道は、寝間着代わりに着ている福田から借りたというシンプルなTシャツも普段の印象とは違って、まるで別の男のようだった。
「仙道ってのは偽名だったわけだな?」
「いえいえ、田岡に引き取られる前の名前ですよ。やっぱりオヤジさんに迷惑はかけられないし。あと福田とは変わらず苗字で呼び合ってるなー」
 そうか、それで『福田』か、と牧は腑に落ちて思う。児童擁護施設に居た頃からの呼び名なのだろう。家族の記憶のない子供にとって苗字はなにより大切なものだったに違いない。
「そこであの苗もらって、それから…それであんたに会った」
 言葉を切って、意味ありげに見つめてくる仙道に鼓動が一つ大きく跳ねた。いや、こいつはこういうヤツだった、と牧は誤魔化すように寝返りをうち、努めて落ち着いたような声を作って疑問を口に出した。
「…目星をつけてある土地ってのはこの辺りなのか?」
 すると仙道はどこかうれしそうに微笑んで、「明日案内します」と言って穏やかに寝付いたのだった。
 牧は眠る仙道を起こさないようにそっと布団を抜け出して着替え、人の声がする方向に足を向けた。
 だがどんな顔で接していいのかわからず遠慮がちに部屋を覗くと、養父の田岡が牧に気づき、朝食の並んだダイニングから満面の笑みで手招きした。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「あ、はい。お陰様で。ありがとうございます」
「いえいえ。さあ、どうぞ」
 立ったままの牧に、背後から皿を持って近づいた福田が席を勧め、その前のテーブルに慣れた手つきで料理を並べていく。
 昨夜田岡はこっちが照れるような真面目な顔で、「牧さんはー…あー…泊まるのは彰と同じ部屋で構いませんかな?」などと聞いてきたのだ。人が好さそうな笑顔に騙している片棒を担いでいるようで、こちらはがっつり複雑な心持ながら、牧は「いただきます」と手を合わせて箸を取った。 
 朝食をとり終え、出されたコーヒーに礼を言いつつ手を伸ばすと、同じくコーヒーカップを手にした田岡がどこか言いにくそうに口を開いた。
「牧さん、その…あれは…あなたに無理なお願いをしたんじゃないですか?」
「はい?」
「飛び出していった彰がまともな生活をしていなかった時代があるのも知っています。今でも嘘ばかりついて自分を誤魔化していることが多いようだ。周囲がおかしな期待をかけてしまってそれが彰にも重荷になっていたのかもしれないが…その、昨晩もお話しさせていただいて…あなたのような人がとても彰を選んでくれたとは思えない。もし何か弱みでも握られて、」
「俺と紳一さんはラブラブだから」
 突然上から降ってきた声に振り向くと、眠そうな顔をした仙道が、着ているTシャツの中に片手を突っ込んで腹を掻きつつダイニングの入口に立っていた。大あくびをしながら近づいてきて、まず牧の頬に顔を寄せキスをする。牧は飛び上がりそうになりながら、なんとかコーヒーカップを両手に握って堪えた。
「そ、そうか。ほら、おまえもさっさと食え」
「はーい」
 牧の隣の席に腰掛けてにっこりと仙道が微笑んでくる。顔が赤くなっているのかもしれない、と思うと牧の眉は自然に寄った。牧は隣の男を意識をしないように努めて、目の前の香ばしい匂いをたてるコーヒーに集中した。
 ダラダラと食べ続けている仙道を置いて、先にいろいろ片づけるべく部屋に戻ると、昨夜置いた場所にそのままのように見える自分の旅行鞄があった。牧は鞄を掴み上げ、少し考えて、そのまままた元の場所に置いた。



 東南に向いた斜面はほぼブドウが植えられていて、朝露を受けて光る青葉の出揃った風景はただ眩しく美しかった。揺られる車窓から感じ取ったそのままに、「きれいだな」と牧が呟くと、隣の仙道がうれしそうに頷く。
「冬は白一色ですけどね。なんにもなくなるみたいに。でも春が近づいて来ると南に面した斜面からぐんぐん緑色に変わっていくんです」
 仙道はカーブの多い斜面を握ったステアリングで操作しつつ、その風景を思い出すように目を細めた。
「ここです」
 きれいに整備された山々を抜けて更に仙道が実家から借りたライトバンを走らせると、これまで秩序だって植えられていたぶどうが乱雑に並ぶ斜面に行き会った。中には枯れてしまっている立木もあり、人の手が入らなくなって久しいようだった。だが眺めは言葉を失うほどに素晴らしかった。山々の切れる風景の間には眼下に街が一望でき、遠くに望める、空の色とは別に広がった濃い青はきっと海だ。
「あれは…?」
 その荒れたブドウ畑に囲まれて、古い建物が建っていた。仙道の実家より一回り小さいそれは手を入れればまだ住めそうではあるけれども、人が住まなくなって大分経っているのは見てとれた。
「以前老夫婦が住んでました。オヤジに怒られるとよく福田とここまで逃げ出してきてさ。嫌がらずに構ってもらえたなぁ。ぶどうに関してはオヤジよりそのじいちゃんに教えてもらったくらいですよ。でも俺が高校上がってすぐくらいにじいちゃんの方が倒れちまって。しばらくばあちゃん一人でやってたけど後継者がいなくてやっぱり手が回らなくなってばあちゃんは山を下りて、ここはその時のまんま」
 仙道は答えてしゃがみ込み、足元の土を掬った。
「いいでしょ、ここの土。ここであのぶどうの苗と交配させて、いつか俺だけのワインを作りたいんです」
