夏真昼
今年の盆は故郷に帰らせてもらえないだろうか、という顧問の遠慮がちな言葉に、部員一同言葉もなくうなづいた。
海南ほどの長きに渡ってはいないにせよ、バスケットボール強豪校としてIHに連続出場していた数年間、この時期の翔陽バスケ部は日本のどこかしらの地方に移動していて、そういえば顧問を務めている還暦も過ぎた教師も、休むことなくひっそりと影のようにではあるが引率してくれていて、今更ながらに頭が下がった。
かくして夏も盛りに3日間の休暇がバスケ部に突然降って湧き、部員達は大いに盛り上がった。
とはいっても今から立てる計画では、近場の海でお互いいつも見ている顔を合わせて苦笑いするしかない。
「今年はどうする」
盛り上がる部員の中から出てきた高野に声をかけられて、花形は「うん」、と思考を顔に出して口を噤んだ。
ここ2年、出先の地方で部員有志によるサプライズでその日を迎えた。
だが今年は休みとなり、主役のプライベートを押してまでやるべきなのか、と高野は問いたかったのだろうと、花形はその実直な表情から推察した。
しかし今年は自分達にとっても最後の年で、部長となった男に対して先輩達に気兼ねすることもない。
今年は盛大にやろう、とIH予選が始まる前に言い合っていた経緯もある。
休みと聞いて、花形はすぐに顧問の脇に立っていた部長兼監督に目がいった。
藤真の表情からは何も読めなかった。
他の部員達と同じように大喜びすることもなく、苦い顔をするでもなく、ただ笑顔で部員達の様子を眺めている。
去年でさえ、部員達のバカ騒ぎのサプライズに額の傷が痛い、と腹を抱えて楽し気に大笑いしていたのに。
「おまえちょっと探ってこいよ」
「何を」
「どっか予定があんのか、とかさ」
「ああ…」
いつの間にか高野の後ろに来ていた永野も大きく頷いている。
こういった役割は自分に来るだろう、ということは花形は予想していた。
「わかった」と頷いて、部員達を見ているようで、遠くを見ているようでもある小さな頭にもう一度目をやった。
だが、予想していたからといって、策があるわけではない。
何かを腹に抱えて人と接するのは、自分には不向きであると花形は自覚していた。
かといって、藤真に私的なことを聞くことができる面子、と思い浮かべても、溜息しか出ない結果もまた予想されることだった。
次の角を曲がればコンビニがあって、手を挙げて別れるしかない道が来る。
花形は溜息をついた。
「藤真」
「なんだ?」
見上げてきた顔を見て、用意していた言葉は、だが四散した。
「今度の土曜日、会わないか?」
ダメだ。
ストレート過ぎる。
会うってなんだ。
かろうじて15日というキーワードは出さなかった自分を褒めてやりたい、と思いつつ、花形は頭を抱えたくなった。
「いいけど」
額を押さえた花形の耳に藤真の声が届き、花形は驚いて藤真を見返した。
「いいよ」
藤真も笑って自分を見上げてくる。
花形が言葉を失っていると、道が分かたれるコンビニ前に着いてしまった。
「じゃあな」
「あ…あぁ、連絡する…」
「おう」
いつもと同じ。
背負ったスポーツバッグを脇に流して藤真は片手を上げ、いつもと同じように振り返ることなく帰宅への道を辿る。
その背を花形は見届け、頭を掻いて自分の家への道に足を踏み出した。
これは高野達に連絡すべき事項だな、と思いつつ、花形の腰は重かった。
それよりも。
どこに行く。
藤真と。
思ってもみなかった事態の方向に意識が取られ、先刻から一行も頭に入って来ない参考書を花形は諦めて閉じた。
窓の外に目をやれば、うだるような暑さが続く中に蝉の鳴き声が五月蠅い。
思い切って日頃行けない場所へ遊びに行くか、と考えたが、折角の休みに藤真の体力を削ぐようなことはさせたくなかった。
どこか涼しい場所、と考えても絵画展などは藤真の興味を引きはしないだろう。
そういえば「どこへ行く」とも聞いてこなかった。と、自分を見上げてきたあの時の笑顔を思い出す。
藤真は何を考えていたのだろう。
その日が自分にとって意味のある日であることを失念していたのだろうか。
それともあの性格からして、わかってはいてもその日が自分にとって重要であるとの認識は藤真にはなかったのだろうか。
思考が空転している、と気づいて、花形は席を立った。
壁に吊るされたカレンダーを見て、「よし」と呟いて花形は部屋を出た。
「やっぱりお盆はどこも混んでんなー」
遅い昼飯でも食おうと何軒か外食店を覗くが、どこも席が空いていないどころか店の外まで待っている人で溢れていた。
そういえばこの時期に街に出たことなどなく、いつも見ている賑わいの倍はいるかのような人出で、うっかりと映画などを選んでしまった自分の選択を花形は後悔した。
が、水族館と考えて、検索した時の絶望的な人出に比べればまだマシなのかもしれない。
少なくともチケットは先に買っておくことができたので、涼しい席を確保することはできたのだし、このままメシでも食べて高野達と決めた時間まで藤真を連れ回すことができれば、この任務は成功したも同じだった。
