春越雪譜





 窓の上方から大きな影が走り、地に響くような音がたって古い座敷内の空気を震わせた。藤真が「おおー」と声を上げて、花形は開いていた本から顔を上げた。
 幼い頃、花形は夜通し続くこの音を、雷か大風が鳴っている気象に因るものだと思っていた。雪に慣れない怯えた妹にそう説明して宥め寝かせていた記憶が、頭の中にふと蘇ったかと思うと、すぐに薄れて消えた。
 落ちた雪は一階の腰高窓の際までもう積ってきていた。雪霞にちらちらと垣間見える冬囲いされた庭の木々の枝はぎりぎりまで撓んで、木肌は雪に埋もれてもうほとんどが見えない。
「この雪景色見てるとさー、おまえがなんで忍耐強いのかわかる気がする」
「俺は神奈川生まれなんだが」
「知ってる」
 結露が乾くことのない窓際に寄って、長い間窓の外を眺めていた藤真が口を開いたかと思うと、またどう続けていいのか返答に迷う応えを返された。
 返事を期待していたわけではない、持て余した時間をどうにかしたいというわけでもないらしい藤真は、また肘についた顔をつまらなさそうに窓の外へ向けた。
 朝カーテンを開くと窓の外は、申し訳程度に路肩に汚れた雪が溶け残っていた昨日と一変して、深く積もった雪景色になっていた。絶え間なく降りしきる雪で、手を伸ばした先も見えるかどうか。
 暖冬と言われた季節を過ぎて雪を切望していたにも関わらず、予定していたスキーはさすがに出来ない天候で、今日は藤真と二人、朝から旅館の中に缶詰めになっていた。
 無料で泊まる条件に引き受けたバイト代わりの浴場の清掃が終わると、いよいよすることもなくなって、花形が本を読む傍らで、藤真はずっと窓際に貼りついて恨めし気に外を眺めていた。
「手伝いとか他にねぇの?」
「ないな」
 スキーが出来ないとわかった時点で、この旅館を経営する叔母に既に同じことを申し出ていたが、返ってきた応えは「たまにはのんびりしていたら」だった。自分の都合としては大変困るのだが、それは叔母に言えるような内容の理由ではなかった。
 雪は一年に一回二回でも見られればいい方だ、と藤真から聞いたのは、高校一年生も終わる春休み前だった。練習が正月以外ほとんど途絶えることがない翔陽バスケ部では、春休みにその例外として連休があった。ポッカリと開いた3日間。どう過ごすか、と話しをしている中で、「スキーに行く」と言うと、目を瞠った藤真が言ったのだ。
「春休みだぞ。雪なんてあるのか?」
「ある。スキーは5月初旬まで出来る」
 叔母が経営を祖父から引き継いだ旅館が東北にあった。そこに春休みに行くことが、自分の意思とは関係のない花形の年中行事だった。思春期真っ盛りに育った妹は、親の尻拭いは真っ平だと寄り付きもしない。そう説明するとますます目をこぼれ落ちさせるほどに見開いた藤真が、「いいなぁー」と言ったものだから、流れで「来るか?」と聞いて、それからは二人の間の毎年の恒例行事になっていた。
「風呂行ってくる」
 確か朝飯前にも入っていたはずだが、ここの温泉を藤真が気に入っていたのは知っている。
 身軽く手拭いだけを持って部屋を出る後ろ姿を見送り、花形は息をついた。




 気が付くと目を落としていた本に陰が差し、花形は顔を上げた。むっとしたような顔の藤真がいて、周囲の本棚をきょろきょろと見渡していた。
「使わなくなった広間を図書室に改造したんだそうだ」
 目線を読んで告げると、藤真は「ふーん」、と面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「ここにあるものはほとんどが父の本だ」
 求められてもいない説明を振り向かないその背に続けた。実家を継ぐことを拒否して家を出た、父の残した蔵書を中心に構成された図書室で、母を亡くしてからはさらに話すことも間遠になっていた、父の思考の跡を思いもかけず辿ることが出来た。その父の脳内と言ってよい書棚の中に、藤真の姿があるということに花形は少し混乱を覚えた。
