山茶始開






 部屋に入ると、それはすぐに目についた。なんとなく予想していたことだったから驚きはしなかったが、それが今日だったか、ということと、極めて端的に理由を明示してくれたことは予想外で、ここ数か月の関係を思えば感謝の念さえ覚えた。
 花形はしばらく握っていた鍵を、玄関脇に置いた洗濯機の上の洗剤が入ったカゴの中に入れて、靴を脱いで振り返り屈んで揃えた。買ってきた牛乳パックをコンビニのレジ袋から出して冷蔵庫にしまい、狭い部屋を横切って肩にかけていたデイパックと図面ケースを作業机に置いた。ダッフルコートを脱いでベッドに落ちていたハンガーを拾い丁寧に吊るして長押にかけると、デイパックの中から携帯を取り出して夜に予約をいれていたレストランにキャンセルの連絡を入れた。携帯を作業机の隅の充電器に繋いで花形は一つため息をついて振り返り、ベッドに腰かけた。
 目の前のローテーブルの上には、封の開いた牛乳パックが一つ置いてあった。特にこだわっているわけではないが買ってきたものと同じ銘柄のもので、もう残りわずかにはなっていたが、表面に水滴がついていないところを見ると、置かれたのはもう大分前の時間だと思われた。隣にはこの部屋の鍵が添えられていて、手紙のようなものは見当たらない。モバイルにも何の連絡も入っていなかったから、これで終わり、ということなのだろう。
 牛乳は嫌いだ。給食があった小中学校時代にはいろいろと苦労してきた。牛乳を飲まない癖にひょろひょろと伸びていく身長を、親には不思議がられ友達にはからかわれてきた。だから昔からの付き合いがある友人達がこの部屋に来ると、冷蔵庫の中に常備されている牛乳をいつも指摘された。大学生になり付き合い始めた女の子も、自分の好き嫌いを把握するとそのうち疑問に思われるようになった。やがて気づき、理解し、受け入れてくれるようでいて、その内に不信感に変わり、関係がギクシャクとし始めて、去っていく。一人目の時はこんなものか、と思った。が、二人目に続くと、そろそろ自分が向き合わなければならないものの正体に嫌でも気づかされる。
 花形は立ち上がり、目の前の牛乳パックを取り上げて台所に持って行った。そこへ前触れもなく乱暴に玄関ドアが開いた。もうそろそろ来る頃だと鍵をかけていなかったから、花形は今度も驚かなかった。顔を向けると思った通りの姿が外の冷気を連れ込んでいて、「さみーさみー!」と連呼しながら、狭い土間でバッシュを脱ぎ散らかして我が物顔に上がりこんできた。花形は中身を捨てようとしていた牛乳パックを一旦置いて、やかんをかけてあったガスコンロの火を点けた。
「お?」
 小さな台所と兼用されている狭い廊下を、体を横にして花形とすれ違い部屋に入ろうとしていた藤真が、台所の上に出ていた牛乳パックに気が付いた。背後から伸ばされた手に取られてそのまま藤真の口がつけられようとしていたパックを、「よせ!」と言って払い落とした後に、花形は自分の言葉と行動に吃驚した。同じように驚いた顔の藤真が目を丸くして自分を見ていた。
「…すまん。古くなってたから」
 花形は早口に謝って手近な布巾を取り、床の上に零れた牛乳の上に屈みこんだ。
「え、この前俺が開けたばっかりのヤツだろ?古かったか?あーそれじゃ全部拭き取れねーだろ。どっかに襟首の伸びたTシャツあったよな」
 花形の目の前のジーンズを穿いた足が消えて、クローゼットを開ける音がした。がさがさと物音がして、花形が顔を上げると、藤真が脱いだダウンコートをベッドの上に投げ捨て、見つけた古いTシャツを手にこちらに来ようとしていて、一瞬ローテーブルの前で足を止めた。花形が目を反らすと、すぐにまた戻ってきて目の前に色素の薄い髪が下がってきた。冬の冷たい空気の匂いの中に馴染みの香りを嗅ぎ分けて、花形は不意に息を止めた。それを鋭く見咎めた藤真が見当はずれの言葉を紡ぐ。
