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知ってるよ ver.流三




 毎日梳かしてない、と言うわりには、流川の髪の毛は指を櫛代わりにして梳き下ろしても引っ掛かることはなく、改めて梳かす必要はないようだった。
 流川くんの髪の毛さらさらー!
 高校時代に部活の練習を覗きに来た流川親衛隊の女の子達が叫んでいた言葉を思い出す。こうして実際に触れてみると確かにその擬音の通りの感覚で、見ていただけなのだろうに女の子達の想像力に恐れ入る。何度か指を差し入れて無意識にその感触を確かめていると、
「先輩?」
と、流川は訝し気な視線を目の前の鏡越しに送ってきた。
「ん、始めに梳かしとかないと形が歪になるからな」
 はじめはそのつもりで、今は不本意にも言い訳になった言葉を尖らせた唇から押し出すと、三井は右手に握った鋏を上げて一房摘まんだ髪の毛に当てた。
 人の髪の毛なんか切ったことはない。見よう見真似で掬った髪の束を鋏の先でちょっとだけ切ってみた。
 パラパラとケープの代わりに体に巻いたビニール袋を滑って、思ったより多い量の短い針のような髪の毛が床に敷いた新聞紙の上に落ちていく。焦って横から流川の頭を見て、特におかしな形になっていないことを確認して三井は息を吐いた。
 なぜ自分は流川の髪なんか切ってやっているのだろう。
 長いと思われる箇所の髪を掬い、真剣な顔で鋏を当てながら三井は考える。
 春になって大学入学とともに一人暮らしを始めて、流川が部屋に遊びに来た。いや、遊びに来たのか未だ流川の真意はわからない。前日にいきなり電話があって、「明日行くっす」とだけ一方的に伝えられた。驚きで返事ができないでいるとしばらく無言になった通話はいつの間にか切れていて、本当に流川だったのか、自分の見た不思議過ぎる夢だったのか判じることもできず朝起きてぼんやりしているところにインターフォンが鳴り、部屋のドアを開けると本当に本物の流川がそこに立っていた。
 流川はニコリともしない顔で手土産らしいコンビニのビニール袋に入ったペットボトルのスポーツドリンクを三井に突き出して狭いワンルームに上がり込むと、キョロキョロと部屋を見渡して、「座れ」と勧められる前に部屋の真ん中にどっかりと腰を降ろして胡坐を組んだ。
 何しに来た?とも言えずにとりあえず三井はスポーツドリンクを冷蔵庫にしまい、入れ替わりのようにペットボトルの麦茶を取り出して流川の前にドンと置いた。
「いきなり来るからよ。こんなもんしかねぇけど」
 言うと、流川は「っす」と低く、どうとでも受け取れるような返事をして、また部屋の中を見渡した。来たからには何らかの用事があるだろうに、待っていても流川に口を開く様子はなかった。
 急に来たのはこの空気を読めない後輩だ。なのに三井はどうしてか自分の部屋にいつもと違う居心地の悪さを感じた。こちらの都合も考えずに突然やってきた後輩に怒ればいいのか呆れればいいのか、もしくは先輩らしく鷹揚に歓迎すればいいのか。態度を決めかねて、流川の前にペットボトルを挟んで同じようにドッカリと勢いよく腰を落とした。
「…で、バスケ部どうよ?」 
 部屋を眺める流川の横顔を見ているとますます居心地が悪くなってくる。結局折れて三井は渋々ながら口を開いていた。
「どう…とは?」
「湘北ー。新学期を迎えてバスケ部はどんな感じかって。新入生入ったんだろ?」
「ああ」
 部屋を眺めるばっかりで一向に口を開く気配のない後輩に代わって、三井がなんとか共通の話題を出して振ってやっているのに「ああ」。
 ホントわかんねーヤツ。
 目の前の後輩は瞼が落ちて半目になった三井の機嫌には気づかないようで、麦茶のペットボトルに手を伸ばし、キャップを開けてから「コップとかないんすか」とのたまった。
 自分はいつもペットボトルから直飲みしていて、流川にもいらねーだろと思ってそのまま出したが、それを説明するのも面倒で三井は渋々と腰を上げた。台所に足を運び、置きっぱなしの何かのオマケについていたグラスを一つ取り上げ、気付いてちょっと水道で濯いでから流川の前に突き出した。
「ほら」
「っす」
 流川はグラスに麦茶を注ぎ、ペットボトルを脇に置いた。
 こういうところを見ると育ちがいいのかもしれない、と三井は思う。一息にグラスの中味を飲み干した流川を見ていると、
「30人入って来て今は11人残ってる」
と、突然のように言われて三井は戸惑った。
