青嵐







 机の上の右隅に母親が新聞契約の更新でもらったという薄っぺらい紙片があった。机の前に座ったとき、いや、この部屋に三井が入ってきたときから、それが妙に流川に存在を強調するように居座っている。
「これあげる。たまには息抜きに友達と行ってきたら。5名様まで子供無料だって」
 そう言って母親に手渡されたのは市民プールのチケットだった。
 子供という言葉がひっかかったが、友達…と考えて、顔もおぼろなクラスメートを頭に思い浮かべた。わざわざ夏休みに連絡を取ってまで一緒に行きたい連中ではない。
 流川は頭を巡らせて、自分のベッドに我が物顔で座って雑誌を読んでいる大学生を見た。
 あれは、きっと『大人』だな。
 見れば無料とあるのは『子供』。そしてここの区分けでは『子供』は中学生まで。引率の『大人』は一名まで無料。
 おれは子供で、あれは大人?
 ナイナイ。
 流川はまた机に顔を戻したのだ。その時は。
 だが。
「あっちー!」
 いつものようにバスケをして、スポーツドリンクを呷っている汗だくの大学生を見たときに、するっと口から出ていた。
「プール行く?」
「あ? プール? いいなー今すぐ飛び込みてぇなー」
「タダ券ある」
 三井が次の言葉を言う前に被せるように言っていた。もちろん区分だの引率だの子供だの大人だの、つまらない事については口に出さない。
 そこにピロリンとデジタル音が響いた。
「あ、ちょっとワリー」
 三井は流川に断ってカバンの中からモバイルを取り出し、何やら操作して難しい顔をしている。
「今日はちょっと…予定があるんだよな」
「別に…」
「明日は?」
 おれが行きたいってわけじゃねー。
 言おうとした言葉は口の中に消えた。
「じゃあ明日」
 すぐに頷いた流川を見て、また三井は手の中のモバイルに目を戻した。
 今日はそっちの予定か。
 流川はボールを拾って三井に背を向けた。
 前回三井が来たときに、音を切り忘れたのか流川の部屋の中で電子音が鳴った。三井は「悪い」と言い置いて何やら操作をしていた。
 自分はモバイルは持っていないがクラスメートが禁じられているはずの教室でいじっていたので知っている。その上で音を切ったのだな、とその時は思っていたが、流川が指示された問題に取り組み始めると、また「ちょっと悪い」と廊下に出て行った。
 抑えた声に早口で、聞くまいとは思っていても、静まり返った家の中で耳は勝手に気配や声を拾う。きちんとは聞こえはしなかったものの、廊下のそれは何やら揉めているような雰囲気に感じられた。三井の体から感じ取ったボディソープ。そういえばあれから感じることはなかった。
 そいつかな。
 謀らずも他人の生活を少し覗いてしまったように感じて流川は顔を顰めた。すぐに三井は戻ってきて、それと流川は目が合った。
「なんだよ」
「べつに」
 人のことは興味ない。はずだった。
「カノジョ?」
「うるせーよ、ませガキ」
 否定しないんだ。
 自分にも声をかけてくる女子はいる。そのどれかに頷けば三井のようにカノジョという存在ができる。
 少し考えてすぐに流川はその考えを頭の中から打ち消した。どうみても面倒そうだった。
 しょっちゅうスマートフォンはうるさい音をたてるし、なぜそんなものに自分の時間を割かなければならないのかわからない。しなければならないことは他にもあって、バスケをできる時間がただでさえ削られている。プールにだって行かなきゃいけない。
 流川は目の前の不機嫌そうに眉を寄せている大学生を見た。
 行かなきゃいけないわけでもないプール。そうだ、あれはタダになる券を母親が押し付けてきたから。だから行かなきゃイケナイ。
「じゃー明日バスケはナシな」
「いーけど」
 少し不満だったけれど頷いた。またモバイルに目を戻した三井に昨日の姿が重なった。
 しばらく一人でシュート練をして振り返ると、今度は湘北のバスケ部マネージャーが来ていた。
 自分の中学の先輩でもあったから名前は知っている。三井は自分に背を向けてマネージャーと話している。彩子が気づいて自分に手を挙げた。それへ小さく首を下げてすぐにまたゴールへと向かう。
 この間は副主将で今日はマネージャー。
 一体ナニをしに。
 朝早い時間。二人ともランニングしているような恰好ではあったが、自分が一人でここのコートにいるときは見かけたことがなかった。はずだ。
 三井に会いに?
 高校の先輩後輩であるから話したいこともあるのだろうか。
 ちらっと後ろを振り返ると、何がおかしかったのか大学生は腹を抱えてバカみたいに笑っていた。少し待ってみても先日のようにこちらを振り返ることはしない。
 バカみてー。
 流川は背後のことは気にしないことにした。ゴールだけを見ていればいい。
 打ったシュートはまたはずれて、だが流川の頭にあったのは明日のプールの集合時間をどうするかということだけだった。


