耐久と包容のヴァンダイクブラウン





「あーやべぇ・・・」
 練習が終わっていつもの面子と居残りをこなした後、汗を流して大学門を出て藤沢駅前で牧達と別れ、アパートの扉の前に立つ事が出来たのは22時を回りかけていた頃だった。
 明日は少し遅めの10時からだ。大学が休みの日は朝から晩までバスケ三昧。いくら特別科とはいえ、これほどバスケ漬けの日々になろうとは。

 大切な初戦を黒星でスタートした、1部に上がって初めての秋季リーグ戦。深体大、都久波大という強大なチームに連敗してからというもの、チーム全体の調子は試合を重ねる度に右肩下がりだ。5戦して2勝。辛くも勝てた2試合は、牧と自分への執拗なマークで総崩れになりかけたところを先輩達と1年の仙道・北口でぎりぎり立て直す、という内容。体力と精神力を容赦なく削られる壮絶な試合は毎週続く。強豪たちの洗礼を心と身体にこれでもかと受け続ける日々。単純に辛い。とてつもなく辛い。
 だがコーチの、第10節目までに何としても海南のリズムを取り戻したいという思いは自分達選手だって同じだ。俺達はこんなもんじゃない。また2部に落ちてたまるか。
 夏季休暇が終わる寸前の連休で行われる連戦前の怒涛の追い込みは、去年と比べても格段にきつい。流石に筋肉痛とは去年でおさらばしたが、身体中が疲労で重くなり、心なしか視界が白くなっているような気がする。こんなんで授業が入ってきたらどうすんだ・・・とりあえず飯を食って風呂に入って・・・いや、もう作るのが面倒だ。何でもいいからさっさと眠りたい。眠れるだけ眠って、とにかく蓄積されたこの疲労を早くとっ払いたい。
「10時・・・、9時に起きればいっか・・・10時間は寝れる」
 ポケットに手を突っ込んで鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回し込む。
(マジで疲れた・・・ん?)
 ガチャリと回した鍵を差し込んだままノブを捻るが、扉は開かない。古い立て付けのカンヌキ部分のデッドボルトがガタガタと音を立てる。
 鍵を閉め忘れて出掛けたかな。
 もう一度回して引くと、今度は音を立てずに扉はゆっくりと開く。かわりにギギギと蝶番が悲鳴を上げたが、同時に室内の明かりがパッとついて、三井は大きく溜め息を吐いた。
「連絡しろって言ったよな」
 スイッチに手を伸ばしたまま引き戸の向こうから玄関を覗いている男に、思いきりガンを飛ばす。そんなものが効かないのは知っているが、もう癖なので仕方ない。案の定、小さく頷いただけで表情を全く動かさない男は伸ばした腕を引っ込めてそのまま奥の部屋へと向かう。
 このまま寝たかったんだけどな。
 仕方がないと溜め息をついたところで、踏み込んだ室内から何やら良い匂いがすることに気が付いた。狭い台所は玄関のすぐ横。荷物を置いてコンロの上に乗った小さな鍋を覗き込んで三井は驚愕した。
「流川、お前、なにこれ」
 再びのっそりと顔を覗かせた男は、少し目線を落として訝しげにほんの僅かに首を傾げてみせた。
「うどん」
「いや、うどんなのは分かるよ。お前が作ったのか?」
「作り方は聞いた」
 誰に、と聞こうとして、流川の母親は驚くほど料理上手なことを思い出した。以前流川が『三井君も食べてね』というメモ付きで大きな弁当箱を持参してきた時があった。あれは本当に旨かった。
 顔を再び鍋に戻そうとして、シンク台にめんつゆのボトルが置かれていた。母親にレシピを教わったのだろう。
 すぐにでも眠りたかったが、ほかほかと温かな湯気をあげているそれと鼻腔の奥にまで染み渡る旨そうな匂いに、腹の奥がぎゅるぎゅると音を立てそうになった。流川母のレシピのうどん。旨いに決まっている。
「食っていいのか」
 荷物を置きながら振り返った先の流川は、引き戸に手をかけたまま再び小さく頷いた。相変わらず口数が少ない。だが穏やかな感情を取り戻した自分には、十分過ぎるほど柔和な表情だった。
 やりぃ。また連絡なしで来やがってと沸いていた怒りは、用意されていた晩飯で一気に終息へと向かう。我ながら実に単純だと思うが、疲れて帰ってきて飯が用意されていると心がとても安らぐのだ。普段料理をしない歳下の、しかも古巣の湘北バスケ部主将として冬の全国大会初出場を決めたばかりの多忙であろう恋人が、自分の為にと思うと尚更。
