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ride on time




 牧が休暇を過ごしていた島は仙道のステイ先と同じ国だった。電話をかけてそれと知り、「来るか?」と聞かれて舞い上がった。時計に目をやるとすでに21時を過ぎていた。バカンスというには季節外れのこの時期にこの時間、便があるかは難しいところだった。
 空がダメなら陸。列車の旅を短く切って流していた学生の頃にテレビで見た光景を思い出していた。首都から牧のいる島まで走るその列車は、連結をはずして列車ごと船に積みこんで海峡を渡るという。ただなんとなく乗ってみたい、と漠然と思って記憶に残っていた。仙道はとりあえず身の周りを雑にまとめて部屋を飛び出していた。
 夜通し揺られて、仲良くなった同じコンパートメントの中年のイタリア男に早朝叩き起こされた。車中単語だけでの会話も、これから向かう南の島への期待とそこで待つ人に会えるという喜びで、面倒が薄れて盛り上がった。何年か振りの故郷に帰るという男は、日本人の仙道の軽装を指摘していたようだが、憧れの人をこれから口説きに行くのだ、とジェスチャーを交えつつ伝えると男は大声を上げて笑い、力強く肩を叩かれて激励されているようだった。
 男は何かまた外を指して説明しているようだったが、早口のイタリア語はわけがわからず、寝起きで頭も働かずに曖昧に笑っていると、仕方ないとでもいうように肩を竦められた。最後のforza!は聞き取れて、振り返って親指を立てる。
 軽いバックパックを取り上げてコンパートメントから廊下に出ると、まだ明けきっていない薄昏さが見知らぬ土地で心許なかったが、確かに車窓から目的地の駅名が線路に立った大きな看板に見えた。
 タラップを降りたところでまだ早いとは思いつつ、牧に連絡を入れた。仙道が期待していた驚いた声は返ってこず、「…来たか」と眠そうな声が仙道の耳をくすぐった。
「今どこだ」
「列車降りるところです。すっげーの。列車ごとフェリーでメッシーナ渡ってきた」
「うん、降りて列車が発車するまでホームで待て」
「え、なんで?」
「いいから」 
 すぐにでも牧のところに飛んで行きたかったが、待てと命じられて、おとなしくしばしホームで停車中の列車を眺めた。同室のイタリア人が出てきて窓から手を振ってきたのに気付いて振り返すと、列車がゆっくりと動き始めた。最後尾が仙道の前を通り過ぎると金色に光る光景が目の前に広がった。
「…うっわ」
「すごいだろ?」
「…うん…すごい」
 朝日に照らされて光る海は空からみる景色とは違った。ほぼ目線と同じ高さから広がる金色の光景に仙道は言葉を失った。


 
 一週間の機種移行訓練の後に新たにライセンスを受けて、再び仙道は牧の隣に座ることができた。新機材が投入されると真っ先に牧に打診がきて、仙道は取り残される。副操縦士に選択の余地はなかった。少し近づけたと思えばまた牧の背は遠ざかる。早く牧に追いつきたいと思う一方で、いつまでも隣でともに同じ空を見たいという思いもあった。
 前方を見つめるサングラスで隠された横顔に、牧を心身ともに手にいれることができた、と思ったのは異国で見た遠い夢のように感じられた。どこかに確かにあったはずのその記憶を具現化してくれる表情を探そうとすると、空の上ではすぐに厳しい叱責が飛んできた。
 確かにこの手はあの時牧を掴んでいたのだ。仙道は表情を引き締めつつも退きがたい想いに囚われる。
 駆け付けた牧の滞在地で一日街を観光に連れまわしてもらって遅い夕食をとり終え、軽い酔いに足取りもまだ軽く、二人並んでホテルの廊下を歩いていた。
 牧の部屋が先にきて、仙道が「じゃあ、」と声をかけると、仙道の顔を見ない牧が部屋のドアのノブに手をかけた。