「…ちゃんと拭き取っとかないと臭くなるぜ?まだ冬場でよかったな。ったく牛乳嫌いのクセして」
 中学から一緒だった高野と違い、藤真は高校のバスケ部で初めて顔を合わせた。それでも、この部屋にある冷蔵庫の牛乳が古くないことも、花形が牛乳を嫌いであることも、この男は知っているのだ。
 花形は床を拭く手を止めて立ち上がり、蛇口を捻って布巾を洗った。白い水が排水溝に流れて、手元から立ち昇る匂いに今度こそ顔を顰めた。
 がさつなようで人を観察する力は自分より余程ある。でなければいくら突出した才能があるにせよ、高校生が監督など務められるはずもなかった。人を見て空気を読んで、最善の方法を模索する。自分が気づいたことに気づかないフリをするのであれば、それに従ってきたが、今はもう藤真は監督ではなく、自分はそれに従うべきバスケ部員ではない。
「匂いキツいだろ。俺がやっといてやるからあっち行ってろよ」
「…悪い」
 布巾を広げて流しにかけてから手を石鹸で洗い、脇にかけてあるタオルで手を拭った。それでも花形はその場から動かなかった。
「花形?」
 もう一度花形はしゃがみこみ、藤真の肩に手をかけて視線を合わせた。
 高校の頃の藤真は主将の他に監督業を兼ねて大所帯を束ね、名門翔陽バスケ部の象徴ともいえる立場の男だった。自分一人が独占することなどもってのほかで、花形もそんなことを望みはしなかった。そう自分に言い聞かせてきた。
 髪の色と同じに色素の薄い瞳を見て、口を開く前に、「悪かった」と今度は表情を変えた藤真から先制を受けて、花形は押し黙った。言葉の足りない謝罪に「何が悪かったのだ」と問い返すこともしなかった。
「これ、俺がもらっといてやるからさ」
 ぶら下げられたこの部屋の鍵を目にして、花形は今度こそ言葉を失った。牛乳くさい指が伸びてきてかけていた眼鏡を取られ、藤真の顔が目の前に大きくなった。
「だからもう俺にしとけよ」
 キスされて眼鏡を戻される。藤真は牛乳を吸った古Tシャツを持って背を向けて立ち上がり、流しに落として水道の蛇口を捻った。花形は牛乳の匂いのするような眼鏡をはずし台所の上に置いて、目の前の藤真の肩に素になった顔を預けた。Tシャツを洗う腕は動いたままだった。キュッと音がして蛇口が閉められ、手を振って水けを飛ばしている仕草が肩から伝わってくる。どんなに言っても藤真は手を洗った後にかけてあるタオルを使おうとはしなかった。
「手、タオルで拭けよ」
「乾くじゃん、そのうち」
 あんまりに変わらない態度に笑いが漏れた。藤真の肩から顔を上げて片手で額を抑える。どうしたって勝てない。
「…そうだな、もうおまえにしといてやるよ」
「いい選択だな」
 変わらない口調、変わらない仕草。バスケットを続けるにはもう少しタッパが欲しいんだよな、と自分と自分の下げる図面ケースを睨み上げる瞳。振り返った顔は同じ瞳をして自分を見上げていた。
「牛乳は置いておけよ」
「おう」
 花形は藤真の体に腕を回し、いつだって勝てなかった男を胸の中に抱き込んだ。逆らうかと思った体は腕の中で大人しくしたままだった。沸騰したやかんがシュンシュンと音を立てている。藤真の腕が動いて手探りにガスコンロの火を止めた。花形がちょうど自分の口元に来た茶色の髪の毛に唇を埋めると、そこから外の冬の気配は消えていて、代わりに卒業して久しい母校の体育館の風景を思い出した。




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