better late than never

 三井が流川からの帰国してすぐの提案にようやく首を縦に振ったのは、流川が帰国してから3年目、三井が現役を引退してから2年目、二人が付き合いを再開してから1年目の、冬ももう終わりかけた時期だった。
 付き合い始めた年と、流川が三井に同居を申し出た年に入り繰りが発生しているのは、また複雑な二人の歴史が絡む。ともかくも同居を決心してからの三井の動きにはもう迷いはなかった。
 アシスタントコーチとして所属していたチームをあっさりと辞め、一年間だけと期間を決めて大学院のスポーツ科学の修士課程に進んだ。行動力はまだしも、コーチ職を得るためにかなり駆け回っていた姿も知っていたし、それなのに三井がそこまで院の準備を進めていたということに流川はまず驚いた。コーチを続けたいがために免許を変えたいのだとは聞いていたけれども。相談もなく現役を引退した事だって流川はまだまだ早かったと腹を立てていたのだ。
 夜にいきなり訪ねてきて、靴を脱ぐ前の玄関口で、
「今のとこからガッコまで結構遠いんだわ。おまえの申し出、まだ有効?」
 などと何かのついでのように、恋人としての色気やら雰囲気やらは皆無に近い言葉を投げられた。
「有効だけど、腰かけならお断り」
 だから流川も賭けに出た。見ていてハラハラさせられる、いい年してどこかに飛び出して行ってしまいそうな、それでいて寂しがりの、前科のある年上の男を捕まえて、もう自分の目の届く傍に置いておきたかったのだ。それが許されるだけの月日を二人は過ごしてきた、と流川は思う。
 宣言すると三井は大きな目を瞬かせ、それから数秒俯いてから頭を勢いよく上げて、流川を横目に見てにやりと笑った。首に片手をかけて顔を引き寄せ、「プロポーズならもっと優しく言うもんだぜ」などと自分のことは棚に上げた口をきいて、キスしてきた。
 にゃろう、という気持ちが半分、ついに、やっと、という気持ちが半分。
 流川は無言のまま感動して、三井の体を抱きしめた。


「で、俺の部屋どこよ」
 勝手知ったる部屋であろうに、三井は廊下を歩きながら手前のトレーニングルーム、斜め向かいの寝室、バスルームを覗きつつリビングに向かう。
「必要?」
 流川の言葉に三井は勢いよく振り返った。
「ねぇの?!」
 広さが気に入って購入しただけあって、一部屋一部屋はかなり大きい。が、その分、部屋数は必要最小限に抑えてある。
「敢えて言うなら、」
 言って寝室に入ると、キングサイズのベッドが置いてある壁とは反対のドアを開く。そこは6畳ほどのウォークインクローゼットになっていて、そのままバスルームにも繋がっていた。バスルームはもちろん廊下側にも通じている。服装にはこだわらない流川だから今はほぼガラ空きの状態だが、三井は服に気を遣っていたことを思い出し、リノベーションを依頼した姉に要望を伝えたのだ。
「ここ」
「クローゼットが部屋かよ」
 悪態をつきながらも悪い気はしていないようで、「おお、セックスアンドザシティーみてぇ」とか言いながら、部屋の両脇に造作で備えられた棚や鏡、引き出しをご機嫌な様子で見て回っている。
「そんなの見てたの」
「おお、結構おもしろかった。他にもいろいろ見たぜ?24とか脱獄するやつとか兄弟でバケモン退治するやつとかヒーローいっぱい出てくるやつとか」
 はしゃぐ三井を流川は見つめた。本当なら3年前には見られていたはずだった姿だ。手を伸ばして確かめるように抱き留めれば騒がしく動いていた口が止まる。
「…勉強。どこですればいいんだよ」
 静かになったかと思えばそれでもまだ抵抗するように腕の中で言葉が漏れる。流川は目の前の三井の髪の毛に唇をつけた。背丈も横幅も高校の、あの時代に比べれば大分差が開いた。それを言えば腕の中の人は大暴れするだろうけれども。
「ダイニングテーブル」
「あそこかよ!」
「あんたはそこで勉強する。俺は隣のソファで昼寝する」
 まだ反撃してくるだろうと流川が立てた予想ははずれた。自分の胸の中で笑う気配がかすかにあって、「…いいな、それ」と小さく零されるから、流川は三井の体に巻いた腕をはずせなくなる。
 自分の鼻で三井の頭を上を向くように何度か擦り上げる。「なんだよ」と言いながらようやく上がった三井の顔に頬を当て、唇を探り当ててキスをした。ぷっ、と笑うような声は無視して今度は唇を開くように舌をこじ入れる。「犬か」と憎まれ口をきくために開いた唇にするっと舌を入れて、ようやく辿り着いた三井の暖かさに流川は安心した。
 自分がいない時期の三井を今ようやく目の当たりにした気がした。疲労した試合帰りにビデオ屋に寄って、巻数ばかり長い自分がいる国のドラマを借りて帰る三井。ドラマ自体好きなんて話は聞いたことがない。ビデオを制覇しても長い夜はまだ明けない。自分は海の向こうで無我夢中だった。三井の自分では認められない寂しがりな性格も、挫けてしまう弱さ甘さがあるところも出会った昔から知っていた。
 流川は目を開いて焦点の合わない目の前の三井を見た。今はここにいてくれるから、自分の腕の中にいるから、もういい。もう大丈夫。
「な…んだよ」
 流川は目を開いているのに気付いた三井が顔を離して責めるような目を向けてくる。その目はいつまでも自分だけを映していて欲しい。目にキスしようとすると擽ったそうに閉じられて、長い睫毛の感触が流川の唇に伝わってきた。




