青嵐




「お、感心感心。ちゃんと宿題やってんじゃねぇか」
 傍らに立った三井が手元を覗きこんできた。
 流川のすぐ隣に白いTシャツにジーンズを穿いた三井の体がある。流川は顔を前に戻し、目の前のノートの上に置かれた手を見た。
 長い人差し指がノートの上を滑ってある箇所で止まりトントンと叩く。その手の向こうに母親が置いていった盆が見えて、食べたくもないのに三井の腕と交差するように手を伸ばし、その上にある菓子を一つ取って口の中に放り込んだ。
 あのバスケットボールを触っていた手だ。自在にその手の中で転がして、ボールは正確に操られてネットに吸い込まれていく。真っ直ぐな背。菓子は甘過ぎて流川は顔を顰めた。
 三井の手が止まって体が前かがみになった。ふっとその時何かが鼻を擽った。なんとなく流川にも覚えのある匂いで、ああ、風呂に入ってきたのか、と思う。
 三井の手が赤ペンを持ち直してノートの上に線が引かれる。ベッドサイドに置かれた目覚まし時計に目をやると、長針と短針が上下にまっすぐな線を作っていた。
「バスケ?」
「あ?」
「バスケやってきたの?」
「いや、なんで?」
 バスケの後でもないのに午後6時前に風呂。流川は答えずに三井が引いた赤ペンの跡を追った。
 割と几帳面な字だな、とまた考えた。口は悪いのに。
「おい、」
 気が付くと三井が自分を見て眉を寄せていた。
「おまえ、また寝てんじゃねぇだろーな」
 ぐいっと覗き込んで来たその顔を正面から見る。
 目の色が薄いな、と思った。 自分の父親より母親より薄い。あとは、と考えて、今日自分を校舎裏に呼び出したクラスの女子を思い出した。あのクラスメイトは制服のボタンに目を落として何かしゃべっていた。目の下の旋毛しか思い出せない。
 少し厚めの唇が目の前で動いていた。そのすぐ下、顎に小さな傷がある。
「おーい、聞いてんのか? 目ぇ開けたまま寝てんじゃねぇだろうな」
 目の前でチラチラと手を振られて、流川は目を瞬いた。
「寝てねー」
「ホントかよ。ボーッとしやがって」
 丸めたノートでポコンと頭を軽く叩かれる。
 すぐに手が出る。
 流川はムッとして叩かれた頭に手をやった。
「アゴ」
「あ?」
「どうしたの?」
「ちょっとな」
「あんた、ちょっとなばっかり」
「三井先生」
「センセー。アゴの傷」
「それより今言ったことちゃんと聞いてたのかよ」
 流川は視線を机の上に置かれたノートの上にやった。
 赤い文字。形や色は目に入ってきたけれど、内容はまったく頭に入っていなかった。
 目の前のセンセーのせいだ。流川はシャーペンを取って赤い線を追った。
 話はすぐにはぐらかすし、そばにいるとイライラすることばっかりだ。こんなことなら家庭教師をつけるなんて言われた時に断固断るべきだった。
 三井は盆の上の菓子を2,3個取って流川のベッドに座り、口の中に入れていた。腹が空いているのか気に入ったのか、甘過ぎる菓子を続けて食べている。流川はそれを見てまた顔を顰めた。
 ベッドの上には月バスがバックナンバーを含めて3冊置いてあった。三井は自分の持ってきたその雑誌を取り、パラパラと捲っている。
 ふいに三井が顔を上げて目があった。咎めるようにキュッと眉が寄せられる。
 流川はまた菓子に手を伸ばした。三井の真似をして一口で放り込む。
 やっぱり甘すぎるし、口の中がパサパサする。盆の上に菓子と並んで置いてあったグラスの冷たい麦茶でなんとか飲み込んで、流川は赤いペンで指示された問題を解き始めた。
「できた」
 報告すると三井は雑誌を投げ出し、ベッドから立ち上がって近づいてきた。またボディーソープの匂いを鼻が感じ取った。
 バスケじゃないなら何してたの?
 言葉には出さない。聞いたってどうせはぐらかされる。つまらない。やっぱりバスケがしたい。なんで今日は真っ直ぐに家に帰ってきたんだろう。また公園に寄ってくればよかった。
「…バスケ」
「なに?」
「バスケしたい」
「学校でできんだろ。あ、ああ…もう引退したのか」
 流川はその言葉で最後の試合を瞬時に思い出していた。
 後悔と自分に対する腹立たしさ。
 拳を固く握り、開いた。目の前の三井は何も言わない。黙って自分が差し出したノートを目で追っている。
 体力を補うのは自分でできる。朝のロードワークは今でも毎日欠かさない。それよりも。
「あんたと」
「俺?」
 三井は手を止めて流川を見た。流川はその色素の薄い茶色い目を見て「そう」と頷いた。
 自分がその目の中に映っている。人の目の中にその人が見た自分がいる。そんなことがあるのだと、流川は初めて知った。
「なんで?」
 問われて、なんでだろう、と考えた。口が悪くてすぐに手が出て大人ぶってる癖に甘い菓子が好きなやつ。でも1on1は楽しかった。中学のチームメイトとは比較にならない。
「スリーポイント教えて」
 少し困って思いついたことを口にしていた。
 そうだ、湘北の体育館で初めて会ったときにこの人は3Pを4本連続で決めていた。きっと得意なんだろう。満足そうなドヤ顔をして笑っていた。
「いーけどよ」
 流川の予想した通り、まんざらでもない顔をして鼻をかいている。
「場所がなー。また湘北行くか?」
「ウチの近所の公園にハーフコートある。自転車で10分くらい」
「まじか!」
 三井の驚いたような顔を見てちょっと流川は得意になる。頷くと、三井は「仕方ねぇなー」とまだ考えるように勿体ぶっている。
 こういうところもムカつく。
 それでいて三井が次に言い出す言葉が気になって、小さな傷の上にある口元を流川は見つめた。
「んじゃ、今度の日曜にでも行ってみるか」
 流川はまた力強く頷いた。