「…そうか」
 土のことは全くわからない。が、立ち上がり、にっこり笑って手に持った土に顔を寄せ、その匂いを嗅ぐ仙道にまた牧は胸の痛みを覚える。それからは目を逸らして、昨夜から考えていたことを告げるべく口を開いた。
「仙道。おまえ、ここに残れ。北海道の用事ってここだろう?」
「え、なにいきなり。俺、牧さんと一緒に行きますよ?」
「俺は一人で大丈夫だから」
 びっくりしたように反論してくる仙道からも目を逸らす。
 先刻、車を回してくる、と仙道が先に玄関を出た後に、見送りに出てきた福田が「オヤジが言ったことだけど」と近寄ってきた。
「なんですか?」
 福田から近寄ってくるとは珍しい、と思いつつ、牧は福田に向き直った。
「やっぱり仙道の恋人なんてウソですよね」
 ほら、やっぱりバレた、という気持ちと、いきなり確信を突かれて咄嗟に違う、とも言えずに牧が固まっていると、福田は少し考えるように、家の奥を確認するように覗いた。
「あいつ、俺と越乃に遠慮して、高校に入ったくらいの頃からいろんな付き合った人間を連れてきたんっすよ。まぁさすがに男は牧さんが初めてだったけど。でももうその必要もないんで」
「それはどういう…」
 牧は戸惑った。それは昨夜仙道から聞いた話と一致していて、それだけにこの家の内情に踏み込むようで、実際仙道と付き合っているわけではない人間が聞いてよいものか判断がつきかねた。
「やっぱりあんたまともだから。今まで仙道が連れてきた人間と全く違う」
 それを聞いて、牧はやっぱり、と思わざるを得なかった。自分は仙道の好みとは違う。それはもう性別からして明らかであったのに。
「俺と越乃、その…今は付き合ってて結婚しようかって話しもしてる。オヤジにもそのうち打ち明けようと思ってます。だから仙道にもう無理しなくていいって。気にしないで家に戻れって伝えてくれませんか」
 その福田から言われたことを今仙道に伝えれば、そこでこの恋人ごっこは終わるのかもしれない。信長のところへ行くことも断れば仙道もしつこくは言ってこないだろうし、敢えて面倒なことに付き合わないだろう。それなのに自分の口は重たく、それを告げる機会をどんどん見逃していっている。
「…牧さん」
 急に口調の変わった仙道に、牧は顔を戻した。いつものヘラヘラ笑いが消えていて、常にない真剣な表情に少し驚く。
「なんだ?」
「牧さんはあの二人に会ったら…ノブナガ君に会ったらどうするつもりですか?」
「どう、とは?」
「ヨリを戻すの?」
「それは…」
 牧は当初の目的を思い出して眉を寄せた。
「…あいつの気持ち次第だな。とりあえず家には帰らせる。親御さんを安心させないと」
「牧さんは? 牧さん自身の気持ちはどうなんですか? ノブナガ君が好き? まだ付き合っていたい?」
「…おまえには関係ないだろう」
 牧は自分の心に突然分け入られたような不快感と、それからなぜだかその心の中に隠していたものを言い当てられたかのような狼狽を覚えた。狼狽を悟られたくなくて、作った不機嫌を言葉に含ませると、仙道は手の中の土を落とし、穿いたジーンズの腿で乱暴に汚れを払った。
 仙道が着ているものはまた義弟に借りたというシンプルなTシャツとジーンズで髪もセットされておらず、そうして見ると徐々に見えつつあった仙道の、多分本来の姿と重なって、牧にはどうにも落ち着かなく感じられる。
 仙道の外見がいつもと違うから。まともだから。だから居心地が悪いのだ。
「…そうですね…。俺には関係なかった」
 なのに同意を得たその言葉に苦しく胸が締め付けられるのはどうしてなのだろうか。
 牧はその己の整理できない感情を無視して、話題を目の前の風景に変えた。
「この土地を手にいれる算段はもうついてるのか?」
「んーそれがですね。あったんだけどなくなっちゃった」
 仙道は情けなさそうに整った眉を下げて笑った。
「前に街に降りたばあちゃんのとこ行って頼み込んだんですよ。そしたら手付だけ入れてくれれば喜んで手放すって。じいちゃんも畑を継いでくれる人に土地を譲りたがってたからって。でも手付の一部にしようと思ってたものがパーになっちゃった。…ここ大手のリゾート開発も目ぇつけてんですよね。眺めもいいからなぁ。まあ残念ですけど、そうなったらウチの地価も上がるかなー。観光客も増えるだろうからワイナリーちょっとオシャレに改装してカフェとかレストランとかウケそうですよねーなんてあのオヤジじゃダメかなー」
 目線を今は荒れ果てたブドウ畑に投げ、いつになく口数の多い仙道がまくしたてる言葉に牧は割って入った。
「自分のブドウ畑は諦めんのか?」
「まあ、それは。またどっかでいい土地見つけて…一からがんばります」「…そうか。俺ならこれを使うかな」
 牧は着ていたシャツのボタンを二つ更に開けた。顔を上げた仙道の視線が常になく開いていた牧の胸元に止まり、驚きに見開かれた。
「えっ?! まっ! 牧さん! 待っ! それっ!」
 牧の胸には重たく光りを放つダイヤモンドを繋ぎ合わせたネックレスがつけられていた。
「どうしっ! どこでっ?!」
「ハハハッ! どうしてもついて来るっていうなら教えてやるよ!」
 牧は焦る仙道の顔を見て、笑い声をあげた。



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