「なら管理費修繕費は俺が持つ。その他生活費は折半」
 流川が家賃受け取りを断固拒否した結果、三井はそんな和解案を提示してきた。浴室に宣言するように響いた声を流川はばっさり切り捨てる。
「修繕費はここを独断で買った俺の責任。それにあんた一年無職でしょ」
「ぐ…!が、学費と一年分の生活費くらいの預金は余裕である!」
 どうだ、と言わんばかりにいばった声を出すから、流川も背後の男に向かってケンカを売るような言葉になる。
「俺は一生暮らせる預金がある」
 途端、三井が力任せに流川の頭をかき混ぜ、泡立ったシャンプーの泡が流川の目の前を飛んでいく。ちょっとイタイと思ったけれど、気持ちも良くて文句は出ない。
「あんた、俺が金持ってなかったら追い出すの」
「あぁぁ?!ケンカ売ってんのか?!」
「俺も同じ」
 流川の髪を洗う三井の指の動きから少し力が抜ける。この年上の男が面子を重視するのは昔から変わらない。意地っ張りを納得させる方法は長い年月で培ってきた。流川は詰めの一言でトドメを刺す。
「まーアレ。出世払いってやつ」
 浴槽のふちに腰を掛けていた三井が手を止め、流川の背後から滑るように派手な水音をたてて体を浴槽につからせた。そのまま黙り込んで口を開かないので、怒ったかな、と背後の様子を伺うと、湯船の中に入れっぱなしになっていたシャワーを向けられる。
「おら、風呂から出ろ。泡が入るだろ」
「流してくれないの」
「後は自分でやれ」
 三井はバスタブの中に泡が入るのを嫌がった。海外暮らしが長かった流川がバスタブの中で体も髪の毛も洗おうとすると容赦なく外へ蹴り出される。「なら洗ってよ」と強請ってみたら思いのほかすんなりと要求が通って、束の間幸せを噛み締めながら懸案事項について話し合っていたところだった。
 シャンプーの泡を洗い流して三井を振り返ると、難しい顔をして鼻まで湯船につかっている。我慢比べがどこまで続くのかわからなかったが、溺死されるのも困るので、流川は今度は向かい合わせに浴槽に再度入った。つかっていた鼻のライン以上に水位が上がって三井が慌てて背を伸ばして顔を上げる。
「おまえの体積すげーな」
 体格の差について言及すれば怒るくせに、湯の水位が上がったことを指摘して、自分が怒っていたことも忘れて子供のように素直に感心している。さすがに男二人が入れる風呂というリクエストは自分の姉にはしなかったが、流川の体格を慮ったらしい特注の浴槽は二人で入っても肌が密着することはなかった。流川が日本を出る前の三井の部屋も、アメリカでの自分の部屋の浴槽も一緒に入ろうとすればかなりキツくてそれが他愛もなく楽しかったのだと思い出し、今の状態が少し残念にも感じられて、流川が手を伸ばしてほんのりと赤く染まってきた肌に触れようとすると、その寸前で三井は立ち上がり浴槽から出た。
「取り敢えず一年は甘えてやる。一年だ」
 流川は目の前に突きつけられた人差し指を寄り目になりながら見つめて、手強い、と思いつつ、手を引っ込めて鼻息荒く風呂から出ていった三井の尻を見送った。



 リビングに入ってぐるりとキッチンからダイニング、反対側のテレビをかけた壁際まで見渡すと、中央に置いたソファの背に少し伸びてきた茶色い髪の毛が覗いているのが見つけられた。だらしなく座る三井の傍に陣取って、頭にかけていたタオルでガシガシと髪の毛を拭いていると、スマートフォンを弄っていた三井が口を開いた。
「湘北のやつらがいつ遊びに来ていいかって」
「あぁ。…あ、」
「なんだよ」
 同じようなことを聞いてきた現在のチームメイトのことを思い出し、思わずあげた声に三井が顔を向ける。
「土屋も言ってた。あんたと同居してるって言ったら来たいって」
「言うなよ…。そういえば牧も言ってきてたな」
 土屋も牧も、三井と同じチームでプレイしていたことがあり、その間のことを考えれば無視できる相手ではない。
 二人で顔を見合わせ、ふー、と息を吐きだす。
 二人の事情を知っている人間もいるし、知らない人間もいる。世話になった人間には伝えておきたいところだが、それをまた個々に呼ぶのも難しいところだし正直面倒くさいし、大体どんな面を下げて出迎えればいいのか。お互いの顔に似たような表情を見てとると、流川はぼそっと「いっぺんに呼べば。飲み会ってことで」と呟いた。
「は?」
 クェスチョンマークを頭に三井が振り返ると、「一回で済む」と続けて流川は答えた。
「うーん、それもなー。バスケ関係でも俺とおまえの関係者じゃビミョーに違うし」
「神奈川とそれ以外で分けるとか」
「あー…うーん…。考えて…みるか?なんか同窓会みてーになるな」
「っていうか結婚式みてぇ」
「はぁ?!ナニ言ってんだ、おまえ!」
 驚き呆れたような声を上げるが顔が微妙に赤い。そんな三井を見て、流川はブレーキをかける理性を無視して一言足した。
「あいつは呼ばないで」
 三井の顔色が変わる。が、すぐに「呼ばねぇよ」と一言小さく呟いた。
「結婚式なんて言葉、おまえの口から聞く日が来るとはねぇ」
 もう赤くもない顔で笑うように揶揄い、三井はソファから立ち上がった。上機嫌のような足取りでリビングを出ていく背を流川は見送ったが、その間、三井は一度も流川を振り返りはしなかった。

