GENTLY.
特別バレンタインという日に思い入れがあったわけではないけれども、イベントは大事にしたい、と考えている。一つ一つの思い出が重なっていくのは単純に嬉しいし、あれは冬の時期だったな、と後から思い出す時もひっかかりができて容易になる。
休みの予定を入れる時にはいつもどこかにそんな思いがあって、今年も同じようにチェックを入れておくと、同じファイルを開いたらしい同僚の、「独身貴族はいいよなー」というぼやきが耳に入った。自分としては大切な人間と何の問題もなく苦労もなく、ただ一緒に過ごせることこそが垂涎であるのだが、とただ笑って仙道はやり過ごした。
牧の海の家に向かう車の中でカーラジオは、今日は昨日に比べて気温が4℃ほど高い、と告げていた。なるほど日差しは2月の最中でも春を思わせるほどに麗らかで、浜辺に立てば表面積の大きい黒いコートの背はその恩恵を受けて暑く感じるほどだった。それでも時折強く風が吹くと、さすがに冷たさがすぐに今の季節を思い起こさせて、散髪したばかりの首筋を震わせた。
遠く波の音に目をやれば、そんな寒さや風など関係ないような自由さで波間を自在に遊び滑る男がいた。早く顔が見たい半面、いつまでもこうしてその姿を見ていたい気持ちがあった。こちらに気づく前にまたいつかの意趣返しをしてやろうと思っていたのに、いざ訪れてみればそんな余裕も自分の中にないことに気づく。
指先に湿った暖かさを感じて目を落とすと、想い人の愛犬が2匹、自分と同じような所在のなさでそこにいた。
「おまえらも置いてかれたか」
夏には牧と一緒に海に入ることもあった犬達だったが、この寒さではいかな主人といえど、同行するのは遠慮したいところなのだろう。
「なあ、おまえ達、あの人こっちでもやっぱりモテるよな」
忘れたつもりで今も気になっているのは、空港に着いてすぐにかけられた声の主だった。
「あんた牧さんの、…だよな?」
牧、という名前と、突然に、思わせぶりな失礼にも受け取れる言葉に、口元に笑みを浮かべたまま、仙道は無言で声をかけてきた男を見つめた。見るからに波に乗っています、といった風貌の焼けた肌に、色の抜けた長めの髪を後ろで無造作に束ねている。自分と似たような年齢だろう男は、気が抜けたようなパーカーにスニーカーをひっかけて、「ああ、ごめんごめん」と雑な詫びを入れてきた。
「話に聞いてたから。ホントえらいでけーな。すぐわかったよ」
初対面で砕けた口調にどこかひっかかる内容だったが、牧は信用のおけない人間に迂闊に自分とのことを話したりはしないだろう、と思い直す。釈然としない、というより、男が牧とどういった関係であるのか知りたい欲求の方が強くて、「あなたは?」、と訊ねる語尾に幾分、冷たさが篭っていたかもしれない。
「波乗り仲間っていうか。また一緒にやろうって伝えておいてよ」
仙道の口調に含ませた冷気を感じ取ったのか、男はすぐに手を上げて去っていったけれども。
自分が見る時、牧はいつも一人で波に乗っていた。だが、仕事の拠点も移した牧には、こちらでの付き合いもいろいろと出来ただろう。サーファーは気に入りの拠点でコミュニュティーを作るらしい、ということは耳に挟んだこともある。それでも折角の牧を訪ねてきた休みに、少し胸の中に棘を残されたような気がして、仙道は苦く息を吐き出し、その場を後にした。
はじめからすぐに牧は自分を受け入れてくれたわけではなかった。どころか、仙道の吐き出した感情をまともに取り合おうとすることはなく、さりげなく身を躱して冗談にして流されていた。確かに始めはそんな扱いを受けることは、これまでの人生の中でも仙道には初めてのことで、ゲーム感覚で夢中になっていたのかもしれない。牧も仙道のそんな浮ついた気持ちに聡く気づいていたのかもしれない。そもそもが男を恋愛対象にすること自体が初めてで、何が正解かもわかっていなかった。仕事面では牧に追いつくことに懸命で、大分周囲を見ることができていなかったのだと、若い自分を振り返って自嘲することはあったが、その牧は簡単に自分と関係のある人間を、他に漏らすことはしなかったことは確かだ。
「寒っ」
風が強く吹いて、足元から冷気が這い上がってきた。ちらっと波間に目をやって、仙道は家に登る崖際の階段に足を向けた。背にワン、と吠えてきたクロに「臆病者」と罵られたような気がした。
「お。これ、ここじゃ手に入らないんだよな」
部屋に入ってきてすぐに、ローテーブルの上に置いておいた紙袋に目敏く気づいた牧が、機嫌のいい声をあげた。酒もいけるが、牧はチョコレートにも目がない。知った時は意外なようで、だがそのギャップも好ましかった。
