夏隣
「9時…9時か」
提案した出発時間に珍しく考え込むような声が返った。
「もう少し遅くても大丈夫だとは思うが、都合が悪いか?」
「いや…」
前日の新歓コンパがネックだと藤真がぼやいた。
「無理させそうな先輩はいねぇと思うんだけど、一年坊が早々に引き上げるわけにもいかねーじゃん?」
「なら車で行くか?」と、常にない少しの緊張を自覚して花形が口を開くと、電話口の声がおもしろそうに跳ね上がった。
「おぉ?とうとう?!」
「ああ、取れた」
自由登校になって取得に通い始めた普免は先月に交付されたばかりで、それが挟まれた目の前の定期入れに花形は目をやった。
名前の下の緑色のライン。これから3年間はこのままらしい。藤真は絶対に見たがるだろう。どこか間の抜けたような自分の顔を指さして笑う顔が容易に想像できた。
「さすが!車は?オヤジさんの?」
「ああ」
「出た、レクサス」
それは選択の余地がない話なので黙ってもらうことにして、「じゃあ明日、九時に」と電話を切った。
人を乗せるのは藤真が初めてで、それを伝え忘れたな、と花形は今置いた受話器を見下ろした。が、いずれ人は乗せるし知ったところで藤真に迷いはないように思われたので、免許証を定期入れにしまって電話の傍を離れた。
翌朝、家まで迎えに行った時から藤真のテンションは高かった。前日の飲み会の疲れは微塵も見せず、元が無口な男ではなかったが、それにしても久しぶりに顔を合わせて近況を報告し合うわけでもなく、まずは車が身の丈にあっていないとの話から始まり、免許証の花形の顔が冬眠から出てきたばかりの人相の悪い熊だと指さして笑い、車線変更でもすればもう大騒ぎだった。
「手元が狂う」
「このぐらいで狂うんだったら車運転する資格はねぇ」
免許を手に入れてからしばらくは毎日のように乗って慣れてきた筈だったが、少し離れていてさすがに注意を払わなければならないところに、手伝うつもりなのか後続車やその運転手がどういった様子なのか主観を交えた実況中継が止まらなかった。
曰く7時の方角7m後方にライトバンあり。50代後半男性。あ、ちょっと眉間に皺が寄った。超過載っぽいしこれは見送って次の車の前に入った方がいい。あー後ろはグラサンかけたあんちゃんのBMだ。がんばれ割り込め!
花形はそれでも控えめに苦情を申し立てた。即座に要請は却下されたが、今度は持参した音源をどうやって繋ぐのかカーナビの方に藤真の興味が向かったらしく、ようやく車内が落ち着いて花形は小さく息を吐きだした。
「運転、緊張するか?」
「まあ…してるかな」
高速に乗ってからは藤真の口数も少なくなった。肘をついて窓に流れる風景を見ていた顔が思いついたように振り向いた。そろそろ眠くなってきたか、と目をやると「俺が初めてだろ?助手席乗んの」と、当然のように言って花形を見やり笑う。何かを見抜かれているようで、今度こそ集中力が途切れそうになって花形は前方に目を戻しミラーを3方確認した。
途中サービスエリアに寄って早めの昼食を取り、高速を降りるまでは予定通り順調だったが、ようやく目的地に着く頃には既に試合開始が迫るギリギリの時間になっていた。出発してから予定より2時間超の5時間が経過していたが、藤真の思い付きであちこちに寄り道をしていたからであってこれは想定内で、その分を見越して余裕を持って出発しており、まあ順当なところだったと花形は満足して降り立つと運転で凝り固まったような肩を回して解した。
初めて見るアリーナに商業的なところはなく、市役所と合わせて建てられている公共的な造りで、表からはアリーナの姿が見えない。まず花形はそこに目がいって、周囲を見渡した。
「相変わらず建物好きな」
「うん、まあな」
「まだ少しは時間あるだろ?見ていけば」
「いや、中でまた食べ物仕入れるんだろ?」
車内で藤真が口にしていたご当地グルメのフードワゴンを思い出して水を向ければ、「そうだな!」と藤真は先に立って歩き始めた。
