初恋
部室のドアを開けてすぐに、正面のロッカーの前に仁王立ちする後ろ姿が目に入った。それが誰かわかると、流川は肩にかけた鞄の持ち手に指を二本引っ掛けたまま戸口で足を止めた。
三井も来たばかりのようで、まだ白いシャツの背中がロッカーに向かって盛んに動いている。ロッカーの幅以上の鞄を無理やり中に押し込もうとしていて、そのシャツの背中に癇癪を起したような皺が寄った。ギイギイと抗議する軋んだ音をたてていた古いロッカーが沈黙して、三井の鞄はようやく収められた。
帰り際、また力任せに鞄を引き出すのだろう。部室には自主練で居残る自分と三井の二人しかいないだろうから、三井がロッカーと格闘する前に自分が鞄を引き出しておこうか。
ギイギイと音を鳴らし続けるロッカーは自分の隣で、着替え続けている間も開け放したロッカーの扉は揺れ続けて、きっと自分はまたそれにイラつく。
流川がぼんやりとまだ始まらない練習の後のことまで考えていると、白いシャツの上の頭がこちらを向いていた。
「…うす」
「なにやってんの、おまえ」
「なにって」
流川は明確に説明する必要は感じず、三井の隣に歩いて行って自分のロッカーの扉を開けた。
右頬に三井の視線を感じる。取り合うことなく鞄をロッカーに突っ込みシャツのボタンに手をかけると、三井はしばらく流川に当てていた視線を外した。
「ヘンなヤツ」
小さく吐きだして、自分のシャツに手をかける。三井が隣に立つ自分に肘が当たりそうなほど乱暴にシャツを脱ぐと、流川の鼻に、ふっと自分ではない人の肌の匂いが届いた。
この頃この匂いに触れることが多いように流川は感じる。
ロッカーが隣になったのは三井はバスケ部に戻ってからすぐだ。夏になる前で、まだ暑くはなかった。
だからだ。
自分でも何が「だから」なのかわからないままに、流川はその思考とともに鼻を掠めた匂いを頭から締め出そうとした。
無言で着替えているとバンッと大きな音をたてて隣のロッカーの扉が閉められた。目線だけを向けた流川に練習着に着替え終わった三井がニッときれいに並んだ歯を大きく見せて笑っている。
「俺が一番乗りだ」
何が一番なのだろう。
考えて流川の反応が遅れると、三井は「フン」と鼻を鳴らして部室を出て行った。
部室の中に張りつめていた空気が抜けたように感じられて、流川は一つ息をついた。
夏が終わって部室が妙に広く感じられる。
赤い頭のうるさい男はいないし、容赦なく鉄拳を振り下ろすキャプテンもいない。穏やかに笑う眼鏡の先輩もいなかった。
もしかしたら同じ3年生の鞄を無理やりロッカーに押し込む、乱暴でわけのわからないことばかり言ってくる先輩もいなかったのかもしれない。
まだ鼻に残る匂いが妙に甘ったるく感じられて、流川は脱ぎかけた制服のスラックスから手を離して窓際に足を運んだ。
窓を開けると盛夏よりは大分落ち着いた風が室内に吹き込んで前髪を揺らし、流川はまた息を一つ吐いた。
右手に部室棟から体育館に向かう半屋外の通路がある。ふと気になって目で探すと、体育館に間近い部室棟寄りに三井はいた。ぶらぶらと長い腕を揺らして歩く様子はまだヤンキーのようだ。
それでも足は待ちきれないように、急くように、大股でずんずん前に進む。揺れる手足を見ていると、不意に流川の耳をつんざくような大歓声が蘇った。
だがそれは一瞬。すぐに静かになった自分の頭の中に三井の声だけが響く。
立っているのもやっとだった自分に飛び込んできた汗ばんだ体。巻き付いてきた長い手足。
あの匂いだ。
勝った。
あの時は頭が理解に追いついていなかった。
山王に勝った。
汗でぬめる体が、匂いが、自分の耳にダイレクトに興奮と熱を吹き込んできた。
今までに感じたことのない眩暈が頭の中を巡り、なぜだか胸がきつく痛んだ。
目で追っていた通路を行く小さな短髪の頭が振り向いた。目が合って、流川は窓を閉めた。
苦しい。
流川は持ち上げた片手を自分の胸に当てた。
痛みも動悸も止まらなかった。
勝った。
ようやく理解したと同時に、流川は自分の感情の変化に気が付いた。