「あ? ナニが…あぁ、新入部員ね」
 5月も半ば過ぎの時点で約3分の1。宮城がかなり張り切っていて危ぶんでいたが、それでも11名そのまま残っていてくれれば、自分の知っている限りでは湘北バスケ部にとって一番多い新入生の人数なのではないかと思う。
「そっか。…安西先生はお元気か?」
「っす」
 簡単過ぎる返答に不満ながら、もし何かあるのなら流川なら誇張も遠慮もなく正直に言うだろうと、そこは信頼して三井は頷いた。
「あ、もしかして大学見学したいとかか?」
 この後輩が自分をわざわざ電車に乗って訊ねてくる理由を先刻から探し続け、これか?と思い至って問うと、流川はあっさり首を横に振った。
「俺はアメリカに行くから」
「あ、そ」
 そんなような話を耳に挟んだことがあった。だが本人から聞くのは初めてで、やっぱりか、という思いと、なんで今頃話のついでみたいに言うのだという怒りが小さく湧く。
 流川と顔を合わせるのは高校を卒業して以来だから1か月半ほどだが、三井が部を引退するまではそれこそ毎日のようにワンオンワンに付き合ってやっていたのだ。部での練習の後に。自主練を返上してまで。
 そん時に言ってもいいじゃねぇか。せめて引退する時にでも。卒業した時にでも。
 それなりに自分に懐いていたと思っていたのに、そうでもなかったらしい、と認識を改めるに至って、そこも実は小さく自分は気にしていたのだ、と理解して、三井は面白くなくなって唇を尖らせた。
 また部屋の中に沈黙が満ちる。もう自分から話しかけてやるもんか、と妙な意地が湧いて、三井は背中を背後のベッドに預けてそっぽを向いた。
 そもそも貴重な日曜の休みに朝早く押しかけてきたのはコイツだ。用があるならさっさと言え。
 しかし不貞腐れながらも先に沈黙に耐えられなくなったのもやっぱり三井だった。ちらりと目をやると、流川は目をパチパチと瞬いていて、三井は眉を寄せた。
「…ナニしてんのおまえ」
 訝し気に問うと、「目が」と言ってまたパチパチとやりだす。
「あーおまえ前髪伸ばし過ぎなんだよ。そんなんじゃボールだって見え難いだろうによ」
「切ってもらい忘れた」
「ナニ、おまえまだ親に切ってもらってんの?」
 冗談のつもりで言うと、切れ長の一重が睨みつけてきた。
「マジかよ」
「美容院とか苦手」
「あー」
 さもありなん。こいつが美容院の席に座ってケープを巻いて雑誌を読んでるところとか想像できねぇ。
「理容室に行きゃいーじゃん」
と笑うと、
「寝ると怒られる」
とぶすったくれた顔と声が戻ってきた。
 そりゃカミソリやら鋏やら持っていたら危ないだろう。
「俺が切ってやろうか」
 どうしてそんなことを言ったのか。
 気づいた時には口から出ていて、三井は言った自分に自分で驚いた。
「いいの?」
 返ってきた流川の言葉にも驚いて、そして今三井は鋏を握っているのだった。
 シャキっと独特の音と感触を鋏が手の中に伝えてきて、パラパラと細かい毛がまたビニールをつたい落ちていく。三井は一歩下がって流川の頭の形を眺めた。ちまちまと切っていけば素人でもなんとかなるもんだ。ちょっと面白くなってきて、三井は無言で髪の毛に鋏を入れ続けた。こうしていれば自分の部屋に他人のいる違和感も、満ちる沈黙も気にならない。
 一通り鋏を入れた気がして、三井はまた一歩下がって流川の頭を後ろから眺めた。
 この頭の中には一体どんな回路が詰まっていて突然自分を訪ねて来たり髪を切らせたりしているのだろう。
 試合中は驚くほどに流川の考えが伝わってきたのに今はさっぱり読めなかった。
 ふっと息を吐き、量の多い漆黒の髪の毛を眺めているとまた感触を確かめたくなって、三井は手を伸ばしてサラサラと髪の毛を梳き上げた。
「インハイ予選は順調」
「ん、そっか」
「決勝リーグ観に来るんすか?」
「んーどうだろ。大学の練習は休めねーからな。空いてりゃ行きてーけどな。安西先生にも挨拶したいし」
「来ればいい」
「そう簡単に言うなよ」
 人の都合を考えない物言いに呆れながら前髪を人差し指と中指で梳いた。顔を上げると鏡の中の流川のまっすぐな目が三井を見ていて、その強い視線に少したじろぎ、それから誤魔化すように勢いよく肩を叩いた。
「よし、こんなもんだろう!」
 流川は自分の指を上げて前髪にちょいちょいと触れた。
「ありがとうございます」
 常にないハッキリとした滑舌で礼を言われて三井は目を瞬いた。
「お、おう。なかなかのもんだろ?」
「また来ていいっすか?」
 髪の毛切らせにか?
