春疾風






「おーデカくなったなー」
 玄関に花形を迎えに出た猫が、その後ろにいて花形の肩口から横に顔を出した藤真に気づき、脱兎の如く階段を駆け上がって見えなくなった。
「…なんだよ、あれ」
「慣れない人間には寄ってこないさ」
「俺は命の恩人じゃねーか」
 藤真は口を尖らせてスニーカーを脱ぎ、勝手知ったるといった動きでさっさと廊下に上がると、「おーい、猫ー」と呼びながら後を追って階段を昇っていった。
 花形はそれを咎めるでも見送るでもなく玄関に振り返り、自分の靴と藤真のスニーカーを土間に揃えて台所へ向かった。
 花形がペットボトルとグラスを二人持って自室のドアを開けると、ベッドの脇に四つん這いにしゃがみ込んでその下を覗き込んでいる藤真に目を落とした。
「どうした?」
「んー猫が」
 追いまわして追い込んだか。と息が漏れる。
「おまえってエロ本どこに隠してんの?」
 ベッドの下に顔を向けたままの藤真の背から目を離して、持っていた飲み物を机の上に置くと花形は今度は溜息を止めなかった。
「ない」
「ないわけねーだろ。ん」
 藤真は顔をベッドの下から外に向けると、今度は片腕をベッドの下に突っ込み伸ばして探っているようだった。猫にそれをやると猫パンチを食らうかひっかかれるかするぞ、と注意しようとして、花形は黙った。
「って!」
 案の定すぐに藤真は腕を慌てて引き抜き、人指し指を顔の前に上げた。
「ってー」
 しばらく自分で傷を眺めていたかと思うと、その指を花形の顔の前に突き出した。睨むような顔を作って何も言わない。
 顔の前に突き出された指の先には小さく丸く噴き出した血があった。花形はしばらく無言でそれを見つめ、それからその手を取って突き出されたままの指を口の中に含んだ。舐めると血の味がして、それからすぐに藤真の指だ、ということに気づいた。
 離そうとすると正面からいきなり体当たりを受けて、不意をつかれて背後に引き出されていた椅子に落ちるように座り、勢いが止まらずに背を壁に打ち付けた。痛みと衝撃に顔が歪んだが、それが薄れる前に藤真は花形に乗り上がりその膝の上に座った。眼鏡を奪われて藤真の唇が降ってきて重なった。上唇を舐められて思わず開けるとするっと舌が入ってくる。すぐに舌に絡みついてきて、そうなるともう自分の抑えも効かなくなった。テーブルに掴まって支えていた体を立て直し、手を藤真の後頭部に回して自分からキスを仕掛けようとすると、するっと手から逃れた小さな頭が目の前にあった。濡れた唇に目を奪われていると、真剣な目が訊いてきた。
「おばさん何時に帰ってくんの?」
「7時」
「よし」
 藤真は顔を離して、自分のシャツの上に来ていたセーターを伸びあがって脱ぎ、部屋の隅に飛ばした。いつの間にかベッドの下から出てきた猫が落ちてきたセーターを避けようとしてまたベッドの下に潜った。
 立ち上がった藤真が手を伸ばして花形の襟元のシャツを掴んで引っ張り上げ、花形はそれに逆らわずに立ち上がった。そのまま後ろ向きに歩いて背中からベッドに倒れ込んだ藤真の腕にシャツを取られたままの花形も倒れ込み、上に全体重を乗せないようにギリギリで肘をついた。
「この前用意したやつ、あるよな?」
「ある」
「よし」
 答えるとすぐに首の後ろに藤真の手が回って頭を引き降ろされた。ギリギリ歯が当たらないところで踏ん張り、藤真の顔を見つめると、「なんだよ」とその目と口先が尖った。もう少し自分が手に入れたものを見ていたい、と言ったところで聞き入れてはもらえそうになかったので、花形は黙ってせめてゆっくりとその唇にキスを落とした。そうしている間にも藤真の手は止まらずに花形のシャツのボタンをもどかし気にはずしていく。その手を取ってベッドに縫い付け、首筋に唇を移したところで、階下で鍵とドアの開く音がした。
「なん…?!」
「………父だ…」
 稀に花形の父は早くに帰宅することがあった。それはわかっていたことだったが、数か月に一度の割合がまさか今日に当たるとは花形にも予測はできなかった。無念は自分も同じだった。目を閉じて額を藤真のそれにつけて、「…すまん」と花形は一言、口から押し出した。
