ride on time
「あ、これ」
目の前の広い背中が立ち止まった売り場に壁紙は見当たらず、牧は仙道の肩越しに指し示された商品を見た。ドイツ語らしきブランド名がついた深い緑色のそれは、小さめの灯油のポリタンクにホースがくっついたような形状をしていて用途が読めない。
「なんだ、それ」
「高圧洗浄機ですよ。外壁かなり汚れてたから」
押していたカートに大きな商品の箱を迷わず入れようとしている仙道に牧は眉を寄せた。
「おい、要らないものは、」
「要りますよ。見違えますよー」
先刻からこの調子で、壁紙に辿りつく前に、大きなカートは既に仙道が入れた商品で半分以上埋まっている。
「好きなんですよねー、ホームセンター。ついいろいろ欲しくなる」
言いながらも仙道はキョロキョロ辺りを見渡して落ち着かない。放っておいたらいくらでもカートに商品を詰め込みそうで、牧は先に立って歩き始めた。
「いいからもう壁紙のとこ行くぞ」
「はいはい」
それでもまだあちこちに気を取られる仙道をせっついてようやく壁紙の売り場に辿り着く。筒状に巻かれた長い棒状のものがいくつも並び、牧はその中の手前のものをとりあえず手に取って首を捻った。なかなかに大きくて、壁であれば貼るやり方もなんとなくわかるが、天井となるとどうするのか見当もつかなかった。
「これは…」
「天井なんて自分で貼れる気がしませんね」
「やっぱり業者に頼むか」
「うーん…」
仙道はキョロキョロと周囲を見渡し、また何かに気を取られたように壁紙売り場の前を離れる。と思うと、また長い形状のしなっている木のようなものを持って戻ってきた。
「それは?」
「なんちゃって梁ですよ。ほら、軽いの。これを剥がれた壁紙の合わせ目沿いに貼っていくの。俺やりますよ」
「うーん?どうかな…」
「天井にあるからニセモノって気が付かないですよ。割とリアルだし」
ほら、と言って仙道がそれを両手で持ち上げて見せる。190㎝と長身の仙道が両腕を伸ばして持ち上げると、逆光も手伝って確かに本当の木だかなんだかわからないようではある。
「応急処置にしてもいいし。気に入らなかったら業者に頼めばいい」
「うーん…そう…か?」
「よし、ホッチキスも買わないと」
「ホッチキス?」
「これを留める壁用のデカいやつですよ」
そう言うと仙道はまたポイポイと商品をカートに詰め込んで、軽い足取りでカートを押して行くのに牧は溜息をつき、その後に続いた。
結局「自分の欲しいもんだから」と、仙道がホームセンターでの会計を済ませ、帰り道にスーパーに寄って食材を調達し、家の近くに着く頃には正午に近くなっていた。
「やっぱり馬力違うと運転しやすいね」
牧の車を運転したがった仙道に帰り道の運転は任せた。
「俺も買い替えようかなー」
嬉々として運転している仙道の横顔からは本心が読めなかった。
いきなり訪ねてきて滞在の予定も言わず、ところどころ探るような言葉を含ませて二人が昔通りであることを殊更装っているように感じられた。
牧は窓についた手に顎を乗せて外を眺めた。この最後のカーブを曲がれば景色が一気に開ける。
一度この海の波に乗ってみたいと思って訪れた場所で迷いこんだ。うろうろとさ迷っていつの間にか高台に上がり、開けた景色に息を飲んだ。
似た光景を西の海で見たことがあった。古本屋でまとめて仕入れたモームの短編集も読み終わり、1人で泳ぐことにも飽きてきた頃合いに仙道から「どうしてますか?」と電話が来た。見ていたような口調に苦笑がもれて、同じ国にいるなら、と声をかけていた。仙道はもう国内便も終わった時刻に寝台列車に飛び乗って、本当に牧が休暇を過ごす島にやってきた。フェリーに電車ごと乗せるなんてスゲー!子供みたいに笑って、「来ました。ご褒美は?」と強請る顔がどうしようもなく愛しくなって、やめておけという理性を無視した。
こいつもそんなことを思い出す時があるのだろうか。
ふと仙道を見やれば、こちらを見た目と合った。
昼食の準備ができたと仙道を呼びに玄関先に出て見当たらず、振り返ると色が深く変わったような家を見て、思わず牧は「おおー」と唸った。薄くほぼ全面を覆っていたコケが払拭されて、焦げ茶の色褪せてはいるが杉板の深い色味が出ていた。そういえば不動産屋が少し手入れすれば復元できるとかなんとか、そんなようなことを言っていた。コケも味があっていいくらいに思っていたが、何か出そうな陰気な雰囲気であったことも確かだった。
「どうですか」
