藍蒔く





 物を教える人間として、およそ牧ほどその任に適している者はいないだろう。ついていけるかどうかは別として。
 三井はボードに跨って海に浮かび、その背中を憎たらしく睨みつけた。
 数度練習をすればボードの上にはすぐ立てるようになった。
 さすがおれ。三井は得意になってあまり気乗りしていなかった練習に本気をだした。が、何度やってもまっすぐにしか進めることができない。落ちることなく波打ち際近くまで運ばれ、三井は舌打ちして自分で海に落ちてボードを反転し、パドリングして牧のそばまで戻った。
「器用だな」
 笑いつつ、牧は厳しくも根気よく説明しながら前を行く。
「膝を曲げろ。重心を落とせ。立ったら波と同じスピードだ」
 んなこと言ったって言葉通りいきゃー苦労しねぇの!なんだよ、波と同じスピードってよ。
 癇癪が破裂しそうになって、集中力が途切れて波間に落ちた。浮き上がって頭を振っていると牧が傍に寄ってきた。
「今日は上がろう」
 海に出ると確かに時間の感覚が希薄になる。太陽の高さを見ると、間に何回か休憩を挟んだにしろ、結構な時間海の上にいたことがわかった。だが、終わりを指示されると三井の負けん気に火が付く。
「まだまだ!」
 背後からちょうどきた波にボードごと体が浮き、せっかちにテイクオフを試みる。
「三井!」
 牧の叫び声を聞きつつ、見てろ!と体に力が入った。
「腰落とせ!横抜かれるぞ!」
 バスケの練習時のような掛け声になるほど、と思い腰を更に落としてつま先の方向を変えた。膝はやわらかく曲げつつ波に委ねて踏ん張り過ぎない。乗れた、と思った時、波が崩れた。空に放り出された次の瞬間には波にのまれていた。海中で上下感覚が失われて軽くパニックに陥りそうになる。足首がつながれたリーシュコードに引っ張られて体が反転し、海中から明るい空が揺らいで見えてホッして腕で水を掻こうとすると、その空との間に牧の顔が見えた。
 なんだその心配そうなツラ。溺れてるわけじゃねぇ。
 腕を泳がせた勢いがついて牧の顔に体ごと近づく。気遣うような表情が見えて、もう至近距離といっていいそばで、三井はその唇に口づけた。一瞬だったけれども確かに感覚が伝わって、牧の肩を押して先に海上に伸び上がった。浮いていたボードに腕をかけ、頭をもたせ掛ける。めちゃくちゃしょっぱい。海水を飲んで口中はえぐい程のしょっぱさでいっぱいなのに唇が熱かった。じんじんと熱をもっていて、もたせかけた顔に波が被っていっても一向にひかなかった。ボードの片側が沈んで隣に牧の日に焼けた褐色の腕がかかる。次いで頭が浮上して、張り付いた前髪をかきあげた手がどくと、その目が三井を見ていた。疲れているわけでもないのにボードにもたせ掛けた頭は動けなくて、牧に視線が固定されている。目の前の牧が大きくなって、唇に牧のそれが触れていた。触れているだけなのに動けなくて、三井は目を閉じた。



 海からの帰り道は二人とも無言だった。それは珍しいことではなかった。ここ毎日同じことを繰り返していて、違うことと言えば三井がウェットスーツを着ていること、サーフボードを抱えていること、それから。
 先に庭に入る、ウエットスーツを脱いだ牧の裸の背中を三井は見つめた。ひそかにカッコイイなと思い、自分も着るんだったら上だけウェットを脱いでみたいと思っていたが、三井は牧から借りたフルスーツのウェットをきっちりまだ着ていた。丈はほぼ同じで体に合っているけれどもやはり幅が大分違う。文句を言えばそこに海水が入りこんで体温に温められて暖かくなるんだ、と諭されるように教えられた。確かに海の上では暖かく感じられて、でもそれは牧の体温を感じているようでこそばゆかった。
「シャワーで流してから脱いでおけ」
「え」
