藍蒔く
夜明けの時間が早くなった。日に日に家を出た時に目に入る風景が明るく変わっていく。今はもう外に出ると薄明るくて、いつもの浜に辿り着いたときにはすっかり明けきった空が大きく海上の波乗り達を照らしていた。
ここからだと人の顔までは見分けられない。だからその逆も同じだろうと、三井は安心して足を止めてその風景に見入った。いつものように一通り見て満足して元来た道を戻ろうとすると、来たときには確かにいなかった藤真がいて、防波堤に腰掛けて進行方向を塞いでいた。
「よぉ」
一声かけて走り出そうとすると、足を上げて邪魔される。
「なんだよ」
「もう来ねーの、ウチ」
「用事ねぇし」
「見てれば満足?」
「あぁ?」
何、おかしな言い方しやがる。睨みつけると、藤真も睨み返してきた。
「牧がさー」
藤真は口調を変えて海に顔を向けた。
「ずっと黒電見てんの。怖いぜ?廊下に30分突っ立って黙って黒電見てる牧」
なんだ、それ。おれへかけようとして迷ってるわけじゃないだろ。
言い返そうとして、口の中の苦いほどの海水を思い出して、言葉に詰まった。
「おまえはおまえでこんなとこに突っ立って海なんか見つめちゃってるし?」
「休んでたんだよ」
口を尖らせて言い返すと、藤真は海へ向けていた視線を三井に戻した。
「おれがこんなことまで言っていいのかわかんないけどさー。おまえのせいで牧、日本に残ったんだぜ?」
「へ?おれ?日本?」
「あいつ中学んとき親が海外赴任決まって引っ越すことになってたんだよ」
「親生きてんの?」
「何殺してんだよ。生きてるよ。伯父さんハーグに赴任してる。伯母さんも弟も一緒」
「え、そうなの?!」
「あいつが中学三年とき家族であっち行った」
そこで藤真は言葉を切って三井を見た。三井は顰めツラを作って藤真を見返す。
「それがなんでおれのせいなんだよ。中学の時に牧なんて知らないし」
「まーおまえのせいってのは変だけど。おまえがMVP取ったときだよ。最後ベンチに突っ込んだろ」
それは覚えてる。というか忘れられない。あそこで初めて安西先生に会ったのだ。
「あの時おれも牧と見てたんだけどさー。それからおまえ巻き直して3P決めて逆転して優勝したろ?まーあれはおれもぶっちゃけ感動したよ。多分あいつも。そのあとあいつ海南大付属の推薦受けるって。日本に残るって決めたんだよ。それから今の叔父さん家に世話になってる」
「…ふーん」
ってか、ハーグってどこだろ。国名?じゃないよな。
目を海に戻すと牧らしき人影がボードを抱えて砂浜に戻ってくるところだった。牧もこちらに気づいたのかその足が止まる。目が合ったような気がした。心臓が一つ、跳ねた。
「まー友達じゃないっていうなら仕方ないけど。チューしちゃったし?」
「おまっ!おまえっ!見て…!」
三井は声にならない声を上げた。
「ははっ!いんじゃないの?別に」
牧がまた足を前に動かし始めたのが遠目に見えた。目の前の笑う藤真の足を飛び越えて、三井は元来た道をダッシュで戻った。
犬が後ろからついてきている。走る速度を速めれば犬も走るし、止まれば犬も止まる。そんなことをもう何度か繰り返して、これはもう自分をつけてきているのだろうと確信した。三井は足を止めて振り返った。大きな犬。泣きそうな顔をしていると思った。小さな目が垂れていて泣き顔に見える。牧のとこにいた犬ほどではないが、大型ではある。どうしたもんかな。首をかしげれば犬もかしげる。いつもの折り返し地点までももうすぐだった。
犬の扱いに慣れてるヤツがいたな。
三井は考えるように海に目をやって、決心して砂浜に降りた。
「三井」
静かな、でも聞き慣れていたそれよりどこか緊張感を持っているような声で呼ばれて、犬に触ろうとしていた手が止まった。
「犬に触るな。そっと立ち上がってそのまま後ろ向きにこっちに来い。走るなよ」
振り返ればそこに牧がいて、三井を手招きしていた。久しぶりに顔を合わせた言葉が「犬に触るな」。三井はムッとして口を尖らせた。
「なんだよ。大人しい犬だぜ?もう触っちゃったし」
「いいからこっちにこい」
牧にしては珍しい焦ったような声で繰り返す。三井はしぶしぶ腰を上げ、言われたとおりに後ろ向きに牧に近づいた。犬はおとなしくその様子を見ていたが、しばらくするとまた舌を出して尾を振りながら三井の方に寄ってきた。
