このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

フレンチキス




「牧さん…牧さーん?」
 酔って寝てしまった男の肩に手をかけて、軽く揺すってみる。隣の席の飛行機恐怖症の男はすっかり寝入ったようで、少し待ってみても返事はなかった。
 精悍に整った顔のきれいに灼けた褐色の肌を持つ男は、仙道が座席の脇に立った時、その男前が見るも無残に青ざめて怯えていた。育ちも良さそうに整えられた外見から、さぞかし人を上から見る人間だろうと思っていたら、意外に素直で取っ付きやすく、少し優しくしただけの見ず知らずの自分に、なぜそんなにも苦手な飛行機に乗る羽目になったのか、酔って滑りのよくなった口で聞かせてくれた。
 曰く、出張した恋人が1週間も経たない内に、「他に好きな人間に出会ってしまった。もう家には帰らない」と一方的に別れを伝えてきた、という。他に好きな人間が出来てしまったのは仕方ないが、突然仕事も辞めて、住んでいた実家にも帰らず、親に心配をかけるようなことをする人間ではない、と牧は困ったように、だが信頼を置く者に対する愛情を感じさせて言った。
「そんなのよくある話じゃないですか」
 少し言葉に意地の悪い調子を混ぜて茶化して返すと、怒るかと思った牧は心配を余計に顔に出した。
「いや、あいつほとんど酒は飲めないんだ。なのに声が大分過ごしている様子だった」
 出張先の仕事は全てこなしてから辞めると言っていたが、あともう一日しか出張の期間はない。取り敢えず宿泊先のわかっている期間内に一刻も早く会いに行って話しを聞くしかない。
 酔って舌足らずな口ながら、どこか困ったように時折目を泳がせて言葉を探しつつ話す内容は、それでも自分が会ったばかりの他人だということを思い出して、少しづつ真実とは異なるのだろう。酒に強いような印象で、この男も案外に弱い。
 年は大分上に見えたが、これも意外なことに自分より一つ上なだけだった。だが、話せばあまり世間ずれしていないような様子から、すぐ年相応に見えてくる。
「なら、タメ口でいいですよ」と仙道が言うと、牧は「そんなおかしなシャツ着て、年上をたてるタイプかぁ?」と、どこまで自覚しているのか、酔って大分砕けた口調で、少し赤くなった顔をくしゃっと崩して笑った。そうすると固いイメージがさらに崩れ、年上の男がかわいくすら見えて、仙道は瞬間その表情に目を奪われた。仙道は思い出して笑い、小さく口を開けて眠る男の、あどけなくも見える頬に指で触れた。
「ん………ノブ…」
 眉を寄せて譫言に牧が、名前を呟いた。
 夢にまで見るのはその心変わりしたという恋人なのか。
 仙道は牧から指を離し、席を立って頭上の荷物入れから自分と牧のカバンを取り出した。もう一度牧の方を伺い寝ていることを確認して、自分の荷物から取り出したものを、牧の鞄の奥へと押し込んだ。



 牧はもう一度手の中のメモを見た。住所と名称は合っている。だがいかんせん人が多い。
 どうやって探したものか途方に暮れて、ホテルのロビーからビル内部の上方を仰ぎ見た。大きなホールはかなりの上階まで吹き抜けていて、そこを何本ものガラス張りのエレベーターが何人もの客を乗せてひっきりなしに上がったり下がったりを繰り返している。
 しばらく途方に暮れて眺めていた時、その中の一つに目が止まった。見覚えのあるような動きの多い男と、目を引くほどに背の高い男が乗っている。
 確信できずに牧が目を細めて見つめていると、二人の前に乗っていた乗客が降りエレベーターが上昇を始め、二人きりになった箱の中で背の高い男がもう一人の男の腕を掴んで引き寄せ、顔を近づけた。引き寄せられた方も嫌がることなく、むしろ積極的に体を寄せて、二人はエレベーターの中でかなり熱烈なキスをし始めた。