自慢気な声が聞こえてきて振り返ると、ほぼ全身濡れた仙道がホームセンターで見た深緑色のポリタンクのような物を片手に立っていた。高圧洗浄機といったか、確かに効果はあるようだった。仙道の足元で喜んで走り回っている犬もびしょ濡れで、遊んでいたことは明らかながら家が見違えたことも確かで、牧はそのままを口に出した。
「…うん、きれいになったな。見違えた」
「でしょ?次は天井やりますか」
「その前に飯だ。シャワーでも浴びて着替えたらどうだ」
「ああ、うん。そうだね」
自分の格好を見下ろして仙道が笑う。朝には上がっていた前髪もぐっしょりと濡れて額に張り付いていた。
「おまえも来いよ」
仙道の言葉に犬が吠えて後に続く。
「あ、そこの横の勝手口から直に風呂場に行けるぞ」
「リョーカイです。キャプテン」
軽口に笑いを返すのが一瞬遅れた。仙道はそれを流して家に入っていった。
何かと懐いてくる男だった。遠巻きにされていると感じることが多い中で、一つ頭が抜け出た長身で屈託のない笑みを向けてきた。
知能と身体能力に恵まれて、外見も良く、勘も度胸も他とは一線を画していた。そんな男を取り巻く周囲もまた華やかなもので、それが気付くと隣にいて笑いかけてきた。相応に野心もあるからだろうと適当にあしらっていたら、思いもかけずに真っ直ぐに想いをぶつけてきた。
人と関係を持てば必ず終わりは来る。何度か苦い思いをした中でもう十分だと深く関わることはこれまで注意深く避けてきた。それをあの男は軽々と乗り越えていつの間にか懐深く入り込んできていた。
一度入り込んだものを抜き出すには体力も使うし痛みも伴う。それは既に乗り越えてきたと牧は仙道がこの家を訪ねてくるまで思っていた。が、今がその時なのか自分でもわからずに、また突然に入り込んできた存在を受け入れ繰り返すのか、と自問して昨夜は深更まで過ごした。
牧は水を受けて再び元の姿を取り戻した外壁に手をやった。木の芳香まで感じられるような色合いはあの男がまた引き出したものだ。
一歩二歩引いてダイニングの天井を見上げる。折り上げ天井の奥まった壁紙の合わせ目の剥がれていた箇所は、打ちつけられた建具材料で見た目にはわからなくなっていた。
「うん、いいな」
「ね、ちょっと山小屋みたい」
「海しかないけどな」
「まあまあ」
仙道も牧の隣に来て並んで、腕を組んで自画自賛状態だった。
「あとはー」
部屋を振り返りリビングをジロジロと眺める。
「やっぱり壁紙かなー。前に住んでた人はタバコ吸ってたんですかね」
陽に焼けたのか仙道の言う通りに脂なのか、確かに壁紙に薄く黄色に変色して見える箇所はあった。
「ここまでやってくれれば宿代としては十分だ。…何日いるんだ?」
「あー、できればあと4日くらいいさせてもらったらうれしいかなーと」
気になっていた予定を問えば、用意していたような言葉が返ってきた。こちらに判断を任せるようでいて、牧に断られない自信があるようにも聞こえた。
「なんだ、長い休みを取ったな。どこか行かなくていいのか?」
「ここに来るために取ったんですよ」
壁を見上げていた仙道がこちらを振り返った。少し上にある仙道の顔。牧がそれから目を逸らすとまた薄っすらと汗をかいている首筋が目に入った。
薄く開いた唇にキスをすればまた関係は始まるのだろう。仙道がそれを求めているのはわかる。
牧はリビングの天井近くを指さした。引越し前にハウスクリーニングはかけたが、年季の入ったそれは明かりを点けてもどこか薄暗く感じられた。別荘使いをしていた家で、家具から照明器具までそのまま引き取ってくれと売主に頼まれて何も考えずに引き受けたが、なによりシャンデリアは牧の趣味に合わなかった。
「…照明器具を変えようかと思っている」
「ああ、あれ。牧さんの趣味じゃないと思ってた」
笑って仙道は頷いた。
「オッケー。明日は電気屋ですね」
「…うん、そうだな」
「天井高あるしシーリングファンついてるやつとか良さ気ですよねー。シャンデリアがぶら下がってるくらいだから補強もしてあるだろうし」
時代がかったシャンデリアを見上げて仙道がぶつぶつと呟いている。
このままではいられないのだろうか。
牧は仙道の笑顔を見て思う。
『おまえは一体どうしたいんだ?』
口を開きかけて出せなかったその言葉は牧自身に向けられたものかもしれなかった。
「おまえまた汗かいただろ。風呂入って来い。今日は俺が夕食準備するから」
「すいません。じゃあ甘えちゃおうかな」
「おう、行ってこい」
「はーい」
仙道は何か言いたそうで言わないのは、自分がその話題を避けているからだと勘づいているからだろう。頭も気もよく回る男の優しさに自分は甘えている、と牧は顔を顰めた。仙道の意志は再会したときのキスであるとしたら、俺は?と考えて、牧は髪をかき上げた。
