フレンチキス




 エレベーターを降りると、左手にどこまでも続くような長い廊下と高い天井がまず目に入った。落ち着かなく振り返った広いエレベーターホールには、ロビーで見かけるような大きな生花が飾られている。これはどの階も同じなのか?と牧が疑問に思う間もなく、スタッフは笑顔とともに右手を指し、こちらもどこまでも続いているように見える廊下を示して案内を始めた。隣を歩く仙道は牧の戸惑いに気づいた様子もなく上機嫌で視線に気づくと笑みを投げかけてくる。それに気づいているのかいないのか、如才なくプライベートに抵触しない範囲で会話を投げてくるスタッフの言葉にこちらも曖昧に応えていると、「こちらのお部屋になります」とようやくスタッフが足を止めた。
 開いたドアから通されると、まず控えのような4畳ほどの洋間があって、左手には大きな引き戸があった。一緒に足を踏み入れた仙道は、「おーでっかい」と無邪気な声を上げ、そこがクローゼットだと後から入ってきたスタッフに説明を受けると、早速扉を引き開けてカートワゴンでスタッフに運ばれていた実家からなにやら持ち込んだ荷物をしまいこんだ。それを置いてさっさと牧が進もうとすると、心得たスタッフがまた先に回り、目の前にある両開きのドアを開いた。牧はその部屋の広さにまず驚いて足を止めた。手前に広がる空間には趣味のいい大型のソファにカウチ、飾り棚を挟んだその奥もまた広々としていて、クイーンサイズと思われるベッドが2台並んでいる。部屋の片側は壁一面に大きなガラスが嵌めこまれ、そこから広がる見事な雲海の景色に思わず牧は息を呑んだ。スタッフはにこやかなプロフェッショナルの笑みを崩さずに、呆然と立ち尽くす牧に丁寧に部屋の説明を終えると、にこやかに退室していった。
「…おい、仙道…」
 北海道へ出発する前に信長達の泊まっていると仙道が聞き込んできたリゾートホテルだった。地元だと言い張る仙道に宿泊の手配も任せていたが、さすがにこの部屋が一泊一体幾らかかるのか想像すると気が遠くなりそうだ。それに辛うじてツインではあるが、この部屋は男同士で泊まる部屋ではないように思われる。ホテルスタッフがいる間、牧は驚きとともに感じていた居心地の悪さを、ずっと作った顰めっ面の下に押し込んでいた。
「はい? わーすごい眺め! 晴れてると湖が見降ろせるそうですよ」
 返事をしながら後から部屋に入ってきて、部屋から見渡せる風景に表情を輝かせすぐにガラスに貼りついて感嘆の声を上げている仙道の姿を見て、室料を問い詰めようとした牧は眉を訝し気に寄せた。福田に仙道の実家の最寄りの駅まで車で送ってもらった時も、いや、このホテルに辿り着いてついさっきチェックインを済ませてこの部屋に来るまでも、確かにいつもの趣味の悪い柄シャツにボロジーンズの格好だった。それが今はシックな、しかし固すぎないスーツを着て、インナーにはシンプルなドレスシャツを色男らしく胸ボタンを多めに開けて、ジャケットを羽織りつつ眼下の景色に感嘆の声を上げている。髪は朝からいつものツンツン頭に戻っていたが、確かにそんなシンプルかつ趣味のいいスーツ姿は仙道の素材を引き立ててあまりあった。この高級リゾートホテルにしっくりときていて嫌味なぐらいだ。
「…なんだ、その恰好?」
「先手必勝です」
 真面目な顔を作って振り返り、意味不明な言葉を言ってくる仙道に牧は顔を顰めた。
「は? なに言ってる? そのスーツはどこから持ってきた?」
 北海道への新幹線の中でも仙道はほぼ手ぶらだった。服屋に行くようなヒマもなくここまで辿り着いたというのに。
「これ? 似合うでしょ?」
「どうやって手に入れたんだと聞いてる」
「あー、福田ってアレで洒落者で。趣味いいんですよねー。でもちょーっと袖とパンツ丈が足りないかなー。素足でスリッポン履けばちょうどいいかな?」
