藍蒔く






 顔を打つ風は強いが厳しくはなくて、目を閉じて深呼吸したくなる心地良さだった。身にまとったTシャツ一枚を、バタバタと大きな音をさせて肌に張り付かせては背後に流れていく。それでも見ているだけの時間が10分も過ぎるともう飽きてきて、三井はスニーカーと靴下を脱いで波打ち際に歩いていった。乾いている砂は暖かくて気持ちよかったのに、濡れた砂浜まで行くと急に冷たくなって、海に足をつけるのは躊躇われた。
 振り返ると朝もまだ早く薄暗いうちから遠く見える江の島に向かって普通に洋服を着た女の子が点在している。みんな砂浜に座り込んで膝を抱え、方向は違うが一様に海に顔を向けていて、自分と同じようにヒマを持て余しているようにも見えるし、波間に時折見える人間を睨みつけているようにも見えた。ヒマだよな、とその気持ちがわかると思ったが、海にいる人間を待っている自分も女の子たちと同じ立場なのか?と考えて三井は顔を顰めた。冗談じゃねぇ。吐き捨てて息を吸い込んだ。
「帰るっ!!」
 強い風の音に負けないように叫んだ。だが、海に浮かんで波を待っているやつにまで届くわけはない。わかっていて、それでも周囲の人間の驚いたような顔が振り向いて三井は顰めた顔をさらに歪めた。聞こえたわけでもないだろうが、波間に浮かんだ男がこちらを振り向いた。灼けた顔に色のあせたような髪が濡れて張り付いている。半ば前髪に隠された顔の口元が動いた。何を言っているかより、その唇が動いている様が目に焼き付いて帰ろうとしていた足が止まった。三井は顔をムッとさせたまま、また砂浜に勢いよく座り込んだ。