以前の仙道であれば、話題を避けていればそれを年下の甘えのフリをして容赦なく突いてきた。今それをしないのは過去に俺を傷つけたからだと思っているのか、未だそのことについて怒っているからだと考えているからかもしれない。少しづつ距離を取って仙道の手の届く範囲から消えたのはそんな理由からではなかった。己の怯懦に気づかされたことは確かだとしても。
牧は台所に足を運び、買い出しの時に仙道が希望の料理を話しつつ手に取ったものを思い出し、それらを冷蔵庫から取り出した。それからまた思い出して、ビニールの買い物袋から新聞紙に包まれたワイングラスを2客づつ取り出した。ホームセンターで仕入れたそれは大した値段のものではない。
「赤用と白用。とりあえずね」
仙道が言いながらカートに入れたのは計4客。新聞紙から取り出してシンクに置き、洗いながら脇の食材を眺めた。今日は白かな、と考え、白用のグラスを手前に水切りカゴに伏せる。大きな柵で買ったサーモンはいつの間にかマリネされてそのまま焼くだけになっていた。マメなやつだな、と思う。気が回り過ぎて、牧は困る。
食後の酔いに上機嫌な男は「少しやりましょう」と言って、書棚に並べてあるボトルの中から未開封のグレンフィディックを選んだ。
「おまえ、少しは遠慮しろ」
本気で咎めたつもりもなく、ただあっけらかんと思いのままに行動しているような仙道に苦笑が漏れると、「え?ダメ?」と振り返った眉が下がっていた。
「いや、いいさ」
大したものではない。グラス二つを籠から取ろうとして、ふと牧の手が止まった。聡い男のことだからこのグラスには疾うに気づいて、それでも口には上らせないのだろう。後生大事に取っていたわけではないが、訪れた東欧の国でグラスを選んでいたときの仙道の言葉は忘れられなかった。携えて家に持ってやってきたときの表情も。それまではふざけているのだろうと、適当にあしらっていた告白を聞き流すには仙道の顔は真剣に過ぎて、その時初めて自分の中にこの男の居場所を作ったのかもしれない。
使う切欠を逃し、ここに動いたときに少し迷って荷物の中に入れた。今ではすっかり手に馴染んで、全てをこれに頼っているときに仙道に見られたことに少し後悔する。話題に上らせるのも今更で、冷凍庫から氷を取って入れ、仙道がボトルを下げて先に座った和室の濡れ縁の藤テーブルの上に置いた。先住人が置いたままになっていたテーブルは、犬に齧られて足元の蔓が少し解けていた。
「こういうの昔の温泉宿でよく見ましたよね」
「そうだな」
処分しようか迷ってそのままになっていた椅子は、仙道の体重を受けてギイと古い音を立てて撓った。
封を切った始めのいい音をさせてグラスが琥珀色の液体に満たされ、グラスを合わせた。昨夜は笑って、「乾杯」と言った仙道は今日は何も口にはせずに、すぐにグラスを口元に寄せた。それに何か呟いているように見えたが、そうではなく小さく歌を口ずさんでいるようだった。
「海に浮かんだ月を見るとね、なんかこの曲思い出す」
聞いていてもしばらくは何を歌っているのかはわからなかった。言葉の中にそのまま月夜の海みたいだ、と出てきて、なんとなく聞き覚えがあると思った。そういえばあの頃に流行った曲ではなかったのか。
And it's like the ocean under the moon
It's the same as the emotion that I get from you
You got the kind of lovin' that can be so smooth
Give me your heart,make it real or else forget about it
「なんてね」
仙道は膝の上に腕をついてグラスを両手に持ち、しばらく顔を伏せて恥ずかしさに耐えているようだったが、照れている仙道を前にした牧も対処に弱った。存外に二人で酔いが回っていたらしい。夕食の時に空けたワイン2本が今頃効いてきたか、とは口にしないで代わりにグラスに口をつけて困って視線を海に投げた。口にした言葉が本気であるにしてもはぐらかされているようで、牧にも答えることはできなかった。
「酔っちゃったかなー」
言葉とは裏腹に手に持ったグラスの中身を勢いよく開けて仙道は立ち上がった。
「水もらいまーす」
グラスの淵を片手で下げ持って歌を続けながら、曲に合わせて緩く体を揺らせて台所までの距離を仙道は裸足で踊る。お道化ているようで、揺れる背と腰と、グラスを下げた指がひどく扇情的に映って、牧はまた困り、同じようにグラスの中身を干した。