first impression
「よぉ」
頭の上から声がした。声は人気のない長い廊下に響いて、跳ね返って耳に届いた。
誰だ、と回らない頭で一応は考えてみたが、三井にはその声に心当たりはなかった。
面倒で無視を決め込んだが、諦める様子もなく2度3度と声は繰り返し降ってきた。
「生きてる?」
ついにはそんな聞き捨てならない言葉を投げかけられて、三井が座り込んだ膝に埋めていた顔を目一杯険悪に作って上げると、見たことのないユニフォームに長袖の練習着を羽織った見知らぬ男がすぐそばに立っていた。イントネーションも耳に馴染みのないもので三井の眉はますます寄った。
「あ?誰、おまえ」
「口、悪いなぁ」
いつもの自分であればすぐに突っかかっていくだろう馴れ馴れしさだった。が、今はその気力もない。ニコニコと笑って見降ろしてくる知らない顔を睨みつけて、三井はまた顔を立てた膝に戻した。今は汗か涙かわからないほどに顔中体中濡れているのが幸いだった。
「湘北の14番着てるし。三井くんでしょ」
「っせーなっ!!」
瞬間、しつこく話しかけてくる男に元々が短い三井の忍耐が切れた。苛立ち紛れに振り回した左腕を男は後ろに軽く避けて、離れるどころかスルッと隣に座り込んできた。驚いた三井が思わず避けるように体を引くと、男は「ゴメンゴメン」と何に対してなのか謝ってきた。その顔は揶揄うようでもなく、同情するようでもなく、ただ人懐っこい笑みを浮かべているだけで、三井は戸惑う。
「なんなの、おまえ」
「えー知らんの?」
「知らねぇ」
知るわけないだろう。
困惑を隠して苛立ちを込めて睨みつけると、「そっかー」と今度は残念そうに膝を抱える。自分よりも長い脚で長い腕で、上背もそれだけあるのだろう。どこの高校だかわからないが面白くない気分になる。
「僕は知ってる。昨日見たで。フラフラやった」
「あぁあ?!」
「フラフラやったのに何本決めた3P。山王相手に」
勢いを削がれて三井は体の動きを止めた。男は今までのニヤニヤ笑った顔を引っ込め、真剣な表情で顔を覗き込んでくる。昨日の試合を見ていたどっかのバスケ部員かと納得して、どうだ、と自慢する前に今日の試合を思い出して口の動きが止まった。
「…覚えてねぇな」
つい昨日のことがまるで何年も昔のことのように感じられた。本当のことだったのかも朧気だった。
現実でなければ今日の完敗もなかったわけで、廊下の隅で極度の疲労で役に立たない体を抱えている自分もいない。
いきなり3Pを何本入れた、と聞いてくるわけのわからないこの男もいない。
「僕も覚えてへん」
そこでまた三井の眉が寄った。思わず顔を向けると、真剣な表情が崩れて一重の瞳に笑みが戻った。
「FG、FT含めて最低で25点。昨日のメンツで沢北の次や」
彩子に見せてもらったスタッツを思い出した。スタッツを見ながら周りを取り囲んでぐしゃぐしゃに自分を小突いてきたメンバー達を思い出した。
その傍で穏やかに笑う安西先生を思い出した。
「わっ、なんや!」
急に慌てた男が目の前で大きな体をバタバタさせていた。なんだ?と思っていると、三井は自分の腕に落ちた水滴を感じ取った。あ、と思う間もなく、それはボロボロと止めようもなく後から後から流れ出てきた。
泣きたいわけじゃなかった。それなのに止まらない。知らない男の前で止めることができない。
ただ茫然と流れる涙を頬に感じて動けずにいると、不意に目の前に柔らかい感触がきて、男が首に掛けていたタオルを顔に押し当てられているのだと気づいた。
「余計な真似すんじゃねぇ!」
怒りが爆発して、顔からタオルを剥がそうとしても押し付けられたそれはビクともしない。
「…三井くん、僕のこと知らんし。せやから何したって誰も知らんよ」
あれだけ汗を掻いた後だというのに驚くほどに涙は出てきて止まらなかった。気に入らない馴れ馴れしい関西弁男のタオルも離せないほどに止まらなかった。
しばらく押し付けられたタオルに寄りかかるようにして涙が流れるままにしていると、突然ふっと頭の中が空になったような気がして、タオルから顔を上げた。顔から剥がれたタオルを床に落ちる前に手に取ると、隣にいた男も顔を上げた。