 茶化すような言葉が浮かんだが、それは口にせずに、「俺がヒマだったらな」と三井は返していた。



 そして今日もまた鋏を握っている。
 あれから一か月。人間の髪の毛は一か月に1cm伸びるそうだが、目の前の瞼をシパシパと瞬いている流川の前髪はそれ以上に伸びているように見えた。
 目の前の流川は眠そうだった。それがとうとうコクリコクリと船を漕ぎ始める。
「あぶねぇ、起きろ! ったくおまえさー、ただで先輩に髪の毛切らせてんのにその態度ねーだろ」
「…ポカリ持ってきた」
「それは手土産というものであって…あ、そういやおまえこの間忘れモンしたろ」
 三井は机の上に置いておいたスポーツショップの紙袋を顎で示した。一か月前に流川が帰った後に部屋の隅に残されていたものだった。気づかずに、あ、と思った時には蹴飛ばしていた。感触からしてTシャツかタオルか。流川がアパートの部屋を出てから大分経っていたし、入用なものであれば連絡が来るだろうとそのままにしておいたのだった。
「それは先輩の」
「ハ? いやおまえが持ってきたもんだろう」
「この間、センパイの誕生日だった」
 知っていたのか、と三井は驚いて鋏を持つ手を止めた。
 一緒に祝う彼女はいない。かと言って一日の休みではわざわざ実家に戻るのも面倒。
 多少の侘しさは感じながら体力の回復にでも努めようと思っていたところに流川からの連絡があり、それもあって強く断らなかったのかもしれない。
「まさか…プレゼント…?」
「まぁそんなもん?…っす」
 三井は目の前の頭を凝視した。ますます形ばっかりいいこの中に何が詰まっているのかわからない。
「おまえ、そーいうことは早く言えよ」
 紙袋を置いた机へと足を向け、手に取って留めてあった店名の印刷されたテープを剥がして中の物を掴んで引き出した。
 予想した通りのスポーツタオル。故意かどうなのか高校の時に使っていた自分の持っているものと色違いだ。
「あー…。その、ありがとな」
「っす」
 礼を言うと、鏡の中の表情が少しだけ柔らかく崩れたような気がした。
「だからっておまえ俺に髪の毛切らせてる最中に寝るなんざ、」
「今度は俺がセンパイの髪の毛を切るっす」
「はぁぁ?!」
 驚いて大きく声が出たものの、流川なりに考えた結果の申し出かと思うとおかしくなって、三井は驚いた顔を崩して今度は笑い始めた。それを鏡の中の流川が不満げに口を引き結んで睨んでくる。
 止まらなくなって腹を抱えて三井は笑い始めた。大学入学後また一から始めるつもりで入部し、下っ端から日々上を目指すハードな練習の中、思うように伸びない自分への鬱憤が知らず溜っていたのかもしれない。体育会に入っていると一般の学生との接点も少なくなり憂さを晴らすような遊びもできない。
 じりじりと腹の底をこがすような焦りを抱えた中で久しぶりに心の底から大笑いして、体に入っていた力が抜けたように感じた。笑い止むと、目の前の不貞腐れて不機嫌そうな後輩が可愛くすら見えた。
「…ハー笑った。こんな床屋でよければまた来いよ」
 笑い過ぎて目に溜った涙を指で拭っていると、流川が振り返って見上げているのに三井は気付いた。その目が滅多に見ない驚きで見開かれている。
「ホント?」
「あーでもこっちの都合もあんだからな。ちゃんと連絡入れろよ?」
「わかった」
 敬語を使わない後輩。文句を言うのももう面倒で、それでもやっぱり俺に懐いてる。
 三井は機嫌よく鋏に手を伸ばし、もう片方の手で乱暴に流川の顔を鏡に向けさせ直した。



「三井先輩!」
 アリーナから外に出たところで名を呼ばれて振り返ると、知らない男が三井に走り寄ってきた。先輩というからには湘北の人間…と眉を寄せて、それから三井は先刻の試合を思い出した。スポーツグラスから普通の眼鏡に掛け替えていたからまた気づかなかった。が、実はそのスポーツグラスをかけていた試合中もなかなか気づけなかった。気づけなかった理由はそれだけではない。近づくとわかるこの身長。やっぱり自分と視線の位置がほぼ同じように感じられる。
「石井…だよな?」
