月とココア





腕時計に目を落として牧は足を速めた。いつも通っている高校から駅までの道程をこれほど遠く感じたことはなかった。白い息を吐きながら、牧は背負っていた鞄を抱え直し、速足をランニングに変えた。
今日は自主練はしない旨を神に伝えると、本練習を終えて休憩中の部員達の視線をなぜか一斉に受けた。
「…今日。…ですか…?」
「ああ」
「…理由を聞いてもいいですか?」
主将は既に神へ引き継いでいる。自分であっても部員が練習を休む理由を聞くのは当然のこととして、そういえば聞かれるのも一年振りのことで、牧は説明できる理由を用意していなかったことを今更に後悔して言い淀んだ。
「あー…。その…用事がある」
「差し支えなければその用事を聞いてもいいですか?」
ニッコリ笑う柔和な表情はいつもの神ながら、どうしてか目が笑っていない。牧が言葉を探して周囲を見渡すと、それぞれにドリンクを飲んだりタオルで汗を拭いたりしている部員達の輪が狭まってきているように感じられた。
「差し支えは、ない。その…私的な用事だ」
「私的、な…」
ゆっくりと丁寧に発音される言葉。視線から受ける圧がゲーム中のように強い。やはり口元は笑んだままではあるが、ピクリ、と狭まった神の眉間の幅に、何か言葉の選択を誤っただろうか、と牧は考えた。
冬季休業中の部の練習時間は決められていたが、その後の自主練と称される練習も部全体で行われ、ほぼ公式のものであると言ってもよい。牧が主将を務めた間も欠席する人間は、体調が悪いか、余程の理由がある以外にはいなかった。
改めてそう考えて、牧は己の浅慮を悔やんだ。3年生はほぼ引退しているといってもよいが、外部受験生以外の、部に在籍するほぼフルメンバーが顔を揃えた中で、最上級生の、しかも主将まで務めた自分がこれでは下級生に示しがつかない、と糾弾されても致し方のないことだ。
その一方で、もうこちらに向かって電車に乗っているだろう男のことをも牧は考えた。今から覚えたてのモバイルのツールで連絡を取れば、仙道はわかってくれるだろう。あの優し気な眉を下げて、笑みさえ浮かべて、簡単に引いてしまうのだろう。「仕方ありませんね」と、画面に送られてくる絵文字の添えられた文面まで、もう牧には見えるようだった。
「…ダメか?」
自分の頭の中の展開に当惑した牧が、首を傾げて神に訊ねると、神は目を見開き、ついで片手で自分の両眼を押さえた。そのまま次に続く言葉を待っても、動かない。
「神?」
「あー…」
「気分でも悪いのか?」
気づけば周りの部員は神ではなく、自分を見ている。何かやってしまったのだろうか、と慌てて神を覗きこむと、「…大丈夫ですから」、とまだ目を押さえたまま片手で近づくことを制された。
「…了解しました。後は引き継いでおきますので」
「ああ、すまない…!」
ホッとして、それでもどこか申し訳ない気持ちが残って、せめても散らばったままだったボールに手を伸ばすと、「遅れますよ!」となぜか半ギレしたような神の声が飛んできた。
自分のそんな不手際で予定の時間を過ぎてしまった。遅刻は伝えてはあるものの、電車での移動途中であっては到着時刻を変えられず、寒い中に待つしかない仙道のことを考えて、牧はまた走るスピードを上げた。
息を切らせて待ち合わせの駅に到着し、雑踏の中を改札方面に伸びあがると、背の高い印象的な髪型の男が先に牧を見つけて手を振ってきた。思わず破顔し、それへ駆け寄る。と同時に胸にツキとくる痛みを感じた。
「すまない、待たせたな」
「いいえ、全然。牧さん走って来たんですか? そんないいのに」
「今日は一段と冷えるからな」
そうだ、とも言えずに、どうとでも取れる天候のことなど口にして、牧は顔を背けた。仙道の笑顔に胸の痛みがなぜかまたひどくなる。赤くはなっていても走ってきたせいだと思ってくれればそれでいい。
