ride on time




 カーナビに示された方向を二度見して、雑木林に隠れて行き過ぎそうになった側道の手前でブレーキをかけた。反対車線をのんびりと走っていた軽トラの、ハンドルを握っていた老人の驚いたように見てくる顔に仙道はにっこりと笑って会釈した。
 やり過ごして右折すると急な上り坂が現れて、腹筋に力が入る前にエンジンが心細い唸り声を上げた。未舗装の車一台が通れるのがやっとの細い道で、対向車でも来たら先刻通ってきた県道まで坂をバックしなければならない。
 レンタカーのアクセルは簡単に底を押して、仙道は頭にAセグメントからBセグメントのハッチバック、とメモした。高速も走るし坂もある。排気量は欲しいから、ドイツ車なんかどうだろう。イタリア車は若い頃から憧れはあるけれども、居住性に問題があると聞いたことがある。なにより車を見たときのあの人の顔が想像できて却下した。目下の課題は棚上げして、そんな他愛のないことを考えるのが楽しい。
 ちらりと視線を流したカーナビは到着まであと3分と出ていて、先刻から人家の見当たらない山道に車を走らせていた仙道は眉を上げた。ますます訪ねる男の世捨て人疑惑が沸き上がる。ちょっとコンビニまで足りないものを買いに、とはいかないな、と考えて、助手席に積んである満杯のスーパーのレジ袋を頼もしく思い、自分の先見の明にちょっと拍手でも送りたい気分だった。
 仙道の目がハンドルを握る自分の左手首に流れた。ふ、と表情が緩むのが自分でわかって、予定にない客を出迎える男の驚いた表情を予想して面映ゆく思い、どうせ車には一人だと、想像に顔を盛大に綻ばせた。
 最寄りの空港から2時間弱。通おうと思えば通えない距離ではない。にしても遠い。どうしてこれまでに所縁のないこの地をあの男が選んだのかはわからないが、もし自分から距離を置こうとしているのであれば全く無駄な足搔きだと思う。下調べでネットを覗くと本土では5指に入るほどに波がいいという意見が多かったから、自分などは関係なく、案外単純にそうした理由なのかもしれない。どちらにせよ、もうすぐそばまで近づいてきている。
 また大きくカーブを曲がったところで視界がいきなり開けた。雑木林しか見えなかった景色が黄金色に輝いていて思わず目を細める。夕日が海を染めているのだと、目が慣れてきて気づいた。
 ああ、ここはあそこに似てるな。
 ずっとずっと遠い、西の果ての異国の海。あの時は背中を追うのに必死で景色は目に入っても今のような感慨は湧いて来なかった。
 ほどなく多少は人の手が入ったように思われる少し開けた土地が目に入って、仙道はそこに車を寄せて止めた。門などはなく、小路を分け入ると先刻ぼんやりと頭に思い描いた車が数年型落ちした姿でそこにあった。口角が自然と上がって、ここだ、と確信する。
「おじゃましまーす」と小さく声をかけつつ、更に奥に足を踏み入れるとこれも年季の入った小さな戸建てがひっそりと建っていた。元々が別荘用に建てられたようで、一昔前であれば洒落た、と形容していいかもしれない濃い茶の外壁は、今は藻のような薄い緑色のコケに覆われている。錆が浮いて少し歪んだ郵便受けに『牧』の名前。
 よし、と気合を入れ直して、インターフォンを押してしばし待つ。応えがなくて、もう一度押すがやはり応答はなかった。
 居留守じゃねーよな?と家の様子に耳を澄ますが何の物音も聞こえてこなかった。入れ違ったかな、とエントランスから家の裏手を覗き込む。
 ザンッと波の音がして、誘われるように家の横手から奥に回った。
「うっわ」
 眼下に一面の海が広がっていて、仙道は思わず声を上げた。
 高台から見下ろす景色は視界を遮るもののない夕日に染まる海。
 高校の一時期を過ごした神奈川の海とも違う、圧倒的な解放感だった。
 申し訳程度に整えられた庭の、海寄りの奥に小路が続いているのが見えて、そこまで行くと、壊れかけ、ペンキの剥げた腰高の板戸から、海へ降りる急な階段へと繋がっていた。ところどころズレて不揃いではあるが滑り止めのコンクリートの板が嵌められていて、それでも滑り落ちないように気を張らないと転がり落ちそうな崖と言ってもいいような道だった。
 踏みしめた跡はこんな坂をボードを持って降りるあの人か。
 そんな事を考えていると注意を払っている足元を更に急がせてしまう。