「お久しぶりです! 観客席にいらっしゃるのに気が付いてみんなで慌てて探して。捕まえられてよかった~」
「おお、わるかったな。時間がなくてよ」
 背の高さが追い付かれている…ような気がする。髪の毛も伸びていてそれで印象が大分変った。
「髪…伸びたな」
「あ、ちょっと伸ばしてみました」
 自分の身長の伸びは残念ながらもうストップしているようなのに。
 もう少しで追いつかれそうな身長を話題に出すのがなんとなくつまらなくて三井は自分の頭を指さすと、照れ臭そうに石井は額を今は半ばまで隠している髪に手をやった。
「プレイも見違えたぜ。ディフェンスすごかったな! 順当に勝ち進んでんな。おめでとう!」
「あざっス!」
 本当に石井だけでなく一年だった彼らの成長ぶりは目を瞠るものがあった。興奮のままに話していると目の前の石井ではなく後ろから低い声が聞こえてきて、三井は驚いて振り返った。肩で息をしている流川がそこに立っていて、なぜか怒ったような顔で三井を睨みつけていた。
「今日…来るって聞いてねぇ」
「そりゃ言ってねぇからな。急に休講になったからよ。ちっとでも観れっかなーって、おい!」
 話しの途中で流川に腕を取られ、ズルズルと石井から距離を取った建物の外壁ギリギリにまで連れていかれた。文句を言う前に流川に真剣な顔で覗き込まれて、三井は思わず後ずさって壁に背をつけた。
「石井の髪の毛切るんスか?」
「はぁ?!」
「切らないで」
「切らねーよ! ナニ言ってんだ!」
 力づくで引っ張られて話していた石井と距離を取られて、三井は半分キレながら頭を疑問符でいっぱいにする。
「今髪の毛伸びたって言ってた」
「そりゃ会話の流れで」
「また俺の髪の毛伸びた」
 いつにも増して会話が噛み合わない。目の前でわざとらしく前髪を引っ張る流川に、三井の眉が下がった。
「あー…そうな」
「見えにくい」
 なんと答えたものか。
 三井は腕を組みデカい子供のような男を睨み上げた。
「お取込み中失礼します」
「うおっ!? 宮城!」
 いきなり声をかけられてまた三井は飛び上がって驚いた。別にただの後輩と話しているのだからここまで驚かなくてもいいだろうと自分に腹が立って、誤魔化すように乱暴に振り返ると湘北の現キャプテンが立っていた。
「どーも三井サン。ここまで来てんのに安西先生に挨拶してかないの?」
「大学抜けてきてんだよ。午後から練習で時間なくってよ。中途半端なのも申し訳ないからまた今度…んだよ!」
 宮城と向き合って話している間も流川が三井の肩を叩いてくる。もの言いたげに前髪を引っ張りつつ。
「わあったよ! 切ってやるからまた来ればいいだろ! 今度の日曜なら空いてるからよ」
 聞くと流川は「わかった」と頷き、満足したように背を向けて去って行った。
「…しかしねぇ」
 それを見送りながら宮城が首を振りつつ口を開く。
「なんだよ?」
「まさか三井さんが受け入れるとは思ってなかった」
「ヘ? ナニを?」
「流川」
「ハ? 受け入れる?」
「付き合ってんでしょ?」
「はぁぁあ?!」
 三井は驚き過ぎて高く裏返った声が出た。
「あ、ちがうの」
「どーしてそういうことになんだよ! 後輩だろ?! 別に髪ぐらい」
 切らないか、普通。
 ぐっと詰まったところに、「や、まさかとは思ったけど」と宮城が笑いながら手を振った。
「あんまり流川がボーッとしてること多いからさ。あんたの誕生日教えてやったの。行けば?って」
「おまえか」
 いきなり流川が誕生日にプレゼント持ってくる。異世界が過ぎる。
「余計なことしてんじゃねぇよ」
「だってさ、やっぱ見てられなかったんっすよ」
「ナニを」
「ほらね」
 会話にならなくて三井は眉に盛大に皺を寄せて宮城を睨みつけた。
「んな顔で見られてもね。あんた鈍感過ぎ」
 鈍感。ナニに対して鈍感というんだ。
「あんた以外はみんな気づいてましたよ」
 だからナニを。
 言いかけて、でもそれがわかってしまうと三井は今までの出来事が全て腑に落ちていくような気がして、動きを止めた。



 鏡の中の流川にいつもと変わった様子は見られない。宮城の勘ぐりじゃあないのか。