「今の専門とは違う分野の本があって、父が何を、」
 頑固に振り向かない藤真の背を見て花形は言葉を止めた。どうも本の話になると空気に関係なく口数が多くなる。
 まあ興味はないだろうな、と、花形が膝の上に置いた本にまた目を戻すと、藤真の手が伸びてきて本を閉じた。
「おい」
「晴れたぞ」
 意表を突かれて花形が顔を上げると、窓の外は雪が太陽光を反射して眩しいほどだった。同じく暇を潰しに来ていたと思われた、何人かいたはずの宿泊客も、いつの間にかその姿を消していた。
「悪い、気づかなかった。行くか」
「おう」
 見れば既に藤真はスキーウェアを着込んでいた。
「ロビーで待ってるから」
「わかった。すぐ行く」
 藤真は花形の返事を聞かずに背を向けていた。
 避けているわけではない、と言って聞き入れてくれるような気遣いを、藤真は自分には持ち合わせてはいないようだった。
 実際、往路の列車から昨夜就寝に至るまで、会話らしい会話をしていない。必要なことだけを、何事もなかったかのように上滑りに話しているような、どうにも居心地の悪い空気が流れていて、こんなことは藤真と出会ってから三年間で初めてのことだった。部で意見が対立した時でさえ、もう少し相手を思いやる態度と言葉はあった。だが藤真は風呂にばかり行き、自分は本ばかりを読んでいる。
 昨夜の夕食後もそうして本に集中している、もしくは集中していると自分を騙していると、藤真が風呂から部屋に戻ってきた気配がして、花形は眼鏡を外して本を押しやり布団に横になった。部屋の襖を開けた藤真はしばらく入口に立っていたようだったが、しばらくすると出入口の手前側に寝ていた花形の布団の上を傍若無人に歩いて横切り、足を踏まれて思わず声を上げた自分に、「悪りー」と短く謝り、乱暴に布団に横になった。
 すぐに部屋の中は沈黙に満たされたが、寝ていない事はお互い手に取るようにわかっていた。天井からの灯りが空気までを白々とさせているようだった。花形は布団から出て立ち上がり、自分とは反対側を向いて寝る藤真の、盛り上がった布団から少しだけ飛び出ている明るい色の髪を見つめた。
 「消すぞ」
 小さく呟いて壁際の部屋の電気のスイッチを押すと、闇の中にそれはすぐに溶け込んで見えなくなったのに、存在感がいや増して、花形の心に居座った。



「わかってきた、と思うともう帰らなきゃいけなくなって、翌年滑るともう忘れてる」、と口を尖らせつつ、それでも藤真はさすがの身体能力で、三年目の今回は花形について上級者コースもそろそろとだが降りて来られるようになっていた。午後になって数時間経つと、旅館を出発した時の晴天が嘘のように、また雪が降り始めて前が見えなくなり、小休止を兼ねて中腹の山小屋へ寄った。
 時計を見れば下に戻っても既に上りリフトは止まる時間で、他のスキーヤーの姿は見えなかった。暖炉の火はまだ絶えてはいなかったが、それだけでは小屋の中は寒く、自販機のコーヒー缶を二本買って藤真に一つを投げ渡した。「サンキュ」と礼を言う藤真の、前髪の凍った雪が解けて頬に伝う。なんとなくそれから視線を外して、花形は窓の外を見た。降りしきる雪は止む気配を見せず、宿まで降りるロープウェイの時間を考えれば、多少は無理をしてももう降りた方がいいのかもしれなかった。だが花形からそれを促す言葉は出なかった。それは多分藤真にも伝わっていたのだろう。壁に掛かった時計を見上げたままの花形に何かを言いかけて、だが言葉は紡がれずに口は動きを止めた。
 缶のプルタブを引き開ける音が、薪が爆ぜる音に混ざって小屋の中に響いた。
 この春が終われば進む大学も別れる。こうして二人でスキーに来るのもこれが最後になるのかもしれなかった。
