あの夏の静かな時






バンとすぐ傍で音が響いて頭が揺れた。
薄目を開くと真っ暗で、いつもと空気が違う。
自分がどこにいるのかわからなくて、首を動かすと凝り固まっていてコキっと小さい音が鳴った。
「仙道、起きたか?」
声が聞こえた隣に目をやっても顔が見えない。でも声ですぐに誰だかわかった。練習で顔を合わせる時とは違う、気遣わしげな声。
なんだ、俺まだ寝てる。
安心してまた目を瞑ると、「おい」と肩に手をかけて揺すられた。それが暖かくて擽ったくてまた夢の中に簡単に入っていけそう。
「寝るなら後ろにいけ。まだ時間あるから」
声は気になるけれども引き込まれるような眠気は強烈で、首を振って声とは反対側に頭を寄せると冷たく固いものに顔が触れて不快だった。
仕方なく声の方に戻って頭を預ける。すっと熱が引いたような気配があってまた音が鳴った。
「ちょっと頑張れ」
頭を預けた側と反対からまた声が聞こえた。声と冷たい空気と何かに包まれているような大きなざわめき。腕を引っ張られて、目が開いた。
「あ…れ? 牧さん…?」
「ほら、降りろ」
「え?」
まだ夢の中なのか判断がつかず促されて、わけもわからないまま言われた通りに足を降ろした。
取られた左手首を引っ張られて足を踏み出すと、爪先が柔らかい地面にのめり込んで踏ん張れずに倒れそうになる。
「うわっ」
焦ったような声が聞こえて、引かれた腕が上がりその中に暖かい体が入ってきた。腕の中にいるのは牧さんだし地面は柔らかくて歩けない。
やっぱりまだ夢の中だ、と目を瞑ろうとすると、「こら、立ったまま寝るな」と背中に回った手に支えられていた腰を叩かれた。
牧に肩を貸してもらっていたのだと、ようやく覚醒し始めた頭で理解できた。
「あ…すみません、歩けますから」
「ほら、入れ」
担がれていたのは2,3歩で、車の後ろに回ると開けられていたハッチから体を押し込まれた。
後部座席が倒されていて、広がった空間にタオルケットが敷かれている。振り返るとドアを閉めかけていた牧と目が合った。
「そんな俺だけ。牧さんも、」と這い寄ると、「ここに男二人はキツいだろ」と苦笑を残してハッチは閉められた。
そう、だよね。と敷かれたタオルケットに目を落とす。
すぐに運転席のドアが開いて牧が乗り込んできた。
「でもそこじゃ狭くないっすか? 俺がそっち行きますんで牧さんがこっちで」
「下手な遠慮してねーで寝ろ」
振り返った顔が優しくて、言い募ろうとしていた口が止まる。
「シート倒すぞ」
「あ、もうガーンと倒しちゃってください」
助手席の方に頭を寄せると、牧の上体を乗せたシートが倒れてきた。
ヘッドレストの上の横顔はもう目を閉じている。
夜中と言っていいような時間に運転してきたんだから疲れてるよな、と時折動くその閉じた瞼を見て思う。
ありがたくタオルケットを体に掛けさせてもらって目を閉じると、大きなざわめきのように聞こえたのは潮騒だったことに気付いた。
車の中にいても響くほどの音なのに、不思議とうるさいとは感じられない。
聞き慣れている音と違うように感じるのは、こんな狭い車内に二人でいるせいなのかもしれない。
見上げるとすぐ近くに牧の眠る顔がある。仙道は唇を笑みの形に変えて目を閉じた。






一際高く鳴った波の音に目を覚ました。上体を慌てて起こすと、運転席に牧の姿はなかった。
またやった。
どうして自分はこんな状況で寝られるのだろうか。自分で驚く。
這っていってハッチを開けると、目の前には見たことのない海が広がっていた。
太陽はもう登っているはずの時間なのに雲が厚くて薄暗い。