「…断ってきたんだろうな」
「一着二着なくなったとこで気づきませんよ。あいつ家にいる時はいつもこんなん着ないし」
「返してこい」
 冷たく言って背を向けると、「作戦ですよ作戦!」と仙道が牧の手を捕まえる。少し焦って、それになぜか自分で腹が立って極力作った平静さで牧が振り向くと、仙道はにっこりと笑った。
「作戦?」
「そうですそうです」
 言いながら牧は仙道にソファにかけさせられて、その隣に仙道が落ち着いた。牧は近すぎるその距離が気になって、少し間をおいて座り直す。
「まずは相手の真意を探らないと。牧さん、ノブナガくんがもし戻らないと言ったらどうします?」
「帰らせる」
「強硬な態度に出ればあっちだって逆に硬化しますよ。でも俺が牧さんと連れ立って行けば、ノブナガくん動揺しますよね」
「…そう…か?」
 ここで態度に迷いの出た牧に仙道が勢いこんで被せて言う。
「そうですよ。でもそれでも家には帰っても今の恋人と別れないって言ったらどうします?」
「それは仕方ない。本当に好きなら…俺がきれいに別れてやる」
「でもその男、ノブナガくんの恋人って男、信用おけますかね。会社辞めさせてこんなとこまで連れてきてさ。…牧さん、ノブナガくんは大事なんですよね?」
「無論。そうだな…その男を見て…話してみないと」
 それは牧も大分不安に思っていたことだった。いきなり会社を辞めて家を出て、こんなところまで遊びに来るなど、牧が知っている信長のやることではなかった。
「で、俺の出番。俺がそいつ、ノブナガ君の恋人を誘惑しますよ」
「…は?」 
 牧は何か聞き違えたかと仙道の顔を見やった。仙道は大真面目な顔をしてそれに頷く。
「俺の誘いに乗ってきたらアウト。乗ってこなかったらセーフ。わかりやすいよね。乗ってくればノブナガくんも牧さんの元に無事戻るわけだし」
「誘惑…ってまさか」
「牧さんを好きになったノブナガくんの恋人なんだからゲイでしょ? 言うとまた引かれそうだけど、こういうこと慣れてるんで、俺」
 何にショックを受けたのかわからないなりにショックを感じている自分がまたショックで、牧はどうしていいかわからない顔をとりあえず渋く作った。列車の中での仙道の一言が不意に蘇る。
「…必要とあらば、か…?」
「そういうことです」
「おまえは平気なのか? その…男と…」
「んーあんまり気にした事ないっすねー」
 そうなのか、とまた何かにショックを受ける。思えば自分の実家にも男の自分を恋人役に仕立てて連れていったぐらいだった。貞操観念など今更求めるつもりもないが、釈然としない気持ちが牧には残る。まあさすがに顔も知らない人間と最後まで、ということはないだろう。言葉尻でも取ったらそこで終わりにすればいいのかと、敢えて軽く考えることで、まだ頭のどこかに残る不快感、というには自分の心を傷つける何かから牧は思いを逸らした。
「よくわからんが…。相手の男の人間性はわかるのかもしれないな」
「そうですよ。そこは俺に任せて」
「うん…。…あと、これなんだが」
 牧はもう一つ気になって仕方がないもの、今はシャツで覆われた、肌に触れる馴染みのない感覚で落ち着けない自分の胸元を指差した。仙道の実家に邪魔をしていた時にはいっぱいいっぱいで考えが回らなかったものの、首がつけているものの実際の重量以上に重く感じられて敵わない。
「あーそれ。ここのホテルに入ってる宝石屋と話しつけてるんですよ。明日鑑定と買い入れの予約入れてます」
「…そうか」
 首にずっしりくる重みに牧は息を一つ吐いた。