入口近辺に各選手の幟が見えて、そこは地元でも何度も目にした同じような光景ながら気分は沸き立ってくる。人の流れに乗って役所の廊下のようなアリーナへの通路でボランティアが配るゲームパンフレットを受け取り、チケットのチェックを受けて入ればもうそこは熱気で溢れかえるようだった。
「中庭にフードワゴンが結構出てるぞ」
「先に行くか」
「おう」
サービスエリアで摂った食事もまあまあのボリュームで、寄り道しながら土産物屋を覗きながら食べ歩いたが、まだ藤真は腹に入れたいようで先にガラスドアを押して外に出た。中庭に面した通路は物販スペースで、そこで応対している人間のもの慣れない様子がこれもボランティアのようだった。街ぐるみのチームなのだな、と町中に貼られていたチームのポスターも思い出してなんとなく応援したいような気分になってくる。外に出ると自分の名を呼び、早くも牛串を2本握ってフードワゴンの横で腕を振る藤真を見つけ、そこに花形は足を向けた。
観に来た試合は関東のチームを迎えた最終ターンのゲーム1で、これに勝ち越せば明日を待たずに訪れた地方のホームチームはb1に上がる試合に進む権利を勝ち取る。藤真も自分も特別にこのチームのブースターというわけではなかったが、遠方から足を運び、ホームの熱気を感じ取るとやはり肩入れはしたくなった。藤真はいつの間にか手に入れたタオルを手に、いっぱしのブースター気取りで上がる声援に合わせてぐるぐると腕を振り回していた。
「おまえはこれな」
渡されたものはチームマスコットをかたどった応援グッズだった。地元の特産品から考え付いたらしいキャラクターは謎の生き物の形をしていて、花形が振るとその顔が光って藤真が笑った。
試合は最終クォーターの残り3分まで勝敗が縺れ込んで、ゲームが小刻みに止まるようになった。地元チームが受けたファウルがアンスポに当たるのか審議が入った隙に花形は腕時計に目を落とした。
「時間か?」
「いや、大丈夫だ」
「おまえ、ツラくない? また5時間運転すんの。…だったらさー…俺、明日も休みだし、もしおまえが、」
地元ブースターのブーイングがまだ物凄く、花形は聞き損ねて背を少し屈めて耳を藤真に寄せた。一瞬黙った藤真が耳元で息を吸う気配がした。花形は背を直し耳を藤真から離した瞬間、思った通りに藤真が「5時間運転ツラくねー?!」と前に座った人間が振り向くほどの大声で怒鳴った。悪巧みが失敗した子供のような顔で睨みあげてくる顔に、「3時間で着く。行きは寄り道したから」と告げた。
「そっか」
藤真は頷いて、目をまたコートに戻した。繰り返しビデオをチェックしていた審判がコートに戻り、ファウルはアンスポであるとの判定が出て一際大きな歓声が上がった。同点からの残り30秒でFT2本、ホームチームのボールで始まる。
「…決まったな」
「そうだな」
FTは2本ともに決まり、藤真のタオルを握った手が下がった。最後まで食いついた相手チームのPGがスティールに成功したがそれまでだった。試合終了のブザーが鳴ると同時にブザービーターを狙ったボールが遠く放たれてボードを打ち、コート外に落下した。
「行くか」
「…うん」
「聞いていくか?」
「…うん」
止まない歓声と拍手の中で勝利したチームのヘッドコーチのインタビューが始まり、どこか遠くを見ているような少しぼんやりとした様子の藤真に花形は目をやった。
同じものが見えていたのかもしれない。
高校最後の夏、掴み損ねたものは同じようにいつまでも胸の内に淀んでいる。共有することが多い高校生活の記憶の中でまだそれは生々しく、ふとした折にすぐに頭を擡げてくる。藤真の性格であればとうに吹っ切っている筈だったが、監督も兼ねていた男の頭には敗戦の因子と理由は組み立てられては分解し、また今その姿を現しているのかもしれない。
「車で寝ていっていいぞ」
「寝ねーよ!」
勢いよく立ち上がった藤真は「混まないうちに出よう」と身を屈めながら通路を進んだ。
帰り道は藤真は静かだった。