 挨拶もしない牧は珍しかった。どうしたのだろう、と仙道が部屋に入る牧を立ち止まって見ていると、牧が入った後のドアはすぐには閉められず、隙間から自分に視線をくれた牧の目が見えて、それが伏せられると牧の姿は部屋の奥に消えた。そのまま廊下に一人佇んでいればオートロックのドアは閉まる。
 仙道は迷わず、足を閉まる間際のドアの隙間に差し入れた。
 

 
 朝食後に昨日仙道が宣言した通りに電気店へ行きシーリングファン付きの照明器具を購入して、これまた仙道の主張で昨日と同じホームセンターに行って、壁紙の上から塗ることができるというペンキとマスキングテープと養生用のビニールシートを大量に購入した。
「一度やってみたかったんだよね、ペンキ塗り」
「おまえ職業間違えたんじゃないか?」
「かなぁ」
 壁を拭き終えて、仙道は腰をどっしりと床に据えて丹念に取説を読んでいたかと思うと勢いよく立ち上がり、手際よく塗る予定のない箇所の境にテープを貼って回った。仙道が立ち上がって空いたスペースに牧がビニールシートを広げる。
「ここ全部塗るのか?」
「いえ、この日焼けが目立つ一面だけ」
 宣言して、薄く黄ばんだ元は白かったと思しき壁紙を見上げる。かなり天井高があって、シーリングファンを取り付けたときの脚立はと探すと、牧が脚立を塗る予定の壁際に寄せてきた。礼を言って、仙道は握ったローラーを塗料を入れたバケツに滑らせた。そのまま慎重に壁にローラーを走らせるとグレーかかった青に壁紙の色が変わっていく。「おおー」と牧が声を上げると、仙道の口元が上がった。
「やる?」
「そうだな」
「うん、楽しいよ。はい、どうぞ」
 仙道は既に用意してあったもう一つのローラーをレジ袋から取り出して笑った。
 しばし二人無言で壁に向かった。牧は仙道と反対方向の壁から始めた。焼けて薄く黄色味がついた壁紙が見る間に青で払拭されていく。
 ちらりと牧を見ると、壁に向かいその色を変えることに熱中しているようだった。しばらく見つめていてもこちらに気付く気配も見せない。仙道は小さく笑ってまた目の前の壁に向き合った。
 しばらく夢中になってローラーを滑らせていると、同じく無言で熱中していた牧と壁の真ん中で肩を合わせることになって、仙道が最後に残った白いラインをローラーで消した。
「あとは隅っこを筆できれいに潰していけばいいかな」
 一歩引いて見るとガラッと印象の違う部屋に変わっていた。重たいシャンデリアはなくなって、緩くリビングの空気をかき混ぜるシーリングファンに、壁のグレーかかった青。その色のペンキを手に取った時の牧のギョッとした顔が思い出されて、仙道はまた笑った。
「悪くないでしょ?」
「そうだな。こうしてみると落ち着いて見える」
「いらないボードとかあれば壁に飾るともっとサーファーっぽいね。カーテンもブラインドに変える?」
「うん…いや、そのうちにな。片付け頼んでいいか?腹減ったろ。昼飯用意する」
「やった!牧さんのご飯。片付けはまかせちゃってください。あ、待って」
 仙道は首にかけていたタオルで牧の左頬を拭いた。
「あー固まっちゃってるかな。ハハッ、かわいい」
 タオルを降ろして指で拭こうとすると、牧にやんわりと手を止められた。
「いい。あとは自分でやるから」
「…はい」
 上げた手を所在なく降ろし、仙道は牧を見つめた。何か言葉を続けようとして牧は口を開いたが、見つめたままのそこからは何か漏れることはなかった。台所へと足を向ける背中を見送り、仙道は手に持っていたタオルを首に掛けて溜息をついた。



 牧が機長に昇格した年齢より一年遅れて、自分も晴れてその地位に辿りつくことができた。慣れてきた牧のいないステイ先の空港で、高校時代の部活の関係で見知った他校の一つ上の男と会ったのは全くの偶然だった。