 しかし水道水を直に浴びろと言われると腰がひける。暖かいとはいえまだ3月。桜だって咲いていない。
「いいよ、普通に脱げる」
 言うと牧は三井に視線を流し、シャワーではなく水栓に向かった。何をするのだろうと見ているとホースを拾い、おもむろに蛇口を捻った牧がホースの先を握り潰して水力を強め、三井に向けてきた。
「うわっ!何しやがる!」
 冷たい水をモロに浴びて思わず逃げると、その背にも放水される。水圧はかなり強くて痛い。背中を押されて三井は逃げた。
「冷てえっ!やめろって!」
「逃げるな。そこに立て」
「ふざけんなっ!」
 冷たい水を両手を上げて防ぎながら振り返ると牧が笑っていた。あっけに取られて三井の足が止まる。
「こら、潮は流せ」
 口で言っていることはもっともでも、大きく笑っている顔は悪ガキだった。先を握ったホースを上下に振って水を飛ばしてくる。ガキかよ。三井は庭の隅の大きな木の陰に逃げ込んだ。すると放水がやんだ。だがすぐに出ていくことはせずに様子を伺っていると牧が近づいてきた。その手にホースはない。安心していると肩に手をかけられて後ろを向かされた。手が首に伸びて、ウェットスーツのファスナーにかかった。そういえば着るときにも、慣れない背中のファスナーを閉められないと騒いで牧に上げてもらったのだった。わかってはいても思わず息を飲みこんだ。半分程下げたところだった牧の手が止まり、動かなくなった。神経がすべて背中に集まったような気がした。止まっていた手がまた動きだして、冷たい空気が肌に触れてファスナーが全部降ろされたことがわかる。開いた背が震えると、乾いた大きな手のひらが押し当てられた。暖かいはずのそれが何よりも熱く感じられて三井は目をきつく閉じた。
「…冷たいな」
「牧、」
 振り返り、もう自分でできる、と言おうとして牧の目を見て口が止まった。海の上で見た風景が蘇る。
 水平線、サーフボードに乗る牧の背中、海中からみた空、シーガルのウェットから伸びた灼けた肌、濡れた髪。
 それがかき上げられて牧が自分を見た。今自分を見つめている目と同じだった。引き寄せられるように一歩踏み出した自分の手を、暖かい濡れた何かが触れた。
「うわっ!」
 驚いて手を引くと大きな犬が舌を出して三井を見上げていた。
「ビビリ、帰ったのか」
 牧はしゃがみこみ、その犬を抱え込んでガシガシと体を撫でた。
「え、おまえん家の犬?」
「そうだ、叔父貴の犬。帰ったのか」
 牧の覗き込んだ先に、ちょうど縁側に出てきた初老の小柄な男がいた。もう1匹、大きな犬を連れて庭に降りようとしている。
「紳一」
 牧を呼んで、その後ろにいた三井に気づいて大きめの目が更に開いた。
「友達か…!」
「ああ、湘北高校の三井」
「聞いた聞いた。健司から聞いたよ。ようこそわが家へ!ん、まず風呂か?」
 三井は慌てて挨拶をしようとして逆に握手を求められた。眼鏡をかけた人のよさそうな顔が満面の笑みで溢れている。三井は自分の肩ほどの身長の男から力強く手を引っ張られて戸惑った。色の黒い手。やっぱりサーフィン焼けだろうか。それ以外は牧に全く似ていない。強いて言えば藤真の方に似ていたが、それでも血縁を強く感じさせるようなものはない。
「三井です。お邪魔してます」
「うん、うん。まず風呂に入んなさい。紳一、ほら、案内したげて」
「あ、前にもお借りして場所はわかります。すみません、またお借りします」
「うんうん。紳一、タオル用意して」
 タオルも持ってきているのだが、口は挟まなかった。心底嬉しそうな顔で、藤真の言った、牧は家に滅多に人を連れてこないという話を三井は思い出した。



 居間に入って匂いに顔を食堂に向けると、そこにはデジャブのように大きく盛られた料理が並んでいた。