 早速、腕を伸ばして食器棚兼用の水切りかごから丼鉢を掴んで鍋に寄った。よく見りゃ卵まで落としてやがるじゃねーか。絶対旨いだろこれ。遂に鳴った腹は期待でぎゅるぎゅる唸る。
 白く広がった卵を泣かせないように麺を菜箸で解した後、丼鉢に鍋を傾けて全量を流した。箸を咥え丼を抱えて部屋に入ると、ベッドに寄りかかって床に座っていた流川の前のローテーブルに似たような内容の丼鉢が既に置かれていた。
「それお前の?」
「そう」
 向かいに腰を下ろす。見れば流川の前の丼鉢からは湯気が上がっていない。先によそったのか。冷やしちまうくらいなら一緒に鍋に入れときゃいいのに。そこまで思って、この家にある鍋はあの小ぶりのものひとつしかない。
 こいつもしかして、俺の帰り時を狙って作ったのか。
 三井は無言で、流川の前に湯気のたつ丼鉢を押し出した。かわりに冷えた丼を引き寄せる。両手を添えてみるが、思っていたより冷えてはいない。生あたたかい、その程度だ。
「それ、もう冷えてる」
「大した事ねーよ」
「それに味付け失敗してる」
「めんつゆに失敗の要素なんかねーよ。濃くても旨いし薄くても旨い。いいからそっち食え。いただきます」
 流川の方は見なかった。勢い良く啜った麺は丁度良い柔らかさで味が染みていてやはり好みだった。旨い。ただすこし冷たいか。けど悪くない。
「おら、早く食え。んで早く寝るぞ」
「うす」
 柔らかい響き。
 一度だけちろりと流川の顔を見て、再び丼に視線を戻し、三井はほんの少し口角を上げた。






 ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ

 意識が繋がる。
 部屋にうっすらと差し込む街灯の薄暗い光が、眠っている流川の顔を照らしていた。恐ろしく白い。光の差し具合も相まって青白く見える。そんな事をぼんやりと考える頭に、緩いバイブ音が流れ込んできた。なんだ。こんな時間にアラームなんてかけた覚えなんてねーのに。
 唸る携帯の在処を探して目線を上げると、サイドに置かれた自分の携帯が不快音を奏でていた。右手で顔をこすり、鳴り続けるバイブ音に眉を顰めてその手を伸ばした。アラームではない、着信が入っている。
 左上に表示されているのは、今や親友と言っても過言ではない付き合いの同級の名前だった。ほんの数時間前、最寄り駅で別れたばかりの。
(・・・なんだ、どうしたんだ)
 意識は一気に覚醒した。
 音量ボタンをいじってバイブを消して、三井は静かに身を起こした。流川は深い眠りについているようだ、空気の流れの微妙な変化と軋んだマットレスの音にも反応はない。
 何かあったのだろうか。通話ボタンを押して耳に当てると、電話先の男が大きく息を吐く音が響いた。
『こんな時間にすまん』
 携帯から聞こえた声は、まるで焦っているように上擦っていた。いつも穏やかにゆったりと話す彼の、今まで聞いた事のない走った声色に思わず眉を寄せた。
「どうしたんだよ。何かあったか?」
『あいつそっち行ってないか?』
「あいつって、仙道か?」
『そうだ・・・・ちょっと、喧嘩になっちまって。引き止めようとしたんだが、振り払われて飛び出しちまったんだ』
「お前らが喧嘩?」
 そう言いながら顔を上げて時計を見た・・・嘘だろ・・・充電器の横に置いてある時計は、午前1時半過ぎを指している。
『ここら辺であいつが行く所といったらお前のところしかないのにいま気が付いたんだ。見当違いな場所を探してて・・・反対方向にいるんだ。あいつが来たら連絡くれないか』
「おい、いま1時半だぞ・・・頭冷やしたら帰ってくんだろ」
『いや、今から』
「それにいまウチ、客っつーか泊まりに来てるヤツがいて」
『俺もそっちに行く』
「おい、牧」
 無言になった携帯を耳から離すと、通話は切れている。嘘だろ1時半だぞ。一体どうしちまったんだ。会話にならなかった。あの牧が、一方的に喋って、一方的に切りやがった。
(何なんだよ・・・)
 それだけ焦っているという事か・・・喧嘩? あのふたりが?