 仙道は決して盗んだものではないと真面目な顔をして手を上げて誓っていた。宝飾品の相場など自分にはわからないが、それでも真っ当に働いても簡単に手に入るものではないだろうぐらいは牧にはわかっていた。仙道の誓う言葉が全く当てにならないことも、今はもう十分過ぎるほどに身に染みている。が、ホテルに入っている宝飾品店は牧でも知っている名の通ったブランドだった。そこに持ち込むのなら少しは信用できるのだろうか。
「じゃあそういうことで。早速二人を捜索に行きましょう」
 動くたびに胸に触れる冷たい重みを感じ、考えがまた沈んでいこうとしたところで、立ち上がった仙道に腕を掴まれた。牧は驚き、再度その手を払ってしまった。
「あ、いや。…これは外して金庫にしまっていった方がいいだろう」
 びっくりしたような仙道を前に慌てて、思いついたことを口に出す。幾らするのか知りたくもないが、なくしたりすれば簡単に弁償できるものではないことは確かだ。
「…それ。牧さんにつけててもらいたいな…」
 仙道は払われて宙に浮いていた手をまたゆっくりと牧の胸元に近づけた。今度は払うこともできずに、言われたことも理解できず、牧が近づいてくる手をただ黙ったまま見つめていると、触れる間際でその手は逡巡したように止まり、それから拳を作ってまた持ち主の元へと引き上げていった。
「あー、ほら、しばらく部屋離れるし。牧さんつけててくれれば安心できるかなーって」
「…こっちの身がもたん」
 あっけらかんとした笑顔はいつもの仙道で、牧は溜息をつき、「風呂に入るまでだぞ」と仙道を睨みあげた。
「はい」
 自分に笑いかける仙道の笑みは変わらないように見える。それでいて他の人間を誘惑するとこの男は平気で言うのだ。
 いろいろ考えが追いつかない。
 吹っ切るように髪を片手でかきあげていると、窓の外の視界が晴れているのに気付いた。眼下に湖が見え、目下の悩みを忘れて牧はその景色の息を飲んだ。山の上から更にそこに建つホテルの高層階、一面に広がっていた雲海が割れて、晴れ渡った景色の中に湖が大きく広がっていた。
「しかし…なんでこんな部屋取った? 他になかったのか」
「ここスィート率高いんですよ。もう普通のツイン空いてなくて。この部屋は湖側だけど逆サイドの部屋は海側で選べないの。どっちも眺めはすごいらしいけどそこまで驚く値段じゃないし価格に差もないですよ。…え、やだ、牧さんたらダブルのがよかった?」
 おどけて大きな掌で口を押さえる仙道はだが目が笑っている。
「ふ、ふざけんなっ! いや、それでも高いだろう。一体一泊いくらするんだ?」
「大丈夫です。軍資金あるから」
「…軍資金?」
「オヤジから『これから牧さんとのことどうするんだ』って聞かれたから、『ずーっと一緒にいられたらいいなー』って答えたら、『少ないけどこれ』って。うん、ホントあんま入ってないな」
 懐から出した封筒を覗き、その中の枚数を真剣に数えている仙道に牧の眉間の深い縦皺が震えた。
「かっ…」
「か?」
「返してこーい!!」
 牧が思わず大声で怒鳴りつけると、仙道はさすがに肩を揺らせて封筒を内ポケットに落とした。


 ロビーに出ると仙道は牧に、「牧さんはそこのカフェでお茶でもしながら、ノブナガ君たちが通りかからないか見張っててください」と言い置いて、自分はまたどこかに出かけていった。
 頼りになるんだかならないんだか。
 糸の切れた凧のようだ、とその背中を眺めながら牧は思う。が、確かにこのホテルを突き止めたのも仙道の手柄ではあったので、おとなしく一人カフェに足を運んだ。
 正面入口を見渡せ、吹き抜けのロビーを行き交う泊り客もそれとなく目に入る席を選んで陣取り、メニューの価格にまた驚きながら、やってきたウェイターに仕方なく札が一枚消えていくコーヒーを頼む。ふ、と息をついて無意識に重たい胸元に手をやっていると、隣の席に大柄な人間がやってきて座った。カフェには今は牧しか客はいなかった。なぜ隣に、と何気なくそちらを見ると、どこかで見たような覚えがある男だった。それがこちらに横目を寄越して、「どうも」と低く声をかけてくる。