 ようやく浜辺に降り立つと、大きな犬が2匹、海に向かって吠えていた。その先へ目をやると、白く高い波間に見えるサーフボードとその上にバランスを取って滑り見え隠れする尋ね人。胸が瞬間、掴まれたように鼓動が上がる。
 あの人の前に立つといつもそうだ。
 初めて見た時から。
 プライドも今までに培ってきた自信も全て吹き飛ぶ。虚勢を張っていてもあの目に見つめられると見透かされているように感じる。
 ようやく入ることを許されたベッドの上でそれを正直に打ち明けると、あの人は目を瞠って、それからなぜだか大笑いした。呆気にとられながらも、涙まで流しているその笑顔を見て、もう自分はこの人からは離れられないのだと悟った。
 砂浜に腰を下ろし波間を眺めていると、犬が1匹寄ってきた。遠慮もなく濡れた前足をかけて乗りあがり顔を舐めてくる。
「覚えてたか。ご主人様と違っていい子だなぁ」
 シャツがすぐに濡れて砂まみれになったが、抱きかかえて顔を舐められるままにしていると、もう1匹が寄ってきて周りの匂いを嗅ぎ始めた。
 見覚えのない黒い大きな犬。手を伸ばしても匂いを嗅ぐばかりで寄ってくる気配はない。
「警戒心が強いんだ。初めて見る人間の傍には近寄らない」
 仙道は目を閉じた。そして胸に深く響く声を聴いた。
「…また拾った?」
「ああ」
「名前、当てようか。クロでしょ」
「どうしてわかった?」
 そこでようやく目を開くと、想像していたより大分柔らかくなった雰囲気の牧が立っていた。笑みを浮かべて、かきあげた髪から落ちた水滴が夕日を受けて光る。仙道は目を細めた。
「来ちゃった」
「…よく辿りつけたな」
「愛の力で」
「相変わらずだな、」
 最後まで言わせずに立ち上がり、唇を自分のそれで覆った。冷えた唇がこれまでの二人の距離のようで、どうにかして縮めたいと欲求のままに食むように唇でなぞる。なかなか応えてこない唇がもどかしかった。確かめるように唇を一度離して瞳を覗き込む。真っすぐに仙道を見る薄い色の瞳はあの頃のままで、仙道はまた引き寄せられるようにその唇に口づけた。
「あいたっ?!」
 いきなりふくらはぎに小さく痛みを感じて仙道が下を見ると、黒い犬が仙道のジーンズの裾を咥えて引っ張り、仙道を牧から引き剥がそうと踏ん張っていた。仙道の腕の中から抜け出た牧が笑ってしゃがみ、犬を抱きかかえて頭にキスを落とし仙道から引き剥がす。
「そんなもん食うと腹壊すぞ」
「え、ひどい」
「来いよ。おまえのナリもひどい」
 仙道が自分の前を見下ろすと濡れたシャツが砂まみれで確かにひどかった。
 砂浜に置かれたあったボードを拾い、家への小路に上がる真っすぐな褐色の変わらない背中を仙道は見つめた。
 やんわりとキスを解かれたような気もする。
 それでも「来い」と言ってもらえたことに息をついて、犬2匹と一緒にその後を追った。


 適当に寛いでくれ、と言い置いて浴室に牧が消えると、仙道は車に置いてきた食材と自分の荷物を牧の家に運び入れた。出されたTシャツは「自分のあるから」と言って断った。今回は5日間の休暇をもらっている。その間ずっとこの家に置いてもらえるかはわからなかったが、困らない準備はしてきた。それをまだ牧に言い出せてはいなかった。聞かれたら、とか、さりげなく機を見て切り出せたらいい、などと我ながら消極的に考えて、自分の荷物の中からTシャツを出して着替えた。
 スーパーの袋を台所に持ち込み、冷蔵庫の中をまず拝見する。買ってきた食材は全て収まりそうだと見て、袋の中から今晩食べようと思って仕入れたステーキ肉とサラダ用の野菜だけをよけてしまう。手を洗わせてもらいながら台所を眺めて、必要最小限の鍋やフライパンは揃っていることを確認し、肉に塩コショウを振ってからざっと野菜を洗って適当な大きさに揃えて切る。目についた水切り籠の中の皿を拝借して盛り付け、にんにくを取り出して皮を剥いていると、一足先に風呂から上がった犬がふんふんと鼻を鳴らしながら台所に寄ってきた。黒い犬は、と探すと、こちらに細く瞼を開いた目をやりながらも、関心はないという風を装って、居間の定位置と思しき場所で伏せっている。
 なんでも拾う癖は直っていないらしい。
 ドレッシングは、と冷蔵庫を探して見当たらず、オリーブオイルをサラダに回しかけて塩コショウを振った。
 そうして自分も拾われたのかもしれない。
