ride on time





 海から上がるとクロだけが尻尾を振って走ってきたのを見て、牧はボードを砂浜に立て、もう1匹の姿を探して砂浜に首を巡らせた。
 右手から波打ち際を走ってくる長身の男が目に入った。その男に愛犬は従って走っていた。目の前まで来るとスピードを落として、仙道は牧に笑いかけた。セットする前の前髪が右瞼に張り付いていて、それへ手を伸ばしてかき上げてやると甘い瞳が覗いて、牧は今自分がいる場所を失念しかけた。この瞼にしつこく唇を這わせた夜が蘇り、目眩がするようで仙道から手を離すと、それを追うように汗の匂いがして、掠めるようにキスを受けてすぐに離れていった。牧は方向を変えて仙道に従っていた犬の方へと伸ばした。ザリザリと手のひらを舐める仕草に「うらぎりものめ」と笑いながら小さく呟く。
 起きてすぐに隣に眠る仙道を見つけ、上り始めの日差しが当たる整った、だが少し口が開いて幼くも見える横顔をしばらく見つめた。ほとんど無意識に片手を太く長い首筋に置いていた。手のひらにその脈動を不思議な心地で感じた。小さく仙道が身じろいで、置いていた手を離した。声をかけようとして戸惑い、いつもの習慣だと自分に言い訳をして海に出た。起きて自分がいないことに気づいた仙道は何を思っただろう。
「…始動か?感心だな」
「はい、もうそろそろ。『毎日続けないと意味がない』って怒らないんですか?」
「俺はもう上司じゃないしな。朝食は作っておいてやる」
「やった!あ、飯は炊いてあります。サラダもーーー」
「おう」
 走り去った語尾は波音に消えたが、その背中に返事をして2匹を促す。ついてきたのはクロだけで、牧が振り返ると犬も振り返った。牧は眉を下げたようなその顔を見て、息をついて笑った。
「ついてってやれ」
 言葉を理解したとは思えないが、牧の許可は通じたようで、犬は遠ざかった仙道の背を追って走り去った。それをしばらく見つめて足を家へ通じる階段に向けようとしたが、今度はクロがついてこなかった。
「なんだ、おまえも行きたいのか?」
 聞いてももちろん言葉は返ってこない。腰を下ろしたまま舌を出して黒々とした目で強請るように見上げてくる犬に、牧は眉を下げた。
「いってこい」
 仙道の背を指さすと、牧も一緒に、とでもいうように立ち上がり体をこすりつけてくる。牧は腰を下ろして犬と同じ目線になり、頭に大きな手を置いて撫でまわした。
「メシを用意しておいてやるから。行っていいぞ」
 もう一声かけて指をさすと、クロは了解したとでもいうように一声吠えて、もう一匹と仙道の跡を追っていった。あっという間に仙道に追いついて、気づいた仙道がクロの頭の上に手をやる。走りながら振り返った仙道に手を挙げると、仙道があの笑顔を浮かべたような気がした。
 午後すぐに出発すると言っていたから時間はあまりない。それでも不思議と落ち着いた朝だった。暑さも今日は和らいで早朝の風の涼しさが濡れた肌に心地よかった。牧は仙道の走る後ろ姿から目を離しボードを引き抜いた。
 送らないで、と仙道は言った。
 ほら、俺レンタカーで来てるし。
 そう言って、カレーを食べながらその時だけは仙道は目を合わせて来なかった。
 まだあるから明日食べてね。カレーは二日目がうまいよね。
 どうでもいいようなことを言っている顔ばかりを思い出した。でなければ、顔を合わせることすら今の自分には難しい。





 呼び出しを受けて展望デッキに出ると、仙道と操縦してきた機がライン整備を終えて乗客を乗せ、再び東の空を指して滑走し始めたところだった。しばらく立ちつくしてそれを見送っていると名を呼ばれ、軽く手を上げている同業者の座るベンチへと牧は足を向けた。隣へ掛けると男はコーヒーの入った紙カップを差し出してきた。断る理由もなく礼を言って受け取る。
「用は」
「なんだ、冷たいな。顔が見たかった、が理由じゃだめなのか?」
 何度か寝たことがある相手だった。少し面倒だな、と考えていると、こちらの考えを読んだように、「安心しろ、デートの誘いじゃない」と言って男は笑った。