 三井は大分慣れてきた手付きで鋏を操りながら目の前の髪の毛に集中する。なのにどこか意識せざるを得ないのはやっぱり宮城のせいなのだ。
 まさか、という気持ちと、そうだったのかと納得してしまう気持ちが二つ、三井の中に交互にやってくる。
 自分はあれから一週間、落ち着かない日々を過ごしているというのに目の前のこの男は暢気そうに全く変わらず、それがまた三井には苛立たしい。
 いっそ問い質してやろうか、と思う。そしたらこの男はなんと答えるのだろう。取り澄ました顔を崩して慌てる?興味なさげに冷たい視線を寄越す?
「おまえさ、」
 気づいた時には三井は口を開いていた。流川は眠そうな瞼を持ち上げて鏡越しに三井と目が合った。
「なに?」
「なんでここ来んの?」
 やっぱりいきなり核心をつくことは三井にはできなかった。宮城の勘違いのせいで自意識過剰に思われるのもごめんだった。
「髪の毛切って欲しいからだけじゃないよな?」
 髪を切るのだったら今まで通り親にでもやってもらえばいいことだろう。
「迷惑?」
 欲しい答えではなく、逆に流川に聞かれて三井は言葉に詰まった。
 迷惑なら来ないということなのか? それだったらハッキリ迷惑だと言ってやればいい。
 そう思いながら、「ちゃんと答えろよ」と三井は言い返していた。
「わかんねーから」
「ハ?」
「試合中はあんたと意志が通じてた。何も言わなくても」
 俺も同じだ。
 思わず浮かんだ言葉を三井は飲み込んだ。
「でも今はわかんねぇ。けどバスケやってるとあんたのこと思い出す。あんたのことばっか考える。だからあんたの顔見て確認したかった」
「ふん、…で、確認できたのかよ」
 逃げ場がないところに自分を追い込んでいるな、とは思いつつ、この男が本当に何を考えているのか知りたい方が先に立った。
「俺、ホモかもしんねぇ」
「は?」
「あんたが迷惑ならもう来ねぇ」
 そう来たか。
 判断を委ねられて三井は言葉に詰まった。
 さっさと「もう来んじゃねぇ」って言えばいい。
 そう思いながら、三井はその一言がいえずに唇を噛んだ。
「…迷惑じゃねぇけどよ」
 結局唇から押し出せたのは、そんな曖昧な言葉だった。


「でもさ、それってスキとかなんとか言われてないわけだよね」
 その通り。
 何度も悩んで眠れない夜を過ごして三井が助けを求めたのは、一連の流れを作った張本人の宮城だった。日付を越えるか越えないかの時間帯に電話した三井に迷惑なヤツだな!と大声を上げ、それでも眠そうな声で付き合ってくれた。多分に興味もあるに違いない。いや、絶対あるはずだ。と三井は睨む。
 確かに流川から「付き合ってくれ」とも言われたわけじゃない。が、次に流川が来た時に自分はどんな態度で接すればいいのかわからない。自分にわからないのだから、流川にわかっているハズもない。そんな中で二人きりで自室で流川の髪の毛を切るなんてそんな息苦しい状況はまっぴらだ、と一気に言い募ると宮城は一拍置いて「それって」と尚も喋ろうとした三井の声を遮った。
「ヤツの髪の毛切ってやんなきゃいけないんっスか?」
「へ?」
「外で会えば?」
「…あ」
 そっか。
 解決策は簡単だった。三井は10年来の懸案を片付けた思いで一応は礼を言って電話を切ろうとすると、宮城が嫌がらせのように口を開いた。
「初デートっスね。がんばって」



 デート。デートなのかやはり。
 三井は赤になった横断歩道前で立ち止まり、少し前に気づいた待ち合わせ場所に立つ流川を眺めた。周囲より頭一つ高い長身に、白いTシャツとジーンズ。それだけなのに本当に目立つ。
 流川の前に女の子が二人立ち止まった。ついさっきもしつこく纏わりつく女の子を流川は追い払ったばかりだった。
 またすぐに追い払うんだろう? そう思って見ていると、流川はその女の子達と話し込み始めた。
 どういうことだ? 今度の女の子は二人連れだから、自分が来ればちょうどいいと思ったとか? いや、流川に限ってそれはないだろう。そもそもデートなのではないのか? いや、デートなのかやっぱり?