 


「俺は待たない」と三井は言った。「あんたのとこに帰る」と流川は言った。
 高校から付き合いはじめた友人や知り合いは当たり前のように周りにも沢山いた。相手と同じ進路を選ぶ人間などほんの一握りで、進路が変われば距離も開く。それでもつきあいを続ける二人もいれば、自然消滅のように関係が解消される二人もいる。だが話し合いやらケンカやらで別れるカップルが圧倒的に多かった。新しい環境で新しく相手が現れるのだ。毎日のように。それはその人間の不徳などではなく、三井の見る限りごく自然な成り行きにみえた。18で高校は卒業するのだ。未来は無限に広がっている。
 自分たちの場合はどうだ、と考えたときに三井は開く距離と月日と、互いのキャリアを思った。バスケの国で頂点を目指す。それは大学に上がってスタメンを目指していた三井にとっては想像すらも覚束ない無期限の挑戦のように思われて、帰ってくると言われてもその時の自分や流川を想像することができなかった。
 流川は三井が「待たない」と言っても顔色を変えることはなかった。「あんたのとこに帰る」、その言葉に自分が甘えたのか、流川が呪いをかけたのか、年に一度、七夕よろしく会えたときには恋人時代となんら変わりない時を過ごした。いや、密度で言えばそれを上回ったし、自分たちは大丈夫だ、という謎の自信を新たに己の心に植え付けもした。
 大学を卒業し、実業団で昼間はサラリーマンを経験し、夜はまたバスケ三昧。夏が来れば流川の帰国に合わせた予定を組む。余裕があれば自分が出向く。大学の頃からなんとなく始めた英会話に本格的に取り組んで資格を取ってみたり、チーム内での自分の比率を冷静に考えて、それでもバスケットに関わっていきたいと考える将来のためにコーチングの勉強を始めた。これは予想外におもしろくて夢中になり、自分の選手人生を予測して引退する時期を初めて具体的に計画立ててみたりもした。ふっと綻びが生じたのは長年の夢が叶い、そんな充実し余計なことも考えずに忙しく毎日を過ごしていると思われた日々の中だった。
『今年は帰れないかもしれない』
 電話でなく、メールでそんな一文を見たときに、三井は走って走り続けて突っ走った自分が、今どこに立っているのかわからなくなったような感覚を覚えて戸惑った。疲れていたわけではない。ただ夜中に無機質なディスプレイを眺めていたときに、言葉を返しも理由を後付けしてきたりもしない画面を見て、流川が出発する前に自分が口にした言葉を思い出した。もうあと2年で自分は30歳になる。いつの間にかそんな月日が経っていて、ふと午睡の夢から覚めたように三井は感じた。流川が日本を発ってから8年が過ぎていた。パソコンデスクの隣に積まれたレンタルビデオ屋の青いバッグが目に入る。
『もう無理だ。ごめん』
 気づけばそんな文言のメールを送信しており、三井は暗い部屋の中、光る画面のそれを茫然と見ていた。



 こんな時に自分の部屋がないというのはかなりキツい。寝室に引き上げたところでベッドに寝転がる以外にやることはないし、そんなことをすれば離れて置いてきた流川の匂いに身を包まれる。トレーニングルームも同じ。だだっ広いクローゼットに足を運び、ここに机でも置くか、と考えてみる。そこで何をするんだ、と考えて、あんなにも居心地よく感じられていたこの家に身の置き場がないことに気づいて驚く。
 流川から離れたいわけではなかった。ただ少し動揺している。その己の気持ちと向き合いたいだけだった。すべてを飲み込んで来たと思っていたが、自分と流川ではそもそも過去の行いが違った。唇を噛んで鏡に背を預けて蹲る。裏切ったのは自分だ。



 bリーグ発足2年目にして辛うじて2部降格を免れたが、低迷を続けていたチームを救ったのは新たに加入した旧知の男だった。活躍の目立ち始めた選手達の出身から湘南世代と持ち上げられ、日本バスケット興隆の看板を背負って見てくれをクローズアップされて、それが世間的にうければいつの間にかコート以外でもてはやされ、お互いに顔を合わせるとそれはそれで気まずくなる枠にひっかかる一人。相変わらずの目立つプレイスタイルと髪型は変わってはおらず、「お久しぶりです」とほぼ10年振りながら親しげに声をかけられて三井は戸惑った
「覚えてんの?」
「当たり前じゃないですか」
 試合でだって何度も会ってるのにやだなぁ、と緩く笑う仙道は、後ろめたさとは別の違和感に極力大人しく静かに暮らす三井とは異なり、タレントやらモデルやらと派手に週刊誌を賑わすことも多かった。
 負け試合が少なくなり、ロッカールームに覇気が戻り、新たに流れる空気が停滞していたチームの活力の底上げに拍車をかけて、気づけばワイルドカード上位に食いこんでプレイオフ、bリーグ2年目のチャンピオンシップを制して天皇杯をも視野に入れていた。元々が悪いチームではなかった。助っ人外国人の不調やらキャプテンの故障やら負いこんでいただけで、連勝に盛り上がれば忘れかけられていた連帯感も湧く。以前よりも余程頻度が増した親睦会で三井が視線に気付くようになったのもこの辺りで、振り向けば逸らされることはなく待ち受けていたような人懐こい表情に迎えられて、チームに新風を吹き込んできた男とつるんで歩くことも多くなった。