 数年前にその男と同じ高校出身の人間がNBAの契約を勝ち取り、仙道の耳にもポツポツそんな話題が届いていたから、すっかり男が見違えるほどの大人の雰囲気を身につけていても迷わずに名前を思い出すことができた。この男自身も確か日本のバスケットボールリーグに所属していたとどこかで聞いたことがあった。男の見覚えのある程度の顔より、実力とともにその美貌で一躍有名になった、アメリカに渡った男の後輩のSNSでの発言が、丁度世間を賑わしていたからかもしれない。そして自分は牧と、その発言の内容と同じ関係にあったからかもしれなかった。
 先方もすぐに気が付いたようで、「仙道?か?久しぶりだな!」と端正な顔を人懐っこく綻ばせた。腫れあがった瞼に目が止まったが、男は気付かせないように振舞っていたいようで、仙道もそれには触れなかった。
「パイロットになったってホントだったのかよ。チクショー、かっこいいじゃねぇか」
「お久しぶりです、三井さん。へへ、かっこいい?」
 一般客のほとんど来ないエリアでタクシー待ちをしているという三井は、仙道の来ていた制服を上から下まで見てひやかした。最後に話しをしてから20年近い年月が経っていたが、三井のフランクさは相手にもそのブランクを感じさせなかった。
「市内まで?一緒にタクシー乗ってくか?」
「あ、いや俺は送迎のタクシー来るんで」
「さすがパイロット様だな」
「乗っていきます?」
「パイロット様の送迎に?いいのかよ」
「ただのタクシーですよ」
 そう聞いたときには何の考えもなかった。ただ誘ってもらえた礼にふと口に出していて、市内に出るまでであれば気分転換にちょうどいい話し相手に思えた。
 国際線の機長になると、牧と思った以上に会える時間が減った。考えてみればすぐにわかることであったのに、想いを受け入れてもらえたことに舞い上がってよくよく考えることを放棄していたのかもしれない。いや、そこで自分の長年の夢を捨てれば、今度は牧が自分から去っていくだろうということは考えるほどのこともなく仙道にはわかっていた。時間を摺り合わせて会える日が来れば、少しくらいのそっけなさも照れであるのだと思い込んで、そんな関係がもう三年ほど続いていた。
 ステイ先のホテルが三井と同じであったことも全くの偶然で、じゃあ飲もうという話しに自然と繋がり、地階にあるバーで飲めば知らない世界に住む者同士、気を遣うことも遣わせることもなく存外に楽しく時間は過ぎた。
 均衡が崩れた切欠は声をかけてきた他の客だった。SNSであっという間に拡散されたニュースを見てかけてきた言葉は三井に好意的ではあったが、三井は顔を歪ませてそれを追い払った。
「悪いな。気分悪いだろう。帰るか」
「俺は平気ですよ。…俺の恋人も同性だし」
「そうなの?!」
 乗り出してきた相手に酔いにまかせて本音が混じった。誰にも言えない関係を吐露できるのも、なかなか本気を見せてくれない相手にやきもきしていた胸が楽になるようだった。
「相手にされてるかは謎なんですけど」
「へぇ、なんか意外。おまえが」
 そう思われたのも意外で、「三井さんは愛されてて幸せじゃないですか」と口を尖らせると、「俺はあんなふうに公にされることに同意していなかった」と腫れた瞼に繋がるのだろう理由を明かしてきた。
 愚痴はおもしろくないとまた他愛のない話しに戻り、だが手の内を晒したことでお互いにどこかで相手を意識しはじめていたのは感じ取れた。つまらないことに頭を占領されてそれをパートナーのせいにしたがっていた似た者同士が、目の前の、手を伸ばせばすぐに届く相手とのベッドまでの距離を計り、杯を重ねて言葉が尽きたとき、仙道はふっきるようにグラスを置いた。
「…やめときましょうね」
「そうだな」
 そう言って苦笑した顔にホッとした。