 あ。三井は頭を抱えたくなり、それでもランニングの後よりは腹が空いていることに気づいて食堂に足を踏み入れた。
「おお、三井君。座りなさい。お腹空いたでしょう」
 牧の叔父がニコニコと笑顔で菜箸を席に向けて指し示した。あまり行儀はよくない仕草だが、牧や藤真はつけないエプロンをきちんとつけている。紺のシンプルなデザインだが裾にフリルが入っていて、それがどうしたわけか男に似合っていてどうにもおかしくて、三井は下を向いて笑いを逃がした。
「はい、いただきます」
 食堂に入る前から漂っていたソースの匂いで昼食に用意されたものが焼きそばであるのはわかった。見れば自分と牧の叔父の皿はそれほどに量は多くない。ホッとして菜箸に指された席についた。交代に牧が風呂に入りに食堂を出て行く。その背をチラッと見て、三井は居間に目をやった。大きな犬が2匹、食べ物の匂いが漂う室内を行儀よく耐えて寛いでいる。
「大きな犬ですね」
「うん。三井君は動物は好き?」
「はい、好きです」
 三井は小さい頃に祖父が飼っていた秋田犬を思い出していた。もう1匹、牧の叔父が連れていたのはそれと同じ犬種に見えた。
「そう」
 牧の叔父は頷いて、またニコニコと笑う。ん、動物?と考えて、まあ犬のことを言ったのだろうと思う。
「僕は牧祐二郎と言います。シンタロウの弟の祐二郎」
 ギャグか?と一瞬思いつつ、いや、牧の父親は本当にシンタロウというのかもしれない、と考えて、三井はそれに突っ込むのは注意深く避けた。
「さあ、食べて食べて。待っていなくても紳一はあっという間に食べるから。あれは食べるというより飲み込むというんだね」
「いや、おれは食べられない方なので羨ましいです」
「ホントにそれだけでいいの?紳一や健司ばかり見てるから少なく見えるけれど」
「はい、十分です。ありがとうございます」
 実際、普通盛りよりは多くて、しかもまた山盛りのサラダが付いている。だが三井は手を合わせて「いただきます」と唱えて食べ始めた。牧が戻ってくると佑二郎の予想通り、三井たちを抜かして食べ終わり、食器を重ねて流しに運んだ。戸棚に向いコーヒーの入った瓶を取り出しながら、居間に向かった叔父に声をかける。
「今晩は?」
「うん、また病院に泊まりかな。経過が心配なコがいるんだ。着替えを取りに来ただけだから」
 牧の問いに佑二郎はアキと呼んだ犬の腹辺りを撫でながら眉を寄せて答える。医者か?と三井は思ったが、コというのは何だろう、と不思議に思う。小児科医なのかもしれない。
「またアキとビビリは連れていくよ。アキもまだちょっと心配なんだ」
「わかった」
 病院に犬?頭の上にハテナが浮かんだ三井に牧が気づいて説明する。
「叔父は獣医なんだ」
「ああ…」
 納得がいくと、佑二郎は「僕、動物のお医者さん」と言って笑った。
「じゃあ三井君、ゆっくりしていってね」
 小柄な体で大きな犬2頭を従えて佑二郎が家を出ると、三井は牧を振り返った。
「おまえのお父さん、シンタロウって名前?」
「? そうだが」
「おじさんに聞いたから」
「ああ、叔父のネタだ」
 牧が笑って答える。初対面の牧の保護者と会うという緊張を経て、会話が途絶えると、三井は隣に立つ男の存在をまた強く感じた。
「…おれもそろそろ戻ろうかな。部活あるし」
「ああ」
 三井は荷物を取り上げて、「じゃあ」と縁側に足を向けた。
「また明日な」
 牧に言われて、三井は足を止めた。
「おれ、やっぱりサーフィンは向いてねぇよ」
 牧の顔を見ないで告げる。どんな返事が返ってくるか予想できなくて、三井は立ち竦んだ。
「…そうか」
 三井は背を向けたままそれを聞き、縁側から庭へ降りて牧の家を後にした。





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