 また新たなゴシップが流れてきて、お調子者が当の本人に、わざわざ付箋をつけた週刊誌をロッカーに入れておくという悪ふざけをしかけた。やった本人にそこまでの悪気はなかったはずだが、湘南世代などと呼ばれてバスケ以外をフューチャーされる選手がキャプテンの牧を含めてスターティングの半分を占め、いささか思うところはあったのかもしれない。牧が未だヘッドコーチに捕まって不在だったことも災いした。見つけた仙道は日頃見せない無表情で雑誌を足元に捨て、無言でシャワールームに消えた。反応を待ち構えていた主犯も成り行きを興味深く伺っていた人間も場の空気が固まって押し黙る。三井は舌打ちして雑誌を拾い上げゴミ箱に突っ込み、タオルを持って男の後を追った。
 隣のブースに陣取りシャワーを浴びていると、もう浴び終わったらしい男が跳ねあげ式のドアに手をついてこちらを見ていた。トレードマークの髪の毛が今は垂れて水滴を滴らせている。タオルを持って出なかったことを見ていた三井は余分に持って出た分をその頭にかけてやった。



「前のチームの広報が味しめたのか何なのか」
 意外に酒に弱かった男が目の前の三井を相手に絡んでいた。
「こいつとならって思えた相手ともそれで結局ダメになりました」
「それでダメになるんだったらそれまでの相手だったんじゃねぇの?」
 言われた言葉に仙道はキョトンとして三井を見てきた。が、すぐに破顔する。
「もー容赦ないなー三井さんはー。…でもその通りだ。それをショックに感じないことがショックだったのかも」
「八つ当たり」
「キツイなー」
 笑いながら手に持ったジョッキを呷る。三井はその腕に手をかけた。
「…もうやめとけよ」
「…うん。優しいね、三井さんは」
「どっちだ」
 優しいつもりはないが、この大男が潰れても自分が困る。週刊誌ネタの半分がガセだと言い張る仙道を信じるも信じないもなかった。今は誰のものでも、辛い恋愛話しは聞いていて己の身に沁みる。あれから1ヶ月、流川からの返信はなかった。元々が2カ月以上返信に間が空くこともあり、携帯を身の回りに置かず、パソコンの前に座ることも滅多にない男が、遠征でもあれば未だ読んですらいない可能性は多分にあった。行ったばかりの流川はそれでももう少しマメだった。間が開いても文句を言うことがない自分が甘やかしたのか、連絡がなくとも信頼があるということだったのか、それ以外。とまで考えて、三井は首を振って泥沼の思考を追いやった。
 こっちも遠征の2連戦が終わって明日はそのまま現地テレビ局の取材を受ける予定で、「湘南組」は居残りだった。婚約者が来ているという牧は顔だけ見せてホテルに引き揚げようとして、「大丈夫だな」と 三井を見て一言釘を刺した。学生時代からの腐れ縁で事情を知る男には、心配をかけているという申し訳なさが先にたったが、今は放っておいて欲しかった。いささか投げやりに返事をする三井に頷いて、仙道に目をやり、ため息をついて背を向けた牧を受けて、仙道の管が余計に巻かれている次第。試合ではないにしろ明日も仕事には違いなかった。
「もう引き上げるぞ」
 腕時計を見てそろそろ日付が変わりそうな時間を確認し、立って促せば、さほどには酔っていなかった冷静な目が三井を見上げた。
「三井さんは?」
「なに?」
「三井さんは寂しくないの?」
 そう言って三井の左の薬指を撫でる手に鳥肌がたった。
 そこには1ヶ月前まで嵌めていた指輪があった。8年前に渡航直前の流川の寄越したおもちゃのような小さい輪っか。だが効果は大きくて、籍を入れていないことが知られていても、していれば余計な誘いも来ないし、一般人で外には出したくないと言えば詮索もされなかった。何より自分のモチベーションが違った。今はないそれを目敏く見つけた仙道は何をどこまで知っていたのか。
 立ち上がった男はもう三井がついてくることを確信しているような、迷いがない足取りで出口に向かった。世慣れた男。他人も自分をもはぐらかすことに長けた、でも実はどこかが不器用な男。そんな相手が今は気楽だった。




 結局「ちょっと買い物」、と言い置いて外に出て、近くのコーヒーショップのチェーン店で外を眺めて午後を過ごした。持ち出したラップトップは鞄から出されずじまいで、レポートの提出期限がじくりと腹の奥の焦りを思い出させた。諦めて鞄を掴んで店を出ようとすると、ガラス越しにどこからでも目立つ男が歩いてくるのが目に入った。一応外出は報告して来たし、まさか自分を探しに来たのでもないだろう、と立ち上がりかけた姿勢のままで同居人を見ていると、キョロキョロと落ち着きのない動きの頭が三井を認めて止まった。
 その顔、表情。感情に乏しい男だと日頃評価を受けているが、三井にとっては大声で叫ばれているも同じだった。
 店を早足に出て、流川の前に立つ。ここで抱きしめてやれないのが悔しかった。せめて手首を掴んで早足でマンションへの道を辿る。キーを翳してロビーに入り、エレベーターのボタンを押す間も手は離さなかった。玄関ドアが閉まるのももどかしく、振り返って流川の頭を両腕で抱えた。抱えてめちゃくちゃに髪の毛をかき回した。上手く回らない口の代わりにそんなことをしている両腕を流川の手に摑まえられる。
「…ごめん、センパイ、ごめん」
「おまえが…謝んな」
 過去に傷ついたことは確かにしても、今の流川が求めているのは謝罪ではない。自惚れ抜きに自分の存在が流川の平静を保つのだろうことはわかっている。ただ収まりがつかないのは自分の心。掴まれた腕より胸が痛い。それよりも自分を見つめてくる流川の瞳が苦しい。縋るように大きな体で抱きつかれて三井は唇を噛んだ。
「俺が帰るのはあんたのとこしかないから」
 三井は目を閉じて動きを止めた。誰もが認める偉業を成し遂げてきた男は中身は驚くほどにあの頃のまま、ストレートに自分の心を飾ることをしなかった。
「俺はおまえのそばにいるよ」
 贖罪ではなく後悔でもなく。ただ真っすぐに自分の心が流川に伝わればいいと思った。背中に回った拘束具のような腕が心地よかった。