 日課のロードワークを今日は短めに済ませて待ち合わせた公園に行くと、指定した時間の早さに口を尖らせて「時間外労働だ」のなんだのと文句を言っていた大学生はもうコートにいて、静かな公園内にボールの音を弾ませていた。
 自分もやりたかったんじゃないか。
 思いつつ、イヤホンを外して走るペースを速める。
 2部リーグに所属する大学でバスケを続けていると聞いた。だが膝のケガで練習を控えているとも。
 自分が今までに見たバスケの試合といえば、父親の背中越しに観ていたNBAだけだった。空を駆けるようなダンクを初めて見てから自分の目指すところは彼の地だと決めていたけれど。
 大学のバスケってどんなところ?
 少しだけ興味が湧いた。
「おう、来たな」
「うす」
「朝からアチーな」
 ボールを流川に投げて、三井は自分の荷物を置いたフェンス際に歩いて行った。
 カバンの中からペットボトルを取り出して呷っている。呷り過ぎて飲む量が追い付かない。
 流川は眉を寄せた。飲みきれなかった雫は喉を伝って光る。それを三井は無造作に手で拭い、また体を前に倒して今度はタオルを取り出し顔と首を拭いた。
 その顔が上げられる前に流川は顔を背け、スリーポイントラインに向かいボールを構えた。
「高校から推薦来ただろ」
 ボールはリングに当たり弾かれて転がった。フェンスに当たって止まったのを見届けて、声をかけてきた三井の方を向く。
「来た」
「なんで行かねーの。ベンキョーしなくて済んだのに」
「遠い。時間のムダ」
「ムダねぇ」
「あんただって中学でMVP取ったって聞いた。でも湘北来たじゃねーか」
「俺は安西先生がいたから」
 三井は腕を組んでふんぞり返って見せる。なんでそこでまた自慢そうにするのかわけがわからない。
 ボールを取りにフェンスに向かい、振り返ると湘北高校バスケ部の副主将がいつの間にか三井のそばにいた。
 流川に気づいて笑って片手を上げて、三井に挨拶してそのまま話を続けている。流川は手の中でボールを回した。三井がチラッとこっちを見た。流川はそれへ首を振ってみせた。三井は不思議そうな顔になる。
 今日は二人でバスケするって約束したから。
 伝われ、と念を込めて三井を睨むが、危ぶんだように木暮を連れてコートに来ることはなく、まだ立ち話を続けている。
 流川は溜息を一つつき、またゴールに向かってシュートを打った。ボールはまたリングに弾かれて今度は大きく跳ねて空へ飛んだ。


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