 大学や部活中は先輩後輩の関係性を貫き、つかず離れずのうまい付き合いを見せている彼等が、家に帰ってしまえば見ているこちらが目のやり場に困る程に引っ付いている(主に仙道が)のは知っている。何度も何度も足を運んでいるあの愛の巣で、ふたりが喧嘩をしている姿はおろか、口論する姿すら見たことがないというのに。
 そんな、ベッドの上で身を起こしたまま呆然と切れた携帯を見つめていた三井の耳に、スニーカーの底が石を引きずる恐ろしい音が聞こえてきた。
 割と古い木造のアパート。1階の1番奥の部屋。隣は空室。足音は横を通過してきた。台所のシンクを僅かに照らす、共用部分の廊下に向いている窓から差し込む街灯。
(・・・・・・嘘だろ)
 それが遮られ、大きな人影が見えてしまった。
 開けっ放し故に格子越しに見えた大きな影が、中を確認するように覗き込んできた。おまけに引き戸まで開けっ放しだったので、がっつりと視線が絡まる。
(嘘だろおいおい・・・ええぇ・・・マジで来やがった)
 自分を見つめてぐっと寄った眉根。髪は下ろされているが間違いない。その口元が動いて小さな声が聞こえた。
「三井さん」
「・・・・・・」
 絶望的だ。
 彼には借りがある。借りはあるけれど・・・。
 眉間に皺を寄せて思い切り目を細めて、顔全体で歓迎していない事を表すくらいは許されるだろう。いや許されるってなんだよ。俺は安眠を奪われたんだぞ。そんなん構うかよ。
 三井は殊更ゆっくりとベッドからおりた。軋んだマットレスに流川が少し頭を動かす。少し眉を寄せて枕に顔をすりこむ様子に、まだ夢の中だと安堵し、再び格子越しに仙道を睨み付けた。
「何時だと思ってやがる」
「すんません、こんな時間に」
「でけー声出すな。いま客来てんだよ」
 それでも古い蝶番はギギギと不快音を響かせた。思い切って勢いを付けて強く押して、仕方なく(本当に仕方なくだ)前に立っている男を玄関に入れてやった。
「・・・流川っすか」
「そーだよ。泊まりに来てんだ」
 狭い玄関のスペースを取っているスニーカーに視線を落として、仙道は三井の言葉に大きく溜め息を吐いてきた。
「いいな、三井さんは」
「何がだよ。お前らなんか同棲してんだろーが。ここに来た理由はさっき牧から連絡あったから知ってる。すげー心配してたぞ。頭冷やしたらさっさと帰れ。あとでけー声出すな」
 仕方が無いので何か適当に飲み物でも出そうかと、冷蔵庫を開けてみる。水のペットボトルと冷茶くらいしかない。一番手元にあった水を引き摺り出してシンク台に置いて顔を上げると、仙道は玄関に突っ立ったままだった。
「あのひとから、連絡あったんすか?」
「おう。お前が来たら連絡くれって」
「知らせないで」
 ・・・・・・・驚いた。
 少なくとも、指が微動だにしなくなる程には。
 仙道は唇を曲げていた。いつもヘラヘラと上がっている口角を下げて、流川のスニーカーに視線を落としている。
 仲は良いつもりだ。少なくとも部員の中じゃ牧の次くらいに彼からの信頼を得ているはずだ。だからこんな顔を向けられる事はそう少なくないが、ここまで露骨なのは。
「なにお前、そんなぶすくれてんの? 泣いとくか?」
「泣きませんよ、これくらいじゃ」
 仙道は更に顔を俯かせた。
 お前さ、どんなに顔を隠そうとしたってその身長じゃ無理だからな。どれだけ俯かせたって丸見えだから。
 憎らしさすら吹き飛ばしてしまうほどの、いっそ清々しいまでのいつものヘラヘラ面がここまでむすっとしているのは、牧関連だと度々見かける事だがそれでも珍しい。
「とにかく知らせねーでください。後で揉めるんで」
「もう揉めてるからお前ここに居んだろ」