「リーチがこんだけ違うのにさ」
 ベッドに寝転がって手のひらを天井に向けて腕を伸ばしていると、隣に寝そべっていた仙道が三井に並べて同じように腕を上げた。正しく身長差分の縮尺が反映された長い腕が並ぶと、比べられた長さよりも肩から手頸に向けての太さの違いが気になった。
「なんだよ、ケンカ売ってんのか?」
「違うって。ゴール下は有利なんだけど。もうちょい3P決まんないかなーって」
 上げた腕でボールを扱う真似をしていたかと思うと、その腕が振ってきて三井の腕に絡む。含み笑いをして顔を近づけてくる男に、何がそんなに楽しいんだと不思議に思った。疑問そのまま「なんで笑ってんの」と聞くと、「んー?」と、三井の体に乗り上げて胸元に舌を滑らせてキスを落とし、仙道はまた笑った。
「ふふふー。なんでかなー」
「わ、ちょっと待てって…!」
 暑くてベッドから半分落ちるように体をはみ出させていた三井がバランスを崩し、その上にいた仙道も態勢を崩してベッドの真ん中を慌てて掴んだが、シーツだけがその手に残されて、結局二人で床に転がり落ちた。その上にシーツがもう一枚、二人の頭に落ちてきた。
「ってーな、もう!」
「あははははっ!」
 三井はシーツを頭から被ったまま半身を起こして、まだバカみたいに笑う男の頭をはたいた。それでも止まらない男に落ちた痛さの怒りも手伝ってもう一度手を上げると、目標の頭に到達する前に腕を取られる。引き倒されて怒鳴りつけようとすると、上に被さってきた男の子供みたいな笑顔に毒気を抜かれて力も抜けた。
 この関係をしめす言葉もない。約束もない。そんな気軽さと楽し気に笑い続ける男は三井の心を軽くもしたが、腹の底から同じように笑うこともできなかった。



 ダイニングからの掃き出し窓を出ると、西側に向かってだだっ広いルーフバルコニーがあった。玄関口に近い北側の端にはその眼下の246を流れる車をあてにした大きな看板が鎮座しており、回りこんで見ると今はもう契約が切れた企業名は風化して、ただの巨大な風景画になっていた。深夜でも絶えることのない交通量の騒音を、少しは軽減してくれる働きがあるとかで、邪魔に感じなければ捨ておけという助言を受け入れて、錆びた鉄骨の枠組みがむきだしのまま置かれている。
 その台座のコンクリートに腰掛けて缶ビールを呷っていると、隣に同じビール缶を持った牧が腰掛けてきた。
「…えーと、おめでとう…?」
「…!やめろよ!」
 三井がビールを吹き出しそうになって抗議すると、春に父親になった男が苦笑してプルタブを引いた。
「まさか湘北のやつらとこうやって飲むとはな」
 牧の視線の先に目をやると、ビルとビルの間から差し込む西日の中、持ち込みのバーベキューセットを広げて騒ぐ高校時代の部活の仲間がいた。足りない面々がいくつかあるにしろ、逆光の中に見える輪郭の曖昧な光景は、あの時代の夕日の中の砂浜のランニングを思い出させて束の間三井は目を細めた。
「桜木がいなくて残念だ」
 牧の言葉に三井も頷く。未だ彼の地で挑戦を続けている男からは懐かしい尊大でぶっきらぼうながら、その大らかな笑顔が目に浮かぶメッセージが届いていた。その花道が今ではキンパツと暮らしているらしい。流川の言うことで当てにはならないと思っているが、その花道が憧れて騒いでいたマネージャーも大学を出てすぐに結婚して今では1児の母だった。バーベキューをもう一人の元マネージャーと一緒に切り盛りしてくれている母親の代わりに、大きな伯父が幼子相手に奮闘している。
 三井と流川がいた時代の湘北のメンバーに、牧と土屋。二人で決めて呼んだ面子はそれだけだった。それでも10人を超す体格のいい面々を考え、ほとんど使っていないルーフバルコニーを活用することにした。道具や具材の調達は、名乗り出てくれた後輩たちにありがたく託した。
「院の方はどうだ?」
 さりげなく気を遣ってくるのは変わらない。「ぼちぼち」と答えると「そうか」とだけ返ってきて、それが三井には居心地がよかった。肩をポンと叩かれて牧が立ち上がる。
「あいつも落ち着いてきた」
 促された方向を見ると、逆光の中でもそれとわかるシルエットが顔をこちらを向けていた。今は影で見えないその表情が、三井には手に取るようにわかった。途方に暮れたような犬の顔。俺だってこんな会でどんな顔していればいいのかわからねーよ、と三井は笑った。
「落ち着いた?」
「ああ、ひどかったぞ、帰国直後のヤツは。セルフィッシュなんてもんじゃない。力で周りを黙らせてた」
 三井は黙って缶ビールに口をつけた。それが押し通る実力がなまじあるものだから、仲間内の評判は散々だった、と所属していたチームを思い出して顔を顰めた。
「…うん。サンキュ、牧」
 三井は立ち上がり、犬の顔を救ってやるべく仲間の輪に足を向けた。



