藍蒔く
海から戻ってきた牧がボードを抱え直して砂浜に刺すとまだ残っていた海水が一滴、頬に飛んできた。右手で拭って、隣に腰を下ろした牧にサンドイッチとまだ開けられていない缶コーヒーを渡す。牧は礼を言って受け取り、また2口でサンドイッチを飲み込み、缶コーヒーのプルタブを引き上げてこれも一口で飲み干した。もう渡す必要はないのかもしれないけれども、洗濯と風呂の礼だ。三井は口には出さず、また顔を海に向けた。今日も波間にはサーファー達が波に乗ったり沈んだり浮かんでいたりする。いつもと同じ光景。同じ波が来ることは決してないけれども。
「バスケとサーフィン、どっちがおもしろい?」
そんなに楽しいのかな。思ったら口が動いていた。牧はすぐに答えずにすこし考えるように目を細めた。
「自分でやってみたらどうだ?」
「何を?」
「サーフィン」
「は?」
「三井ならうまく乗れそうだ」
「は?!」
考えてみたこともないことを言われて驚いた。おれがサーフィン。いや、ないない。
斜め前に座っていた女の子の元にようやく満足したのかボードを抱えた男が海から戻ってきた。きちんと広げられたレジャーシートの上に女の子がいそいそと弁当やら水筒やらを並べ始める。見るともなしに目に入るその風景を眺めて、また口が開いた。
「おまえ彼女とかいねぇの」
ずっと海に顔を向けていた牧の視線が、自分の横顔に向いたのを感じる。おかしな質問したかな。三井は「おれ邪魔しちゃってね?」と茶化すように笑った。改めて考えてみればサーファーでもない自分が牧と並んで砂浜に座っているのはちょっとおかしな光景ではないのかな、と思う。
「いや、いない。いたこともあったがいつの間にかいなくなった」
「ははっ!なんだそれ!」
いささかおかしな返答に笑いながら、でもわかるような気がする、と三井は思った。バスケで時間が取られる上に、早朝は毎日、晴れの日も雨の日も海に出て自分はただおとなしくそれを見ているだけ。そりゃいつの間にかいなくなってもおかしくはないし責められない。もてそうだよな、とは思う。ウェットスーツを脱いだ上半身は胸板も厚く逞しくて顔もいい。性格は天然か?と突っ込めるほどに外見からイメージするより余程のんびりしていて、口数は少ないが気遣いはできる。運動神経も別格だろうが、バスケとサーフィンはこの場合引き算だろう。
「行くか」
立ち上がった牧を見上げると上がりつつあった陽が眩しくて三井は目を眇めた。
「どこに」
「家」
って当たり前のように言われても。
「洗濯物があるだろう」
「え、置いてきたのかよ。おれ借りたやつ持ってきたぞ」
「行くぞ」
前言撤回だ、この野郎。強引に家に連れ込むとかもっての外だ。
三井は仕方なく立ち上がって尻を払った。
「今日はパンも用意したぞ!」
家の中に入ると当たり前のように藤真がいて、当たり前のように3人分の山のような食卓が用意してあった。
なんだ、これ。三井はちょっと痛んだ頭を押さえた。
「だから朝は入らねぇって」
「食べないからそんなに細っこいんだ。バスケやんなら食わねーと!」
そんなことは言われなくてもわかっている。わかってはいるが、他人に言われる筋合いはないのだ。
「おまえだって細いじゃねぇか」
「おれはちゃんと食ってる。腕出してみ?」
言われてTシャツから伸びる腕を突き出す。それへ藤真も自分の腕を並べてみる。
「変わんねぇじゃねぇか」
「じゃあ、ほら、腹出してみ?」
と言って、藤真がペロッと自分のTシャツを上げて腹を出す。負けん気が出てきて自分も藤真に並んでTシャツをめくり上げ腹を出したところで、牧が居間に入ってきた。
「なにやってんだ、おまえら」
「あ、いーの。牧はいい」
自分でも牧には勝てないという自覚があるのか、藤真は牧が入ってくると、しっしっと追い払うような手つきをした。
「ほらみろ。おれのほうが腹筋ついてる」
「そんなことねぇよ。おれのがついてる」
「いや、おれだ。だから食え」