 だからかもしれないが、こんな顔を見てしまうとつい無駄な欲がむくむくと膨れ上がってくる。
「喧嘩したんだろ? んで飛び出してきた。でも生憎だが、ここにゃ布団の予備も座布団やクッションなんてモンもねーんだ。泊まらせてやれねーよ。だからこの三井先輩にさっさと全部ゲロって、少し頭冷やしたらとっとと帰れ」
 先程の通話でも異様に焦っていた牧の様子と、仙道のこのへこみ具合。一体、何があったというのだろう。牧に大事なもんを壊されたとか? それこそ牧が浮気したとか? そりゃねーな。せめてすれ違ったコを目で追ったとか、テレビに出てるコを可愛いなとか言ったとか・・・・・・・それもねーな。去年のあいつの口癖、仙道の方が仙道の方がーだったしな。100パーねーわ。
「ほら、何があったんだ」
 仙道の口が更にへの字に曲がった。
 言いたかねーよな、そうだよな。
 でもこっちはそんな訳にはいかねーんだ。
「言わねーと連絡するぞ」
 ポケットを緩く擦ってみせる。
 どうせ牧はもうこちらに向かっている。止める事など出来やしない。騙すようで悪い気はしたが、牧が着いた時にここで喧嘩の続きをやられても困る。できうる限り早く寝たい。こいつらだって同じ筈だ。
「・・・、・・・・・・」
 スウェットのポケットを一瞥した後、仙道は更に項垂れて見せた。諦めを滲ませた口元から溜め息が漏れる。
 ぼそり。
 呟かれた仙道の言葉に、三井は絶句した後。
「はぁあ~?!」
 慌てて口を押さえた。
 ベッドを見遣れば流川は起きていない。良かった・・・・・・いや全然良くねーよ、そんな、理由で。
「おま、そんな事でおま・・・・・・、それで怒ってこんな時間に飛び出してきたってのか?」
「そんな事、じゃねーんです!」
「でけー声出すな。とにかくさっさとあがれ」




(あー・・・・・・)
 ぽりぽりと頭を掻いた。
 台所に座り込んで悄げっぱなしの仙道がどんどん顔を俯かせて身体を丸めていく度にぼそぼそと零れていく言葉は、愛情の裏返しの憎まれ口・・・という名の惚気だ。
「牧さんは俺の事が好きじゃないんだ」
「は? びっくりなんだけど。どの口がんな事言ってんだ。あんだけベタベタしててよくその思考に辿り着くな」
「だって、俺なら絶対牧さんに聞きます。どっちがいいかって。なのになんで、よりによってあんなのを勝手に・・・」
「あいつだって悪気はなかったんだよ。だから謝ってきたんだろ? そういうのって家庭によっても、ましてや親兄弟だって好みが分かれるもんだ」
「だったら尚更でしょ? なんで聞いてくんねーの?」
「だからお前、そりゃ牧の好みもあんだろうし、時間の都合とかさ・・・、ほら、色々あんだろ。お前だって風呂入ってたんだろ? 任されたって捉えたっておかしかねーよ」
「だから、一言声かけてくれればいいじゃないすか。それすらもしてくれねーなんて・・・」
「それだってほら・・・、お前をゆっくり風呂に入れてやりたかったとか、色々あんだろ。今日は特に厳しかったし。ほら、上野がヘマした連帯責任。お前ら1年は2年の俺達の軽く倍は走らされただろ」
「・・・・・・・・・」
「だからゆっくり風呂に入れてやりたかったんだよ、きっと。声をかけるのも躊躇するくれーに。なんだよ、そう考えたらあいつらしい優しさじゃねーか」
 あ。
 こりゃ余計だったかな。惚気話を助長するだけの言葉を吐いた気がして、三井は顔を上げた。
 体育座りで顔を膝に埋めている仙道の頭上。
(げっ・・・・・・)
 シンク台の上、未だ開け放たれたままの格子の向こうから、走ってくる男の姿が見えた。
 まだ足音が聞こえる距離ではない。だが見間違えるほど自分の視力は悪くもなく、車のライトに照らされた男の顔がまっすぐにこちらを向いていた。
