翔陽バスケ部誌






昇降口から足を踏み出して、空を仰いだ。
まだ収まることのない雨が顔を打って、藤真は背後の傘を思った。
午後から降るわよ、と出かけの母親の一言で、カバンに放り込んだ折り畳み傘は教室のロッカーの中だ。
思う通りにならないのはいつものことだ。
本降りではない雨脚に、バス停までならどうにかなるだろ、と足を踏み出したところで、先を行く高い位置に浮かぶ、大きな黒いこうもり傘を見つけた。
条件反射のように走りだした足が徐々にスピードを落として、ついには立ち止まる。
らしくない。自分に笑える。
前髪から滴った雫が口に落ちて、前に顔を向けると、こうもり傘は大分先に進んで小さくなっていた。
「なにやってんの、俺」
キュッと胸が痛んで、思わず独り言が漏れる。
耳に響いた自分の独り言にまた胸が縮む。
己の心は無視して、とりあえず雨宿りだ、とまた足を速めると、こうもり傘に近づく丸くて小さな赤い傘があった。
思わず止まりそうになる足を鼓舞して、構わず走り続ける。
こうもり傘と赤い傘の傍をすり抜けて、短い距離を持久走のように感じるほど、一人で走る時間は長かった。
屋根のあるバス停に飛び込み、時刻表を見上げる。この時間帯のバスが来る時刻はまだ覚えていない。
17時台を視線で追っていると、「藤真」と背後から声がかかった。
しょうがねぇなぁ、と相手に投げた言葉がそのまま自分に突き刺さった。
「なに」
背を向けたまま短く返すと、地に傘ついて水を払う音と、小さく吐いた息がまた胸を刺す。
バスが来るのはあと5分。待てない長さじゃない。
振り返ると赤い傘はなく、花形が一人こうもり傘を畳んでいた。
こいつは傘を広げたままでバスには乗らない。
こんなことあの赤い傘は知ってんの。知らねーだろ。
水気を払い、きっちりきれいに巻かれていく傘を見て、藤真は訊ねる。
「今日は塾じゃねぇの」
「塾」
塾って言わないのか。予備校? やってることは同じなのに進学先上がると呼び名が変わるってなんで。
どうでもいい疑問に、花形は首をひねって律義に考える。
「久しぶりだな」
だが、投げかけられた言葉は予想と違った。
速球に対応できずに藤真は眉を寄せ、顔を逸らした。
「そうか?」
会う理由がなくなると、殊更会おうとする努力を放棄した。
だってもう会う理由がないから。
クラスも違うし、卒業まで過ごす時間の目的も違う。
あんなに近かったのに。誰よりも近くにいたのに。
近いのに遠い。遠いのに気が付くとまたこうやってすぐ傍にいる。
バスが着て乗り込み、藤真は一人掛けの席に座った。
この時間帯なのに翔陽の学生は自分達二人だけで、他には前に二人、見知らぬ乗客がいるだけだった。
妙に静かなバスの中で、自分のすぐ後ろに座った花形の気配が感じられた。
後ろにいるだけなのに、体が中から温かくなるように感じられる自分がもうダメだ。
花形が何も言わないのはいつものことなのに、どうしてかそわそわして、それなのに心は先刻と打って変わって落ち着いていて、藤真は流れていく外の景色に目をやった。
この景色を見るのもあと何回あるのか。
景色とともに花形がいるのもあと何回か。
もしかしたらそれは今日が最後なのかもしれない。
「なぁ、花形」
意を決して藤真は呼びかける。
「なんだ?」
「ラブホ行かね?」



「今日はやめておく」
まるで、「ラーメン食べて行かね?」と聞いた返事のようで、藤真もその時の返事と同じに、軽く「あっそ」とだけ返した。
雨が激しくなってきて、バスの窓を叩く。
バス停から駅舎まで、その間だけでも下着まで濡れそうだ。
でもラーメン野郎の傘には入りたくない。
差しかけてきたって入ってやらねぇ。いや、その傘を取り上げてやるのがいいかもしれない。パンツまで濡れてろバーカ。
「週末じゃダメか」
聞きそびれて、藤真は思わず後ろを振り向いた。
「は?」
花形は顔を横に向けて窓の外を見ていた。
同じように、大雨になってきたなぁとでも考えているのかもしれない。スケベなことを想像しているのかもしれないし、卒業までのバスに乗る回数を数えているのかもしれない。
「…いいけど」
その横顔を十分な時間をかけて眺めたあとに、藤真は承諾した。
すると花形が眼鏡を外して制服のポケットに入れ、藤真の座った背もたれに両腕を乗せてその上に顔を伏せた。
いきなりの動作の意味がわからない。
滅多に見ることのない、いや、初めて見たかもしれない旋毛を見て、こいつ左巻きなのな、と長い付き合いの中で初めて知る情報を一つ手に入れた。
「いきなりはズルい」
顔の脇に乗せられた長い腕から、もごもごした声が聞こえてきた。
「え? なんだって? 聞こえねぇよ」
きちんと聞こえたけれど。
そう言うと、制服の山が動いて、伏せていた顔が少し上げられた。
横を向くと眼鏡のない見慣れない花形の顔がすぐ傍にある。
意外に男前なんだよな。
特に尖った顎が好きなんだ。
そう思って顔を寄せると、花形の唇が近づいて自分のそれに触れた。
少し乾燥した唇が、花形の体温を伝えてくる。
止まない雨の音が耳に響く。




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