寝たのかと様子を伺うと、考え込むような表情が夜を映した助手席の窓に見えて、花形もまた何も言わずに運転に集中した。
「花形」
「うん?」
呼ばれて返事をしたが、藤真はなかなか言葉を繋がなかった。
「大学どうだ?」
今日会って初めて藤真の口から出た話題だった。
新学期がお互い別の進学先で始まり、顔を合わせたのは今日が初めてだった。チケットが手に入ったと連絡があったのが昨日。特別に応援してもいなかったそのチームの試合は、自分達の地元からは電車でも車でも3時間はかかる遠方で、だが花形は「行こう」と即答した。
「うん、まあ楽しいよ」
「そうか」
「おまえはどうだ」と聞こうとして花形は止めた。
自分のように「楽しい」と言われたら。「楽しくない」と言われたら。
どちらの返事を聞いても、自分は平静ではいられないような気がした。
行きよりは格段に速く感じられた帰り道はそれから無言のままあっという間に終わって、最寄りの出口から高速を降りて、藤真の家の傍まで行くと花形は路肩に車を止めた。
「着いたぞ」
「…うん」
結局一睡もしなかった藤真が、ここに来て眠そうな目を擦りながら頷いた。
戦利品の応援グッズを腕に抱えてデイパックに腕を通し、助手席のドアに手をかけた肩を花形は掴んでいた。
「花形?」
眼鏡を反対の手で取ってハンドル上部に置き、助手席に圧し掛かるようにして藤真にキスをした。体の下で胸に当たった固いものは藤真が買った振ると光るキャラクターグッズだなと頭の端で認識した。藤真の唇が応えて唇が開く。
言えなかったことや訊ねられなかった言葉が溢れて、藤真の中に入っていくようだった。シートと藤真の背中の隙間に腕をねじこんで抱え込んでいた荷物ごと体を抱き締めた。懐かしい匂いが鼻を擽って、抗議をするように藤真の手が胸の中で暴れだすまで花形は腕の力を緩めることができなかった。
ようやく解いた腕の中で藤真が無事を確かめるように抱えていた荷物に目を落としていた。
「あーあ、おまえ。ここ俺ん家の真ん前なんだけど」
言われてようやく藤真の家の前に目をやるが、常夜燈に浮かび上がる玄関先に人の気配は感じられず花形は息をついた。
「デートの後で送ってった家の前でキスとかおまえ」
小さく肩が震えていて、それで藤真が笑っているのがわかった。
デート。そうか、これはデートか。
花形は腑に落ちて、ダッシュボード側に滑り寄っていた眼鏡を取って掛けた。
「また連絡するからよ」
「ああ」
「おまえも電話ぐらいかけろよ」
言われて、大学の入学以来一度も藤真に連絡を入れていなかったことに花形は気づいた。藤真のことを考えない日はなかったのにおかしなことだった。
「あ…。ああ」
自分の顔をしばらく見ていた藤真が突然噴き出すように笑い、何、と思うより前に軽いキスを唇に受けた。
「そんなこったろーと思ってたけどよ」
「悪い」
「うん。またな」
「入れ替え戦」
思いついた言葉を口にすると、藤真の目が瞬いた。
「横浜でやるだろう」
「ああ…そうだな!行くか」
藤真はくしゃっと顔を崩して首にかけたままのタオルを握った。もう一方の手で持たれてる奇天烈なキャラクターはまた自分の元に来るのだろう。
「おう。チケット取るよ」
「うん、まかせた」
身軽く車を降りる背を見て、閉められたドアから覗き込んでくる顔を見て、「また明日」と言って藤真に会うことはないんだなと唐突に思い当たった。
副将として常に傍にいるのは自分ではなく、パスを当たり前に受けるのも自分ではない。それでも助手席の窓に浮かぶ白い頬や、子供のような悪戯をしかけてくる前の悪巧みをする顔、ぼんやりと遠くを眺めるような放心したような表情を間近で見つめて、それに触れることを許されているのは自分一人だ。
助手席側に身を乗り出すと藤真のいたシートがまだ暖かくて、それで却って花形は我に返った。
ふざけたように唇を尖らせてキスをするような顔を藤真は見せてから、指の背でコンコンと助手席のガラスが叩かれて手があげられる。それに手のひらを上げて応え、花形はゆっくりと車を発進させた。
end