藍蒔く




「ただいまー!」
 古い家の奥に自分の声が響いたが返ってくる声はなくて、誰もいないか、と独り言ちて藤真はスニーカーを脱いで玄関から上がった。通りがけに右手の居間を見ると障子の奥の窓が開け放たれたままで、「まーた開けっ放しかよ」とまた1人呟いて畳に足を踏み入れて荷物を降ろした。建付けの悪い窓をガタガタと音をたてて引いていると、沓脱石に置かれたままのサンダルが目に入った。それは牧のものだが、その隣にもう1足見慣れないスニーカーが置いてある。牧のサンダルがあるのだったら、そのスニーカーの持ち主は一人しかいないだろう。ここ何日かに限って言えば。
「なんだ、いるのか。牧ー?三井もいんのー?」
 暗い廊下に向かって声を上げるがやはり返事は返ってこない。聞こえないのか、と廊下に顔を出して、右手の牧の部屋の方向を見ると、部屋の中から何やら慌てたような物音と押し殺した怒ったような声が聞こえてきた。藤真は一瞬目を瞠り、そっと居間に引っ込んだ。台所に入って、グラスに冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぎ、口をつけたところで牧が廊下から台所に入ってきた。
「今帰ったのか。早かったな」
 藤真はそれには答えずに、グラスの麦茶を飲みながら牧を盗み見る。怒ったように眉を寄せ、顔を作っているのがバレバレだ。
「すいませーん、早く帰ってきて」
「何言ってる」
「いいじゃん。上手くいったみたいで」
 にっこり笑ってやるが、牧も答えずに背を向けてグラスを取り出した。チラリと見える頬が赤い。
 うわー。初めて見た。これまで彼女のことで散々からかったって眉一つ動かさなかったやつが。
 藤真は内心驚いて、だが賢く口には出さないで麦茶を飲みほした。そこへこれは赤い顔が隠せない三井が入ってきた。やっぱり怒ったような顔をして口先が尖っている。
「よお、いらっしゃい」
 そこは見ない振りをしてやって声をかけると、三井は「おう。邪魔してる」と、ボソッと聞こえないような声で言って居間に出て行った。
 おもしろいものが見れる。海南と湘北のバスケバカが波に乗る。
 そう言って翔陽バスケ部メンバーに召集をかけたが、早朝の時間に来たのは、連絡網の次で藤真が直に電話をした花形一人だけだった。並んで砂浜に降り立つとちょうど三井が波に飲まれたところで、指をさして大笑いしてやった。波に浮かんだボードに三井が縋って浮かんでくる。その後に牧が波間に現れて、同じボードに腕をかけて、二人の顔が重なった。藤真の笑いが止まる。眼鏡の上に片手で庇を作って海を眺めていた花形がこちらを振り向くのと目が合った。
「…戻るか」
「そうだな…」
 他言無用を誓い合って帰ったが、本当に二人がキスをしていたのかまではわからなかった。わからなかったので鎌をかけたら、三井は見事に態度で白状した。
 こいつがよく牧をおとせたな、と思う。いや、こいつだから牧がおちたのかもしれない。
 藤真は荷物を取って持ち上げたその背に、黙ったままの牧の援護射撃のつもりで誘いをかけた。
「昼まだだろ?飯食ってけよ」
「おまえらにつきあえるか」
 飯という単語のセレクトが不味かった。藤真は唇を捻り、どうすっかなーと、動かない、のか動けないのか、固まったままの牧の背中を見る。そこへまた「ただいまー!」と声が響いた。「おかえり」と返事をする間もなく、叔父の佑二郎がドカドカと賑やかに大きな2匹の犬とともに居間に入ってくる。
「おお、三井君じゃないか!ちょうどよかった。メンチカツ、山ほど買ってきたぞ!さあ、飯にしよう!」
 叔父さんナイスタイミング。帰るきっかけを失って2匹の犬に纏わりつかれている三井に藤真は笑った。