 鼻持ちならない若造だった自分がこうしていられるのもあの人のおかげだ、と考えると、興味のないフリをして寝そべる犬にも情けない共感が持てた。
 スライスしたにんにくをフライパンに入れて油を多めに追加して加熱する。適当に色づいてきたところで火力を上げてステーキ肉を放り込み、これは空港で仕入れてきた赤ワインを開けた。今度はワイングラスを探してやはり見当たらず、少し瓶を眺めてそのまま呷った。ボディが強いのもあの人の好み。頷いてコンロに戻り、肉を返して、そこにもザッと少量注ぎ入れる。一瞬で沸き上がって、犬が吠えた。
「豪勢だな」
 肩にタオルをかけた牧が台所に続いたリビングに入ってきた。寝そべっていた黒い犬が素早く立ち上がり、尻尾を振りながら牧の足元にじゃれつく。
 仙道はそれを目の端に捉えて、「ワイングラスある?」と牧に声をかけた。
「あったかな」
「え、ないの?ワイン飲んでないの?」
 驚いて問い返すと、「…なんでもそこのグラスで飲んでる」と返ってくる。水切り籠に伏せてある、明らかにウィスキーグラスを見て仙道は頷いた。
「わかった。今度はワイングラス買ってくる」
 こんな言葉にも相手の出方を窺う意味を含ませる自分に呆れるが、牧は気づいた様子もなく、「あんまり高いのは犬にやられるぞ」と答えた。そんな答えにすら口角が上がり、仙道はウィスキーグラスを取り、赤ワインを注いで牧に手渡した。
「あ、ビールの方がよかった?」
 香りを楽しむように鼻をグラスに近づけた牧は視線を仙道に投げる。
「まだ開けたばっかりで開いてないかも」
「いや、いい」
 ワインを含んだ口元が笑みの形に上がり、仙道はその顔を見つめた。
「肉、いいのか?」
「あっ!」
 慌てて火を止めると牧が台所に入ってきた。背後の棚から大きめの皿を二枚出して渡してくるのを受け取り、一枚づつ肉を乗せる。空いたフライパンにそのままスライスした玉ねぎと見つけた醤油を淹れて煮立てながら、自分にもグラスにワインを注いだ。
「手際がよくなったな」
「そう?」
 外食ばかりだった自分が、パイロットとして健康にも気遣うように自覚できるようになったのも牧のおかげだった。グラスに半分ほどワインを残して干すと、あとはフライパンに流し入れた。再度一煮立ちさせて肉にかけると、それを持ってダイニングテーブルに並べる。振り返ると、牧がワインのボトルとグラスを運んできていて、仙道は口元を引き上げ、席についた。


 海に向かって開け放した窓から波の大きな音が響く。空に浮かんだ月が光ごと海に映し出されていて、揺れるそれを仙道は眺めながらグラスを傾けた。真夏のさなかに涼しい風が吹き込んできて、自然と目が細くなる。夜に見る海もあの西の海に似ているように感じられるのは向かいにいる人のせいかもしれない。
「いいところだね」
「ああ、そうだな」
 答える牧の顔は満ち足りているようで、なぜこの地なのだと今更問うのも野暮であるように感じられた。
「…急に辞めたから驚いた」
「急じゃない。おまえには言ってあっただろう」
「本気だと思わなかった」
 グラスの中の氷が解けて、カランと透明な音が響く。グラスは食事の後に洗われて、今は本来の用途に使われていた。
「みんな勝手なこと言ってて。条件のいい他社に引き抜きにあったとか言う奴までいる」
 グラスを手に取り、少し舐めて顔の表情を隠した。ちら、と牧に目をやると表情は変わらずに夜の海に顔を向けている。
「これから…何するの?」
 幾分か言葉を濁して聞きたかったことを問うと、牧は「そうだなぁ」と言って薄暗く照明を絞った部屋の天井を見上げた。
「とりあえず家の修理でもするかな」
 つられて仙道が顔を上げると、壁際の天井の壁紙が剥がれて、小さく弛んでいるように見えた。放っておけば重力に逆らえず近い時期に全部落ちてきそうだった。中古で買ったというこの家は、年季が入っているのは外装だけでなく内装も同じで、古臭い壁紙は置いておいてもあちこちに手を加える余地はあるようだった。
 わざと仙道の言葉を牧が捉え違えていることはわかっていた。でも自分もはっきりと聞けなかったのだからあいこだ、と考えて、仙道はまたグラスを傾ける。
「手伝いますよ」
 声をかければ牧が自分に顔を向けた。束の間視線が絡んで、解けた。
「今日は休め」
 立ち上がりながらリビングに続いた和室を指し示す。