いつも見ている海の景色と違って、右も左も同じ、茫漠とした風景がどこまでも続いているようだった。
ぽつぽつと気の早いサーファー達が波間に見え隠れしていて、仙道は目を凝らして牧の姿を探した。
「起きたか?」
「わ?!」
開け放ったハッチからその人の姿がいきなり出てきて驚く。
ウェットの上半身を脱ぎ、首にタオルをかけた牧が車の上部に腕をかけて中を覗き込んできた。
「もう海に行っちゃったかと思ってましたよ」
「うん。行ってきたんだが」
半端な返事をして、牧が車内に膝を乗り上げて入ってきた。
濡れた髪から滴った雫に仙道は目を落とした。
牧は四つん這いに仙道の目の前まで来て笑い、「そこ、ちょっとすまん」、と仙道の脇にあった荷物を指さした。
「え? あぁ、すみません」
そのビニール袋を手渡すと、牧はそのままの姿勢でまた出口に戻り、背を見せて砂浜に足を降ろし腰掛けた。
「朝飯にしよう。腹が減ったろ?」
コンビニ名がプリントされたビニール袋にはいくつもおにぎりや総菜やらが入っていて、途中どこかで調達したものだと思われた。
その記憶も仙道にはない。
「あ…俺も。ちょっと待って」
さすがに弁当を手作りしていく度胸はなかったので、せめてもと水筒にホットコーヒーを作ってつめてきた。それを持って牧と並んで座り砂浜に足を降ろした。
冷たい砂が足に気持ちいい。
「お、いいな。ありがとう」
紙コップに注いで手渡すと、牧が嬉しそうに礼を言って笑った。
その顔を見られただけで、夜中にインスタントコーヒーと紙コップを買いにコンビニに走った甲斐があったと仙道は思う。
「どういたしまして。俺こそすみません。コンビニ寄ったのも気づいてなかった」
「いいさ。一年坊はまだ練習後の片付けや清掃があるからな。疲れてたんだろう」
休日の牧はどこまでも優しい。
あっという間に手渡されたおにぎりやら惣菜は食べ終えて、脇に置いておいたカップに手を伸ばす。
湯気のたつコーヒーに口をつけると満ちた腹も胸の中も暖かくなった。
重たく見えていた空がとうとう泣き出して、雨粒が顔に当たったと思うとあっという間に本降りになった。
二人で慌てて足を引っ込めて、仙道が水筒と二人の使っていたカップを奥に寄せている間に、牧は車のハッチを閉めた。
戻ってきた牧にカップを渡すと、「ありがとう」と微笑まれて、「いいえ」と返す。
後輩がやって当たり前のことでも、いちいち礼を言える人だった。
こんなとこなんだよな、と思いながら、仙道は車の側面に背中を預けて両手で抱えたカップにまた口をつけた。
牧も隣に並んで座り、顔をハッチバックから見える海に向けていた。
「雨、降ってきちゃいましたね」
「ああ、そうだな」
「俺、前に行きましょうか?」
「…なんでだ?」
「男二人でいるとキツいって」
「なんだ、おまえまだ眠いのか?」
「じゃなくて、」
ああ、寝るには狭いという意味だったのか、と牧の先刻の言葉の意図がわかって、仙道は「もう眠くないです」とだけ笑って答えた。
波の音や雨の車を叩く音が響いているのに、二人でいる狭い車内は妙に静かに感じられた。
鼓動は上がってくるのに不思議と落ち着いていられる。
お互いがカップに口をつける微かな音がまた嬉しかった。
「この間の、」
牧が口を開いた。
「わかったか?」
牧にしては不親切な疑問文に、すぐに仙道は心当たりがついて答えた。
「…なんとなく。あんたは?」
「…そうだな」
言ったきり、何がわかったのか自分も牧も言わなかった。
「もう一度、試してみます?」
本気と、下心が半分づつ。
さすがに牧を見ては言えなくて、牧の背後のリアウィンドウから見える雨に煙った海を眺めながら仙道は口に出した。