「そこに戻るか」
「あんまり無理強いするんじゃない」
牧が笑いながら藤真を諫める。そういえば牧には「食え」と強制されたことがなかった。自分に押し付けてきたサンドイッチだって食べ残しだとわかっているだろうに。
結局ベーコンエッグとパンと馬のエサのような量のサラダは食べさせられて、二人にコーヒーを淹れて片づけを手伝い終わると三井は和室に転がった。ボーッと庭を眺めていると、牧が目に入ってくる。庭の水栓につながれたホースの先を、物干し台に吊るされたウエットスーツに向けて丹念に洗い流し、それが終わると庭の緑にホースの先を向けた。牧の手で先を潰されたホースからの水が霧状になって、緑を濡らしてまた眩しく光る。
何してんだろ、おれ。顔を和室に戻し、網代天井の模様を眺めて思う。そこへ支度の終わった藤真が「忘れもん!」と言いながらバタバタと入ってきた。
「なあ、おまえって家に来るやつみんなにこんなに食わせんの」
なかなか消化できない胃と胸やけの気持ち悪さと認めなくはない居心地のよさに八つ当たり気味に尋ねる。藤真はきょとんとして「んなわけないじゃん」と言ってデカい弁当をカバンに突っ込んだ。それを見てまだ食うのか、と三井は顔を顰める。
「おまえからかうとおもしろいから」
「あぁ?!」
「ウソウソ。牧がさー、家に友達連れてくんの珍しいから。歓迎したいじゃん」
「いや、おれ友達じゃないけど」
「冷たいヤツだな!家に人間連れてくること自体珍しいんだよ。押しかけられることはあってもな。牧は気に入ったんじゃねーの?おまえのこと」
三井が戸惑って口を開けない間に、藤真は「遅れる遅れる」とまた騒々しく家を飛び出していった。
気に入った?おれのこと?特に気に入られるようなことをした覚えはない。 悪い気はしないけれども。
自分も夕方からは部活に顔を出す予定だった。ここにいてもやることはない。ないけれども居心地がよくて腹が苦しくて動けなかった。また寝ちまおうかな。思っていると隣に胡坐を組んで座った男がいた。牧。ぼんやりと庭を見ていて、また意外な一面だな、と思う。無駄な時間など作らず、常に何か目標に向かって邁進していそうだ。知らない面を見つけることが増えた横顔を見上げる。
「おまえはもう部活に顔を出さないのか?」
その横顔がふいに振り向いて三井はわけもなく焦った。
「あ?あー夕方から。…牧は?」
「俺はもう引き継いだからな。追い出し会もされて終わった」
会話は続くことなく途切れた。静かな部屋にまた波の音が響いてくる。
あ、こいつはそれを聞いてるのかな。
ふとそう思った。目を閉じると波の音で潮の香と今朝見た海の風景が広がった。そこには当たり前のように牧の背中があって、自分はそれを目で追って一人乾いた砂浜の上にいた。背中を向けているはずなのに、遠く水平線の先を見ているような牧の横顔が見えた。こっち振り向かねぇかな。そう思っていると頬に暖かい感触を覚えて、三井は安心して眠りに落ちた。
空が鳴る音が聞こえて目が覚めた。時間の感覚が失われていて頭がよく働かない。畳の匂いがして、ああ、またやっちまった、と思う。ぼんやりとした頭のまま起き上がり、時計を探すと床の間の引き違い棚の上に置かれたそれは正午を過ぎた辺りを指していた。部活には余裕で間に合う。それだけ確認して家主を探そうと首を巡らそうとして、自分の体の上にかかっていた薄掛けに気づいた。マメな男だな。そう思っていると視線を感じて、障子が開いたままの食堂に目をやった。テーブルに頬杖をついて身じろぎもなくこちらを見ていた牧に気づいて驚く。でもなんとなく予感はあって、夢の中のふわふわとした安心感が続いているようだった。
「おれ、サーフィンやってみようかな」
牧が立ち上がると椅子と板敷の床が擦れてガタッと堅い音をたてた。その音で三井は自分が何を言ったか認識した。
「よし、しごいてやる」
笑った顔が嬉しくて、なぜだか少し胸の奥が苦しくなった。