「どうも…。あなたは…?」
 どこかで見たか?と牧が頭を働かせていると、男は自分のついたテーブルの上に懐から出した黒いパスケースのようなものを置いた。
『魚住 純』と書かれた名と男の顔写真、それから警視庁の紋章を見、あ、と牧の脳裏に蘇った光景があった。
 空港で仙道のボディチェックをしていた男だ。
 目を見開いた牧に、男は頷き、テーブルに置いたものをまた懐に戻した。
「その様子だと俺がなぜここにいるのか、もうお気づきのようだが。牧さん」
 名前まで知られていることに牧は驚き、いやな汗が背を伝うのを感じた。目が動き、ホテルのフロアを素早く見渡す。そこにあの目立つツンツン頭の長身は見つからず牧は内心息を吐いた。
 今は来るな。
 テーブルの天板の下の足に置いた拳を握り念じていると、隣の大男が口を開いた。
「俺は古い男なんです」
「…は?」
 やってきたウェイターに、魚住は「すぐに出る」と伝えて追い払った。今すぐここで捕まるわけではなさそうだった。が、牧は男の言った言葉が理解できず、固まったままその続きを待った。
「…何年前になるか。俺は仙道に命を助けられたことがあります。ヤツが根っからの悪党じゃないことも知っている。だからそれからはうるさがられようが、真っ当な道に帰らせようとあいつの世話を焼いてきました。ここ数年は大人しくしていたようだが、」
 牧に運ばれてきたコーヒーを前に、魚住が言葉を切った。恭しい仕草でコーヒーがテーブルの上に置かれ、勘定書きが添えられる。ウェイターが立ち去るのを待って、魚住は息を大きく吐き出し椅子に座り直した。
「さすがに今度ばかりはヤバい。だがヤツはすっとぼけるばっかりで、俺の言うことには耳を傾けない。今ならモノを出せばまだ間に合うんです。牧さん、あんたからヤツを説得してくれませんか」
 牧は胸元を手で触ろうとして、慌ててまた足の上に手を戻した。喉は乾くがテーブルの上のコーヒーに手を伸ばす気にもとてもなれない。触ることはできないが、首にかかるものが重くて頭がどうにかなりそうだった。
「あれは…仙道が盗んだもの…なんですか?」
「いや違います。だが売ったらアウトだ。今までのことを考えればどんな言い訳も通らない」
 仙道が盗んだものではないと聞いて、牧は心の底から安堵した。だが魚住の言葉から推察すれば、正規のルートで手に入れたものでもないという事実は変わらなかった。高価な宝飾品は今までに縁もなく全くわからないが、普通に見かけるようなものなどではなかった。山奥の畑とはいえ広大な土地の手付になるというのだから、それ相応のものなのだろう。
 一面の葡萄の葉の緑。遠くに光る青い海が見えて、屈んだ仙道が足元の土を掬い、鼻を寄せて、顔を自分に向け、子供のようにくしゃくしゃにして笑った。その光景が一瞬脳裏に蘇り、消えた。
「それなら魚住さん、俺も…。話しがあります」
 深く考える前に口が開いて、牧はその自分の言葉に驚いた。が、同じく驚いたように向き直る魚住を前に、そうか、俺はもう囚われていたんだな、と腑に落ちて牧は腹を決め、思いついた考えを言葉に乗せた。

 仙道に教えられた通り、プールサイドのバーに見覚えのある顔があった。夜間の外の十分とはいえない照明と見慣れない服装でそうと言われなければ気づかなかったかもしれないが、屈託なく笑う顔は幼い頃から見てきたそれだった。
「信長」
 一声かけると、笑顔が牧に向けられ、固まり、信じられないものを見たような表情に変わった。
「牧さ…ん…!?」
「よぉ。ここいいか?」