「…くそっ!」
 花形の背中に回っていた腕がベッドの上に落ちた。花形は藤真から顔を離すとその隣に力なく転がった。
「…あーぁー。お年玉をホテル代に使うのもなー」
 本気とも取れないぼやきに目をやると、藤真は腕を顔の上に乗せていてその目が見られなかった。尖らせたままの口先だけが花形の目を引き付けた。
 そんなに焦ることでもないんじゃないのか、と言いかけて花形は口を閉じた。
 求める心に温度差があるわけではないが、少し急ぎ過ぎているような気はする。
 考えて花形は口を開いた。
「聞いていいか?」
「うるせぇ」
「…まだ何も言っていないんだが」
「うるせぇ。その口調は説教するときの口だ」
 花形は黙って起き上がり、藤真の上にまた乗って顔の上から腕をどかせた。
「なにすっ…おやじさん帰ってきてんだろ?!」
 下に手を伸ばすと藤真の声が裏返った。雑な性格に見えて、藤真は自分などよりも余程人の心の機微に通じている。だが時々読み違えることもあった。今のように。
「早くに帰宅した時は一階の書斎に籠ってる。上にあがってはこない」
 押し隠しているのだから藤真にはわからないだろう、と思えば、懲らしめる目的ではない手は止まらなくなった。キスをすれば頭突きを受けるだろうからそれは避けて、ベルトにさっさと手をかけた。
「それだって家の中にはいんだろ!」
「ガレージの横だ。少しくらい騒いでも聴こえない」
「ふざけんな!…っ!」
 兆しかけていたものに手をかけると体が震えて声が止んだ。悔しそうな瞳が朧げに歪んでいく。
「くそっ…!このむっつりヤロー…」
 最後までするつもりはない。が、声を上げまいと眉を寄せて唇を噛み締める藤真の顔に今は不似合いな明るい午後の日差しが降り注いで、背徳感に花形の息も上がった。





 自分で投げ飛ばしたセーターを拾い上げて体を捩って着ても振り返ることはなく、部屋の中を見渡して自分の持ち物を探している背に花形はベッドの上から声をかけた。
「夕飯、食べていかないのか?」
「いかねーよ」
 それだけでは腹の虫が収まらないのか、「行けるわけねーだろ、バーカ」と小さい声で付け足して、藤真は落ちていた自分のカバンに手をかけた。そこへ小さくニャッと生き物の鳴く声が聞こえて、藤真の手が止まった。
「そうだ、猫!」
 また四つん這いになってベッドの下を覗き、いなかったと見えて藤真は焦ったように部屋の中を見渡した。花形が目をやった本棚と机の間に置かれたクッションを見るとそこに猫は蹲っていて、声を上げる。
「こいつもいたのに!…ったくよー…」
 猫をはじめに忘れたのは藤真の方だと思ったが、それは注意深く指摘を避けた。藤真は懲りずにひっかかれた指をまた猫に伸ばした。今度は猫は逃げずに大人しく喉を撫でられるままにされていた。
 最初に猫の鳴き声に気づいたのは藤真だった。
 部活後の帰り道に突然立ち止まり、「猫の鳴き声がする」と言って周囲をキョロキョロし始めた。つられて立ち止まって花形も耳をすませたもののそれらしい鳴き声は聞こえずに、「気のせいじゃないか?」と返した。「いや、聞こえる」
 藤真は確信があるようだった。
 暮れかけた小道を少し戻ったところにあった小さな公園の、ベンチの傍にいかにも、という感じで毛布の端がはみ出たダンボールが置いてあり、そこから確かに子猫の鳴き声は聞こえてきた。二人で近づくと、少し離れたところに据えられていた滑り台の陰に小学生ぐらいの子供がいて、こちらを窺っているようだった。
 藤真は迷わずに箱の中に手を伸ばした。
「って!」
 ひっかかれて声を上げ、それでもまだそこまで敏捷ではなかった子猫を抱き上げることに成功した。恐る恐るといった様子で両手の中に納めて、藤真はそっと静かにベンチに腰を下ろした。花形がその隣に座っても、子供はそばに寄っては来なかった。
「…あの子が置いていったのかな」
「ああ。…あの子も拾ってから親に叱られたんじゃないか?」
「うん」