 まだこっちの話がまとまってない。今来られても困る。こんな時間に玄関先で男ふたりが騒ぎ出したり等したらアパートの住民に警察を呼ばれても仕方ない。
 仙道が俯いているのが幸いだ。右手を伸ばし、格子に掌を向けて走ってくるなのサイン。街灯の下に入った牧は、すぐに足を止めた。次いで手招きをした。そのサインも明確に伝わったようで、牧はゆっくりと歩き出した。
「・・・そんな事、全然思いつかなかった」
「だ、だろー?」
 衣擦れの音をさせて仙道が顔を上げたので、咄嗟に首に手をやってそこを掻く素振りを見せる。まるで大型犬だ。悪さをして叱られた後の、縋るような視線。
「俺、怒りで頭ん中がいっぱいになってました」
 緩く頭を振って再び顔を膝に埋めた仙道の頭上の視界、牧がすぐそこまで歩いてきていた。乱れた前髪、それに汗まみれだ。一体どこから全力疾走してきたんだ。
 三井は再び右手を伸ばして左に指を払った。汗を拭う素振りをした牧は、このサインも的確に理解して共用部分の廊下を足音ひとつ立てずに玄関扉に向かって歩いて行った。
「自分がされた事ばっか考えて、牧さんがどんな気持ちでしてくれたのかって事、頭から完全に抜けちまってました。どうしよう・・・、おれ、怒りにまかせて、あのひとに結構酷い事を言っちまいました。絶対怒ってる」
「そんな事で怒りゃしねーよ、あいつは」
「でも傷付けた」
「それはお前だけじゃねーって。あいつもだろ。ただ思ってたって意味ねーんだ。ちゃんと言葉にしねーとな」
 再び見上げてきた表情が緩くなった。さっきまでの萎れ顔よりは幾分かマシだ。
「そーっすね・・・、どんな感じでした?」
「牧か?」
「そう。電話で」
 仙道の頭頂部を眺めながら、先程の通話を思い出す。
 上擦った声色。あの余裕を忘れた焦った声は、恐らく表情とセットだっただろう。あの短い間でも、牧の心が乱れに乱れて形振り構っていられなかった状況だったのは分かる。
「めちゃくちゃ焦ってたぜ。俺の話ガン無視して言いたい事だけ言ってとっとと切りやがった。お前が心配で心配でたまらないらしいな。ラブラブなこって」
 扉に向かって、少し大きな声を出してみた。ここに向かっている間、彼も頭を冷やせたんじゃなかろうか。
 ったく。せいぜい恥ずかしがれ。
「・・・・・・そっか」
「頭は冷えたか?」
「はい、だいぶ」
「よし。じゃあ迎えも来た事だしさっさと帰れ」
「えっ」
 顔を上げた仙道を置いて、三井は玄関扉に向かった。不快音を奏でた蝶番の向こう、柱に寄りかかっている牧が、気まずそうに口元を上げて顔を向けてきた。
「俺は、そんなに焦ってたか?」
「再現してやろーか」
「いい」
 一度首を小さく振った牧の視線が、自分から横へと流れる。穏やかな瞳が更に柔らかくなっていくのを見れば、もう自分が何かを告げる意味などないだろう。身を引いて横に立っている仙道の身体を押し出して一言、「ちゃんと寝ろよ」とだけ告げて、右手を上げて三井は玄関扉を閉めた。

 ついでに開けっ放しの台所の窓も閉めようと身を乗り出すと、2階への階段を支える柱に寄りかかったままの牧に仙道が抱きついていた。牧の首元に顔を寄せていて、黒い艶髪がこちらを向いている。
(ひとの家の前でラブラブショーしてんじゃねーよ)
 そう思いながらもつい口元が緩む。見慣れたふたりに戻った安堵か、それとも静かな夜の時間が戻った安堵か。
「ったく。世話の焼ける奴らだぜ」
 静かに窓を閉めてしっかりと鍵を掛け、ぽりぽりと頭を掻きながら部屋に戻る。
 静寂が戻ってきた部屋のベッドに乗りあげようと視線を送ると、自分が居たはずの窓側に流川の身体があった。その目が開いて自分を見つめている。
