青嵐
久しぶりの体育館の埃くさい汗くさい匂い、バスケットボールのざらついた感触。三井はボールを手にして知らず微笑んでいた。
スリーポイントラインに立ってゴールを見上げる。体は驚くほどフォームを覚えていて、自然に滑らかに動いて抱いていた危惧を払拭してくれた。
乾いた馴染みの音がしてボールがネットを通過する。三井は笑みを消し、足元にあったボールを拾って手の中で数度回し、構える。顔つきが変わるのが自分でわかる。高くジャンプして頂点でリリースする。ボールはリングを通過して落ちる。他の音は一切聞こえなくなっていた。ボールを拾い、構え、うつ。五本連続でいれたところで足元のボールがなくなり、顔を体育倉庫の方に向けた。
その両開きの扉の前に背の高い見覚えのない男が立っていて、三井を見ていた。知らない制服。まだ少し幼いような面差しを残した顔は驚くほど整っていて、初対面の自分を見ても逸らすことなく睨みつけるような視線を投げてくる。
あー、こいつかな。
三井は後輩の説明を思い出し、口を片側引き上げて笑みを作った。
「三井だ。おまえ流川だろ?」
近づきながら自己紹介すると睨まれていたわけではないことがわかった。表情がないように見えて整った顔からの視線が驚く程に強いから、見られている側としては睨まれているように感じる。それでも三井が口を開けば、眉が開いて戸惑った表情になったように見えた。
なんだ、まだまだかわいいヤツじゃねーか。
三井が転がっていたボールを投げると、流川はそれを受け止めボソッと口を開いた。
「…オン」
「あ?」
「1on1しよう」
「へ?」
まあ、変わったヤツ、という周囲の評価は間違っていないのかもしれない。
まず教えてやるのは礼儀と自己紹介だな。
三井は決めて、だが今は目の前の、背だけがひょろっと高いまだ少年の体格を脱しない男のバスケの腕前が噂通りなのか気になった。
「いいぜ?」
三井が笑いながら応えると流川はボールを置き、黙って着ていたブレザーを脱ぎ始めた。
そのバイトの話を持ってきたのは高校時代のバスケ部の2年後輩だった。大学に進学して環境にも慣れてきて、母校のバスケ部に顔を出そうと足を向けたところで、体育館に通じる通路で眼鏡をかけた誠実そうな顔に捕まった。その隣には今年マネージャーとして入部したという1年とは思えない物怖じしない押しの強い美人がいた。自分達の時代にはいなかった女子マネを三井はちょっと羨ましく思う。
「私の出身中学の後輩で流川っていうんですけどね。家から一番近い高校がここだからって本人も志望してるんですけど、いかんせん成績が」
「は? 安西先生がいるからじゃなくて?」
「そこにひっかかります?」
「ったりめーだ」
三井はそれが理由だった。安西先生がバスケ部にいたから湘北にいったのだ。
「まーちょっと…というか、大分変わったヤツなんすけど、バスケだけはバカみたいに上手いし熱心だし、上背もあるんでなんとかウチに来させたいんですよ」
「それでなんでおれがそいつの家庭教師やんの? プロに頼めばいいじゃねーか」
「そこが問題なんですよ」
彩子と名乗った女子マネはそこで困ったように口を閉じて隣に立つ木暮を見上げた。
「今日見学に来る予定だからちょっと会ってみてやってくれませんか?」
後を引き継いで木暮が頼んでくる。言われるまでもなく、今日は元々バスケ部に顔を出すつもりで来たのだ。
「いーけどよ」
湘北高校は公立でスポーツ推薦枠を設けてはいない。それほどの逸材だったら他所の私立高校からもう既に勧誘がかかっているのではないか? 少なくとも自分の時はそうだった。
そう指摘すると「それも含めて」と木暮は言いにくそうに答え、三井は更に眉を寄せた。
「はっきりしねーな」
「すみません…あ、膝の調子はどうです?」
「医者から夏中は大人しくしとけって言われたから夏休みまで大学の部は休むけど、軽い運動ならゴーサインもらった。今日がリハビリ明け初練習だ。シュート練だけでもやりたいなー」
「ぜひ!!」
二人で口を揃えるのをまた三井は訝しんだ。たまに顔を出すにしてもここまで歓迎されたことはない。
「なんだよ、気味悪りーな」
「まぁまぁ」
そして背を押されて足を踏み入れた体育館の中で流川と出会った。
「よろしくお願いシマス」
「お、挨拶できんじゃねぇか」
部屋に案内されて入るとまず流川は頭を下げた。意表を突かれて三井は口ごもり、部屋を見回した。正直意外な感じがした。もっとバスケバカな部屋かと思った。
ごく普通の6畳間。バスケを感じさせるものといえば、部屋の隅に転がったバスケットボールだけだった。ベッドに机。本棚らしきものはあるが本はなくて、古いCDが積み重なったただの物置きになっている。囚人の部屋か?ってなくらいに簡素な部屋。
「おまえ月バスとか読まねーの?」
「月?」
「バスケットの月刊誌。知らねぇの?」
「知らない」
「じゃあ今度持ってきてやる…あっと受験生かおまえ」
「そのくらいダイジョウブ」
「おまえが決めるな」
頼まれたのは国語と英語。数学はなんとかなるらしい。壊滅的なのは現国だそうで、理解でき過ぎて笑ってしまう。
「英語も? そこまで成績悪くないじゃん」
「アメリカ行くから」
「へ? 旅行?」
「バスケしに」
「あー…」
確かに流川のバスケの腕前は半端なかった。
大学生の自分がケガから復帰した直後とはいえ、まだ線の細いような中学生に押されて焦ったのは内緒にしておきたいことだった。
でもそれだからといってアメリカに留学するレベルということかといえばそれは微妙だ。
まだまだ成長するんだろうけど。
こいつもそれをわかっているから今はまだ大人しく日本の高校を受験するということか。
三井は机のほかに腰を降ろせそうなベッドに腰掛けて、足元のバスケットボールを拾い手の中で回した。
「ま、夢はでっかく持ったほうがいいもんな」
「あんたは?」
「三井先生と呼べ」
「センセー。大学でバスケやったあとは? プロにならねーの?」
流川は机にはつかず、三井の隣に腰を下ろして顔を覗き込んできた。表情に乏しい切れ長の一重に見られると、下手な誤魔化しは許されないような気がした。
馬鹿々々しい。顔がちょっといいだけの中坊だ。
まだ勉強したくなくて、自分にとってはどうでもいいような大して興味のないことを聞いてくるのだろう。舐められてたまるか。
「おまえはあっち。とっとと机につけ」
指をさせば大人しく立ち上がって席につく。
「膝ケガしたの?」
それでもまだ勉強に入るにはふさわしくない話しをきいてくる。三井は溜息をついてボールをまた部屋の隅に転がした。
「昔の傷がちょっとな。ホラ、教科書とノート出せ。今日は英語だな」
立ち上がって近づくと、渋々と言われた通りのものを机の上に並べ始めた。三井は頷き、ベッドの脇の本棚に積んであった埃のついたCDに気付いて手に取る。
「プリンス! また古いの聞いてんなー」
「母さんの。英語のCDないか?って聞いたらそれくれた」
「あー。確かに発音とか口語覚えんだったらいいかもだけど、プリンスなんてダブルミーニングどころかトリプルミーニングとかあってわけわかんねぇだろ」
「ナニ? ミーニ?」
「掛詞的な」
「かけ?」
「わかった。まずそこからだな」
流川の脇に立って教科書を開くように促すと不満そうな顔が見上げてきて、三井は真面目な顔を作って厳しく頷いた。