「コアラ、抱っこしに来ませんか」
 足を向けた事務所で顔を合わせた仙道は、何を尋ねるでもなく、己の去就を説明するでもなくそう言った。その顔を見上げ、三井が口を開く前に、「なーんてね」と男は茶化し、視線を下に逸らせて笑った。
 豪州のチームに移籍のニュースが朝から流れていたから、男の事務所の用事は大体が想像ついた。このタイミングで日本を出るのならば、一緒に過ごした時期には既に仙道は動いていたはずだった。自分の赴く先についても、三井の動向についても男は口にはしなかった。流川や桜木、沢北のように自分を本場に投げ入れて更に高みを目指す者もいれば、この男のように自陣で己を磨いて、時期を見て高額で買われていく者もいるということだった。日本のバスケット界ではそれも異例のことで、ネットやらテレビ、新聞のマスコミ報道は朝からそれは派手に騒いでいた。そういえば将来のことなど話に乗せたこともなかった、と思い出す。過去も、つきあっていたのかさえも、わからなかった。わかっているのはあの子供みたいな笑顔がもう見られないということだけだった。目の前の緩い笑顔は大人になって再会した時と同じ表情だった。自分が何をしたのか、何をしなかったのか。今更考えても無駄なことではあるにせよ、胸の痛みは現実として今もここにあった。
「なぁ、仙道、俺、」
「また退屈しちゃったらいつでも来てよ」
 仙道は三井を遮り、その返事を待たなかった。そんなんじゃない、と言いかけて、自分には何を言う権利もないのだ、と三井は唇の端を噛んだ。その目の動きを追うように束の間見つめて、仙道は事務所から出ていった。



 流川が帰国したのは三井が最後のメールを送って半年ほど経った日だった。鍵穴に鍵が差し込まれる音がして、開錠される音がやけにゆっくりと聞こえても、三井はベッドから起き上がることはしなかった。親にも鍵を渡してはいるが、連絡もなしにいきなり来ることはない。
 そういや鍵を返せとは言わなかったな、と考えただけだった。鍵どころか三井が最後に送った連絡から2か月過ぎた辺りから頻繁にくるようになったメールも読まなかったし、電話にも出ることはしなかった。浴室の方で物音がした。もうすぐに出てくる気配に、こんなテレビかなんかでよく見るような場面が自分の身の上に起こる日が来るとはなー、と場違いに他人事のように思ったところで玄関のドアが開いて、思った通りの顔が朝の光を背負って現れた。久しぶりに見る流川。見慣れていたはずの姿に何と声をかければいいのかわからなかった。全てが面倒に感じられて怠惰にベッドに横になったまま成り行きにまかせていると、部屋に上がり込んできた流川が「どーいうこと」と言いかけて、黙った。タイミングも計ったようにピッタリだった。洗面所から出てきた仙道と顔を見合わせてお互いに驚いている。不意に三井はおかしくなって笑った。俺スゲー。そう思うとおかしくて声があがりそうになって布団をかぶった。
「…あー、そーいうこと?」
 はじめに動いたのは如才ない仙道だった。淡々と支度する物音が聞こえてきて、すぐに玄関ドアの開閉音がすると、また部屋の中の静けさが痛いほどだった。男が1人減っただけで大分シンプルになったな、と考えていると、流川がずかずかと近づいてくる足音がして、布団をひっぺがされた。
「テメーも帰れよ!」
 今更何を取り繕う気もない。何をやっていたのか一目瞭然の姿で起き上がって怒鳴りつけると、片手で口元を押さえつけられ、そのままベッドに引き倒された。
「帰れ!ちくしょう!!」
 自分を抑え込む力は圧倒的で、悔しさに涙が滲む。
「帰れよ!」
 簡単に体をひっくり返されて乱暴に後孔に指を突っ込まれる。その何かを確かめるような指の動きに羞恥と怒りに身を震わせて、三井は気が違ったように暴れまわり、振り回した腕が流川の顔に当たった。拳の先から伝わる鈍い感触に三井は体を強張らせた。初めてまともに流川の顔を見る。唇の端が切れて血が滲んでいた。震える手を伸ばしてその顔に触れる。親指が血に触れて、動かした指の後を引いて赤が流川の白い首の奥まで伸びた。そのまま首を引き寄せて三井は噛みつくように流川に口づけた。流川は自分のジーンズを下着ごと引き下げるとすぐに押し入ってきた。三井は呻き声を懸命に堪えて、流川の舌に自分のそれを絡ませる。
 おまえが無理やりとかすんなよ。
 情け容赦なく激しい律動を繰り返す体に怯みながら、なんとか動きに追いつこうと足を伸ばして腰に巻き付ける。
 るかわ!るかわ!
 るかわるかわるかわ!!
 叫んだのは心の内側だったのか、実際に声に出していたのか。
 目を開いたときに見えたのは誰もいない空の部屋で、三井はようやく息を吐きだした。物音一つない部屋。それを確認して三井は笑い、涙を流した。