「あのツンツン頭、それと同じの巻いてたな」
 わかっているぞ、とでもいうように覗きこんでくる青い瞳をやり過ごして、遠くこの屋上の展望デッキに出る自動ドアに目をやると、ちょうどそのヘアスタイルの男が出てくるところだった。なぜここがわかったのだろう、と不思議に思った。が、自分の姿を見かけた誰かに余計なことを吹き込まれたのかもしれない。大分距離があるにも関わらず、すぐにこちらに気付いたようで、一瞬足を止め、次の瞬間には長い足を走るような勢いで動かして向かってくる。その表情さえも想像がつくようで小さく笑うと、隣から面白くないとでもいうような溜息が聞こえた。
「随分飼い慣らしているようだが」
「他人に飼い慣らされるような男じゃないさ」
 悪い人間ではないと思うが、何かと仙道をからかうような言葉を投げてきて、それが仙道の気には入らないらしかった。結構な距離をあっという間に近付いてくる仙道の表情が険しい。
「残念だが退散するか」
 呼び出しておきながら話もせずに立ち上がった男に眉を寄せて、初めて顔を向けた。目が合ってから男は思い出したとでもいうように「ああ、そうだ」と続けた。
「あのかわいいご面相を気に入ったどこぞの跳ねっ返りもいるようだぞ。あまり恨みを買うような跳ねつけ方はしない方がいいと躾けておいたほうがいいんじゃないのか?」
 目の前まで寄ってきた仙道は案の定荒い息をついていた。整えながらこちらに笑う顔にどう返していいのかわからず、牧は手に持ったままだったコーヒーに口をつけた。甘さが舌に残り思わず顔を顰めると、同業者の男はしてやったりといった顔でにやにやと笑った。こんな子供じみた悪戯を仕掛けてくるこの男を自分は嫌いではなかった。古い記憶を苦く思い出すことなく、過ぎた日々をフラットに懐かしくさえ思えることに気付き、牧は顔を仙道に向けた。この男の存在が自分にとって大きなものになっていることに今更ながら気付かされて、牧がただその顔を眺めていると、仙道はまた笑いかけてきた。
「どこの観光客が迷子になったかと思ったらおまえか、ボーイ」
 仙道は何も返さず、ただ自分に向ける笑顔とは種類の違うものをその同業者に向けただけだった。肩を竦めた男に迷いながら、「ありがとう」と声をかけると、男は「どういたしまして」と澄まして答えた。それから悪戯げに仙道にちらりと視線をくれてから、牧に「また食事に行こう。いつでも連絡くれ」と言って去って行った。
「人の顔見りゃボウズボウズって」
 同業者に向けた人を拒絶するような冷たい作った笑顔はもうどこにもなく、子供っぽいとも受け取れる言葉を吐き捨てると、仙道は男が座っていた隣に勢いよく腰を降ろした。
「牧さんと食事?!図々しいヤローだな。行かないよね、牧さん」
「うん、そうだな…」
 ああ、嫉妬してくれているのか、と気づく。先入観が絡んだ仙道の勘違いがおかしかったが、それで大急ぎで走ってきたのかと思うと、詳しい話を聞きたいとあの男に連絡を取るのも躊躇われた。
「舐められないように俺も髭でも伸ばそうかなー」
「髭?」
「東洋人って若く見られがちですよね。俺はそうでもないって思ってたけど」
「うん、おまえはそんなことはないと思うが…髭?」
「うん、顎とかに。むさくならない程度に?」
 向き直って仙道の顔を眺める。古い友人が一時期、似たような理由で髭を伸ばしたことを思い出した。女顔の友人にあれはどうにも似合っていなかったが、仙道なら雰囲気のあるものになりそうで、想像して牧は仙道の顎に伸びそうになった手を止めた。
「…いいんじゃないか?」
「え、そう思います?ホントに?」
 覗きこんでくる顔を正面から見て改めて、いい男だ、と思う。30を過ぎた辺りから落ち着いた中にも精悍さが増してきて、どこぞの令嬢が入れあげてもおかしくはない。
「…なぁ、仙道」
「なんですか?」
 声をかければすぐに振り向く笑顔を見て、先刻聞いた男の言葉は牧の口から出ることなく胸の内に戻った。
「いや、見てみたいな」
「え?髭?!伸ばします」