「信長?!」
 あまりにも簡単に探していた男を見つけた牧は、思わず声を上げた。ここで名前を叫んでもエレベーターの中まで聞こえない。慌てて駆け出した時に、反対からきた荷物を積んだポーターのカートと腕がぶつかった。持っていた旅行鞄が手から離れ、落ちたところを知らない人間の手が鞄を掴んだ。と見る間に、その男は背を向けて走り始めた。
「あっ、待てっ!」
 スリか?と焦るが、信長の方も気になる。が、荷物を旅行先で失くしてしまうわけにもいかず、仕方なく盗んだ男の方を追いかけると、横からその背に体当たりをかけた男がいた。スリは持ってきた鞄ごと倒れて、その男の下敷きになり苦しそうな顔で悪態をついている。牧はようやくそれに追いつき、男に頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます。助かった」
「いいえ、牧さんのためなら」
「…え? あ?」
 特徴のあるツンツン頭に、悪趣味に派手な目立つ姿。
 機内で牧が飛行機が止まっていることに気づいて起きると、既に隣に男の姿はなかった。世話になった礼を一言でも言おうと目で探したが、 降りる支度をする乗客の中にもそれらしき長身はいなかった。
 手荷物だけの持ち込みで出口に向かった牧は、そこで探していた男の姿を見つけた。平均より高い身長の自分より背の高い仙道を、さらに見下ろす大男に引き摺っていかれ、そこで荷物のチェックと身体検査を受けさせられていた。その大男とは知り合いのようで、終始ヘラヘラと笑い親し気に喋りながら、しかし壁に両手をつかされて靴の中までチェックを受けている。
 やっぱりまともな男じゃない。
 見ていると仙道がこちらを向き、牧に気づいて悪戯気にウィンクしてみせた。牧は面喰らい、無視して背を向け出口に向かった。
 その男が今なぜかスリの上に座って自分を見上げている。
「おまえ…仙道?」
「覚えててくれました? うれしいなあ」
 這い出そうとするスリの背中を長い足で面倒そうに蹴り、仙道はまたあの人懐っこい笑みを浮かべた。
「はい、これ牧さんのでしょ?」
 奪われた旅行鞄を仙道が手に持って差し出してくる。
「ああ、ありがとう…」
「いいえ」
 ようやく駆け付けてきた警備員がスリを取り押さえたところで、仙道はよっと声を上げて意外に機敏な動作で立ち上がった。事情を聞こうと声をかけてくる警備員に、「急ぐんで。すみませんー」と振った手を背に添えられて、牧はいつの間にか集まっていた人混みから連れ出された。
「いやー偶然。牧さん、ここにお泊りですか?」
「ああ、いや、違う。さっき言ったヤツを探しに来たんだ」
「ここに? 見つかりました?」
「見つかったんだがこの騒ぎで見失った」
「ここに恋人さんが泊まってたんならホテルに聞けばなんかわかるかもー」
 そう言うと、仙道はさっさとレセプションの方に足を向けた。
「おい、おまえはいいって」
「乗りかかった舟ですから」
 そう言うと、仙道はカウンターに肘をかけて、寄ってきたホテルの人間にニッコリと微笑んだ。
 カウンターの中の人間は初老の男で、仙道の笑みにも要らない笑いを返しはせずに、業務用に口の端を少し持ち上げただけだった。
「ここに泊まってた人間の行き先が知りたいんだけど。えーと?」
「清田信長といいます」
 自分を振り返った仙道の後を引き継いで、牧が探し人の名前を言った。仙道の眉が少し動いたのが視界の端に見えた。がすぐにカウンターに乗りだして後を引き継ぐ。
「そうそう、その人」
「大変申し訳ありません。お客様の個人情報をお伝えするわけにはまいりません」
「…ちょっといいかな」