 初めて見る信長の表情に、必死で自分に告白してきた顔を思い出し、ほろ苦く笑いながら隣の空いている椅子を指でさして牧が問うと、慌てた顔が牧と、信長の向かいに座る男とに交互に振り向けられた。
「あっ…えと、あの」
「どうぞ?」
 声をかけてきたのは信長の向かいに座る男だった。あのエレベーター内で信長とキスをしていた男だ。こちらは慌てた様子もなく、余裕さえ見せて席を勧めてくる。
「牧さん、ですよね? はじめまして、神宗一郎と申します」
 笑顔で自己紹介を受け、これは予想して待ち受けていたか、と考えつつ、牧は礼を言って椅子に腰を降ろした。
「…どうして…牧さんここ…」
 これは不安そうな顔を崩さない信長が、恐る恐るといった様子で訊ねてくる。
「うん、最後にメールもらってな、慌てておまえが仕事で泊まっていたホテルに行ったんだが、」
 歩み寄ってきたウェイターに牧は一端言葉を止め、昨夜宿泊したY町に醸造所のあるメーカーのウィスキーを水割りで頼んだ。そこの出身のツンツン頭が脳裏に浮かび、ワインじゃないのかと頬を膨らませる顔を想像してふっと笑みが漏れた。
「…牧さん?」
「あーすまん。そこである一人の男に会ってな。おかしな縁があってここまで同行することになったんだが…まーその。俺もおまえのことが言えん。そういう関係になった」
「え…?」
「そいつと付き合っている」
「え?! 俺のこと言えないって…? そういうって…えぇ?! 男?と牧さんが?!」
「うん。なんで安心してくれ。ああ、神さん?も。ここで修羅場を始めるつもりはない」
 突然話しかけてもこれといった反応を見せず、神は背もたれに身を預けたままにっこりと笑い、了解したと、話の続きを促すようにゆったりと片手を横に広げた。優し気な見かけとは違い、思ったより胆力のある男だと牧は内心唸った。簡単に手の内は見せてくれなさそうだ。逆に信長は不意打ちを食らわせた時よりもさらにそわそわと落ち着きがなくなった。
「牧さん、その相手って…? 今も? 一緒?」
「うん、実は俺たちもここで待ち合わせしているんだが。…あぁ、来た来た」
 牧は打ち合わせたタイミングもぴったりにバーの入り口に姿を見せた男に、片腕を軽く上げて合図をした。仙道は昼間からさらに、シャツのボタンを盛大に胸元深くまで開き、崩したスーツ姿に夜のバーだというのにサングラスまでかけていて、それがどうしようもなく胡散臭くいかがわしくこの場に似つかわしい、親の金で遊ぶボンボンのような、ジゴロのようなで、牧は思わずまた笑ってしまった。
「仙道だ」
 隣に立って馴れ馴れしく自分の肩に手をかけてきた男を紹介すると、信長と、その前に座っていた神の顔もさすがに硬直した。牧は爆笑を堪えて、仙道に自分の向かい、神の隣の席を勧めた。礼を言って仙道は優雅に腰を降ろして足を組み、サングラスを外して神ににっこり笑って軽く頷き、傍に立ったウェイターに牧と同じものを、と澄ました顔をしてオーダーした。
「ってあれ? 牧さんてばワインじゃないの?」
 思っていた通りの不満そうな顔と言葉にまた笑みが漏れる。
「うん、ワインはいささか飲み過ぎたからな。それでだな、信長。こんなことを今言うのもなんなんだが、おまえの親から言付かってきたことがある。明日、どうだろう。場所はそうだな…ここで。二人で話せないか? あーもちろん神さんにいてもらっても構わないんだが…おまえが望むなら」
「は…はい、えと…それは…」
「俺は構いませんよ。どうぞお二人で。いっておいでノブ」
 神は余裕を取り戻したように鷹揚に頷いた。その顔を不安そうに信長は見つめ、また牧を見つめ、それから仙道に目をやって顔を歪ませた。
「じゃあ、せっかく元カレと今カレ4人揃ったことだし。泡でも開けますか!」
 仙道が突然愉快そうに切り出し、それには牧は苦笑しながら手を上げて止めた。