「さみー!」
 開口一番、三井が叫んだ。
 寒い。なんとなくは想像はできたけれどもやっぱり寒い。
 昨日まで続いていた猛暑日がうそのように、今日は小雨の降る肌寒い天気だった。
 更衣室から外に出る軒下に立って雨の降るプールを見渡しても、ほとんど人影は見当たらない。後から来た流川は騒ぐ三井を抜かしてプールサイドに足を向けた。
「おい!」
「なに」
 三井に叫ばれて流川は立ち止まって振り返った。
「…やっぱ今度にしねぇ?」
「あんたがおれに『寒いのは苦手ですかおこちゃまは』っつった」
「…すみませんでした」
「もう入場したし」
「あー今日こそバスケだったな。…寒くねぇの、おまえ」
「寒い。だからプールの中の方がきっとあったかい」
 言ってまた背を向けてプールへと歩く。
 流川は躊躇いなくプールサイドまで行き、足から飛び込んだ。雨合羽を着た監視員から「プールは飛び込まないでくださーい」と笛を吹かれる。
 三井が庇からちょっと頭を出して雨の様子を伺い、流川のいるプールまで走って、監視員に「プールサイドは走らないでくださーい」と笛を吹かれた。
「プールの中の方があったけー」
「ホントかよ」
「ホント」
 それでも水面に丸い雨模様がポツポツ浮かぶプールの中に飛び込む決心はつかないようで、三井は手をプールの中に突っ込み、ちょいちょいとその水を触っていた。流川の背後にいた男子小学生がクスクス笑う声が聞こえる。
 風呂か。
 流川はイラッときて三井が手を引き上げようとしたとき、その手首を掴んだ。そのまま力任せにプールへ引っ張って、三井は頭からプールに落ちた。
 浮上した三井が、震えながら怒鳴ろうとして口を大きく開いたとき、「飛び込まないでー!」といささか音量を増した監視員の声が、また閑散とした市民プールに響いた。
 ぐっとこらえた三井が諦めたのか水の中でおとなしくなり、流川はそれを置いて泳ぎ始めた。
「うわっ! やめろよ、水かかんだろ!」
 通り過ぎようとすると足を掴まれて上体が沈みかけて、バシャバシャと手が無駄に水面を叩いた。立ち上がってニヤニヤと笑っている三井を睨みつける。
「なんだよ」
「あんたプールに何しに来たの」
「遊びに」
 これが大人か?
 ニカッと笑ったその顔にムカついて水をかけて、泳ぎ始めようとすると足払いをかけられた。
 水中のことで勢いはそれほどついていなかったが不意をつかれて、流川の体勢が崩れる。そこにのしかかられて体が沈んだ。
 青いプールの底が見える。見渡しても先刻の小学生もあがったのか、人の足は見えない。
 広いプールの中で体を返すと三井の体が見えた。浮上すると雨が激しくなっていて、その中に三井の濡れた笑い顔があった。
 水に閉じ込められてるみてーだな。
 愛想のない白いコンクリートの市民プールは雨に煙っていて、その中で何が楽しいのか三井は笑い転げている。
「外も中も変わんねぇな!」
 叫んで三井は頭からプールに潜った。それを目で追って流川も続いて潜る。
 プールの中の方が明るいくらいだった。鮮やかな水色で、それは周りの壁がその色に塗られているからだけかもしれなかったが、流川の目に鮮明にその青が映った。
 潜水するようにプールの底へ水を掻く三井が目の前を過ぎる。流川は顔を水の上に出して息継ぎをし、潜ってその後を追った。
 目の前の立ち上がり頭を出したその背が、青の中で一つ浮かんで光るように白い。見ているとぶつかりそうになって、避けてまた深く潜る。
 行き過ぎた辺りで足をつけて立ち上がると、頬を打つ雨がさっきよりも冷たく感じられた。
「おい」
 振り返ると三井が唇を震わせていた。
「さすがに上がるか」
 いつもと違う、紫色になったそれへ流川は目をやった。


「かえで」
 部屋に入っていきなり名前を呼ばれた。下の名前で呼ぶのは両親と姉しかいない。
 女の子のようだ。言われ続けてあまり気に入っている名前ではなかった。今までは呼ばれても返事をしないか、それでもしつこいやつは拳にものを言わせて黙らせてきた。
 目の前のほとんど初対面の人間はどうしたものだろう。
 ここは確かに自分の家で、部屋で、そこで名字を呼ばれるのもおかしいことなのか? 甘受すべきことなのか?
 対処に困っていると、名前を呼んだ家庭教師の大学生は訝しげな顔を向けてきた。
「え、これってかえでって読むんじゃねぇの? なに? かつら? じゃねぇよな」
「かえで」
「あってんじゃねぇか。さっさと返事しろよ」
 4つ年が上というだけでこんなにも理不尽に振る舞えるものなのだろうか。横暴だった中学校の先輩達にだってそんな人間はいなかった。



 思えばこの人ははじめからこんな調子だった。
 目の前の色の悪くなった唇が動いて自分の名前を呼ぶ。三井の自分の体を抱える腕が震えている。
 流川は水をかいて歩き、その腕を掴んだ。
 冷たい。冷たいのに触れた自分の手のひらが熱い。
 この人を今抱きしめたら自分の体も熱くなるんだろうか。
「楓!」
 名を呼ばれて流川は瞬いた。
「聞いてるか?」
「うん、上がろう」
 流川はプールサイドへ歩き、両腕をついて伸び上がった。続いて上がってきた三井にタオルを取ってこようとプールサイドを走ったが、その背にプールの監視員の笛はもう吹かれなかった。



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