フレンチキス
機内に一歩足を踏み入れたときから、牧は激しく後悔していた。
いや、その前からだ。
空港に到着したときから。
いや、家を出たときから。
いや、そもそも飛行機なんかで行こうと思ったときから。
体が強張り、冷たい嫌な汗が背中を伝う。気を紛らわせようと、目の前の機内誌に手を伸ばそうとして、肝心の手が強張って動かないことに牧は気づいた。
落ち着け。
息を吐き出し、右手を動かそうと試みる。
ひじ掛けから意思の力でなんとか親指を離し、次は人差し指を、と思ったところで、上から声がかかった。
「すみません、そこいいですか?」
ちょっと困ったような声をかけてきたのは、右側の隣席の人間か。牧は焦って自分の手を肘掛けから動かそうと努めた。だが、意思に反して自分の手はピクリとも動いてくれない。
「えーと。すみません…?」
「ああ、すみません。今、手をどかします」
強張った笑顔をなんとか作り、声をかけてきた男を見上げて謝る。男は人懐っこい顔で笑い、「ごゆっくり」と言ってきた。
気を遣った言葉なのだろうが、ゆっくりと言われるとますます焦る。右手を動かすことを諦めて、左手を動かそうとするとやっぱり持ち上がらない。気を紛らわせようと窓の外を見ると、巨大な翼が目に入って足に震えまできた。
「手伝いましょうか?」
「は?」
言うと、男は上体を屈めて隣席の座席の上のシートベルトをどかして、左手で牧の手を握った。 腕は動かなかったことがウソのように軽く持ち上がり、男は牧の手を握ったまま席についた。
「あ…りがとう」
「いいえ」
「あの…」
「はい?」
「手を…」
牧の手は男に握られたままだった。「ああ、」と男は気付いたように言って、それでも離すそぶりを見せない。ニッコリ笑った男前の顔を牧に向けて、信じられない言葉を吐いた。
「よかったらずっと握っていましょうか」
「…は?」
「飛行機。怖いんでしょ?」
「なっ!」
思わず牧は絶句して、それから首を振った。
「大丈夫です! 大丈夫」
「そうですか?」
男はまた笑い、あっさりと手を離した。動くようになった左手が、男から逃げるように動いた右手を迎えて、しっかりと両手を腹の上で組んだ。
大丈夫、大丈夫。
男に言った言葉を自分の頭の中で繰り返す。
牧は飛行機が苦手だった。なぜ、と言われても自分でもわからない。気が付いた時にはとにかく苦手だった。切羽詰まった重要な用事がなければ死んでも乗っていない。
自分の左頬がヒリヒリする。さっき見てしまった翼のせいだ、と気が付いて右に向けたいが、右隣の男もちょっとどこかおかしい。
丁寧な言葉遣いでこちらを気遣うような素振りを見せるが、ナリがもうドラマや映画で見るようないかにもなチンピラだった。ド派手なシャツを着て、開け過ぎたボタンの胸には昔ヤクザ映画で見たような喜平打ちの金のネックレス。サングラスを開いたシャツにかけているから意外にしっかり筋肉がついている胸が大分露わになっていて、髪の毛は逆立ててバリバリに固められている。整い過ぎて優し気に甘く垂れた瞳が、余計に胡散臭さを強調させている。
牧は目を逸らしたい翼と男でいっぱいいっぱいになりならが、ようやく目の前の機内誌に手を伸ばした。適当に開くと空を飛ぶ飛行機の写真が目に飛び込んできて慌てて閉じた。その時、機体が揺れた。
いよいよだ。
牧は観念して目を閉じた。
寝よう。寝てしまえばその間に目的地に到着しているはずだ。
加速していく機体がそんな牧の願いをあざ笑うかのように、大きな音を立てて更にスピードを増した。
「うわっ?!」
体に感じたことのないGを受けて思わず声を上げて、隣の男と目が合った。
ニッコリと微笑まれて、「手?」と聞かれる。それに牧はただ首を必死に横に振った。