「うん、好きだったよね」
「並んだんじゃないか?」
「ううん、予約しておいたから」
店構えもバーのようで、買いに入るのはこの時期女性で溢れかえる洋菓子店ほど苦にはならない。実際、昼間はエスプレッソを出すが、夜はシングルモルトを供されて一息つける。
「…今日さ、空港で牧さんの友達?に声かけられて」
「友達? 俺の?」
紙袋の中を覗いていた顔を振り向けられた。牧に特に心当たりはないようで、訝しむように「誰だ? 名前を言っていたか?」と訊ねられる。そういえば名前も聞かなかった。今にして思えば、自分の態度は相手にしてみれば随分と感じの悪かったことだろう。だが、自分の大人げのなさにうんざりはしても、後悔はしていない。
「うーん、背はあんたぐらい? 日に焼けてて、髪が長くて一つに縛ってて」
「あー、あいつかな」
あいつ。
随分と気やすいことだ、と、仙道はワインのコルクを刺し貫いた栓抜きを力任せに引き抜いた。
「あ」
コルクは真ん中あたりでポッキリ折れて、モロモロと崩れた。
「あぁ、打ち直していなかったのかな。貸してみろ」
「自分でやる」
何を意地を張っているのか自分でもわからないままに、もう一度、今度はそっと瓶に残ったコルクに栓抜きの先を回し入れた。開栓に集中することで、空回りしかけていた頭の中が冷やされる。誰かもわからない人間に、貴重な自分達の時間を邪魔されたくはなかった。
「開けていいか?」
牧が袋を指さして首を傾げている。その様がまるでおもちゃの包みを開く子供のわくわくした様子を思い起こさせて、仙道は自然に寄せていた眉を開いた。
「どうぞ。全部牧さんのだよ」
「ありがとう。おまえにはこれ」
無造作に自分の持ち込んだ牧へのプレゼントの隣に置かれた紙包みを見て、視線を手元に戻し、オープナーをゆっくりと引き抜くと、今度はきれいな音をたててコルクは抜けた。
「ありがとう。なんだろ」
牧の傍に歩み寄り、そのシンプルな包装紙に包まれた大きめな箱を手に取った。この時期だから飲食に関するものであることは推測できるが、やたらに持ち重りがする。これは酒かな、と思いつつ、包みを剥がすと、国産ウィスキーの桐箱が出てきて、そこに書かれていた年代に驚いた。
「21年だ! すごい! いいの?!」
「うん、おまえの方が好きだろうと思って」
価格よりも、この銘柄は外国人に買い占められていて本数が少なく、今ではもうなかなか手に入らないというぼやきをバーテンから聞いたことがある。いつも飲んでいる、普通にスーパーで手に入る物で十分にありがたいが、それだけ牧が自分のために手を尽くしてくれた、ということに思いがいって、それが何よりもうれしい。
「やった、ありがとう!」
「うん。でもここにボトルキープするだろう?」
悪戯そうな顔を向けて笑う牧に、少し残っていた胸の中の棘も消えていくようだった。
「ハハッ! でもすぐに開けちゃうのは勿体ないよ。しばらく飾って置こう」
「そうなのか? 気がついたらなくなってるかもしれないぞ?」
牧がそんなことをするわけもないのに、ふざけて冗談を言ってくるのは、さっきの自分の態度を気にしているのかもしれない。ごめんね、と心の中で謝りながら、機嫌よさそうに鼻歌を口ずさみ、菓子の包みを解いている牧の背中から腹の前に両腕を回して、耳に唇を押し付けた。海から上がってきたばかりの氷のような冷たさは今はもうない。暖まった耳は唇に温度よりも確かな感覚を教えてきて、仙道はその形を舌で辿った。
「ん、こら。一口味見させろ」
「…俺にもさせてよ。お腹空いて死にそうなんだ」
すると期待した唇ではなくて、牧の手に持っていたチョコレートを口元に差し出された。これじゃない、と唇を尖らせながらも、否と言うのも無粋だな、と葉巻型に成型されたそれを一口齧り取った。甘いだけではない洋酒とカカオの苦味が先に立って、胡椒の味もするような気がする。仙道には複雑にも思える味を吟味しながら咀嚼していると、待っていた唇が後を追うようにキスしてきた。すぐにチョコよりも熱い口内に夢中になって、舌をきつく吸いあげると、牧は逃げるように仙道の咥内を動き回る。
「…うん、うまい」
少し顔を離して笑いながらそんなことを言う人の背にたまらず覆いかぶさると、「重い」、とつれなく肘で押し返された。
「腹が空いてるんだろう。飯を食わないのか?」
「俺が食べたいのは牧さんだよ。我慢し過ぎてもう死にそう」
「俺はここにいるぞ?」
「…うん」