 降車間際にようやく瞼が開き、告げられた金額を運転手に払って降りてから、忘れ物に気づいて慌てて発進しかけていたタクシーのフロントガラスを叩いた。びっくりしたような顔の運転手が何か告げる前に、開いたドアから後部座席に忘れたリュックを取り出し一息ついて辺りを見渡した。この県にb1のチームはなく、ここのアリーナに来るのも初めてだった。ユニフォームを着た選手の旗が並ぶ先に人々が吸い込まれていく。アリーナはすぐ目の前の建物の後方にあって、流川はそれを確認すると腕時計を見た。近くから子供の自分の名を呼ぶ声が聞こえて、振り返るとアリーナに向かう人々の視線が自分に集まっていた。すぐにでも間を詰められそうな状況に足を速めて建物に近づくと、通用口が開いて、そこから顔を出した人間が驚いたような声で流川を呼んだ。
「なにしてんの、おまえ」
 長い髪の毛と顔はなんとなく覚えていても咄嗟に名前が出てこない。が、これ幸いと流川は通用口からその人間を押して建物内に入り込んだ。
「誰かと約束してんの?」
「そう」
「三井?」
「そう」
 名前を思い出せない相手は流川と三井が先輩後輩であることを知っているらしかった。勝手に勘違いしてくれたことに乗じてコクコクと首を縦に振ると「ここで待ってろや」と控室の一室に案内された。が、すぐに戻ってきて、「あーあかん、もうコート入った。試合、見てくんやろ?」というのにまたコクリと首を振る。チケットのことも問われず、「そこ真っすぐいったドア開ければコートやから」と指図されてから、入れてくれた相手が高校の時に一度対戦した大阪の高校のPFだったと思い出した。名前はやっぱり思い出せなくて「サンキュ」と礼を言うと「ヘンなヤツ」と返されて終わった。
「あれ、流川さん」
 ドアに手をかけたところで名を呼ばれる。振り返るとこれはもう顔見知りになったスタッフが立っていた。
「またですか?」
 それにも頷き、背負ったリュックを下ろして中から書類の入った大きめの封筒を取り出すと、「三井アシスタントコーチに」と言って手渡す。
「自分で渡さないんですか?」
 聞かれて封筒を渡す手が止まる。
「今日こっち泊まりだから宿舎のほうに行かれれば会えますよ、きっと。場所わかります?」
 スタッフにとって流川は有名なNBA帰りのB1リーガーだった。自チームのアシスタントコーチ、しかも出身高校の同じ人間の居場所を教えたところで何の問題もないと感じているのだろう。むしろ不思議そうな顔をして見上げてくる。
 流川は黙って腕時計にまた目をやった。言い渡された日まであと4日ある。もういいのだろうか。一年はきっかり365日ととらえるべきなのだろうか。
「教えて」
 自分の希望と予測を天秤にかけて、流川は口を開いた。



 部屋に戻るともうすっかり日は落ちていて、隣に建つオフィスビルの人工的な光の差す薄暗いリビングを横切って、ダイニングテーブルの端にPCの入ったカバンを置いた。背後で明かりが灯され、出ていった時とは何も変わらない部屋の様子にそれとなく安堵する。
「まだ食ってないんだろ?何か食いたいもんある?」
 袖をまくって手を洗っていると、キッチンに入ってきた流川が三井の背後に取り付き体を揺らす。
「おら。何食いてー?って作れんの限られてるけどな。和食?洋食?」
 好きなようにさせながら再度問うと、流川は「センパイ」などと言う。おやじギャグか、と思いながら「後でな」といなして、後ろに流川をくっつけたまま移動して冷蔵庫を開いて中を覗いた。
「んー、トリ焼くか。照り焼き?みそ?塩にんにく?」
「塩にんにく」
 流川の返答に肯きながら肉のパックを取り出して、コンロ前に移動する際もまだ流川は背中に張り付いたままだった。動きにくいことこの上ないが、好きにさせながら慣れた手つきで三井は準備を進めていく。無水鍋を熱しておいて、肉に塩胡椒を振って鍋に放り込み、ニンニクの漬かったオリーブオイルをかけ回して蓋をしてから、また流川をくっつけて冷蔵庫に行き、適当に野菜を取り出して戻る。
 ざくざくと大きめに切っていると、腹の鳴る音が背後から聞こえてくる。小さく笑って、細長く切ってやった人参を後ろを見ずに自分の首辺りに差し出すと、ポリポリといい音をたてて咀嚼されていった。固まりのまま切ったキャベツも同じように吸い込まれていく。悪戯を思いついて、姿のままの唐辛子を2本、同じく差し出すとすぐに一口に吸い込まれていった。が、思ったような反応が返ってこなくて、包丁を置いて三井は後ろを振り返った。
「辛くねーの?」
 言った途端、大きな手に顎と首をがしっと捕まれて固定される。ぐぐっと上を向かされて、流川の唇が降りてきた。キスされてすぐに固い何かが口に押し込まれようとしているのがわかって、三井は顔を背ける。
「てめっ!何しやが!」
 有無を言わさずにまたがっしりと顎を捕まれる。滑り込んでくる唐辛子を防ごうとして唇を結ぶと、どうにかこじ開けようとする流川の薄い唇がむにむにと押し付けられてくる。
「やめろって!」
 思わず笑いが漏れて、唇が開くと今度は流川の舌が滑り込んできた。
「んっ…」
自分の舌に巻き付いてきて、癖で応えはじめると、だんだんと刺激が伝わってきて、三井は目の前の男の胸を突き飛ばした。
「辛ぇっ!」
 突きとばされた流川はしてやったりという顔をして口の端を微妙にあげている。
「うーヒリヒリする!ってか、おまえ唐辛子どーした?」
 流川の口の中には唐辛子はなかった。不思議に思って聞くと「食べた」と一言。
「肉を切らせて骨を断つ」
「バッカじゃねーの!」
 澄ました顔に回っていない舌がおかしくて、大笑いして、腹を抱えて、目尻に涙が浮かんでくる。それを流川が間を詰めて、顔に唇を寄せて舐め取った。
「よっぽど腹空いてるな?ほら、どけよ。野菜もいっぱい食え」
 目尻がヒリヒリするじゃねーか、とぼやいて、俎板ごと鍋の前に持っていって、蓋を開けて雑にすべて入れて、塩を振ってまた閉じる。これで数分放っておけば出来上がりだった。料理ともいえないシロモノだが、これがまたなかなかにうまい。皿を出しとけ、と鍋の蓋を短気に開けようとしていた男に指示して、自分は冷蔵庫を開け、開栓したまま中身が半分程に減っていた白ワインを取り出した。