「布団は押入れの中。自分で敷け。あるものはなんでも勝手に使っていい」
「はい、」
 牧は自分のグラスを持って台所に回り、洗って水切り籠に伏せた。その時になって、それがチェコで買ったグラスだということに気が付いた。初めて牧の副操縦士としてオーストリアまで飛んで、日帰りの予定で国境を越えてチェコに入った。列車から遠く一面の黄色い花が見えた季節だった。「大切な人に贈るんです」そう言って牧の前でグラスを2客購入し、日本に戻ってから牧の家に持っていった。自分の本気をいつも笑いで躱す人が、これを今ままでに使ったところを見たことがなかった。
 そのまま背を向けて去っていく背に仙道は「おやすみなさい」と小さく呟いた。



 眩しくて目が覚めた。瞼を閉じていても眼球を灼かれるほどの光は、自然な目覚めという生易しいものではなかった。
 仙道は布団から立ち上がり、窓辺に寄った。夜に一人ウィスキーを舐めながら真っ黒な海を眺めた時のまま、雨戸も障子も閉めずに寝たのだった、と垂れてくる前髪をかきあげて思い出す。氷が溶けて水になった中身のグラスが、籐のテーブルの上に小さな水溜まりを作っている。
 予想した通り波間には牧の姿があった。時計は見なくても日の高さからみれば、まだいって7時位だろうと見当をつける。
 なるほど、機を降りて波に乗る。という言葉に嘘はなかったわけだ。自分が信じなかっただけで。
 気が付けば牧はベースを関西に異動させていた。道理で地上勤務でも姿を見かけないと思った。たまらずにかけた電話口の向こうで、牧は「40になったら機を降りる」と告げてきた。
「降りてどうするの?」
 本気には取らなかった。30代で機長になった牧は仙道にとって常に追うべき目標であり、理想を体現した男だった。
 これまでの牧の仕事にかけている情熱を見ていれば、言われても俄に信じられるものではなかった。
「波に乗る」
 趣味で続けてきたサーフィンのことを言ってるのだろうことはわかった。だからその時は今度の休暇について話しているのだと思った。
 仙道がこの家に訪ねてきたのは平日の夕方で、今日も朝からゆっくりと波と遊んでいる。牧がどこかに働きに行っている様子は見られない。ただただ休暇を満喫しているように見える。
 仙道は布団を押入れに片づけ終わると着替えて台所に行き、手を洗って冷蔵庫を覗いて、昨日仕入れた卵と鮭を取り出した。それぞれを焼いていると、台所と続きのリビングから見える海への小路から牧が戻ってきた。そのまま庭のシャワーを浴びて2匹の犬にもホースで水をかけている。その様子を眺めながら、コーヒーメーカーをセットした。
 朝から日差しは既に灼けるように強かった。クロが身を震わせて体から弾き飛ばした水滴が光って弾けた。家の裏手に牧と2匹が消えて、卵と鮭が焼きあがった頃にこざっぱりとした姿で揃ってリビングへ入ってきた。
「おお、すごいな」
 インスタントの味噌汁と昨日と同じ素材のサラダをテーブルに並べたところで、牧が感心したように皿の上を眺めた。
「あんたに教わったから。体も資本だって」
「辞めると不精になるな。朝は納豆で終わらせることが多いんだ」
 牧は冷蔵庫に行き、昨日と同じグラスを籠から取って水を注いだ。
 上半身は何も着ていない肌にタオルを肩からかけている。その体を見る限り、不精が身体を甘やかしている様子は未だ見つけることはできなかった。褐色の引き締まった体は昔のままで、仙道は視線を逸らせた。
 牧はリビングを後にして、戻ってきたときにはタオルは消えて代わりにTシャツを着ていた。「いただきます」と言ってテーブルにつく。
「業者に頼むの?」
「業者?」
 仙道の言葉に牧は箸を持ち上げた手を止めた。
「修理。家の」
「ああ。まだ考えていなかった。自分でできるところはやろうと思っていたが」
「後でホームセンター行こうか。自分でやるなら材料もあるし、リフォームかけるなら見積もり、業者に頼むこともできるよ」
 空港からの通り道に大手のチェーン店を何軒か見かけたのを仙道は思い出して言った。一番近い店なら30分程度で行けるだろう。そのついでに食材を買い足してもいい。
「そうだな」
 牧はうんとも否とも言わず、鮭に箸をつけた。
 仙道も聞き返すことなく、箸を手にした。





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