「それで…、今日は俺がいつも行く店がいいとおまえが言っていたんだが」
「はい。いつも牧さんが行ってるとこがいいなぁ」
「その…、諸事情で都合が悪い。違う駅の店でもいいか?」
「そうなんですか? はい、全然構いません」
理由を問われなかったことにホッとして少し高い位置にある顔を見上げる。先刻のようなやり取りを部内でしてきたことを考えると、もし自分以外にも自主練を休む者があったとして、その人間に仙道と2人でいるところを目撃される危険は回避しなければならない。
悪いことに引き込んでいるような気もして、「うん、すまない」と返すと、仙道は笑って、「誰かに見られちゃうかもしれませんしね」と悪戯そうに笑った。
そうか、やはりまずいことなんだよな、と改めて考えていると、仙道に背中を押されて、柱の影に押し込まれた。
「どうした?」
「ちょっと知った顔が…」
「え?」
顔を柱からそっと出すと、見慣れた海南バスケ部の練習着のままの人間が、肩で息をしながら両ひざに手をついていた。
その後ろからまた見知った顔が駆け込んできて、フラフラと体を揺らせてその体に手をついて、荒い息を整えている。先に来ていた人間が顔を上げると、自チームのスターターの一人だった。
「あれは…」
「信長くんだよね」
「と、小菅だ。一体…」
 自分と同じく自主練を休んだにしても、練習着のままということが解せない。2人は何かを探しているように首をキョロキョロと動かしながら、牧と仙道の潜む柱のすぐ傍を通り過ぎて行く。
「俺を探しに来た? のか?」
牧が2人へ足を踏み出そうとして、腕を仙道に取られた。
「いやいやいや、だったらスマホに連絡来るでしょ」
それもそうだ、と、自分のそれを取り出して確認するが、連絡のあった形跡はなかった。
「念のためバラバラに行きましょうか」
思案気な仙道の言葉に頷き、目的の駅と時間を決めて、牧が先に足を踏み出した。目の端に後輩二人がこちらに気が付いた様子が見て取れる。知らぬフリをして改札を通り、ホームで電車を待った。
牧を尾けてきたのでは、という仙道の言葉に牧自身半信半疑だったが、確かに同じホームに二人は降りて来て、こちらに声をかけてくるでもなく遠巻きにしている。来た電車に乗り込むと、隣の車両に乗り込んだ二人も見えた。
ふむ、と考えて、目的の駅ではない隣駅に着くと、牧は電車から降りた。ホームを歩いていると、やはり二人も降りて来たようだった。発車ベルを聞き、閉まる寸前の電車にまた乗り込んだ。目の端に慌てる二人が見えて、素知らぬフリを装おうとしてもどうしても笑いが漏れてしまって、こちらを絶望の表情で眺めている二人に笑って手を振った。
目的地に着いてホームで待っていると、次の電車が滑りこんできて、背の高い男が降りるのが見えた。ツキ、とまた同じ痛みが胸を刺す。どうしたんだろう、と考えながら、仙道が振ってくる手に少し自慢げな笑顔を向けた。
「撒いたぞ。やっぱり尾けていたんだな」
「ですね」
「だが一体どうして」
 見当がつかずに首をひねっていると、仙道が「んーやっぱり今日、だからかな。…牧さん、みんなに愛されているんですよ」などと言ってくる。
「ちょっと妬けちゃうなぁ」
「何が食いたい?」
言っている意味がわからなくて、でも少しドキッとするような視線を仙道から受けて、聞こえなかったフリをして食べたいものを聞いた。仙道は少し寂しそうな顔を夜空に向けて、「そうだなぁー」と呑気そうな声を上げる。
「わーおっきいなー」
言葉に釣られて顔を上げると、丸い月がポッカリ空に浮かんでいた。
大体の場面において自分の発する言葉がその場の流れとどうやら違うらしい、ということはなんとなく牧にも感じ取れていた。それで困ったことはないし、バスケットを続けているせいもあるのか自分の周囲に人の流れの途切れることはない。時には離れていく背中もあったが、追う必要性を感じたことはなかった。
