la traviata
仙道は小さく開かれたままの門の前で足を止めた。鬱蒼と木立が茂った奥に古びた屋敷が見えて、看板はもちろん表札もない。見知らぬ言語の短文が彫られた緑青の浮いたプレートが、門柱の目立たないところに嵌められているのに気づいて目を凝らしたが、それが今の自分にとって何の助けになるわけでもなさそうだった。ただの古い民家のようで、もう一度手の中の紙切れに目を落とし、番地を確認した。
手を入れられてはいるだろう木々の茂り具合は絶妙に玄関と屋敷の概要を見せてくれない。それこそがここの目的に合っているように思えて、誰何されれば謝ればいいくらいの気持ちで仙道は門をくぐった。
しばらく石畳を歩くと両開きの屋敷へ続くガラスの扉も開かれたままだった。ホールの両脇に何鉢も置かれたレモンの木には日差しのない薄暗い中にたわわに実がついていて現実感が薄れる。それをやり過ごすと白い彫刻の施された重たそうな木の扉が立て切られていて、引く腕に力を込めて中を覗くと表のコロニアル様式から続いている屋敷の内側は重たげな石造りに変わって外の暑さを寄せ付けてはおらず、ひんやりとした空気が体を取り巻いた。
「すいませーん」
ふざけたように場違いに響く自分の声に出てくる人間はいない。見当違いだったか、と踵を返し、屋敷の外に出たところでまた自国にはない強い日差しに照らされた自分の濃い影を踏んだ。
耳にかすかな女の声が届いた。音源と思われる方向に懲りずに足を向けると、徐々に大きくなるそれは声ではなく歌のようで、クラッシックに分類される音楽だと気づいた。館の左手を回り、細く敷かれたレンガの路を辿ると複数の男女の談笑も聞こえてきた。芝の広がる庭に仙道が顔を出しても誰も振り返ることはない。それぞれにグラスを片手に持ち、普段着ながら趣味よく、上質が見てとれる緩く崩れた服装はガーデンパーティーでもあるようだった。同じように自分の顔に仮面をつけた気分で、開かれていた玄関先にあったものと同じガラス戸から空気の流れに従うように邸内に入った。
目が慣れずに昏い室内にしばし立ち竦む。ぼんやりと正面に吹き抜けの階段が見えて、その螺旋の手すりに続いて奥に通じる廊下から僅かな自然光の明かりが見えた。
進むとやはり扉の開かれたままの洋室があり、覗くと海の絵が一面に掲げられていた。窓のある壁以外は一面の青色で、そのうちの一枚に違和感を感じて見ると、男が一人描かれていた。一糸も纏わぬ褐色の男の姿は完璧で、顔は見えない。ただ背を見せて波打ち際に横たわって打ちあがった死体のようにも見えて驚き目を引かれる。が、その背中から腰、足首にかけてにしっかりとついた滑らかな筋肉の流れと張りは生命力に満ちて、思わず呼吸を奪われた。他に男の姿を探すが、人間の姿を描かれた絵はこれ一枚だった。
「やあ」
声が不意にかかって仙道は驚いた。部屋に人がいるとは思わなかった。手にしていた本を伏せ、長椅子から立ち上がった男の均整のとれた姿と褐色の肌を見て、仙道は顔のない絵の男だと悟った。白いシャツに麻のトラウザーズで顔と首、手の他、肌はほぼ見えない。が、仙道は確信して絵を指さした。
「これ…」
「ああ、悪趣味だろう?」
笑って目を伏せる。悪趣味だろうが、ここに来た客はすぐに理解する。普段着で寛いだ姿の彼が、ここの主なのだと。
男は黙って仙道を見つめた。仙道も黙って男を見つめた。
「じゃあ行こうか」
「え?」
応えずに先に立って部屋を出た男の後を慌てて追いかける。先刻の芝生の庭に繋がる広い部屋に男が入ると、少なくはない人々の談笑がピタリと止んだ。その目は一斉に男に注がれ、その後に自分に集まって仙道は面喰った。男は何も言わず仙道を紹介するように腕を広げて、そこに集う人々からは力の抜けた声と溜息が漏れた。テーブルにカクテルグラスが返され、一人、また一人と人々が庭から屋敷から消えるように静かに出ていく。誰もいなくなるまで、そう時間はかからなかったが、仙道には長い時間が経過したように感じられて動けずにただ男の背を見ていた。