 無性に牧の声が聞きたい、と思った。
 それから1週間後、地上勤務について2日目の朝に周囲の目が騒がしいことに気づいた。見られているようで、目を合わそうとすると逸らされる。なんだ?と思っていると上司に呼び出されて写真週刊誌を渡された。
「これはおまえか?」
 見れば空港とホテル前とバーの中。どれも自分と三井が写っている画像だった。遠目と暗い中で顔ははっきりとは見えないが、ホテル前でタクシーを降りるとき、自分はまだ制服を着ていた。自社の制服と断定はできない写りだったが、見る者がみれば一目瞭然だった。どれも見ようによっては親密にも受け取れる写真で、未だ三井のパートナーのSNSでの発言の余韻は消え去ってはおらず、それを煽るような扇情的な見出しがついていた。
 ここには牧と自分との関係を知る者はいない。確かに自分だが、高校のときの部の知り合いで偶然に空港で会って飲んで話をしただけ。本当のことを言って、上司も「だよな」と納得してくれ、周囲もすぐに落ち着いた。が、すでにステイ先に着いているはずの牧には連絡が取れなかった。
 帰国を焦れながら待ち、機が到着する時間に空港に出向いた。向かいから歩いてくる牧に気づいて駆け寄ると、牧はなんでもない顔をして長時間のフライトに疲れた様子も見せずに、「よお」と声をかけてきた。
「今夜、会える?」
 死角に連れていって額を合わせるように聞くと、牧の眉が少し寄った。
「…うん?話しは長くなるのか?」
「話しって」
 つれない相手でもそんな風に返されたことはなかった。
「俺は別に構わない」
「構わないって」
 先刻から鸚鵡返ししかできない自分に苛ついた。それ以上に冷静な態度を崩さない牧にもどかしさが募った。
「勘違い、はしてないよね?」
「勘違いなのか?」
 不安と癇癪が破裂して大きな声が出そうになり、ここが空港であることを思い出して仙道は牧の肩から手を離した。
「なにそれ。あんた俺が何してても平気なの?」
「おまえは何て言って欲しいんだ」
 仙道は口を閉じた。内側を噛んで声を押し殺す。何を言っても今は相手を糾弾する声になりそうで、仙道は牧を置いて踵を返した。牧がベースを関西に異動したと知ったのはそれから1か月後のことだった。



 月が雲から顔を出すと灯りを消した部屋の光度が僅かながらに上がったようだった。籐椅子にもたれて空になった向かいのグラスを仙道は眺めた。自分が忘れかけていたこれをこの人は覚えていてくれたのだろうか。
 この家は家具ごと引き取ったと聞いていたが、牧の身の回りの物は驚くほどに少なかった。短くない時間を過ごした牧の千葉のマンションの見覚えのあるものはなく、全てを捨ててきたのかと不安に感じたほどに、見知った気配はここにはなかった。ならばせめてもと、家のあちこちに自分の手を入れて、自分が去った後にも思い出せばいい、と子供じみた手垢を残すような真似をした。
「…牧さん」
 名を呼べば振り向いてくれる。だが今それに手を伸ばすことができない。
 最初から牧は仙道に選び取らせた。自分で手を伸ばしてくることもなく、距離を開けられたときもあくまでさり気なく、その姿を消してのけた。それを自分は歯痒さを感じるばかりで、かといって潔く諦めることもできずに、気付けばのこのことまた未練に求めて雁首を晒している。少なくないはずの経験は何の役にも立たず、ただこの人の前で自分は途方に暮れるしかない。
「…どうした?」
「このグラス、持ってきてくれていたんだね」
「…ああ」
 そっけない。ただ一言、それだけ。
 あなたが欲しい。
 言えばこの人は、どんな顔をするのだろう。
 仙道は黙って昔の想いを籠めたグラスに口をつけた。


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