脇でカップを下に置く気配があって顔を向けると、体を伸ばした牧が自分に体を寄せてきた。
心臓が跳ねる。静か過ぎて鼓動の音が聴こえそうだ。
目が合ったら牧が動きを止めそうで下に目を落とした。その床についた牧の手が目に入った。




酔っていたつもりはなかった。
適当に先輩の相手をこなしつつ、適当な量のアルコールを摂取しつつ、それでも少しばかり浮かれていたのは隣に並んだ人のせいだと思った。
狭い居酒屋の掘りごたつの席に大柄な大学生が何人も押し詰められて、笑う度に体が当たって肩を小突かれて、はじめは律義に謝ってきた言葉もそのうちにおざなりになった。
3次会は逃げようと、挨拶はしていこうと仙道は褐色の肌の人を探すと、牧は先輩に掴まっていて連れていかれそうになっていた。
「牧さーん!幹事が呼んでまーす!」
大きく声をかけると牧は助かったというような眉が下がった顔を振り向けて、先輩には頭を下げて近づいてきた。
店へ戻ると見せかけて「こっち」、と肩を押し、暗い路地に入ると喧騒が遠のいた。
「助かった。ありがとう」
「いえ、俺ももう帰りたいと思ってたから」
「そうか」
「あ、まだ行かない方がいいですよ」
店の前の通りに出ようとした牧の腕を掴み、引いた。牧が自分の腕を見、仙道を見上げてきた。
その顔を見て距離を詰めると、至近距離で何も言わない仙道に牧が問うように顔を傾げる。
「…その、腹空きません?」
「ああ、おまえは空いたのか? 何か食べに行くか」
空いてはいないが食えと言われればいつでも入る。
仙道が勢いよく頷くと牧は笑い、その練習や試合時とはまた違うくつろいだ笑顔に調子に乗った。
「ここもダメか」
「そうっすねー」
最後の心当たりのラーメン屋も11時を過ぎて暗く扉を閉ざしていた。
静まり返った住宅街の中にポツンとある店では当たり前か、と今更思う。
特に腹が空いていたわけでもなく、ただこの時間を引き延ばしたいだけの願望は叶って、仙道の声は弾んだ。
「なんだ、おまえ。腹空いてないのか?」
その声の調子を捉えられたのか、牧は立ち止まって振り仰いできた。
自分のために店を探していてくれた先輩に向かってこれはなかったよな、と思いつつ、「すいません」と正直に答えると、「俺もどうでもよくなってきたな」、と内容とは裏腹に投げやりでもない楽しそうな調子の声が返った。
牧は店の脇にあった自販機の前で立ち止まり、「茶でいいな」と一声かけて缶コーヒーを2本買い、一本を自分に投げ渡してきた。
「あざす」
礼を言って隣に並び、腿の裏に当たったガードレールに腰を下ろした。
春を抜けた初夏の風が酔った顔に心地よかった。
もうすぐに夏が来る。
でも今年はこの人と一緒で、一年前に感じた喪失感はない。
「こうやって見ると新鮮だな」
「は?」
隣を見ると立ったままの牧が仙道を見下ろしていた。
「おまえを見下ろすのはなかなか気分がいい」
牧は機嫌よく言って笑った。
確かに牧の顔を見上げることもなかなかない。
コートの中で倒れた時に差し伸ばされる腕の先にある牧の顔を思い出して、そうすると2年前の夏が思い起された。
顔のすぐ隣に牧の腕があって、それが動いて持っていた缶を口に当て、残り少なくなっていた中身を干すように呷った。突き出た喉仏が動いて、閉じられたように見える瞼が動いて長い睫毛が見えた。
喉の渇きを感じて仙道も持っていた缶を呷ったが、先刻ほぼ一息に干した缶からは口に入ってきたのは一滴二滴で喉の渇きは癒されなかった。
缶を置いて立ち上がると、牧がむっとしたような顔で見上げてきた。
「もう少しかわいい後輩でいろよ」
そんなことを言う牧も酔っていたのかもしれない。
「かわいいってどんな?」