 ・・・そりゃ起きちまうよな。何だかんだ俺も騒いだし。
「悪ィな。煩かったろ」
「ねみぃ」
「わーってるよ」
 布団を捲ってベッドに乗り上げた。温い。流川が位置を変えたのはほんの数分前のようだ。
 何はともあれ、これでやっと眠れる。時計に目をやれば・・・もう2時も数分を過ぎている。あと7時間は・・・無理か。流川を高校にやるために起こしてやらないといけない。
 眠い、と思い出したように込み上げてきた欠伸を大きくすると、途端に頭がぼんやりと痺れてくる。布団を首までかけて目を瞑った。
「あいつも、あんなんになるんだって思った」
「んあ?」
 だが穏やかな音色に首を傾けると、天井を見つめていた流川はゆっくりとこちらを見遣ってきた。
「仙道。ガキみてーだった」
「あ? あぁ・・・」
 しおれていたあの男の姿を流川も見たのだろうか。
 あれはいつものあいつの姿じゃねーぞと言ってやった方がいいだろうか・・・別にいっか。この男は、ライバルを嘲るような男では・・・ややその気はあるか。桜木には相変わらず鬼のようだし自分も散々やられた気はする。だがそこに明確な悪意はない。本人は発破をかけたつもりだったりする。そんな不器用なところがまた堪らなく・・・・・・いや、うん、まぁ、そういう事だ。
「早く寝よう。あんた最近ずっと疲れた顔してる」
「最近って。暫く会ってねーぞ」
「海南のリーグ戦、全部観てる。きちぃの分かる。けどあんたがあれくれーで潰れるタマじゃねーのも知ってる」
 目を見開いた三井の前で、眠そうな瞳が更に細められる。かさついた唇が小さく言葉を紡ぐ。
「メーワクかなって思ったけど、なんか出来る事ねーのかなって。だからメシ作りに来てみた。失敗したけど」
「・・・、お前・・・」
「つれー時に傍にいれるのは恋人の特権だって、センパイが言ってた。オレも顔見れて良かったし、思ってたより元気そうで良かった」
 くあっと大きく口を開いて欠伸をすると、流川は天井を向いたあと静かに瞳を閉じた。
 ・・・・・・俺、帰ってきた時、こいつに嫌な顔したよな。連絡しなかったこいつも悪いけど、俺の為に飯まで作ってたってのに。嫌な顔ひとつしねーで俺の怒りを黙って受け止めた。
(あー、ちくしょう)
 思ってたって意味ねー。ちゃんと言葉にしねーと。仙道に向けて放った言葉が胸に突き刺さる。
「流川」
 手を伸ばして白い頬に触れた。
 ほんの少し冷たい。けれどその内に宿るあたたかい熱を感じる。まるであのうどんの丼鉢のようだった。
 顔を寄せて、かさつく唇にそっと唇で触れてみた。
 自分から仕掛ける事などあまりないのに、開かれた瞳は驚く様子はない。眠くて仕方ないようだ。だが伝えなければいけないと思った。
「うどん、ありがとよ。でも来る時は前もって教えてくれ。日によっちゃ早く帰れる日だってあんだから」
 ちゃんと目をみて言った。
 眠すぎて細められていた瞳は見開く事はなく、流川はただ小さく頷いた。ほんの少し、口角を持ち上げて。
「また、来ていい?」
「いいよ。ただマジで連絡はしろ・・・してくれ。俺だってお前の母ちゃんにお預かりしますって連絡しなきゃいけねーんだから。お前はまだ未成年なんだからな」
「・・・・・・うす」
 身を動かしてこちらに身体を向け、流川は右腕を伸ばしてきた。がっしりとした力強い腕が首の下に回される。
 まだ慣れない。
 一気に顔が赤くなるのを感じた。
「なぁ、お前、あいつらの喧嘩の理由、聞いてたか?」
「まぁ・・・聞こえたから」
「お前どっち派?」
「・・・・・・ケチャップ」
「お、俺もだ。醤油はねーよな。TKGなら迷わず醤油だけど。お前さ、知ってるか? TKG専用の醤油ってのが売ってんだぜ」