 顔のそばの砂が鳴った。水滴が顔に垂れて薄く目を開くと、すっかり明けきった空が見えて、寝入っていたことに気づいて三井は慌てて上半身を起き上がった。脇の足跡を目で追うと、上半身だけウェットスーツを脱いでタオルで頭を拭く牧と目が合った。なんとなく目のやり場に困って海に逸らす。同じ年、同じ身長のはずなのに骨格やら体の厚みやら腕の太さやらが大分違う。鍛え方の違いかなーと考えてつまらなくなってつまらない口を開いた。
「地黒か」
「なんだ?」
「ウェットスーツなんか着てんのに黒いから」
「今はまださすがにな」
「ふーん」
「待たせて悪かったな」
「別に…」
 帰ろうとしたことがわかっていて謝っているのだろうが、寝ている間に三井の癇癪も落ち着いた。そもそもこの時間にこの場所で、と指定したのは三井で、待つことになるぞと忠告したのは牧だった。それでもロードの途中の海岸だし、電話で話をするのも面倒だと、大学が始まるまでの毎朝、波に乗ることを聞いて直に話し合おうと言ったのだ。だが、まだ朝晩は肌寒いこの場所で、濡れそぼった上半身裸の牧に無理を押し通そうとしているように感じて、三井は「やっぱり、」と口を開いた。
「今度にするか、話」
「なぜ?」
「寒くねぇ?」
「ああ、」
 牧は今気づいたように自分の姿を見下ろした。
「じゃあ家に来ないか?」
「家って…おまえん家?」
「そうだ。歩いて5分くらいかな。予定があるなら、」
「いや、まだねぇけど」
 なんだかおかしなことになったな、と思う。
 話し合おうとしていたのは宮城に頼まれた海南との練習試合の件だ。自由登校なんだから進路も決まってるしヒマでしょ、とキャプテン宮城様に押し付けられたのだ。苦手を押しつけやがってあの野郎、と思う。おれだって牧はなんとなく苦手だ。そう思うから偶然顔を合わせたときにてっとり早く話を済ませる方法を考えついて指定したのに、これだったら電話した方が早かったんじゃないか?と考えて、でも今更電話すると言うのもおかしく感じて、三井は億劫気に砂浜から立ち上がり、尻についていた砂をはらった。
「おまえそのまま帰るの?」
「? ああ」
 牧は体を拭いていたタオルを首にかけた。いや、そういうことじゃなくて。言いかけて、サーファーってこんなもんなのか?と三井は口を噤んだ。
 気づまりに話のタネを探すまでもなく、「ここだ」と牧が入っていったのは車道から一本入った細い歩道に面した古い平屋の日本家屋でまた少し意外に思う。
「上がって適当にしててくれ」
 生垣に囲まれた庭の竹垣扉を押して、開きっぱなしだった縁側から屋内に入れと指示される。
「親とかいねーの」
「いない。従弟がいるがまだ寝ている」
 そう言いおいて牧は縁側に面した庭の方に足を向けた。初めての家にすぐに一人で上がり込むのもなんとなく気がひけて後ろ姿を目で追っていると、牧は庭の隅に設けられていた屋外のシャワーに立って無造作に体を流し、ウェットスーツを脱いだ。それを庭の物干し台にかかっていたハンガーに吊るし、振り向いたところで目が合う。どうした?と尋ねるように首を傾げられて、水道水なんて冷たくねぇのか?と驚いていた三井は慌てて首を家に戻し、お邪魔しまーすと小さく呟いて年季の入った沓脱石に靴を脱いで縁側に足をかけた。
 左右に続く廊下を横切って、これも開け放したままの障子から部屋に入るとそこは居間と思しき和室で、部屋の中央に座卓が置いてあり、右はと見ると障子を隔てて板の間の食堂と台所、左手には床の間に掛け軸まで下がっていて、壁際の丸窓から庭の緑が見えた。こじんまりとはしているが清潔に整頓されていて、三井は昔見たドラマのセットみてーと思いながら、とりあえず入った部屋の座卓を前に胡坐を組んだ。ガシガシとタオルで頭を拭きながら下はサーフパンツのままその前に座ろうとした牧を見て、さすがにギョッとして思わず「風呂入ってくれば」と声をかける。牧はまた気づいたように「そうか?」と答え、遠慮するでもなく襖を開けて廊下へ出て行った。
 三井は持ってきたノートとペンをとりあえず机の上に出し、キョロキョロと周りを見渡してから背後に両手をついて上体を寛げた。正面の開け放されたままの掃き出し窓からは小さいが緑の濃い庭が見えて、海は見えないが波の音が響いてきた。
 純和風な牧の家の居間で一人くつろいで庭を眺めている。
 考えるとかなり特殊な状況で、宮城あたりにに報告すれば大笑いされそうだったが、妙に居心地はよくて落ち着いていられるのも事実だった。気を許せばまた寝てしまいそうになる。どのくらいボーッとしていたのか、入ってきた牧に「おまえも入ってこい」と声をかけられて我に返った。
「何に?」
「風呂」
「へ…?なんで?」
「ここまで走ってきたんだろ?」
 言われて、あーと思う。確かに着いたときには汗をかいていたが、牧を待っている間にすっかりひいて乾いてしまった。家に帰ればシャワーを浴びたいところだったが、さすがにここで風呂まで借りる気にはなれずに、「おれはいいよ」と返す。
「そうか」と、牧もしつこく声をかけず、居間から食堂を横切って台所に立った。グラスを二つ、伏せてかけてあったホルダーから取って並べ、冷蔵庫から麦茶を取り出して注いでいる。
「なあ、」
 帝王が茶を入れてる。その様子を三井はこそばゆく眺めながら声をかけた。牧は茶を入れたグラスの一つを一息に飲み干し、また注ぎながら応える。
「なんだ?」
「さっきなんて言おうとしてた?」
「さっき?」
「海の上で」
「ああ…。おまえ、帰ろうとしてただろ」
「うん」
「ええと…」
 牧は茶を入れたグラスを二つ、座卓に置いてから動きを止めた。
「なんだっけ?」
「へ?」
「忘れた」
「あ、そう…」
 なんか違う。思っていた帝王の姿となんだか違って、三井は思わず笑った。それを牧が不思議そうに眺める。
「どうした?」
「いや、なんでもねーよ」
 言ったところで腹の虫が鳴った。
「お、腹が減ったか?朝飯は?」
「食ってねーけど」
「俺もだ。食いながら話すか」
 断る間もなく牧は立ち上がって、また台所に足を向ける。まさか牧が用意するのか?と見ていると、牧はまず冷蔵庫を開けて卵を取り出した。
「マジかよ!おまえ料理とかすんの?!」
「ああ、男所帯だからな。時間のあるやつがする」
「へー…」
 そういえば親は留守だとは言わずにいないと言った。そして寝ているのは弟ではなく従弟。三井は食事を遠慮することも忘れて何か事情があるのかといきなり聞くこともできずに、手際よく動く牧の背中を見ているだけになった。
 ほどなく食堂に呼ばれて行くと、テーブルの上には見事な朝食が並んでいた。目玉焼きにソーセージに焼鮭に味噌汁に飼い葉桶のようなボールに入ったサラダ。そしてどんぶりに山盛りの白飯に味噌汁に納豆。一目見て三井はうっと引いた。走った後だと米は腹に溜まって気分が悪くなる。朝は母親に怒られながらパンを齧って終わりにすることが多かった。そもそも量が。そんなことを考えていると、牧が時計を見て声を上げた。
「お、もうこんな時間か。起きてこないな」
 つられて時計を見ると、7時半を指していて三井も驚いた。体感的に7時前くらいに思っていたが、思ったより砂浜で寝ていた時間が長かったのかもしれない。
「もうこんな時間か?!ヤベー!」
「なんだ、自由登校じゃなかったのか?」
「ほしゅ…いろいろあんだよ、いろいろ!折角メシ用意してもらってワリーんだけど」
「いや、これはそのまま従弟に食わせるから気にするな」
「ワリー!じゃあ」
「ああ、また明日同じとこで待っている」
 背中にかけられた声に、え、だってそれだと今日と同じ…と考えたが、それを説明していろいろ決めている時間も惜しかった。折角推薦で大学が決まったのに、高校の単位が取れなくて留年しましたでは笑えない。後でまた連絡を取ろうと考えて、片手を上げて了解の意志を示し、もと来た縁側から三井は牧の家を飛び出した。


1/7ページ