うつるんです




 自室のドアを開くと、見慣れない英字の消印が押された小包が机の上に置かれてあった。それと認識した途端、勝手に高まった鼓動を抑えつつ差出人を確認しようと、三井は足早に机に近づいた。
 頭の中には、数か月前にアメリカに発った二つ年下の後輩の仏頂面が浮かんでは消える。他に自分宛に航空便を使うような知り合いはいない。そうとわかっていながら、違うかもしれねぇし、と自分を落ち着かせるような思考が働いて、そんな気持ちに苛立ちながら三井は小包を手にした。果たして流川の名が意外に大人びた筆跡でそこに書かれていて、三井は口角を上げた。
 包装を注意深くそっと剥がしていくと、グルグル巻きにされたパッキンが転がり出て、床に落ちたそれを慌てて拾った。海外からこの程度の包装で送ってくるぐらいだから壊れ物ではないのだろうが、流川の物に対する無頓着さを考えると万一ということもある。
 割れ物ではないことを確認して、そのパッキンを解くと出てきたのは使い捨てのカメラだった。
「…んだ、これ」
 それが何かも使用方法もわかってはいる。よく見る、中にフィルムが内蔵されていて手動で巻き上げる使い捨てカメラだ。三井ももちろん使ったことはある。が、それを送ってきた流川の意図が読めなかった。
 見ればもう全てのフィルムを使い終わって巻き上げられている。ということはこの中にまだ現像していないフィルムがあるのか、と首を捻って三井はカメラを眺めた。どこか改造してあるようでもないただの使い捨てカメラだ。送りつけてきた目的を説明したメモでもないか包装紙をひっくり返してみたが、包まれていたのはもう使われた後の使い捨てカメラが一つだけのようだった。

