藍蒔く





 いた。いやがった。バカなのか?一日一回海に浸からないと死ぬのか?
 三井は波間に浮かぶ背中を呆れて見つめた。まあ海にいればどうせ濡れるしこのくらいの雨じゃ関係ないのかもしれない。周りにもいつもよりは少ないけれども、ポツリポツリと波に乗っている人間が小雨に煙る海上に何人か見つけられた。
 足元に今ではもう見慣れたサンダル。タオルは今日は無造作にビニール袋に突っ込んである。小雨とはいえここまで走れば三井も髪から顔に雨が滴ってくるほどに濡れていた。このままだと体も冷えてよくないことはわかる。どうすっかなーと考えて、もうひとっ走りしてくるか、と踵を返した。その時に名を呼ばれたような気がした。まさかな、と思って振り返ると波打ち際にボードを抱え、こちらに向かって叫んでいる牧がいた。仕方なく足を止めて走ってくる牧を待った。
「なんで来たんだ」
「なんでって…約束したし?」
「馬鹿、体が冷えるだろう。早く行こう」
 いつものようにウェットスーツを上半身脱がずに厳しい顔で先に立つ牧にちょっと驚いて、三井はその後に続いた。驚きつつ、そう、こいつのイメージってこんな感じだったんだよなーと思う。自分にも人にも厳しくて取り付く島もない感じ。いつもと違うということは怒っているということなのか?と考えて、なんでおれが怒られる。と反抗する気持ちが湧いてくる。
 おれはおまえんとこの部員でもないし子供でもない。自分のことは自分で責任が持てる。プッと口先を尖らせて、そこに振り向いた牧から乾いたタオルが頭に被せられた。牧が自分用に持ってきたビニール袋に入っていたタオルだと気づいて、「いらねぇよ」と突き返そうとしたとき、雨足が突然激しくなった。牧の家までの短い道のりが豪雨で煙る。「走れ!」と号令をかけられてつい従って走った。命令に慣れてる声音だと思った。確かに宮城にゃ勝てねぇよなーと思いつつ、古民家といって差し支えない牧の家の庭に駆け込んだ。
「風呂入れ」
「おまえが先に、」
「黙って入れ。俺はウェット脱いでから行く」
「おれ濡れてるし風呂の場所知らねぇし」
「居間から出て斜め左。濡れてるのは構わん。どうせ俺もいつも濡れてる」
 そこまで言うと牧はもう三井を振り返らずに庭の隅のシャワーに向かった。こんな豪雨でシャワーなんて意味ないんじゃねぇのか?と一方的に指示された反抗心も手伝って思ったが、ここでゴネていても仕方ない。家の人間がいいと言うならまあいっか、と考えて靴を脱ぎ、いつものように沓脱石に置きっぱなしにするとずぶ濡れになるのは確実なのでスニーカーは持って家に上がった。無駄だろうとは思いつつ極力濡れないようにつま先立てて大股で歩き、言われた通り居間を通り抜けると、左手の向かいにそれらしき引き戸があった。そこは通り過ぎて、さらに奥に見つけられた玄関の土間にスニーカーを置かせてもらう。そこで立ち上がろうとしたとき、「何してんの?」と声がかかった。びっくりして飛び上がりかける。これはどう見ても侵入者だ。しかもずぶ濡れの。慌てて振り返ると、ここにいるはずのない人間の顔を見て三井はさらに驚いた。寝巻きにしていたと思われるTシャツにハーフパンツで寝ぐせを盛大につけているが、そこにいたのは紛れもなく翔陽のキャプテンだった。
「藤真…?!」
「風呂はあっちだぞ。ああ、靴ね」
「なん…で?ここに」
「ここ叔父さん家だもん」
「えっ?!はっ?」
「早く風呂入れよ。牧来たらまたどやされるぞ。戻ってそこ左だからな」
 両肩に手を置かれて回れ右をさせられて脱衣所に押し込まれる。
「うぇービッチャビチャだな。タオルはここな。着替えはぁーおれの着る?牧のよりはサイズ合うよな。持ってくるから入ってて。濡れたやつは洗濯機ん中な」
 捲し立てられた後に脱衣所に一人残されて、三井はしばし茫然とした。叔父さん家?ここが?じゃあ牧が言ってた従弟というのは。
「えーっ?!」
 叫び声をあげたあとにくしゃみが出た。ブルッと寒気も来て、とりあえず体を冷やし続ける濡れた衣服を脱ぐべく三井は体を動かした。