「やめとけ。二人の邪魔しちゃ悪い」
「えー、ホラ、ドンペリありますよ。お、しかもピンク」
「あの…!」
 それまで思いつめたように黙っていた信長が突然声を上げた。
「あんた…ホントに…牧さんのこと本気なのか?!」
 鳩が豆鉄砲くらったみたいだ。
 今度は目を丸くして信長を見る仙道を前に、牧はまた噴き出しそうになる。信長も仙道のような男とは初めて会っただろうが、仙道もどこまでも真っすぐな信長のような男とはあまり付き合いがなさそうだった。その仙道の顔が緩み、人の悪い笑顔を浮かびあがって牧はイヤな予感を覚えた。
「もちろん。もう愛の証を送ってるんだ」
 言うや、仙道は長い腕を向かいに座る牧の胸元に伸ばし、不思議に思った牧が動けないでいる隙に慣れた手つきでシャツのボタンを弾いて片翼を引っ張り、牧の胸元を大きく開いた。
「バッ…おまえっ!」
「一生そばにいてくださいって」
 牧が慌てて胸元を覆う前に、灼けた素肌に連なって夜にも眩い光りを放つダイヤが二人の目の前に晒された。その二人の目がまた丸くなり表情が固まる。
「おまえっ…こんなとこで!」
「俺の本気。わかった?」
 信長に暢気にウィンクする仙道を牧は真っ赤になって睨んだ。話しをした後、魚住はこのホテルから引き上げたようだが、部下が仙道に張り付いていないとも限らない。思わず牧は周囲に視線を巡らせ、シャツのボタンを素早く嵌め直した。
「…驚いた。とても似合いますね、牧さん。灼けた肌によく映える」
 もう平静に戻ったような顔で微笑んでくる神に、そこか?と牧は内心突っ込みを入れる。
「物なんか。おまえ、牧さんのどこを好きになったんだよ!」
「んー。やっぱ外見? カッコいいよね。スタイルいいし色っぽいし。泣き黒子サイコー」
「やっぱり! おまえなんか、」
「あとかわいいとこかな。お酒に弱くて。飛行機も苦手で。照れ屋で。正義感強くて。人にも厳しいけど自分にはもっと厳しい。弱い人間や困ってる人見ると放っておけなくて、自分のことを置いてもつい手助けしちゃう。すぐ感激するし、人の痛みまで感じちゃう…でもとても強い。眩しいくらいに。そんなとこが好き。好きです」
 言葉を切ると仙道は黙って牧を見つめた。
 違う、これは演技なのだと。これまで散々自分も騙されてきた仙道の調子のいい嘘なのだと。
 なのに常にない真剣な顔をした仙道の視線から目を離すことができない。牧が混乱した頭の中で自分に言い聞かせていると、「…すごい」と神が表情のわからない声を漏らした。
「そんなの…そんなの俺だって知ってる!」
 信長の声に、牧は我に返った。いつの間にかテーブルに置かれていた水割りに手を伸ばして一口含む。強い酒が喉を通過して、熱く腹に落ちたそれで己を保とうと叱咤した。
「ノブ」
 静かに神に呼びかけられて、尚も言い募ろうとした信長が悔しそうに唇を噛み締めた。
「座が白けたな。すまん、二人だけのところを邪魔して。仙道、行こう」
「えー、お酒…」
 不満そうにサーブされたばかりの水割りのグラスを指す仙道を無視して、牧は懐から出した財布からコーヒーとはまた桁の違う札を抜いてテーブルに置いた。
「信長、明日この時間でいいか?」
「あ…はい…」 
 毒気の抜かれたような顔をした信長が慌てて返事をして牧を見つめる。それを見てから笑顔を作り直した神が、代わりに引き取った挨拶の言葉を送り出した。
「牧さん、仙道さん、おやすみなさい」
「ああ、神さんも。ノブも」
 不承不承立ち上がった仙道の腕を掴むと、うれしそうな顔が必要以上の近さで牧に寄り添った。その顔を見つめ、さっきの仙道の言葉を思い出し、頭を振って牧は先に立って歩きだした。

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