「なんだ、まだいたのかよ」
「いたって。それ僕のタオルやし」
「あ、あぁ」
タオルは顔から出たいろいろなもので結構な湿り具合だった。どうしようか、と悩んでいると「ええって。気にせんで」と、男は膝の上に置いたままだったタオルを取り上げた。
「…悪ぃ」
「僕も三井くんとことやりたかったなぁ」
「え?」
「諸星んとこや海南とは何回もやったことあんねん。いい加減飽きた」
言葉の通りに捉えれば男はインターハイ常連の強豪のように聞こえた。
「おまえ、」
「センパイ」
三井が口を開きかけたところで、聞き慣れた声がまた頭の上から降ってきた。走ってきたようで声がわずかに上がっている。
「流川」
「なかなか戻ってこないから。…おまえ、誰」
並んで床に座っている男に気づいた流川が低い声を出した。
「なんなん。湘北ってヤンキー校?」
「もう行くから」
三井が先刻よりは大分楽になったとはいえまだ軋みを上げる体でゆっくりと立ち上がると、男も立ち上がった。立ってみれば予想した通りに、三井の背丈より顔半分ほど大きかった。
「あーおまえ、」
「土屋いうんや。土屋淳。覚えといて」
「うん。サンキュ、土屋」
「あ、あっくんでいいで」
「デカい男があっくんて」
三井が笑うと、土屋は目を細めた。
「センパイ、行こう」
流川に腕を取られて三井がよろけると、土屋が支えるように腕を伸ばしてきた。
「触んじゃねー!」
その腕を間髪入れずに流川に叩き落されて、土屋が抗議の声を上げる前にもう流川は三井の顔を覗き込んできた。
「ダイジョブ?背負う?」
「ざけんじゃねぇ!ダイジョーブに決まってるだろ!」
他校生徒の前、精いっぱいの先輩風を吹かせて三井は先に立って歩き始めた。その背に土屋の声が追いかけてくる。
「選抜でまた会おなー!」
振り返るとデカい体でぶんぶんと腕を振ってくる土屋がいた。三井が顔を綻ばせて手を上げると振られる速度がまた早くなった。
「ナニやってんねん」
三井の背に振り続けていた手をようやく降ろして、土屋はかけられた声には振り向かずにタオルを肩にかけた。三井の顔にあったタオルはいつもの自分のタオルとは違った匂いがした。
「一回戦負けがなんでまだここおるの」
「うわっ、ヤなやつやな!」
「おまえ見に来たんとちゃうで!」
振り向かずともわかる、見知った地元の豊玉高校の二人が一斉に抗議の口を開いた。こいつらもガラが悪いことでは張るなぁとのんびりと土屋は岸本の派手な柄シャツを眺めた。
「湘北?」
「まあ俺らを倒したヤツらは見届けとかんとな」
山王工業を倒して愛知学院に完敗した。結果だけ見れば目を疑うようだが、インターハイ初出場の彼らはそれだけでない鮮烈な印象を残していった。
「今の三井とナガレガワやろ」
「ナガレガワ?」
三井は違う名前で呼んでいたような気がする。土屋は首を捻りながら目つきの悪い生意気そうな一年坊主を思い出した。
それよりも三井。
「かっわえーなー。ボロボロ泣いてんで」
「でた」
「キッショ」
岸本と南が嫌そうに顔を歪めるのを眺めながら、湘北高校と当たることができなかったことが心底残念で、土屋はため息をついた。
「僕んとことやってたらもっと泣かせてやれたのになー」
「ホントアブナイやつやな自分」
「三井、大学どこ行くんやろー。知ってる?」
自分としては精いっぱいかわいらしく首を傾げてみせると、岸本は顰めた顔を更に歪めた。
「知るわけあるかい」
「一緒のとこ行きたいなー」
推薦でほぼ内定している土屋の行く大学は関東にあった。試合であたることはなくとも大学ではチームメイトになる、あるいはそんな可能性があるかもしれない。土屋は肩にかけたタオルに顔を寄せた。
取り敢えずは選抜でまた会える。はず。
「うん、アガッてきた。二人とも僕のええとこ見てってや」
「誰がや」
「さっさと負ケロ!」
二人の罵詈雑言を背に土屋は気分よく足を踏み出した。
とりあえずはええとこ見せんとな。
三井の泣き顔を思い出して、土屋はまた笑った。
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