順調に航行中である、という旨の機長からのアナウンスが入り、牧はようやく固く組んでいた両手を解いた。それでもまだ背中の悪寒は消えない。隣の男は、シートベルト着用のサインが消えるとすぐに立っていって、そのまままだ戻ってきてはいなかった。
なんで俺がこんな目に。
泣きたくなりながら外に目をやりかけて慌てて戻した。空なんか…雲なんか見えてしまったら。地上が見えてしまったら。自分がどこにいるのか実感しかかって尻と足元がむずむずし始めて、また手が無意識に伸びて肘掛をきつく掴んだ。その牧の目の前を長い腕がすっと伸びてきて、窓のブラインドが閉められた。
「これ。どうです?」
先刻の隣席の男だった。ウィスキーのミニチュアボトルを何本か片手の指に挟んで、牧の目の前で振った。もう一方の手には重ねた紙コップを持っている。
「それ、どこで…」
ここはエコノミー席だった。そんなものはもちろん出ない。
「うん、ちょっと」
その時、通路のトイレ脇に立っていたCAと目が合った。笑顔で手を振られて、知り合いではないよな、と思い隣の男に目をやると、男はニコニコ笑いながらCAに手を振り返していた。
なるほど。
牧は憮然として、顔を正面に戻した。
「少し飲めば気が楽になりますよ。寝やすくなるし」
「あ、あぁ…」
手段はどうあれ気を遣ってもらってきてくれたらしい。それは伝わって、牧は小さくうなづいた。
「…申し訳ない」
「そんな固いこと言わないでください。俺、仙道っていいます。お近づきのしるしに」
「ありがとう…いただきます…。俺は牧といいます」
紙コップを並べて、おもちゃのように小さな元の瓶を象ったウィスキーを開けてそれぞれに注ぎ、紙コップを手渡された。酒はあまり強くない。ストレートでは飲んだことがなかった。アルコールの強い匂いが鼻孔の奥にまで届く。だが仙道と名乗った男の言う通り、酔えば気が紛れるかもしれなかった。
「かんぱーい」
笑顔で紙コップを差し出されて、牧もそれに小さく当てた。
いや、その前からだ。
空港に到着したときから。
いや、家を出たときから。
いや、そもそも飛行機なんかで行こうと思ったときから。
体が強張り、冷たい嫌な汗が背中を伝う。気を紛らわせようと、目の前の機内誌に手を伸ばそうとして、肝心の手が強張って動かないことに牧は気づいた。
落ち着け。
息を吐き出し、右手を動かそうと試みる。
ひじ掛けから意思の力でなんとか親指を離し、次は人差し指を、と思ったところで、上から声がかかった。
「すみません、そこいいですか?」
ちょっと困ったような声をかけてきたのは、右側の隣席の人間か。牧は焦って自分の手を肘掛けから動かそうと努めた。だが、意思に反して自分の手はピクリとも動いてくれない。
「えーと。すみません…?」
「ああ、すみません。今、手をどかします」
強張った笑顔をなんとか作り、声をかけてきた男を見上げて謝る。男は人懐っこい顔で笑い、「ごゆっくり」と言ってきた。
気を遣った言葉なのだろうが、ゆっくりと言われるとますます焦る。右手を動かすことを諦めて、左手を動かそうとするとやっぱり持ち上がらない。気を紛らわせようと窓の外を見ると、巨大な翼が目に入って足に震えまできた。
「手伝いましょうか?」
「は?」
言うと、男は上体を屈めて隣席の座席の上のシートベルトをどかして、左手で牧の手を握った。 腕は動かなかったことがウソのように軽く持ち上がり、男は牧の手を握ったまま席についた。
「あ…りがとう」
「いいえ」
「あの…」
「はい?」
「手を…」
牧の手は男に握られたままだった。「ああ、」と男は気付いたように言って、それでも離すそぶりを見せない。ニッコリ笑った男前の顔を牧に向けて、信じられない言葉を吐いた。
「よかったらずっと握っていましょうか」
「…は?」
「飛行機。怖いんでしょ?」
「なっ!」