 言葉に詰まった牧の前に仙道は割って入った。レセプションの人間に指で端に呼び寄せる。牧も行こうとすると、笑顔の仙道に手のひらを向けられて足を止めた。二人で話している様を所在なく見ていても声は聞こえてこない。
 信長のことも気になるし、脅している様子もないので、ちょっとの罪悪感には目を瞑って放っておくと、仙道がニコニコしてまた牧の前に戻ってきた。
「行きましょっか」
「え? でも、」
「さっきチェックアウトして北海道に向かったそうです。洞爺湖だって。恋人と二人でバカンスに行くって、うれしそうに話してたそうですよ、恋人さん」
「え? 北海道?!」
 レセプションを振り返ると、対応してくれていた初老の男は牧と目が合うとギョッとしたように、奥へと背を向けた。
「…教えてくれたのか?」
「ええ、気の毒に思ってくれたらしくて。特別に」
 胡乱気に見上げても、仙道は害のないような笑顔を浮かべるばかりで、牧は息をついた。だが今は信長を捕まえることが先決だと腹をくくった。
「よし、行くか」
「はい!」
 独り言を言ったつもりが、仙道に返事をされて牧は眉を顰めた。
「おまえが来る必要はないぞ? …今からだと今日中には着けないな」
 言い置いて、夕暮れの日が射す窓を見て牧は腕時計を確認した。
「え、まだ飛行機ある時間でしょ」
「電車で行く」
「…は? 電車…!? 今から!?」
「もちろん。もう行く場所はわかってるから急ぐ必要はない。地に足をつけて行く」
「だって飛べば2時間もかかんないのに…」
 言いながら、仙道はモバイルを取り出してなにやら操作し始めた。
「11時間46分!? うそだろ? 新幹線使ったとしてもこんなにかかるよ? 着くの明日になっちゃうよ?!」
「おまえには関係ないだろう」
「え、一緒に行きますよ? 牧さん心配だもん」
「は?」
 牧は足を止めて仙道を振り返った。
「なんでおまえがついて来るんだ?」
「まあまあ。ちょうど北海道に用があったんですよ。ここまで来たら一緒に行きます」
「…物好きなヤツだな」
「よく言われます」
 何の魂胆があるのか知らないが、2度までも助けられたことは確かだった。拒絶の言葉を口に出しかけて、牧は考えるように眉を寄せた。
「…邪魔するなよ?」
と念を押せば、「もちろん!」と笑って、仙道はまた笑った。



 新幹線の背もたれのテーブルに倒して買いこんできたビールと夜食を乗せると、牧はまた渋い顔をした。
「なんでここまでする?」
「んー、牧さんちょっと好みのタイプかなーって応援したくなって」
 ホテルのフロントで牧が口にした名前に驚いた。それなりに世間を渡ってきた自分から見た牧がゲイには見えなくて、しかしそうであるならば自分も男である以上、利用しない手はない。が、牧は仙道の言葉を聞くと困ったように眉を寄せた。
「俺はゲイじゃないぞ?」
「え、だって恋人さんノブナガって。男の名前ですよね?」
「あー…、」
 牧は困ったように視線を彷徨わせた。
「いろいろとわけがあるんだ」
「そうなんですか?」
 さすがに素面では言葉に乗せにくいようで、それならば、と仙道は牧の分のビールのプルタブも引き開けて持たせ、「牧さんが恋人と早く会えますように。はい、カンパーイ!」と調子よく缶を合わせた。
「…いきなりずっと好きだったと告白されたんだ。お試しでいいから付き合ってくれ、と」
 仙道の思惑以上に申し訳ないほどに、牧は全く酒に弱かった。一缶空けると、こちらから水を向けなくても赤く染まった頬でポツポツと語りだした。
「そんなの突き放せばよかったのに」
「そんなわけいくか。信長はかわいい…弟みたいなもんなんだ…。それが懸命に想いを伝えてきて」
「ふーん」