呆れたような声に曖昧に頷きながら、腹から胸、首元へと這わせた手で牧のシャツのボタンを一つ一つ外していく。その手は今度は止められずに、前から伸ばされてきた腕で、背後の仙道の頭は牧の口元に抱き寄せられた。
「ここから遠くない海沿いに移住者が増えた街があってな。そこに新しく出来た酒屋の人間だ。品揃えがいい」
何を言われたのかわからず、仙道は隣に横たわって目を閉じたままの牧の顔を見つめた。汗をかいた肌が、暗く落とした照明の光を受けて、いつもより更についさっき口にしたチョコレートのようで、溶けそうなほどに甘く仙道の瞳に映った。
「おまえに空港で声をかけた男。酒屋に行った時に世話になって、その後に海で偶然会ったんだ。ポイントの嗜好が似てるんだな。それから顔を合わせれば話すようになった」
酒屋の用事と言えば、先刻もらったあのウィスキーのことがすぐに思い出された。
「…そっか」
素直に頷くには少し気恥ずかしくて、甘そうに光って自分を誘う牧の裸の肩に、小さく歯を立てた。
「その時に取り寄せた酒の話になっておまえのことを話した。あの酒は俺の大切な人間に送りたいんだ、と」
その牧の一言を聞いて、仙道は齧りついた牧の肩から動けなくなる。なんとか口をついて出た言葉は、だが茶化すようなものだった。
「…えらいでっかいって?」
「ああ。でっかくて、えらい男前だってな」
聞いて、仙道はもう熱くなった顔を上げられなくなった。牧の肩からもズリ落ちて、枕に沈没しながらボソボソと言葉を吐きだす。
「まさか、あんたがそんなこと人に言うなんて」
牧は自分の性的な方向性を人に話すことを嫌がった。隠しているとも違う、あまり自分のことを話さない人間で、だから仙道は驚きとともに自分の悋気が恥ずかしい。
「うん、なんでだろうな。ただ、」
先を急かさず、いつの間にか開いていた光を透過する琥珀の瞳を見つめる。それが真っすぐに自分に向けられて、見慣れていた顔のはずなのに今は仙道の心臓を止めるようだった。
「言いたかった。大切な人間なんだと」
照れてる場合じゃない、と仙道は顔を上げ、上体を引き上げて牧の体に乗り上げてきつく抱き締めた。首筋に顔を埋めて、恋しい匂いを存分に吸い込む。それでも足りなくて、子供のように頭を首筋に擦り付けた。後頭部に髪をかき分ける牧の手のひらの暖かさを感じて、じんわりと胸の内が暖かくなる。
「いい年してバレンタインにわざわざチョコレート持ってやって来るんだってな」
「ちょっ…!」
牧の上に上体を乗せたまま、抗議しようと顔を上げて牧を見ると、屈託なく笑う人が恋しくて、なぜだか悔しくて、顔を見せられなくて、また牧の胸の上に拗ねた顔を転がせた。いつまでもこの人の前では自分が若造のように感じられる。でもそれがこの頃では嫌いではなかった。
目のすぐ傍にあった尖りをせめてもの意趣返しでペロリと舐めると、重なった腰の辺りがぴくりと震えた。その反応が気に入って、舌を伸ばして口のなかにねっとりと含む。
「おい、俺はもう腹が減ったぞ?」
「んー…俺も。腹がまだまだいっぱいになんない」
どれだけ抱いても抱かれても足りない。
チョコレートのようなあんた。
end
「よかったよ、役に立てて。思い入れがありそうだったから」
そう言うと、男はうれしそうに緩んだ唇の端を持ち上げて、「まあな」と応えた。
「渋い趣味の女性だ」
「…いや」
てっきりこの時期に贈る相手だというから、恋人なのかと思った。
「あぁ、父上だったか?」
「…そうじゃないんだ。でも大切な…生涯をともにしたいやつなんだ」
意表を突かれて、思わず黙ってその横顔を見つめてしまった。
自分に偏見があるというわけではない。だが、あまりにさらりと打ち明けられた言葉に、改めて男の整った顔をまじまじと見てしまった。男でも見惚れるほどの体格から長い腕が上がって、濡れた髪をかきあげる。その仕草でさえも絵になるやつだった。
「そっか。あんたにそこまで言わせるのは相当なヤツなんだろうな」
ガッカリするだろう女性陣の面々を頭に思い浮かべて同情した。もちろんこのことを話しはしないが。
「うん。背が高くて、驚く程の男前で…なによりかわいいやつなんだ。バレンタインって年でもないのに、毎年毎年自分は苦手なチョコレートを抱えてやってくる」
「…そうか」
はにかんだように、しかしどこか自慢するように、パートナーの説明をする牧に、どこかショックを受けた自分にショックだった。
久しぶりに帰りに妻に花でも買っていくかな。
そんなことを考えている自分が、考えさせてくれた波乗り仲間と一緒にいられたことが、幸せに感じられた。