だが、今は。
自分の口下手がじれったくもどかしい。寂し気にも見える横顔をまた自分の方へ向けたい。眉を下げたきれいな笑顔が見たい。
アドバイスなど期待できない浮かんで見降ろしているだけの月から目を離すと、ホームの脇に据えられていたベンチが目に入って、「座るか」と声に出していた。仙道は少し驚いた顔をして、それからすぐにうれしそうに眉を下げて笑った。牧が見たいと切望していた笑顔だった。誘った言葉が正解だったとわかって、牧もうれしくなる。
「はい。あ、ちょっと待って」
仙道は階段裏の自販機に行き、缶コーヒーを2本買って走って戻ってきた。
「はい、どうぞ。手だけでもあったかいよ」
「…うん、ありがとう」
「うわ、ベンチ冷てぇ! あ、俺の鞄に座ります?」
「人の鞄に座るってどんなヤツだよ」
笑って、仙道の隣に座り、もらった缶コーヒーで頭を小突く真似をすると、仙道は大袈裟に避けて笑み崩れた。その顔が。
しばらく忘れていた胸の痛みが復活して、甘く身の内に溶け込んでいくようだった。
ああ、そういうことなんだな、と自分で納得して、プルタブを引き上げた。
「好きです」
自分の考えが言葉に出たのかと思った。もしくは考えを読まれたのかと。
「俺と付き合ってもらえたら、うれしいです」
落ち着こうとするそばから仙道が爆弾を落としていく。
なんとなく。
今日、とクリスマスイブを指定されて食事に誘われて、それまでもなんとなく、なんとなく仙道からの誘いが多いような気がしていた。自分もそれが嫌でなく、どちらかといえばズルく待っていたのではなかったのか。
「うん」
なのにやはり言葉が出なくて頷くだけで、牧は自分にガッカリして缶コーヒーに口をつけた。
コーヒーだと思っていた飲み物はココアで、懐かしい甘みに少し緊張が解けていくのを感じる。これを選んでくれた仙道の優しさに改めて、好きだ、と思う。
「あの…うんって…?」
「…うん、…俺も」
「俺も?」
察してくれ。
膝に肘をつき、両手に持った缶コーヒー、いや、缶ココアに額をつける。
ココアの画像が印刷された缶を睨みつけながら、「俺も」と小さく呟いた。
「ココアじゃないぞ」
念のために付け加えると、「え? ココア? なに?」、と仙道が焦ったような声を上げた。
もう胸の痛みも甘さも限界を越して、動悸が半端なく自分の耳を打ってくる。
なのに仙道は聞き取れなかったように、耳を寄せてくる気配が隣でする。
「牧さん? お願い。顔見せて?」
出来るか。
それでも缶から片手を離すことはできた。
そっと隣を探ると、すぐに指が触れて、自分よりも大きな手に包まれた。缶ココアより熱くて、やけどしそうだった。離したくなくて力を籠めると、もっと大きな力で握り返された。

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「痛い」
「あ、すいませっ」
すぐにバカ力は解かれたが、手が離れることはなかった。噛んだ謝罪を聞いて、仙道も舞い上がっているのだ、と自分に都合のいいように考えると、少しだけ落ち着くことができて、舌の上に勇気なく引っ込んでいた言葉を押し出すことが出来た。
「…俺もだ」
言いたい言葉ではなくて唇を噛んだが、今度は聞き返されることはなかった。
「はい」
駅のベンチは寒くて冷たくて腹も空ききっていたけれども、暖かい手から抜け出すことができなかった。
幸いなことに隣の男からも不満は聞こえてこなかったので、せめて次の電車が入ってきて目の前にポッカリと浮かぶ月を隠すまで。
牧は缶を握ったまま冷えていく左手とは逆に、暖まっていく右手の暖かさをしばらく感じさせてもらおうと思った。





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