 自問自答を繰り返していると、青に変わっていた信号がまた赤になってしまった。
「…みっちゃん?」
 隣に並んだ人間に呼びかけられて顔を向けると、懐かしいごつい顔がくしゃくしゃに笑い崩れた。
「やっぱりみっちゃんだ! ひさしぶり!」
「徳男!」
 学ランではないことを覗けば髪型まで高校時代のままで、久しぶりに会う変わらない友人の姿に三井の顔も盛大に綻ぶ。
「なんだよ! ひさしぶりだな」
「ひさしぶりだなぁ。みっちゃん、こっちに戻ってきてたの?」
「あ、いや今日は…」
 突然鳴った大音響のクラクションに驚いて三井は道路へ顔を振り向けた。そこには赤信号を堂々と無視して走ってくる後輩の姿があった。なぜだかいつもは無表情な顔が怒っているように、さらに目が釣り上がっている。
「おい! 流川あぶねぇだろ!」
 無事渡り切った後輩に怒鳴りつけるが、流川はそれには答えずに黙って三井の腕を取った。急に引っ張られて、三井はバランスを崩して肩から流川の体にぶつかった。
「おい!」
「先輩、俺と約束してた」
「あぁ?!」
 向き直った流川の目が徳男を睨みつけていて、三井はなんとなく理解して「あー」と唸った。
「ここで偶然会ったんだよ。あー悪いな、徳男、また今度な」
 このまま3人で立ち止まっていると更に面倒なことになりそうで、三井は徳男に片手を上げて謝った。
「うん、またゆっくり話そうよ。大学がんばってな」
「おう、またな」
 徳男は徳男で何かを感じ取ったのか、事情があることは察してくれたらしく笑って引いてくれた。それに申し訳ないと思いつつも三井は逆に流川の腕を掴んで歩き始めた。
「おまえだってさ、さっきの女の子」
「…女?」
「待ち合わせ場所で絡まれてただろ。逆ナンだろ?」
「いいカフェ知ってるっていうから場所聞いた。先輩行きたいのかなと思って。俺そういうの知らないから」
「あー…」
 見れば横断歩道の向こうにその女の子達はまだいて、三井が見ていることに気づくとこちらに手を振ってきた。そこで待ち合わせするとか彼女達は勘違いしてんじゃねぇのかなー、と三井は思う。
 まあ関係ねーからいいんだけど。しかしコイツがカフェ?