「お、出てきたな。まあ、座れよ。今日はおれの朝食を食え」
 食堂に入ると気づいた藤真から声をかけられた。まだサーフパンツ一枚の牧もそこにいて、三井とすれ違いに食堂を出ていく。それの背中へ「お先。サンキュ」と声をかけると、「おう」と振り返って一言返ってきた。その顔が海からの帰り道に比べれば大分緩んでいて、三井も少し気持ちを緩めた。熱いシャワーを浴びて人心地ついたからだ。三井は自分をそう分析して、それからテーブルの上を眺めてまた、うっと引いた。そこには一昨日と同じようなラインナップで、しかもご飯と味噌汁はすでに一膳余分によそってある。こいつらの胃袋はどうなっているんだと呆れながら、「おれ自分の弁当持ってきたから。作ってもらってワリィんだけど」と藤真に言った。
「あっそ。じゃあもらいー!」
 藤真も藤真で気にした様子もなく、却って得したとばかりに三井のために用意したと思われる皿の料理を自分の皿の上にざざーっと乱暴に乗せた。そういえば選抜の時もそうだった。一度見てギョッとするような量を盛っていたが、他の選手たちも似たり寄ったりだったので特に記憶に残らなかったのかもしれない。板敷きの廊下に置いてあったリュックの中からタオルに包んだサンドイッチを取り出して食堂に戻り、席に着いた藤真に声をかけた。
「なぁ、おまえと牧って、」
「従弟だよ。びっくり?」
 言って藤真はニッっと笑う。
「似てないだろ。おれって色白だしな」
 色白云々はともかく確かに全く似ていない。
「一緒に暮らしてんのもびっくりだぜ」
「暮らしてねーよ?」
 藤真は箸を取って両手を合わせ、丼飯を片手に三井へ顔を向けた。
「おれん家姉ちゃん3人いてさ、うるさいから長い休みはこっちに泊まらせてもらってんの。こっちだとエロ本隠す必要もないしな」
「居間には置きっぱなしにするな。叔父さんがびっくりする」
 髪をタオルで拭きながら入ってきた牧が苦い顔で口を挟んだ。
「あー、あれやっぱこっちに置きっぱなしだったんだ。よかったー」
「お、三井はまたサンドイッチ作ってきたのか」
 噛みあっていない話しは全く気にせず、牧は食卓の椅子を引きながら、三井がまさに食いつこうとしていたサンドイッチを見て言った。
「へー、三井そんなもん作れんの。ってか、そんなんで足りんの?遠慮すんなよ?」
「遠慮なんかしてねぇ。朝は入んねぇの」
「OLのお姉さんみたいだな」
 キシシと笑いつつ藤真の箸の動きは止まらない。食卓の上はみるみる内に空いた皿でいっぱいになっていく。三井は喉に詰まりそうになったパンをなんとか飲み込んで、「コーヒーとかねぇ?」と声をかけた。
「あるよ。インスタントだけどな。そこの戸棚ん中。カップは好きなの使って」
「サンキュー。飲みたいやついる?」
 二人とも箸の動きは止めずに無言で空いた左手と右手を上げる。
「あ、でもその前に!」
 藤真は立ち上がった三井に、これ幸いと空になった丼茶碗を突き出した。半拍遅れて牧も差し出す。
「…」
 三井は無言で二人の手から丼茶碗を受け取り、炊飯器に向かってそばに置いてあったしゃもじを取り上げた。



 部活に遅れると言って支度に洗面所に駆け込んだ藤真が「三井ー!」と大声をあげた。呼ばれて洗面所に行くと、歯ブラシを咥えた藤真が洗濯機を動かす準備をしていた。
「おまえパンツ穿いてないの?」
「はあ?パンツなんて穿いてるに決まってんだろ」
 呼ばれて何を言われるかと思えば、パンツ。藤真は脱衣カゴの中に置かれたままのパンツを指差した。
「おれが置いといたパンツ穿いてないじゃん」
「おまえのパンツなんか穿けるか。パンツまで濡れてなかったから大丈夫だ」
「ちゃんと洗ってあるぜ?おれのパンツ」
「そーいうパンツの問題じゃねぇ」
「なんだよ、パンツで照れんなよ」
「パンツなんかで照れてなんかねぇ!」
「パンツパンツ連呼して何言ってる?」
 牧が入ってくるとそれだけで狭い洗面所はいっぱいになり、三井は「なんなんだよ!」と牧を押しのけて廊下へ出た。
 騒がしく、藤真が飛び出して行くと、古い家の中はまたしんとした静寂を取り戻した。雨はいつの間にかあがっていて、陽の光まで差し込んできている。食器の片づけを手伝ってから、居間に移って無事に宮城に持たされた宿題を終えた三井は満足して、またリラックスモードで背後についた両腕で倒した体を支えた。
「ホントびっくりだぜ」
「なにが?」
「従弟が藤真。初めに言えって」
「ああ」
 牧は小さく笑って何を言うでもなく机の上のノートを閉じた。
「他に知ってるヤツいんの?」
「藤真が花形には言ったと言ってたな。あとは神が知ってる」
「あー」
 それぞれ自分の学校に一人づつ伝えてあるわけだ。信頼できる人間に言っておくのは当たり前だとして、なんとなくおもしろくない気分になる自分がわからない。
「あと三井だな」
 そんな自分を見抜いたわけでもないだろうが、微笑まれて三井は口を尖らせて顔を逸らした。
「海にはもう来ないのか?」
 尋ねられて一瞬何のことかわからなくて戸惑って牧に顔を戻す。
「いや、打ち合わせは終わったから」
「あー、いや、ランニングは続けるし、あそこでいっつも折り返してるから毎日来るぜ?」
 砂浜までは降りないけど、と続けようとして、「そうか」と笑った牧の顔が目について、三井は口を噤んだ。
「借りモンも、洗ってもらったやつもあるしな」
 目を庭に移すと晴れ上がった青空に男物ばかりの洗濯物がハタハタと風に揺らいでいた。





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