「ねみぃんだけど」
「わ、わーってるっての」
 くそ。
 何言ってんだ俺は。
 余裕ねーの丸わかりじゃねーか。
「おやすみ」
 内心焦る視界。近付いてきた白い首元。
 額に落ちる温かい感触。

 俺達も大概だと、三井はそう思って瞳を閉じた。




■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□



「・・・・・・なんでそんな元気なんだよ」
 まだ部活開始まで数十分はあるというのに、体育館に足を踏み入れた三井の目の前で繰り広げられている壮絶な1on1。思わずげんなりと肩を落とした。
「三井、おはよう」
「はよーっす」
 汗だくの満面の笑みがふたつ、三井に向けられる。右手を上げて「おう」と返すと、すぐにコートにドリブルの音が響き渡った。
(・・・・・・2時過ぎだぞ、あいつら帰ったの)
 あの発汗量ならもう30分はやってるんじゃないだろうか。8時に朝メシだと仮定して・・・遅くても7時半起きか? いや、こいつら朝走ってんだよな・・・もっと早くに起きてんのか? あんだけきつい練習の後、ろくに寝ずによくこの時間にこれだけやれるな。
「今日はいつもより少し早いな」
 牧が寄ってきた。後ろからボールを右手に掴んだまま仙道もやってくる。隅に置かれていたタオルを首に巻いて汗を拭き始めたふたりに、思いきり歯を剥き出してやった。
「昨日、どっかのバカップルの痴話喧嘩に付き合わされちまってな! お陰で眠りが浅くってよー」
「うそ。5時間は寝れたでしょ。抱き枕付きなんだし」
「んだとぉ?!」
 へらへら飄々とした笑顔の戻った仙道の台詞の、なんて憎たらしい事か。こいつは深夜に先輩様にご迷惑おかけした自覚あんのか。しおれてた方が何万倍も可愛かったぞ。
「けっ、本当に可愛くねー奴だなお前はよー。嫌味の一つくらい黙って受けとけってんだよ」
「こいつが面倒をかけたな」
 悪びれも無く牧は笑顔で言ってきた。
 こっちには仙道と違って悪気なんてものは一切ないのは分かっている。分かってはいるけどそれはちげーだろと三井は思う。感謝はしてる。こいつのお陰でこっちも・・・まぁ、うまい具合にいってる自覚はある。だがどうにもざわつくこの心はなんだ。こうなりゃもういっちょ、嫌味のひとつやふたつ。
「あのな、言い忘れてたから言わせてもらうけどな、昨日のはお前が悪い。お前は今度俺に焼き肉奢れ。こいつ抜きでな。それと目玉焼きは俺も流川もケチャップ派だから」
「あ、三井さん、その話はもう」
「勝手に醤油かけたら俺でもキレるわ。お前だって居酒屋で何も聞かれずに唐揚げにレモンかけられんの嫌だろ? こいつにとっての目玉焼きに醤油はそれと同じなんだよ」
「え、あんたほんとはレモン嫌なの・・・あ、ま、牧さん! 次からはちゃんと取り分けてからかけるから!」
「そーだよなぁ~。黙ってるのは優しさじゃねーよなぁ~。言わなきゃわかんねーよなぁ~。言葉にしねーとなーんにも伝わらねーよなぁ~」
「ちょっ、三井さん黙って。ちょっと、あんたもそんな顔しないで! もう皆来る頃だから!」
「ぶっ・・・ひひひッ、すんげー顔!」


 他にも言ってやりたい事は山のようにあるけれども、とりあえず今日はこれくらいで許してやろう。
 ひそやかな秘密を暴露されて真っ赤になってムスッと顔を歪ませた親友と、知らなかった事実を受けて顔を青ざめてあたふたしはじめた後輩の顔を交互に見ながら。
 三井は笑い過ぎて目尻にたまった涙を指で拭い、すっきりした感情のままに、口角を上げて見せた。




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