 置いていっても気になって帰れずにいるのだろう。ダンボールの中に敷かれた毛布はあの子供のものかと思うと、このままには立ち去りがたかった。藤真の手の中で子猫は鳴くことを止めて丸くなった。
「…おまえこいつ飼ってやれよ」
 自分の両手の中の子猫に目を落としたままで藤真が口を開いた。
「急に言われてもな。…藤真はいいのか?」
「俺ん家は姉ちゃんがアレルギー持ってんだよ。なあ、いいだろ?そしたら俺会いに行くからさ」
「猫に?」
 眉を上げると、藤真は子猫から目を離し花形を見上げて笑った。
「ついでのおまえのツラも見てやるよ」
 花形は笑い続けるその顔に手を伸ばしたかったが、子供がまだ滑り台の陰にいることはわかっていて、代わりに子猫の頭をそっと撫でた。
「おまえに似てるな」
「そうかぁ?」
「黄色いとこが」
「俺黄色?」
「色が薄いところかな」
 子猫の頭を撫でていた指に藤真の指が絡んだ。
「じゃあこいつ、名前トラな」
「トラ?」
 確かに毛色で黄トラと呼ばれている雑種猫がいて、この子猫がそれに該当する事は花形にもわかっていたが、トラと呼ぶにはその子猫は大分弱々しそうに見えた。
「俺に似てるんだろ?大きくなったら強くなるぜ」
 それから藤真はなんとか子猫の気を引こうとしているのか「ニャーニャー」と下手くそな口真似をした。自分の指を握ったまま、その少し赤く染まった横顔を花形は見つめた。
 しばらくそのまま座っているとパタパタと軽い足音がして、公園から子供が駆け出して行ったのを知った。
「…わかった、飼うよ」
「おう。名前はトラだかんな?」
「わかった」
「よかったな、おまえ」
 藤真が花形の指を離して両手で子猫を抱き上げ、顔の前に持ち上げた。 花形は待ちかねた瞬間を逃がさずに子猫を受け取り、上を向いた藤真に口づけた。小さくもがく子猫が苦しくはないように、だが逃げられないように両手でそっと囲いこんでいると、手のひらに小さな爪や牙がたてられた。その痛みよりも初めて合わせた唇の方が熱を持っていて、心が掴まれたように痛むようだった。






「おまえはいいのかよ」
 猫から指は離したが、顔は猫に向けたまま藤真が口を開いた。その様子から何を指しているのかは花形もわかってベッドから立ち上がった。
「俺はいい。おまえのいい顔が見られたからな。だからエロ本はいらないんだ」
「…おっまえ…!」
 すぐ赤くなる顔を見られるのが自分だけの特権だと思えば、沸点が低いところも花形にとっては欠点などではなくただ愛しかった。
 藤真に近寄って行くと膨れた顔を背けられたが、両腕を背後から腰に回しても拒否はされなかった。
「何かあったか?」
「別に…」
 言った後にすぐ、「牧が、」と言いかけてまた藤真は黙った。
「牧?」
「やっぱなんでもねー」
 少し思い当たるところがあって、花形は口元にちょうどくる髪の毛の中の旋毛に口づけた。
「相手が下宿していれば場所には困らないだろうな」
 街を藤真と歩いていて偶然に出会った思いがけない二人連れを思い出し、その時の雰囲気と藤真の口振りとを照らし合わせて花形は答えを出した。相手の年下の性格を思えば下宿以前の問題だとも思ったが、そこは黙って住居についてのみ言及すると、藤真は「だよなー」と息をついた。
「っておまえ知ってんの?あの二人が…」
「あの時なんとなく」
「そっかー。やっぱり花形には隠し事できねーな」
 自分の腕の中で回転し、花形を見上げてくる。先刻までの不機嫌をもう忘れて素直に感心しているようなその様子がまたおかしくて愛しい。
「よし、今度4人でどっか出かけようぜ」
「それは…」
 どうだろう…、とあの二人の顔を思い浮かべて花形は返事に詰まった。
「おまえがまとめられるか?」
「よし、わかった!」
 却ってやる気を出してしまった藤真に花形は曖昧な笑みを浮かべ、誤魔化すように口付けた。足元に猫も寄ってきて体を擦りつけ甘えたような鳴き声を上げて、花形は夕暮れの小さな公園を束の間思い出した。




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