それが愛というものだから
対戦相手のヘッドコーチと握手を交わし、次にそのチームのキャプテンへ極力目を合わさずに牧が右手を差し出すと、強く握られた手を引っ張られた。態勢を崩しはしなかったものの思わず一歩前に踏み出し、間に挟んだ机から揺れた自分の頭が反動でそのキャプテンに寄った。
「今日も、よろしくお願いします」
顔を近づけられて耳に吹き込まれた言葉は、その場に相応しい礼儀正しいものだった。それが何故だか背中から腰に這うようで僅かに体が揺れた。含んだような物言いはこの男の癖だ。そう自分に言い聞かせて、牧は強引に握手した右手を解いた。
「こちらこそ」
動揺を悟られないように澄ました作った表情で返すと、それ以上に作り込まれた人好きのする笑顔が向けられた。
「うれしいなぁ。牧さんとやりたかったんですよ」
わかっていてやってやがる。
牧は貼り付けた笑顔を忘れて、目の前の男を睨みつけた。
仙道はおどけて眉を大袈裟に上げ、取って付けたように「牧さんが作ったチームと試合を」と言って、牧とは逆に口元の笑いを深めた。
「おぉ、牧くん気合が入ってるなぁ」
何も知らない相手チームの年配のヘッドコーチは、牧に力を抜けとでもいうように鷹揚に笑った。
乗せられた、と内心舌打ちし、牧は忌々しさを逃がそうとにネクタイのノットに手をやり、「お手柔らかにお願いします」と若干引きつった微笑みを浮かべた。
選手時代とは違う。未だに未熟な己が腹立たしい。
ヘッドコーチに就任して半年あまりが経った。同じリーグに所属していれば、いつかは仙道がキャプテンを務めるチームとも対戦する。それはわかりきっていたことだったが、前日まで同じ部屋で過ごしていたことを考えるとやはり牧は落ち着かなかった。
昨晩、目の前の男は楽しくて仕方ないとでもいうように渋々と出迎えた牧に大らかに笑い、それから面倒な頼みごとをしてきた。
「牧さんのスーツ姿楽しみだな~。あ! ねぇ今ちょっと着てみてくれません?」
「明日コート上で会うんだ。わざわざ今着なくてもいいだろう」
昨日はお互いに午後から休みだった。だが翌日のことを考えて会うことに難色を示した牧に、仙道は「スパイ行為は行いませんよー」と冗談を口に乗せて、牧の住むマンションの部屋までやってきた。
牧が現役の頃には絶対に許さなかった試合前日の訪問も、自分がプレーするわけではないか、と久しぶりのその笑顔を見て、牧はついドアを開けてしまっていた。
「だって。みんなが見る前に見たいなぁ」
「もう試合なんか何度もやってるからみんな見てる」
「そういうことじゃなくてさ」
ゴニョゴニョと何事かを呟きながら、勝手知ったるといった慣れた様子で自分の家の廊下を先に立って歩く男の背中を、牧は眉を寄せて見つめた。居間へは向かわずに真っ直ぐに寝室のドアに手をかけた仙道に、とうとう尖った声が上がった。
「こら。勝手に人の家の寝室にだな」
「どれ着てくの? あ、これかー」
当日になって慌てないために、スーツは無論のこと、シャツから小物類に至るまで一式揃えてハンガーに吊るし、窓のカーテンレールにかけていた。仙道は牧の苦情は聞き流しその前まで進み、ふんふんと上から下まで眺めて「さすが、隙がナイ」などと呟いている。
「そうだ、このシャツ実は脇に綻びかけてるところがあってな。上を脱がなきゃわからないんだが、他はクリーニングに受け取りに行くヒマがなくて、後は色シャツしかなくて」
「え、いいんじゃない? 色シャツ。ゲーム2は必ず黒シャツ着てゲン担ぎしてるヘッドコーチもいるし」
「あの人はセンスがいいから」
「ってか脇に綻び? 試合中エキサイトし過ぎじゃないの?」
茶化すように笑い、仙道はやっぱり断りを入れずにウォークインクローゼットのドアを開けて入っていった。その背を慌ててまた追いかけながら、かけてあったシャツに手を伸ばす仙道に歩みよった。別段、見られて困るものは置いていなかったが、何とはなしに気恥ずかしい。
「牧さんだってセンスいいじゃん。ほら、これは? あれ、まだ新品だね。着てないの? 牧さんのお肌に映えそうなのに」
仙道は薄いピンク色のシャツをハンガーごと取り出して、牧の胸に当てた。