 それで人と付き合うなんて自分にはわからない。牧は真面目な身なり以上に真面目な物の考え方をするようで、こういうところは少しぶっ飛んだ大胆な性格をしているのかもしれない。
「おまえはとことん不真面目そうだな!」
 こちらの考えを読んだわけでもなさそうだが、酔って潤んだ目で睨まれて仙道はハンズアップした。
「そんなことないですよー。俺は至って真面目です」
「真面目なヤツがそんなナリするか」
「えー外見は関係ないじゃないっすかー」
「おまえ恋人は?」
 突然、凄まれるように聞かれて、「いません。今は」と答えると、「ふーん…」と胡散臭そうにまた睨まれる。
「おまえは好きじゃないヤツとでもキスできそうだな」
「はい? まぁ…必要であれば…」
「ふん、そうだと思った。必要ってなんだ必要って」
 聞かれておいて随分な言いようだと苦笑が漏れる。が、怒っていたその顔が急に悲し気に歪められた。
「キスぐらいしてやればよかった」
「は?」
 聞き違えたか、と隣の牧を見返すと、もう牧は目を閉じて寝落ちてしまったようだった。
 なんのことはない。
 弟のようにかわいがっていた男に告白されて、押し切られて付き合ったが、推測するにキスも出来ずにその男は傷ついたか呆れたかで逃げ出したわけだ。
 そんなの放っておけばいいのに。面倒がなくなって自分なら大喜びだ。逃げられるのが却って面倒と思うのならば、キスぐらいしてやればいい。でもそう言うと、「キスはそんな簡単なもんじゃない」と返してくる牧の真剣な顔が容易に想像できた。
 仙道はなぜだか苛々してくる頭を切り替えて、手に持っていたビール缶を飲み干してテーブルに置き、牧の荷物を目で確認した。
 あの時と同じカバンは、牧が座っている窓際の席の肘掛けの上に置いてある。荷物を入れ替える時間はなかったから、自分が忍ばせたものにもまだ牧は気づいてはいないだろう。もう一度、牧の様子を確認するが、すっかり寝入ったようで小さく寝息まで聞こえてくる。
 仙道は周囲を見渡し、そっと牧の肩に腕を回すようにして、背後から窓際に置かれている鞄に手を伸ばした。手探りで把手に指が触れ、もう少しで掴める、という時に、窓にもたれていた牧の頭が揺れて自分の体へと向き、仙道は動きを止めた。が、牧は頭の向きを変えても起きる様子はない。安心してまた仙道が腕を伸ばそうとすると、牧は仙道の肩に顔を擦り付けるようにして機嫌よさそうに口の端を上げた。
 自分の肩に頭を預けて上向きに目を閉じる牧の顔を仙道はしばし見つめた。彫りの深い男らしい顔。左目の下に黒子。起きているとキツいようにも見える表情は、目を閉じているとぐっと幼い様子さえ感じさせる。
 引き寄せられるように、少し顔を近づけると鼻が触れ、穏やかな寝息が自分の口元を柔らかく撫でた。その唇が薄く開いているのに気づく。仙道は至近距離の牧の顔を眺め、唇を近づけた。触れると唇に強い刺激が走ったようだった。少し驚いて牧の顔を見つめ、また誘われるようにその唇に触れると、牧は喉の奥を機嫌良さそうに鳴らし、するっと舌が絡みついてきた。思わず仙道は夢中で応えていた。ひとしきりキスを味わったとでもいうように牧は機嫌のよいままの顔を離し、仙道の肩に顔を埋めて寝入った。仙道は伸ばしていた腕の先に触れていた鞄から手を離した。もう一方の片手で立たせた髪を掻きあげようとして、できずに目を瞬いた。
 夢の中でノブナガ君にしてやったのかな。
 腕の中で眠る牧の穏やかな顔を仙道は見降ろした。
 お堅いようでいて人並み以上にキスが上手い。牧の容姿と年齢を考えれば当然のことなのかもしれないが。仙道は自分の唇を無意識に撫でていて、それに気づいて手を離した。
 親御さんに申し訳ないとか言って、案外、未練があるのは牧の方なんじゃないのか。
 少しつまらなくなって、仙道は目を閉じた。


2/7ページ