男は振り返ると仙道に微笑んで右手を差し出した。
「よろしく。俺は牧だ」
「仙道です。どうも…」
仙道は差し出された手を握った。力強く握り返してくる手はどうみても聞いていた男の職種とは相いれない。戸惑い、手から顔を上げると男は笑った。
「選ばれたんじゃないのか?」
教えられた屋敷での不思議な体験を話すと、黙って聞いていた顔を手元から上げて福田はつまらなさそうに言った。手の平にはレシートをわざわざ正方形に切って作った小さな折り鶴が乗っていて、それを福田は目の前の本が積まれた自分の机にそっと置いた。大きな体でおかしな癖のある悪友は相変わらずの無表情で、揶揄われているのか褒められているのかわからない。
「なんで?」
「俺が知るか」
少なくとも10年は待ち続けている客もいるらしいと言ったのは目の前の男だ。門前払いも覚悟の上で顔でも拝めれば御の字ぐらいに思っていたのに、なぜ自分が?とまだ夢でも見ているようだ。
「それにあまりその…」
「?」
「体を売っている商売の人間には見えなかった」
「…まあそうなんだろうな」
この国でも有閑階級の人間しか知らない館の、また特別な噂のある男だった。自分で選んだ人間としか寝ない。その人間とも自分が許可を与えるまで寝ない。それでいて客が渡す金額は目を疑う桁だという。
「俺、払えるかな」
細い目がちらりと仙道を見て、「おまえがじゃないだろう」と吐き捨てた。
「で、どうだった?」
「何が?」
「寝たんだろ?」
「いやーそれが…」
握手をして、車を呼ばれてにっこり笑って送り出された。
「これってフラれたの?」
「俺が知るか」
2回目の突き放した返事に仙道は口を尖らせた。
天井のファンが緩く室内の空気をかき混ぜている。それを眺めているのにも飽きて、仙道は腕を枕に怠惰にベッドに寝っ転がって窓の外の大きく茂った緑に目をやった。
国では母が室内に観葉植物として飾っていた品種の葉が3階のこの部屋からも見渡せる。ここは人間が主役の土地じゃないんだな、と改めて思い知らされたようで少しだけ気分が浮上した。
福田に聞いた娼館からは3日経過しても何の音沙汰もなく自分の思惑は通りそうにもなかった。改めてどうしようかと考えていた時に自室の電話が鳴って、のろのろと体を起こして受話器を取ると、送話口から低い声が「牧だ」と名乗った。
牧…牧…と考えて、波打ち際に裸で横たわる男が頭に浮かんで、仙道は受話器を取り落としそうになった。
「わ…牧さん??よくこの番号がわかりましたね」
答えず低く笑う声が耳を擽る。店の人脈を使えば造作もないことなのかもしれなかった。が、不快な念は浮かばず、素直に感心して声が上がった。
「昼食を一緒にどうだ?」
「え?」
昼に会うの?と一瞬戸惑い、しかし口には上らせることが出来ずに詰まった。
「迎えに行く」
「う…ん」
ここはわかる?と聞き返そうとして愚問だなと思う。それが伝わったわけではないだろうが、「1時間後に」と返って電話は切れた。
仙道は受話器を置き、そのまま彼の館を教えてくれた福田に報告でもしてくれようか迷った。が、きっともう仙道がいつ牧と寝ることができるのか、大学のブックメーカーに持ちかけているな、と予想できて電話に伸ばした手を引っ込めた。
どこに行くとは聞けなかった。ランチではあるし、熱帯に属するこの国ではネクタイは余程のフォーマルな席でないと必要とされない。襟はある方がいいだろうか、とちょっと考えてプレスから上がってきたシャツに腕を通した。