「俺も好きだ」
「うん、それはわかってる」
 大分遅れた返事は、翔陽高校バスケ部として最後の部活動が終わった日、藤真から告げられた言葉に対するものだった。
 この関係はどう考えても現実的ではない。このスキー旅行も取り止めを切り出そうとして果たせず、それが今は二人きり、この閉ざされたような空間にいる時間を少しでも引き延ばしたく考えている自分がいて、花形は己の心の移ろいに眉を寄せた。
 暖炉の手前に椅子を引き寄せて、その上に両手から引き抜いて脇に挟んでいたグローブを置いた。まだ片手にグローブをしたままの藤真に気づいて、その手からグローブを抜いて、放り出されていたもう一つのグローブと一緒に同じように椅子の上に並べた。
 暖炉の炎を見ている横顔に目をやると、まだ少し頬が青いような気がして、花形はそれへ手を伸ばして触れた。冷たい、と感じて、触れた指先から更に手のひらを頬へ伸ばした。藤真の顔が自分へ向き、花形は手を引いた。
「おまえは臆病だ」
「うん、そうかもしれない」
「そうかもしれないんじゃなくて臆病だ」
 曇ったゴーグルごとクリップで挟んだレンズを額に上げていると、裸眼では目の前の男の顔がよく見えなかった。断罪するように投げられた言葉は怒っているようでいて、その顔が泣き出しそうに見えたのは自分の願望なのかもしれない。そう思って、花形は藤真の表情がよく見えるように、ベンチに並んで掛けた体を藤真へ近づけた。
 怒ってもいない、泣き出しそうでもない。不思議と静かな表情をした藤真はただ花形を見つめていた。真っ直ぐな視線は嘘も欺瞞も許容しない。自分が惚れた眩しいほどの潔さだった。額のゴーグルを外し、跪く思いでゆっくりと口づけると、冷たい唇が動いた。コーヒーのほろ苦い香りがした後に、顔を藤真の頬に滑らせ、自分のそれと合わせると、藤真の吐息が耳を掠めた。顔をまた目の前に戻すと藤真の両腕が首の後ろに回って引き寄せられ、噛みつくような勢いでキスを受けた。



「どーすんだよ」
 ロープウェイの駅まで滑り降りると、最終のロープウェイが発車して既に10分程経過していた。
 口を尖らせて自分を責めるように文句を垂れる藤真も共犯だ、とは思ったが、花形は今ここでそれを指摘することは得策ではないと、三年間の経験上心得ていた。
 スキーで宿の近くまで滑り降りれないことはないが、昨日までの雪不足でそのコースは閉鎖されており、叔母や祖父の顔を考えると規則違反を犯すことは選択肢から自然に除外された。花形の顔はロープウェイの駅のすぐ傍、山に一軒だけ佇む食堂兼ホテルに向いた。
 事情を話せる範囲で説明すると、顔見知りの支配人は快く一部屋提供してくれた。
「東屋のお嬢には先に伝えておくから。早く風呂に入って暖まりなよ」
「すみません、お世話になります」
 二人で声を揃えて頭を下げると、人の好さそうな髭面が構わないというように手を振って応えた。
 ホテルとはいっても、山小屋に毛が生えたような、登山客や学生のスキー合宿に使われている宿だった。宛がわれた部屋も広いとは言えない空間の、両壁際に2段ベッドが2つ備え付けられているばかりで、それでも他の客と相部屋にはならなかった幸運に、花形は感謝したいような恨みたいような気分だった。藤真は物珍しいのか、「寝台列車みてーだな。乗ったことないけど」、と至極ご満悦気に寛いでいた。
「おまえなんでゴーグルつけっぱなの?」
「眼鏡は宿に置いてきた。これはクリップだからゴーグルがないとつけられ、」
 言い終わる前にゴーグルは藤真の手の中にあった。
「別になくたって平気だろ。裸眼でバスケできんだから。この狭い部屋でバカデカい男がゴーグルなんてつけてると鬱陶しいんだよ」
 酷い言われ様ながら、まあそうか、と納得しないでもない。が、今藤真の顔が見えないというのは、どうにも分が悪く感じられてならなかった。お互い二段ベッドを背に、足が触れないようにズレて向かい合わせに、畳敷きの三畳ほどの床に座りこんでいる。