「申し訳ありませんでした」
 1週間後、またいきなり訪ねてきた流川は三井に頭を勢いよく下げて体を半分に折った。頭は下げるが、不法侵入は前回と一緒だった。三井は歯ブラシを咥えたまま、自分より大きい男の目の前の旋毛を見つめた。鍵は取り上げとかねーとな。そう考えて、洗面台に向き直りうがいをした。 乏しい表情とは裏腹に直情径行気味のこの男が1週間何を考えていたのか。てっきりあのまま去って行くかと思っていたのに。
「…謝って済むようなことじゃねーけど、」
「あんなもん、ケンカみてーなもんだ」
「ケンカじゃねー。あんたは待たないって言った。俺が悪い」
 これ以上は押し問答だと判断して、三井は口を閉じた。それを見て流川は唇を噛んだ。
「許してくれるなら、俺のとこに戻ってきてほしい」
 戻るも何も。
 仙道とは付き合ってねーよ、と答えかけて、じゃあ自分は何をしてたんだ、と三井は考えて黙った。何を主張することなく黙って消えた男。そのすぐ翌日、合わせざるを得なかった顔に特にめぼしい表情は浮かんでいなかった。人当たりのいい後輩、気の置けないチームメイト。付き合ってたらこんな顔はねーよな、と思い、三井は苦く納得した。
「あのさー」
 三井がかけた声に流川が顔を上げる。
「一年、や、二年待ってくんない?」
「あいつが好きなの?」
 好き…好き?と考えて、なぜだか他愛なく笑う顔が浮かんでまたわからなくなり、そうじゃなくて、と三井は返した。
「俺もめちゃくちゃやったじゃん。おまえは悪くないんだよ。…ただ少し…一人で考えたいんだ、いろいろ」
「二年?」
「二年」
 八年に比べたら全く短い。が、そんなに待てないと言われればそれまでだった。むしろそれを待っていたのかもしれない。ほら、おまえにはできないんだよ。悪足掻きの自己弁護をしたかったのかもしれない。
 流川は黙り込み、それから思いついたように傍らの鞄を引き寄せた。中からゴソゴソと書類が入っていると思しきデカい封筒を取り出して三井に押し付ける。
「家、買った」
「はい?」
「マンションだけど。ずっと考えてた。あんたと住むとこ」
「は?」
「俺、ここで待ってるから。リフォームかけるから希望があったら言って」
 この1週間でマンション買ってましたってか?三井は押し付けられた封筒を胸に口を開けたまま言葉が出て来なかった。
「二年後、また来る」
 踵を返した男の残像がまだ玄関先に残っているようだった。鍵を取り返し損ねた、と思い出して三井は頭をかいた。



 教えられたビジネスホテルに着くと部屋に押しかけることなく、目当ての人間の姿がすぐにロビーに出てきた。ミーティングでもあったのか、欠伸をしながらぞろぞろエレベーターホールに向かう背の高い人間の群れに昼間見た大阪のPFの姿もあった。目が合って、二度見されて、その男は「流川来てるでー」と大きな声で後ろに呼びかけて周囲の目を集めた。三井の顔がぎょっとしたように変わり、顔を顰められて、あ、ヤバかったかな、と流川は考えたが、三井は顔を外に振り向けて、ついてこいという仕草をした。
 しばらく三井の後ろをついて知らない街の夜道を歩き、三井が立ち止まったところで流川も足を止めた。
「まだ二年経ってねーぞ」
「来週水曜は試合ある。だから今日」
 思いついた言い訳をすると、三井はふん、と鼻を鳴らして足元の小石を蹴った。
「リフォームしたやつ」
 封筒を押し付けられて、何通めかのそれを手に取った。
「おまえなー今は電子媒体ってもんがあるんだから、」
 言いかけて三井は黙った。届ける口実に流川は何度か三井のチームの試合を観戦している。同じシーズンを過ごしているのだから頻度があるわけではないが、それでも空席が目立つアリーナに座れば周囲の耳目を集めているのは自覚していた。三井が気が付いていないとも思われない。引退前の一年、それからコーチに入っての一年間、声をかけることはしなかったし、かけられることもなかった。
「まだ、変わらないのか?」
 何がとは問われなかった。強く頷いて三井を見返す。知らない街の匂いが流川の緊張を誘って、手を強く握った。
 



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