思わず牧は絶句して、それから首を振った。
「大丈夫です! 大丈夫」
「そうですか?」
男はまた笑い、あっさりと手を離した。動くようになった左手が、男から逃げるように動いた右手を迎えて、しっかりと両手を腹の上で組んだ。
大丈夫、大丈夫。
男に言った言葉を自分の頭の中で繰り返す。
牧は飛行機が苦手だった。なぜ、と言われても自分でもわからない。気が付いた時にはとにかく苦手だった。切羽詰まった重要な用事がなければ死んでも乗っていない。
自分の左頬がヒリヒリする。さっき見てしまった翼のせいだ、と気が付いて右に向けたいが、右隣の男もちょっとどこかおかしい。
丁寧な言葉遣いでこちらを気遣うような素振りを見せるが、ナリがもうドラマや映画で見るようないかにもなチンピラだった。ド派手なシャツを着て、開け過ぎたボタンの胸には昔ヤクザ映画で見たような喜平打ちの金のネックレス。サングラスを開いたシャツにかけているから意外にしっかり筋肉がついている胸が大分露わになっていて、髪の毛は逆立ててバリバリに固められている。整い過ぎて優し気に甘く垂れた瞳が、余計に胡散臭さを強調させている。
牧は目を逸らしたい翼と男でいっぱいいっぱいになりならが、ようやく目の前の機内誌に手を伸ばした。適当に開くと空を飛ぶ飛行機の写真が目に飛び込んできて慌てて閉じた。その時、機体が揺れた。
いよいよだ。
牧は観念して目を閉じた。
寝よう。寝てしまえばその間に目的地に到着しているはずだ。
加速していく機体がそんな牧の願いをあざ笑うかのように、大きな音を立てて更にスピードを増した。
「うわっ?!」
体に感じたことのないGを受けて思わず声を上げて、隣の男と目が合った。
ニッコリと微笑まれて、「手?」と聞かれる。それに牧はただ首を必死に横に振った。
順調に航行中である、という旨の機長からのアナウンスが入り、牧はようやく固く組んでいた両手を解いた。それでもまだ背中の悪寒は消えない。隣の男は、シートベルト着用のサインが消えるとすぐに立っていって、そのまままだ戻ってきてはいなかった。
なんで俺がこんな目に。
泣きたくなりながら外に目をやりかけて慌てて戻した。空なんか…雲なんか見えてしまったら。地上が見えてしまったら。自分がどこにいるのか実感しかかって尻と足元がむずむずし始めて、また手が無意識に伸びて肘掛をきつく掴んだ。その牧の目の前を長い腕がすっと伸びてきて、窓のブラインドが閉められた。
「これ。どうです?」
先刻の隣席の男だった。ウィスキーのミニチュアボトルを何本か片手の指に挟んで、牧の目の前で振った。もう一方の手には重ねた紙コップを持っている。
「それ、どこで…」
ここはエコノミー席だった。そんなものはもちろん出ない。
「うん、ちょっと」
その時、通路のトイレ脇に立っていたCAと目が合った。笑顔で手を振られて、知り合いではないよな、と思い隣の男に目をやると、男はニコニコ笑いながらCAに手を振り返していた。
なるほど。
牧は憮然として、顔を正面に戻した。
「少し飲めば気が楽になりますよ。寝やすくなるし」
「あ、あぁ…」
手段はどうあれ気を遣ってもらってきてくれたらしい。それは伝わって、牧は小さくうなづいた。
「…申し訳ない」
「そんな固いこと言わないでください。俺、仙道っていいます。お近づきのしるしに」
「ありがとう…いただきます…。俺は牧といいます」
紙コップを並べて、おもちゃのように小さな元の瓶を象ったウィスキーを開けてそれぞれに注ぎ、紙コップを手渡された。酒はあまり強くない。ストレートでは飲んだことがなかった。アルコールの強い匂いが鼻孔の奥にまで届く。だが仙道と名乗った男の言う通り、酔えば気が紛れるかもしれなかった。
「かんぱーい」
笑顔で紙コップを差し出されて、牧もそれに小さく当てた。