時間通りに迎えが来て、車は仙道を乗せしばらく海沿いの道を南下した。運転手付きの車の皮張りのシートに沈んだ牧はそれなりに価値のある男に見えた。初めて会った時とそう変わらない寛いだ服装で、仙道はとりあえず安心して窓の外に目をやった。
男は仙道を見ると笑みを顔に浮かべ、飲み物を勧めて今日あったことなどを聞いてくる。まるっきりいつもの友人と会うような態度で、やはり聞いた話と大分食い違う。今までに会った人間の中でもトップを争う魅力を持っていることは頷けるにしても、目的のなかった自分だったらこの男と寝ることが出来たとして、目玉が飛び出るような額の金を払うだろうかと考えるとそれはノーだ。
やがて車は別荘のような邸宅の前で止まり、車から降りた。いよいよなのかな?と考えて男の後をついて家の中に入ると、ウェイティングバーに案内されて食前の飲み物をまた聞かれた。
「ビール」
車中で飲んだシャンパンの後味が甘く喉に絡んでいて、素直に飲みたいものを答えると、牧は目元に皺を寄せて笑い「俺も同じものを」、と近寄って来た黒服にオーダーした。邸宅を改築したレストランのようで、本当にランチか、とまた仙道はわからなくなる。
ほどなくテーブルが用意されて海の見える窓辺に座った。高台に建つこのレストランからは港越しに隣の島に繋がるロープウェイが見渡せた。本島よりさらに狭い島だと聞くがそういえばこの国に来てからまだ行ったことがなかったな、と思い出す。
「大学生なんだな」
「そうです」
あなたは?と聞き返しそうになり、バカなことをやるところだったと自分に溜息が出そうになった。
会った時は大分年上に見えたが、話してみると牧の年齢は自分とそう大して変わらないように思えた。エスコートする仕草は完璧だが、一応客であるはずの自分に対しても言葉がぞんざいで、却って年上に見えた男にこちらが敬語を使っていても違和感はなかった。といって粗野からは程遠く、知識は広く教養は深く、自分のどんな言葉も拾ってそつがない。
何より自分の話すことをどんなことでも漏らさず聞こうとする姿勢、絶妙なタイミングで挟まれる質問を受けていると本当にこの男が自分に興味を持っているのではないか、と擽られるような気分になってくる。
だがそれも商売。そう思うと仙道が湧き上がりかけていた自分の男に対する興味が冷めるのを感じる。
「俺は合格したの?」
試されるのはあまり好きじゃない。自分の出自ならもう調べはついているだろう。対価を支払うことが可能な人間なのか、そんなことはあの屋敷に足を踏み入れた時に調べられているに違いない。
湧き上がる昨今馴染みになった苛つきは抑えて、この一連の行動が自分の目的に沿うのか、かねてからの疑問を率直に言葉にした。
驚くか、不快を示す表情を浮かべるかと思った男は、案に相違して自然な笑みを口元に佩いた。それから考えるように皿の辺りに目を落とし、不意に顔を上げて自分の顔を見つめてきた。その優しいと言ってもいい眼差しに、興味がないと静まったはずの鼓動が一つ跳ねる。料理をサーブする民族衣装の女性がテーブルに近寄ってきて、仙道は重ねて開こうとした口を閉じた。
目の前の大きな皿に少量づつ乗せられて行く前菜は、この国の名物料理だが街中の屋台のものとは色合いまで違う。それに目を落として、仙道は気の乗らないまま両脇のカトラリーを手に取った。
「時間はあるんだろう?」
「まあ…」
大学からも足が遠ざかっている毎日が頭に浮かんだ。もうそろそろ実家に報告が行く頃合いかもしれない。
「じゃあしばらく付き合ってくれ」
言われて仙道は面喰う。それは立場が逆なのではないか、そう聞こうとして自分はまだ何の見返りも支払っていないのだと気づく。ここのバカ高いだろう食事代だって俺が持つのか?と考えて自分のカードはまだ止められていないのか、そういえば確認していなかったと頭の隅に浮かんだ。