「これ、どーしろっての」
「これって?」
 三井は眉を寄せ、自分が握った受話器を耳から離して睨みつけた。元から話しが通じない野郎だと思ってはいたが、タイミングから察するということも流川には難しいらしい。
 使用済み使い捨てカメラ送り付けの意図を聞く、という大義名分も出来て、三井は日付を越えてしばらく経った時計を睨み見上げながら勇気をかき集め、アメリカにいる流川に初めて電話をかけた。こっちは深夜だがアメリカは午前のはずだ。まだ流川といえど寝惚ける時間じゃないだろう。
「おまえから今日届いたんだけど。なにアレ。使い捨てカメラ? しかも使い終わったヤツとか。なんか写ってんの?」
「あぁ」
 あぁじゃねぇし。こっちは明日も大学で早朝から朝練がある。眠い目をこすって不審物の説明を求めているというのに。
「おれの通ってるガッコとか…体育館とか。チームのメンバーとか、あと学食?みたいなとことかー、あ、あと下宿してるとこのおばさんと犬。あとはー」
「は…?」
 珍しく延々と続きそうな説明する言葉を三井は遮って声を上げた。つまり。
「…おまえの日常生活ってことか」
「まあ、そう」
「…ふーん…」
 そんな話しを聞くと、片手に無造作に掴んでいたなんでもない使い捨てカメラが急に意味を持った壊れ物のように感じられて、三井は目の前の本棚にそっとカメラを置いた。その背後には写真立てが置かれていて、あの夏のインターハイ後の湘北のメンバーが笑っている。いや、一人流川は笑ってはいない。そんなヤツが写真だって?
「そういうのさ、部の連中も知りたがってたぜ? 流川今なにしてんだろーな元気でやってんのかなーって。おまえと同学年の奴らも。連絡してやってんの?」
「してないっす」
 でしょうね。
 三井は目線の高さのカメラを眺めた。今は目を凝らしても見えないけれども、この中のフィルムには海の向こうの異国の地で暮らす流川の日常が写っている。他の連中には送っていない。俺だけ?
 そう考えつくと顔に急に熱が集まった。
「え、他の連中にこういうカメラも送ってねぇの?」
「ナイけど?」
 不審そうに疑問文のように上がった流川の語尾に、集まった熱が下がらず、三井は上擦った声を出した。
「…俺…だけ?」
「まあ、そうっす」
 なんで、と続けて聞こうとして、三井は躊躇った。
 なんとなく。なんとなくこの後輩と自分には他の部員にはない繋がりがあるように感じられていた。
 アメリカ留学の話しも個人で打ち明けられたのは部員の中では自分一人だった。三井が高校を卒業してから流川とは音信不通だったのに、突然呼び出されて何かと思えばワンオンを挑まれて汗みずくで疲れきって、公園のコートのど真ん中でひっくり返っていたところで、ぬっと目の前に流川の顔が浮かんだ。
 同じく汗をかいていても流川はどこか涼しげな面立ちで、「俺はアメリカに行く」と突然切り出した。
 いつか行くとは聞いていたから動揺はしたけれども、「そっか」とだけ返すと、浮かんだままの顔が急に幼く心許なく見えて、目を離せないでいるとその唇が小さく開いた。
 けれど、その口からはもう何も言葉は出てこなかったし、顔が自分の上に降りてくることもなかった。間近で見る整い過ぎた流川の顔の後ろの夕日が、妙に赤く深い色合いで空を染めて上げていて、三井はそっちの方に気を取られているフリを懸命にしていた。
 自分だけに送られてきた使い捨てカメラ。あの時に必死にスルーした感情が、今更倍になって戻ってきたような気がする。あの日の夕焼けの色と並んだ流川の、常にない何かを訴えてくるような眼差し。なんでと聞いてしまえば、もう聞かなかった前には戻れないような気がした。
「それで、」
「なんっ…!」
 無理に声を出そうとしたら大声が出て、三井は驚いて自分の口を塞いだ。「なんだよ」と小さく言い直した後も、妙に心臓がうるさかった。流川も驚いたのかしばらく返事が戻って来ず、それは間合いを図っているようにも感じられて、三井はじっと黙って海の向こうの気配を探りつつ返事を待った。
「先輩も同じの、送って欲しいっす」
「え…」
 うるさかった心臓が止まった。
 待て待て。相手は知り合いのいない外国に渡ったばかりのヤツだ。さすがの流川もホームシックにでもかかったのかもしれない。
 本当に今更。今更な筋立てを組み立てて自分一人バカな勘違いなんてことはしたくない。
 三井は深呼吸をして心臓を再稼働させ、受話器を握り直した。
「同じのって、あ、こっちの風景が見たいんだな? 仕方ねぇなぁ、俺が、」
「違う。先輩が見てる景色が見たいっす。先輩の目に毎日写っているモノ。先輩の手が触れるもの全部、はムリかもしんねーけど」
「なんで…」
 とうとう抑えていた言葉が転び出た。
 なんであん時言わねぇの。
 いや、あの時だって聞かされていても、自分がどう反応していたかはわからなかったけれども。もしかしたら今こうして電話しているようなことも逆になかったのかもしれないけれども。
 手を伸ばしても触れない、すぐに会いに行けないところにいる時に。
 だからなのかもしれない。触れない、会えない距離だからこそ自分の欲しかったものが今頃になってわかったのかもしれない。自分も。流川も。
「…おせーんだ、おまえ」
「ごめんなさい」
 好きだとかキライだとか。流川からそんな言葉を聞いたわけではなかったけれども、それ以上に感情が揺さぶられて、三井は目の前のカメラを、いつの間にか目の前の物が滲んで見えるほどに溢れてきた涙目で懸命に睨みつけた。
「…これ、航空便だろ? 写したヤツとか消えちゃってんじゃねぇの」
「高感度フィルムじゃないから大丈夫」
 ただ受話器の向こうの後輩の気配を感じているだけでいくらでも時間は経っていきそうだったから、三井は敢えて茶化した言葉を舌にのせて笑うと、妙に自信あり気な声が返った。そのらしくない返答に自分の知らない流川を感じて三井のへそが軽く曲がる。
「なんだ、もうどっかに送って確認済みってか」
「こっちの留学生仲間に聞いた」
「あ、そ」
 ホッとした内心とは裏腹なそっけない声を返して、また三井は口元を緩めた。
「…先輩の声。久しぶり」
「バーカ。ホームシックか」
「ホームにシックはしてないっす」
 匂わせるような言い方すんじゃねぇ。流川のクセに。
 このままの擽ったいやり取りを続けたいような。
 もっと具体的で核心的な言葉を投げつけ合いたいような。
「先輩の声、聞きたかった」
「…うん」
 声をなんとか絞り出して、顔を上げた先には使い捨てカメラが置かれている。
 この中にはおまえが見たもの触れたものが写ってるんだよな、と考えるとどうしようもない思いが涙と一緒に溢れた。
 会いたい。
「会いたい」
 自分の方が年上なのだから、と意を決した三井が口を開く前に、まったく流川らしくない初めて聞く声音を聞いて、今度こそ三井は自分の心臓が止まったと考えた。
「…バ、バーカおまえ! モノになるまで帰ってくんじゃねーぞ?」
「それはわかってる。でもまた電話かけてきてほしいっす」
「…いーけどよ。おまえもかけてこいよ?」
「うん。あとカメラ」
「あー」
 なんだろう、この甘い感じ。相手は流川なのに。
 胸の中がむずむずしていたたまれないのに、ずっとずっとこの時間が続けばいいと思う。流川も同じだといいと願う。
「先輩のことも写して」
「…うん。あー、これおまえ写ってんの?」
 Tシャツの肩を捻って腕で目に溜った邪魔な涙を拭い、三井は使い捨てカメラをレンズの中央を見えないとわかっていて覗き込んだ。
「ない」
「えーおまえ写せよー」
「見たいっすか?」
 三井は思わず驚いてまた受話器を耳から離して見つめた。
 流川はこんなヤツだったか?
「…まぁ見たい、かな?」
「うん、じゃあ撮る」
「俺、明日早いからさ。もう寝るわ」
 このままだと身がもたない。何かとんでもないことを言ってしまいそうになる。
 未練を叫ぶ気持ちを封じ込めて、三井は会話を切り上げるセリフを口から押し出した。
「うん」
「またな」
「おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
 受話器を置いて、三井はそのままズルズルと壁に背を預けたまま床に座り込んだ。
 なんだ? 今のはなんだったんだろう。
 きっと今の自分の顔は赤い。鏡を見なくてもわかる。
 見上げた本棚には使用済みの使い捨てカメラ。きっと自分は明日朝一番にコンビニであれと同じ物を買う。現像はコンビニでできるんだったか。
 何の約束をしたわけでもないけれども心が浮き立って仕方ない。
 とりあえず明日。手にするカメラで一番に撮ろうとした自分の顔を想像して、三井は頭を抱えた。




end


1/1ページ