聞くと、牧は「んー」と難し気な顔を作って考えこんだ。
その顔の、顎に手を伸ばして上を向かせて口づけた。
一度口づけて離し、驚いたように瞠られた目と視線を合わせてもう一度口づけた。
「…なんだ?」
「…なんでしょう?」
顔を話すと訊ねられて、なんだろうと考えてわからずにその通りを答えた。
牧は驚いたような顔のまま、仙道に言うでもなく「なんだろう」と呟いた。
「何が?」
聞くと牧が「酔っぱらっているのか?」と聞いてくる。
「いいえ」
そこは判断がついてはっきりと答えると、牧が自分の胸元のTシャツを掴んで引き寄せてきた。
殴られるのかな?と思っていると、唇にまた熱と柔らかさを感じた。





口元に息がかかり目を閉じて、唇に触れる暖かさを感じて、熱だけでなく焦りつくような刺激を体の内に受けて仙道は確信した。
離れた唇を追って、自分からまた牧の下唇を食みにいく。薄目を開けて目の前の顔を見つめると、牧の眉は寄せられて、瞼は伏せられていた。
見られていたことに気付くと牧の顔が離れた。
仙道はあの夜に見た横顔を思い出して、自分のざわつく腹の底を説明しようと試みた。
「俺、ずっとあんたと話したいと思ってて」
「…なんだ?」
大学に入学し、バスケ部で顔を合わせて始めに言いたかったことがあった。
それは説明しようとすると頭の中に四散していって、そのうちに日々の忙しさにかまけて、当たり前のように先輩になった牧を見ているうちに忘れかけていた。
少し遠い海に行く、という話を聞いた時に、「俺も行きたいです」と押してみると、牧は「朝早いぞ?」、と揶揄うような言葉を投げつつ頷いてくれた。
また二人きりになれれば、ずっと抱えていたこの心の内のもやもやがはっきりするだろうと思った。
「うん。あんたの最後のインハイ予選で当たった時。覚えてます?」
「…ああ」
「ずっと忘れられなくて」
「忘れてもらっちゃ困る」
「…うん」
受け取った推薦の中に、牧の在学する大学名を見た時にもう決めていた。
「それで?」
「…なんだろ」
「ハハハッ、なんだそれ」
「うん。なんだろ」
笑ってもう一度顔を寄せると、牧は笑いを止めてキスを受け入れた。
「…俺もおまえと話したかった。おまえが同じ大学に来ると知って嬉しかったんだ」
「…ホント?」
「いや、…うん。そうだな…うれしかった」
あの夏に、試合が終わった後のコートで牧と顔を合わせて、力の抜けた笑顔を見て、自分の感じた何かを確かめたかった。
この人と同じチームでバスケットをやりたい、感じた欲求はそれだけではないのはわかっていた。
掬おうとするとそれはするするとまた散っていってしまったけれども、自販機の隣でキスをして、また伝えたい欲求に拍車がかかった。
すんなり受け入れてもらえるとは思っていなかったけれど。
受け入れてもらえたのかな。
まだわかっていないような、でもふわふわとした幸せな気持ちがある。
「…また、連れてきてもらってもいいですか?」
額を合わせて強請ると牧の睫毛が瞼に擽ったかった。
「また寝てるのか?」
「ハハ。今度は釣竿持ってきます」
「…うん、そうだな」
頬にキスを受けて、口元が上がる。
きちんと説明することは出来なかったけれど、もう今の気持ちとあの夏に感じた何かは牧の中に伝わったと思った。
手のひらで触れた背中が冷たかった。
海の香りのする体をきつく抱きしめると「おまえは暖かいな」、とくぐもった声が聞こえてきて、うれしいのに幸せなのに泣きそうで、仙道は牧の肩に顔を埋めた。






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