電話で連絡を取って、その日の藤真は確保したと伝えると、高野は少し奇妙とも思える時間を置いて、
「そうか。…じゃあ決行は夕方ぐらい? もっと遅い方がいいか?」
と聞いてきた。
おかしなことを言う、と思いながら、
「遅い時間だと翌日に響くだろう。もう練習が始まる」
と返すと、
「じゃあ夕方だな」
と宣告された。
腕時計を見るとまだ2時前だった。
太陽は南中を過ぎてしばらく経っていたが、アスファルトからも立ち昇る輻射熱はまだ頬を焦がすようだった。
移動時間を考えてもまだまだ時間はあった。
どこか涼しいところ、と藤真のうっすらと赤く染まった顔を見て、回らなくなり始めた頭で検索をかけていると、その口が動いた。
「俺、新しいバッシュ見てぇ」
花形にも無論否やはなかった。
行きつけのスポーツショップの傍にも幾つか外食できる場所があったと記憶していた。
行き先が決まれば炎天下を歩く足取りにも力が戻った。
店内に入るとひんやりした空気に知らず息をつく。
勝手知ったバッシュの陳列されたエリアに向かって、藤真の足がどんどん速くなる。
こういうところは変わらない。
子供のよう、というと本人は怒るだろうから言わないが、ほとんど駆け出しそうな足取りに口元が緩む。
花形が追い付くと、藤真は既に1足を手に取って真剣に眺めていた。
空になったラックに目をやって値札を確かめる。
家に帰れば、正月から使わないで紙入れにいれっぱなしの小遣いがある。
それを頭の中で数え、払えない額ではないなと思う。
だが藤真は受け取らないだろう。
真剣に吟味しているような藤真の横顔を見ながら、花形はそれを少し残念に思い、何を考えているんだ、と今はあまり興味を惹かれない他のラックに目をやった。
「よし、これにする」
「え?」
「おやじから小遣いもらってきてんだ。こういう日はいいよな」
にやりと笑って、後ろ手に腰のポケットから財布を抜き出し、ポンポンとバッシュをそれで叩いた。
なるほど、特別な日であるという自覚はあるわけだ。
花形は脇のラックにかけられていたシューレースに気づいて、その中の目についた一つを手に取った。
「あのさ、一つ忠告させてもらうと」
結局適当に入ったファストフード店で、手にしたバーガーに齧りつきながら藤真が眉を寄せた。
「なんだ?」
「デートしてる最中に腕時計ちらちら見んのは止めたほうがいい」
「…え?」
「おまえ、映画観終わった後から何回腕時計見てるか気づいてる?」
何度か時間を確認していた意識はあったが、デートという単語にそれが頭から飛んだ。
「アハハ、ジョーダン。何時にどこへ行きゃいいの?」
悪戯そうな藤真の顔に、バレてたか、と花形は一気に力が抜けて、目の前の炭酸飲料が入った大きな紙コップに手を伸ばした。
「5時に駅から翔陽に行く途中の公園だ。…悪い」
「悪いってこたーねぇけど。女の子だったら気を悪くするぜ?」
おまえは気を悪くはしないのか?
そう聞こうとして、花形は手に持ったカップに刺さったストローを咥えた。
冷えた刺激のある液体が喉を通過して、エアコンで冷やされていた体の、中まで冷たく沁みていく。
「うん。気をつける」
花形は上っ面な自分の返事をどこか上の空で聞いて、バーガーにまた齧りつく藤真を見た。
「気づいてた?」
「…まぁな。例年やってもらってるし。今年最後だし。ありがたいっちゃーありがたいけど」
「けど?」
「こういうのも悪くないって思ってたからさ」
こういうの、とは自分と二人暑い街を特に目的もなくうろつくことなのだろうか。
花形は鞄に手をやり、先刻スポーツショップで手に入れた物を取り出した。
「誕生日、おめでとう」
藤真の大きな目が一際大きく開き、動きが止まった。
齧りかけのバーガーを置き、自分がテーブルに置いた物に手を伸ばす。
プレゼント用の包装もしていない、ただ値札を取ってもらっただけの物を入れたそっけない小さなビニール袋。
「マジかよ。…サンキュ…」
藤真の指が店の名前が印刷されたテープを剥がし、中からシューレースを取り出した。
藤真が選んだバッシュに小さく使われている色のシューレースを見て、藤真はまた、「サンキュ」と呟いた。
「…うん」
想像していた藤真の反応と異なり、花形はもまた小さく返事をして居心地悪く炭酸飲料を吸い上げた。
バッシュに比べれば全く大したもんじゃないけど。
喜んでもらえてはいるようだ。
居心地は悪いが、ただの味気ないファストフードが妙に美味しく感じられて顔が緩む。
「そんであいつらは何くれる予定なの」
「それは秘密だ」
「なんだよ、教えろよ。知らなかったフリして驚いてやるからさ」
「教えたら意味がない。素で驚け」
「なんだよー教えろよー」
「実は俺も知らない。あいつらが用意してくれるというから、100円払った」
「やっす!」
「部員全員合わせれば結構な金額だぞ」
「なんだよー俺様の価値は100円かよー」
そんな風にゴネながらうれしそうに笑う藤真を見ている時間が楽しかった。
もう腕時計は見なくてもよかった。
ギリギリで行ったとしてもあいつらは待っていてくれるだろう。
もう少し。
暑過ぎる時間を、この笑顔を見て過ごしていたい。
end