「そーそー。ビビリはおれ様ネーミング。で、アキは牧」
「ビビリはひどいよなー」
 三井は居間に寝ている犬を振り返った。確かに気弱そうではあるけれども。
「だってずっとアキのあとつけてて、おれに懐かないんだもん。まあ小学生だったしな、おれも。牧もひどいぜ?秋田犬だからアキだって」
「ハハッ!らしー!」
 牧の家に来たときの習慣のようになってしまった食後のインスタントコーヒーを淹れて手渡すと、佑二郎も客に何をさせてるなどとは言わずに、「お、ありがとうありがとう」と手刀を切って受け取った。
「春からは同じ大学だな。紳一をよろしく」
 言われて、「へ?」と三井から間抜けな声が漏れる。
「なんだ、言ってないのか?」
 佑二郎が牧を見ると、牧は三井を見た。
「ああ、そうだな」
「そうだなじゃねえよ!なんで海南大?!」
 おまえなら、と続けようとすると、コーヒーを啜っていた藤真が口を挟んだ。
「獣医学部があるからだよ」
「え、獣医になんの?バスケは?!」
「もちろん続ける。よろしくな」
「よろしくなって…。そんなん続けられるのか?」
 よくはわからないが大変そうだ。とにかく大変そうだということだけはわかる。
「獣医学部って全国で国立入れても16校しかないんだって。海南大のも普通の推薦じゃいけねーけど、バスケ続けながら学年で二人だけの枠に受かったんだ。牧ならイケんじゃね?」
 藤真が放るように言う。そうか。牧だからな。三井もなんとなくそんな言葉に納得してしまう。
「ってかなんでおれが海南大行くって知ってる?」
「え、おまえんとこの宮城情報」
 宮城~!三井は内心罵って顔を歪めた。部活で目にモノ見せてやる。三井は今度こそカバンを拾って家の人間に向き直った。
「じゃあおれ行きます。ごちそうさまでした」
「おお。三井君、また来てなー!」
「じゃーな!邪魔してワルかったな!」
 藤真の茶々には目を怒らせて黙らせる。
「待てよ、三井。俺もそこまで行く」
 牧が席を立ってそう言うのを、三井はなんとなく居たたまれない気持ちで聞いた。牧の背後でまた藤真がふざけたような顔を晒すのを睨みつける。
 庭の垣根を出て、家の軒下を通るような細い歩道を通り抜けて車道に出ると、排気ガスよりも潮の香を強く感じて三井は息を吐いた。
「悪かった」
「おまえのせいじゃねぇだろ」
 藤真が帰ってきたときの間の悪さを牧は謝っているのだろうが、改めて謝られると却ってこっぱずかしい。それなのに目はさっきまで自分のそれに触れていた牧の唇を追ってしまう。
 牧の部屋は想像通りにきれいに片付いていた。
 牧らしい、とかなんとか。和室に置かれたベッドに遠慮なく腰掛けて、そんなことを言って解こうとした緊張を余計に感じた。
 そうか?
 返事をしながら牧は振り向かない。 海での魔法は解けたみたいだった。自分には歩ける足があるけれども、牧を振り返らせる声は出ない。
 焦れて三井は牧の手を取った。牧の目が自分を見て、ゆっくりと腰が屈められた。上体を倒して自分の顔に近づいた牧の吐息を感じた。
 三井は視線をもぎ離して海にやった。
「卒業式いつ?」
「ああ、先週だった」
「先週?!」
 そうか私立は早いのか。何をしようと考えていたわけではないが、なんとなく申しわけないような気分で、「そっか」と三井は口の中で呟いた。
「おまえは?」
「明日」
「明日か…」
 牧も同じように考えていたのか、眉を寄せる。
「何時に終わる?行こうか」
「バッカ、いいよ。おまえ来たら大騒ぎだよ」
 上級生の卒業式でよく見かけた、花束を持って車で乗り付ける男を牧の姿で想像するとおかしかった。似合い過ぎる。驚きで間抜け面を晒すバスケ部員が簡単に頭に浮かんできて三井は笑う。牧が海側の歩道を歩く三井を見て眩しげに目を細めた。
 日差しがもう高くて、春なのに汗ばむほどの陽気で、今、海に入ったら最高に気持ちいいだろうな、と三井は思う。サーフィンはもう正直やりたいとは思わないけれど、もう一度牧と海の中で出会いたい。掠めるようなキスをしたら、また驚いた顔が見られるだろうか。
「明日も朝は走りに行くから」
「昼寝はできないな」
「昼寝はまた今度」
 また今度、そう言える嬉しさで三井は笑った。






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