「これは貰い物なんだが…俺がピンクなんて」
「ナニ言ってんの、牧さん絶対似合うから。これくれた人、牧さんのことよく見てるんだね。ちょ着てみて?」
「今か?」
「今じゃなくていつ着んの」
そう言いながら仙道は手に持っていたシャツのハンガーを棚に引っ掛け、楽しそうに牧の着ていたTシャツの裾を掴んで有無を言わさず引っ張り上げた。
「自分で脱ぐから」
牧は自分のTシャツの裾を仙道から奪い返し、手で掴んで両腕を上げたところで、仙道が「あれ? …ちょっと待って」と腕を掴んで止めに入った。牧は半分脱ぎかけていたまま動きを止めて、今度はなんだ、と自分の腕の隙間から覗くと、仙道は常にない厳しい顔つきをして牧を見つめていた。あ、これはヤバいな、と牧の頭の中でも警報が鳴る。
「これ? …誰にもらったんですか?」
「あ? あー…。誰だったかな」
「牧さん?」
半分露わになっていた裸の胸に仙道の手のひらがいきなり当てられて、牧は「わっ!」と声を上げた。
「おまえ、いきなり! びっくりするだろう」
「誰にもらったの?」
「今のチームと契約した時にいろいろな人からお祝いをもらっていちいち覚えていられないな。…えーと」
牧の今までの経験上、仙道がこの真面目顔をしている時は要注意だった。扱いを間違えるとエライ目に合わされる。しかも今思い出したこのシャツをくれた人間は、どういうわけかお互い気が合わないのか、仙道のことを毛嫌いしている節があり、仙道もまた然りだった。どう言えばうまくこの場を収められるのか、牧が懸命に頭を働かせていると、仙道の声が更に低音に落ちた。
「誰」
胸に置かれた手が動き、指でいきなり乳首をつままれた。
「うわっ! 何すっ!」
「牧さん、目が泳いでます」
「後輩だ、高校の!」
「…あー…」
仙道の声は底辺を這いずるように低く手は胸から離れていかなかった。それどころか摘まんだ指が動かされ、無表情な顔が寄ってくる。
「…あいつね。確かに趣味良さそう」
「信長もくれたぞ! シャツに合わせてくださいってネクタイ、」
「どうせ紫と黄色の縞々でしょ。そんなの試合に締めてっちゃダメですよ?」
なぜネクタイの柄までわかったんだ、と牧の目が丸くなる。
「もういいだろ、離せ」
「うん…」
指は離されることなく蠢き続けている。ただでさえ狭いクローゼットに、身長平均値を遥かに越した男二人で避けようもない。せめて腕の動きを制限しているTシャツを脱ぐか着るかしようと身をよじらせると、仙道が更に体を寄せてきて背中にクローゼットにかけた洋服類が当たり、ハンガーがうるさい音を立てた。
「おまえこんなとこでっ」
「うん、ちょっと燃えるよね。牧さんの匂いがうっすらするし」
「何が燃えるだ。樟脳の匂いだろ」
「牧さんってば半裸だし」
「それはおまえが、」
「うん…」
首筋に唇を寄せられてぞろりと舐め上げられて、抑えきれない声が漏れた。
「仙道、明日は試合だ。…約束…しただろ?」
「うん…でもあんたもう選手を引退したよ?」
翌日に試合がある日は会わない。
プロリーガーとして契約した時に、仙道と交わした約束だった。というより、社会人になってからも恋人として付き合い続けていくという覚悟の上で、牧がほぼ一方的に宣言した。
お互いバスケットボールに人生の時間のほぼ大半を取られ、会えば必ずといっていいほどに体を求め合った。会えば欲しくなる。それはお互い様で、だが自分が受ける側に回ることが圧倒的に多く、身体的にキツいということで仙道を納得させた。いずれは仙道も自分と同じ舞台に上がってくるということを、牧は信じて疑わなかった中で、少しでも仙道を外部から守りたいという牧の決意からだったのだが、それをこの男は。
「大丈夫だよ。俺も少しは大人になったし」
そんな牧の内心を読んだのではないだろうが。欲と熱を隠すことなく浮かび上がらせた甘く垂れた瞳の中に、確かに真摯に訴えてくる光を見て、牧は仙道を抑えようとした腕を止めた。俺も甘い、と牧は思う。
「…痕は絶対につけるなよ?」
「了解」
ニッと笑った男の顔は獰猛な肉食獣を思い起こさせて、牧は背中から這い上がってくる興奮を密かに覚えた。
end