 真顔になって即答してくる仙道に笑みが漏れた。



 大体のパイロットを志す人間と同様にただ大空に憧れた。自由に空を飛ぶ、その姿に共感を覚えた。だが、実際には空にも当たり前のように地図はあった。制限空域や紛争地域の回避、飛行禁止区域は年を追う毎に増え続けた。砂漠の中に青く長く流れる大河、川辺のオアシスの緑、自分のいた鉄に囲まれた空間へ繋がる紺碧の空。色彩のコントラストが美しく一目見れば二度と忘れられないような景色がある一方で、機が滑走する反対側には格納庫の中にあって覆われたシートが破れ半ば砂に埋もれた戦闘機があった。
 いつの頃からか、同じ青さを湛える海にその対象が変わっていった。子どもの頃から続けていたサーフィンが関係しているのかしていないのか、その憧憬は年々大きくなっていき、いい年をして、と抑えても無視できないほどにそれは膨れ上がっていた。その頃に仙道と関係を持った。真っ直ぐに自分の気持ちを伝えてくるその眼差しは自分の中の欺瞞をも暴くようで、密かに年下の男を恐れさえした。
 担当のボーイが寄ってきて一礼し、仙道に持っていたボトルのエチケットを見せた。
「あちらのお客様からです」
 目をやると店の出口近くからサングラスをかけ終えた華奢な手が仙道に向かって上げられた。これが件の令嬢か、別口か、仙道は手を振り返すことなくボーイに一言「下げてくれ」とだけ伝えた。
「いやー俺もてちゃって」
 わざとふざけた口を開く顔を見て苦笑いが漏れた。
「なに?」
「いや。あまり女性を手酷く扱うなよ」
「いいんだよ。週一でプライヴェートジェット飛ばしてくれって。それで今の給料の倍払うってさ。つまり週一で…そういうことなんでしょ。毛色の変わったペットが欲しいんじゃないの。10倍でもお断りだって」
 その女性とどういったやり取りがあったかは知らないが、仙道の口調は辛辣で容赦なく、取り付く島もなかった。店を出て待たせた車に乗り込む間際にこちらを振り返った女性と、そのサングラスの奥で窓越しに目が合ったような気がした。ペットにしたい男を振り返る女はいないだろう。
 空調の効いた店内で、不意に外の乾燥しきった灼熱の大気が身の回りに戻ってきたようだった。
 外に出ればこの20分の1にも満たない値段で供される柑橘系の果物が絞られた炭酸飲料を口に運んだ。腹を壊す心配はないが、外で飲んだ時のように体が切実に必要としている実感は湧かなかった。
 欺瞞、ということであれば身の内を灼いた瞬間の熱も、それを顔色一つ変えずに覆い隠した自分も、元から己の内側に存在するものだった。他人に言われるまでもなく仙道の未来を潰しているようで、ペット、と吐き捨てた仙道の言葉がそうではない、と否定しつつも体に刺さって取れることはなかった。 
 不意に思い出されたこの国の相反する情景が息苦しく蘇った。
「牧さん?」
「…甘いな、これは」
「どれ」
 言って牧のグラスを呷り、仙道は眉を寄せた。
「うん、蜂蜜?入り過ぎだね」
 仙道は自分のオーダーしたローカルのビールを飲み直した。国教をイスラムとする国のローカルビール目当てに国境を越えてくる周辺国の金持ちは多い。
 欺瞞はどこに顔を向けていようが存在するもので、今更一つ一つを気にしたところで誰も振り返る者はいない。



 わざわざ付箋まで貼られた薄い雑誌のそのページを開くと、マジックで黒々と殴り書かれた差別的な言葉とともに見慣れたシルエットが目に入った。座席にわざと目立つように残されていたそれをCAが見つけ、譲り受けたのだと、開いたページを牧の隣から覗き込むようにして年若い副操縦士が指さした。
「これ、あの人ですよね」
 見間違えようのない制服と横顔だった。粗い画像でもこの男を見間違えようはなかった。話題に登っているという、NBAプレイヤーの同性の恋人がいるという男と仙道。男と友人であるという話は聞いたことはなかった。が、何枚か撮られた画像はそう見ようと思えば深読みもできるが、何の先入観もなければただの友人に見えた。本人を前に感じた口が乾くほどの激情に囚われることはなく、すぐに興味はなくなって牧は雑誌を傍の机に投げた。