 風呂に入って夕飯も済ませてしまえばもうすることもなくなったが、まだまだ寝るには早い時間帯だった。本に逃げることは出来ないが、もうその必要は感じられなかった。今日の前半部とは打って変わった空気は、つい先日に終わった高校時代と同じようでいて全く違う。この雰囲気の変化に自分の心の、常にない浮き立つような感情はやはり因果関係があるのだろう。戸惑いながらも花形は、立ち消えた居づらさを忘れて頬を緩めた。
「明日どうする?」
「朝一で宿に戻って、浴場洗ってから出発だな」
「そっか。あーじゃあさっきのが今年最後の滑りだったかー」
 抱えた浴衣の膝に藤真が頭を乗せて口を尖らせる。
「大学に上がればもう少し休みが取れるんじゃないか?」
「…そう思うか?」
「思わない」
 藤真はバスケットボールで推薦を受けた大学に春から進学する。その練習量が高校時代より劣るとは思えなかった。正直に答えると藤真の口先が更に尖った。
「おまえさー。まーいーけどさー」
 花形は一般受験で合格した私大に進学予定だった。ウィンターカップ出場を選んだ時点で国立は捨てた。高校最後のコートに藤真とともに立ち、満足のいく結果を残すことが出来て、その事に全く後悔はない。却って自分の目標に対して明確な道筋が見えたと考えている。バスケットボールは続けるつもりではいたが、その大学のバスケ部は関東大学リーグでは4部の所属で、藤真の進む大学とあたる確率はほぼない。進級することが合格することよりも難しいと定評のある大学だったから、その暇もないのかもしれない。
 バスケットボールは自分の背の高さを活かすのに最適なスポーツだった。やってみるとそこそこ器用にこなせて周囲には煽てられて、中学ではただ漫然と続けていた。高校で藤真に出会い、全てが変わった。人に使われることにより最高の力を発揮できることを理解し、藤真に活かされることで自分も最高のパフォーマンスでチームに貢献できることを、喜びと知るようになった。
「また来よう」
「おう。戻ったらきっちり気合い入れて風呂掃除しねーとな」
 膝の上に乗せた顔がくしゃくしゃに崩れて笑った。不意にその顔に触れたくなって花形は腰を上げ上半身を伸ばした。片腕を2段ベッドの下段の柵につき、もう片手で上段のベッドへ上がる階段の踏み板を掴んで藤真を囲み、上体をゆっくりと倒した。そこへ隣室から大声と大笑いの声が上がり、壁が軋んだ。花形は動きを止め、壁を凝視し、藤真は花形を見上げた顔の表情を笑いに変えた。
「壁うっすいな!」
 花形は両手をベッドから外し、藤真に並んでベッドに背を預けて、力が抜けたように座った。
「チューだけにしとこうぜ。その気になっちゃうとヤバいからな」
 悪戯に笑った藤真の手が伸びて頬に触れたかと思うと、軽いキスを受けていた。その体に手を伸ばそうとする前に、藤真は身軽く立ち上がり、もう2段ベッドの上段への梯子に捕まっていた。
「俺、上な」
 ということは自分はその下に寝ろ、ということか、と花形は下段のベッドに目をやった。自分達のデカさでは下段に並んで寝るのが最適ではないのか?と思ったが、藤真はすでに布団の中に潜り込んで、立ち上がった花形の目線より少し下で「あったけー」と目を閉じていた。
 自分は寝られるのだろうか。
 花形は下段に横になり溜息をついた。想いを通じ合わせるということは、ここまで心の内を沸き立たせるものなのだ。
 どうにもはみ出す足よりも、目の前の上段のベッドの上に藤真が横たわっていることが気になって、花形は先月の受験でどうしても解けなかった幾何の問題を頭の中で解き始めた。





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