「な、おとなしい犬だろ?」
「首輪の後がまだあるな。捨てられて日が浅い」
「え、捨てられたの、こいつ」
「海に捨てていくヤツがよくいるんだ」
牧は怒っているようだった。いつか見た時と同じように、わかりやすく態度には出さないが、低く声音が抑えられていてそれとわかる。
「叔父貴のところに連れていく」
「そっか…。うん…じゃあ、おれは…」
並んで牧の叔父のところに顔を出すのも気まずい気がした。三井が戻ろうと声をかけると、牧は犬から顔を上げ三井を見た。
「…そうか。じゃあ…」
別れて歩道に戻ろうとすると、後ろから砂を踏む犬の足音が聞こえてきた。まさかと振り返るとやっぱり犬がそこにいた。歩き始めるとまた聞こえてくる。振り返ると止まる。それを3度繰り返し、三井は立ち止まって息を吐いた。振り返ればうれしそうに尻尾を振る犬と、そのまた後ろには困ったような牧の顔があった。
「…おれも行くよ」
諦めて告げると、犬と牧の顔が上がった。
「よく捨てられてんの」
牧の叔父の動物病院は家より15分ほど歩くという。ギリギリまで砂浜を行く方がいいだろう、と牧は知り合いのサーファーにボードを預け、三井のもとに戻ってきた。
「ああ。夏の海のイメージで人が大勢いて食べ物もあると思うんだろうな。実際には何もない。道路に彷徨い出て轢かれる犬もいる。飼ってた犬が思っていたよりも大きくなって持て余すと捨てていきやがる」
牧にしては乱暴な言葉で、三井は少し驚いて牧を見た。三井について歩く犬を見下ろす横顔が険しい。
「もしかしておまえん家の犬もそう?」
「そうだ。叔父貴が拾ってきた。定期的に叔父が海岸を巡回してる。あいつらは引き取り手がつかなくて」
海の近所に住んでいても知らなかった。三井がついてきている犬に手を伸ばそうとすると、「こら」と牧に怒られる。
「犬を見ても迂闊に手を出すな。予防接種をしているのかわからないし気が立ってるヤツもいる」
「ふーん」
おまえ捨てられたの。視線を落とした三井に、返事をするように犬がワンッと吠えた。
牧の叔父の病院に犬を引き渡すと、元来た道を二人引き返した。いろいろ聞きたいことも言いたいこともあったが、言葉が見つからなかった。
大体牧も言葉が少な過ぎる。だが隣に並んで歩いているだけで奇妙な安心感と胸が騒ぎ出すような嬉しさがあって、これってやっぱりそういうことなんだよな、と三井は思った。行きよりもあっという間にいつもの砂浜に着いて、三井はようやく口を開いた。
「じゃあ…」
「なあ、」
数歩あるくと声がかかって、振り返ると、牧が自分を見ていた。
「おまえがサーフィンの練習を止めたのは、俺のせいか?」
サーフィンの練習。
思ってもいなかったことを聞かれて三井は目を瞬いた。いや、最後にまともに会ったのはサーフィンを教わったあの日だった。それだって自分が牧に会いたかったからだ。サーフィンがやりたかったわけではなかった。どうにかしてまた牧と会う口実が欲しかっただけだ。
「おれに電話かけようとしてたってホント?」
聞かれたことには答えずに質問を投げかけると、牧は目を瞠り、困ったように髪に手をやってかき上げた。
そういえばまだウエットを着たままだったんだな、とか。今日はきっちり着てるな、とか。そりゃ街中歩くのに半裸はヤバイよな、とか。どうでもいいようなことを考えているようでいて、どうしたって牧から目が離せない。
牧は諦めたように首を垂れ、片手を首の後ろにやり、それから顔を上げた。
「そうだ」
「なんで?」
ズルイとは思ったけれど、舞い上がってから突き落とされるよりはマシだ。
「おまえに会いたかったから」
「なんで」
「おまえが好きだから」
言わせた。
足から力が抜けて砂浜にしゃがみこんだ。
「三井?」
牧が歩いてくる気配がする。傍まで来て頭に手が置かれた。顔は上げられない。
「三井、顔を見せてくれよ」
見せられるかバカヤロー。きっと耳まで真っ赤になってる。
「三井」
牧の、自分の名前を呼ぶ声が好きだ。
牧が、好きだ。
隣に牧が座った気配があった。ポンポンと時折頭を撫でる仕草が悔しくて、うれしかった。