「わからんな」
「本当なんですかね」
 これ以上やり取りするのも面倒で、何も答えずに部屋を出た。
 仙道を疑う気持ちは不思議なことに一つも浮かばなかった。迂闊なことを、と危ぶむ一方で、ある考えが頭を過って牧は廊下で立ち止まった。
 その時に限って仙道を頭から締め出した。最終の着陸地点を設定し、それに向けてただ自動操縦に切り替えたように、牧は自分の心のスイッチを切った。
 それからは事務的に事を進めた。ベースを関西に移し、かねてから乗ってみたいと思っていた波に一つ一つ足を向けた。思っていたような高揚が身の内に訪れることはなく、ただその中で懐かしい景色に似た家を見つけて、自分でも驚くほど簡単に購入の手続きを進めた。満を持して社を辞め、来る日も来る日もただ波の中にいた。



「本当は2階に上がったんです」
 貼り直された障子の隙間から差す夕日に顔を染めた仙道が、こちらの顔色を伺うような表情で白状してきた。
「あ、部屋には入ってないですよ?」
「別に入ってもいいが」
「え、そうなの?!でもほら、本人の不在中に勝手はできないよ」
 変なところで律儀な男だとは思っていた。牧は長い腕の中の心地良さに目を閉じて薄く笑った。
「眠い?寝る?」
「う…ん、そうだな。…上に行くか?」
 勢いで転がり込んだ和室には、途切れることのないキスの合間に仙道が片手で押入れから引き降ろした敷布団だけが一枚敷かれていた。このまま寝てしまえば布団に収まりきらない手足に畳の跡が付きそうだった。もう若くもないのにがっついたような自分たちがおかしくてまた笑うと、「いいの?!」と急いた声を仙道が上げた。
「だからいいって言って、」
 言い終わる前にはもう立ち上がっていた仙道に腕を引っ張られていた。
「珍しくもないだろう」
 8畳ほどの部屋にはダブルサイズのベッド、サイドテーブルとその上のスタンド、それに腰高の横に長いチェストが一台。それだけだった。前に住んでいた部屋と変わることはない。ベッドに近づいた仙道がすぐに横になるわけでもなく口を開いた。
「うん…ベッド、」
「なに?」
「ベッド変えたんだね」
「ああ、さすがにベッドは先住者のものはな」
「…じゃなくて。前の家で使っていたやつじゃない」
「…ああ」
 ようやく仙道が何を言いたいのかわかって、牧は頷いた。
「宮崎に部屋を借りるからな。そこへ送る」
「え?ここは…?」
「ここが家だ。おまえが直してくれただろう」
「ああ…うん。そうだね」
 直してくれたのは家だけではなかった。どこかうれしそうな仙道にそれを告げる前に、長い腕が伸びてきて腰と背中に回った。大きな体で懐いてくるように首筋に、顔を埋められる。きれいに刈られた首筋に手を這わせて耳にキスを落とすと、仙道の、背中に回った腕に力が入った。
 仙道はいつも自分ばかりが、と口先を尖らすが、この瞬間を何よりも待ち焦がれている自分がいて、それがなぜ伝わらないのか、といつも不思議に思っていた。
 簡単なことだった。何より近くにいたところで言葉にしなければ伝わらない。こんなに近くにいてさえ。互いを隙間なく受け入れていてさえ。それに気付いた今は余生さえ考えるような年齢になっている。小さく笑うと仙道が顔を上げた。
「なに?」
「…うん。おまえがよければまたここに来て欲しいんだ」
「…欲しい…?!」
 仙道の起こした顔が今度は驚きの表情に変わった。
「…そんなの!来るに決まってる!というか、…その…牧さんがそう言ってくれるんだったら俺…俺が帰ってくる場所、ここにしたい」
「うん、そうしてくれ」
「どうしよう、牧さん」
「うん?」
「俺、夢見てんのかな」
 しがみつかれているように抱きしめられる腕に力が籠った。
 すまない、と言葉にすることはもうなかった。
 牧は顔を上げ、同じように上げられた仙道の唇に口づけた。




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