中略
より緑が密集してジャングルのようにも感じられる通りを抜けると、そこに目当ての獣達がいた。大分距離があって間には深く広い堀もあり、なるほどこれなら柵がなくても大丈夫なのかと、遠目にも怠惰に寝転がる肉食獣を眺めた。
「ライオンはどのくらいの跳躍力があるんだろうな」
不意に横から発せられた言葉に振り向くと、牧が真剣な顔を動物たちに向けていた。
「それ、俺も考えてた」
笑って言うと、照れたような顔が自分に向けられた。バツが悪いような共犯めいた笑いで、かわいいと感じてこの完璧な男が?と自分に驚き、まじまじと見つめると、その顔は逸らされてまた動物達に向けられた。彫りの深い睫毛の長い、彫刻のように整った、とはいってもどこまでも男性的な顔だった。かわいいだなんてどこから出てきたんだ、と自分で不思議に思う。
「柵はないけれど出られないんだな」
言葉を返そうとして詰まった。
いちいち相手の言葉に意味を考えてしまうのは、自分がその相手のことを考えている時間が長いからだ。そんなことをいつだったかもう顔も思い出せない誰かから聞いた。その時に意味はわからなかったけれど、今は隣にいる男との間に存在する空気の濃度が明らかに今まで接してきた人間と違う。目の前には見たかった景色が広がっているのに、肌で感じる空気の方に意識を持っていかれる。
「…俺、あそこに行かなければよかったな」
「あそこ?」
気付けば牧が部屋に来てからずっと考えていたことを口に出してしまっていた。尋ねられて、失敗したと思い、いやもう抑えが効かないのだ、と観念した。
「あんたと普通に出会いたかった」
言うと、牧の目が瞠られた。色素の薄いブラウンの瞳に濃い緑の影が映されていて美しいと思った。言った後で、ああそういうことか、と自分に納得がいった。
「それは…」
「あ、お金は払うよ?じゃなくてその…」
自分の言葉に牧の瞳が僅かに歪んだ気がして、仙道は慌てた。
「あ、じゃなくて!えっと、」
じっと、自分を抑えるようにして次に続く言葉を待っている牧の瞳を見ていると引き込まれていくようで、仙道は間を詰めて自分の気持ちに抗わずにその唇に触れた。触れているだけなのに唇が痺れるようだった。目眩にも似た感覚がきて、腕をその体に伸ばそうとすると、ドンっと胸を突かれて、間を取られた。夢から覚めたように仙道は後ろに離れて間を取った牧を見た。その仕草よりも傷ついたような表情に胸を掴まれた。なんで?という気持ちが湧いて、それこそが相手を傷つけるものだ、と自分を戒める。
「ごめん…その、」
牧は答えなかった。黙って踵を返し歩いて行く。早足で迷いなく後ろにいる自分のことはもう全く考えもしないようだった。
咄嗟に言葉をかけることもできなくてただ必死に流れる人に逆行してその後をついていく。牧は元来た道を辿り、園の外に出てタクシープールまで来て腕を上げた。寄ってきた車のドアを開けて上体を中に入れた牧に置いていかれるかと焦って走り寄ると、牧は逆にタクシーから体を離した。
「牧さん!待って、」
ここまで来て慌てて牧に話しかけようとすると、体を先にタクシーに乗るように押し込まれた。普段よりは余程乱暴であるものの、牧に先にタクシーに乗せられることはよくあって大人しく従うと、座った途端今度はシャツの襟首を捕まえられて引き寄せられた。唇に掠めるように牧に口づけられ、離れる瞬間に惜しむように下唇を食まれて、あ、と思った次の瞬間には牧の体が外に引いてドアが閉められた。言い含められていたのか、すぐにタクシーは走り出した。驚いて、運転手に止まるよう叫んでも止まらない。後ろを振り返るとリアから見えた牧は立ち尽くして仙道を見ているようだった。