 隣に並んで歩く流川を見上げた。
「…おまえ行きてぇの?」
「別に」
 横断歩道を渡ろうとせず通り過ぎようとする三井と流川に、通りの反対側から女の子達が何かを叫んでいる。
 ハハッ!と三井は思わず体を折って笑った。
「じゃあいーじゃんそんなの。やっぱさ、バスケしようぜバスケ」
 とりあえず自分のアパート以外で会う。それだけは決めて、行き先については数日悩んだ挙句結局そのままだった。
 映画? 買い物? どれも流川と自分が一緒に行くにはしっくりこなかったから。
 結局流川は乗ってきた電車にまた乗って家に一度戻りボールを取って来てから、休日によく通っているという公園に三井は案内された。天気のいい日曜のもう日が高い時間で、やっぱり先客はいて、二人は待ちの体勢で石造りのひんやりとしたベンチに並んで腰掛けた。
 ボーッとどこかの小学生らしい子供たちがなかなかうまいゲームをしているのを見るともなしに見ていると、流川が口を開いた。
「よく学校で『付き合って』って言われる」
「あーそうだろーなー」
 そんなこた知ってる。俺でなくとも湘北に通っている生徒であればみんな知っているだろう。親衛隊まであるこの男がどれだけモテるのかということを。
 小学生たちのゲームは白熱していてなかなか終わりそうもない。昼メシぐらいは腹に入れてきてもよかったかもしれない。
 そう考える三井の隣で流川はボソボソと珍しく自分から話しを続ける。
「顔も知らない話したことないやつからも言われる。だからその意味がよくわからない。先輩とはずっとバスケしてたいし」
 意外に考えてんだな、こいつ。
 思わず流川の顔を見たところで、足に何か当たって三井は下を見降ろした。バスケットボールが転がってきていて拾い上げると、「すみませーん」と走り寄ってきた小学生が頭を下げた。
 三井は立ち上がり、ボールを手にゴールポストまでを目測した。フリースローラインよりは遠いがセンターラインよりは近いところまで歩み寄って膝を軽く撓ませて構えると、シュートを放った。ボールはきれいに放物線を描いて、古びて汚れた、ネットの切れたゴールに吸い込まれていった。
「スゲーッ!!」
「あんな遠くから!」
 口々に素直に驚いた顔を見せる小学生たちに三井は自慢げに胸を張ってみせる。
「おし、ビビってんな。もう一発。おい、流川、おまえダンクかましてこい」
「…大人げない…」
「うるせー! 早く行ってこい!」
 流川はやれやれ、と呟いてそれでも腰を上げ、三井が放ったボールを拾っていた小学生に向かうと、その子供は自らボールをおそるおそる流川に投げて渡してきた。流川はボールを受け取るとその場で試すようにバウンドさせ、そこからドリブルで一気に子供たちの間を駆け抜けてポストに向かって高く跳ね上がった。逆光で、ボールを片手で握って振り上げた流川の姿が見えなくなる。三井が目を細めるとガンッという音に続いて、また子供たちの歓声が自分のシュートの時以上に高く響いてきた。
「すげー! すげーっ!!」
「初めて見た! ダンクやべーっ!」
「だろー?!」
 三井はニヤニヤ笑いながら子供たちと流川のいるコートに近づいていった。
「こいつはNBAに行く男だからな」
「マジか!」
「マイケル・ジョーダンみたい!」
「もっとすげぇぞ? 覚えとけよ?」
 三井の幼稚な目論見通りに小学生たちは尊敬のまなざしを二人に向けつつコートを譲ってくれた。満足気に手の中で流川の持ってきたボールを回しつつ、後からついてきた後輩を振り返る。
「よし、俺先攻な。5本先取」
 言葉が終わらないうちに三井がボールをバウンドさせ流川の脇を抜けると、不意を突かれた流川の舌打ちが聞こえた。ほくそ笑んで、まず1本、とクイックモーションでリリースすると、後ろから伸びてきた長い腕に叩かれたボールがスパイクを受けたように地面に叩きつけられた。黙ってボールを拾いに行く広い背中を三井は睨みつける。
 ちょっと前までヒョロヒョロしてやがったクセに。
 身長もだが、横もまた大きくなったような気がする。
 切り換えて三井はラインの外に立った流川の前に両腕を広げて腰を落とした。目の前の流川がポストを見つめ深く息を吐く。長い睫毛の影が落ちた、と見る間に流川はすでに三井の左を抜けていた。
「くそっ!」
 読んで反対側に体を回転させると流川の正面に出た。少し目を見開いたような顔に小気味いい思いをしたのもつかの間、すぐに体を入れ替えられて気づいた時には流川はポストの下だった。
「はい、どうぞ」
 当然のように決めて、澄ました顔で流川が差し出したボールを三井はひったくった。あの時の自分の不意打ちの3Pを警戒しているのか、片手は上に伸ばして距離が近い。
 負けず嫌い。
 そんなところは嫌いじゃなかった。そいつが俺を好きだって?
 右手でバウンドさせていたボールを、自分の身体の背後から左手に持ち替えた。右肩を突き出して姿勢を低く左手のバウンドを庇いながら、伸ばされた腕を避けて2回連続でターンステップを踏む。一度フェイクを入れると背後からジャンプをした影が見えた。その体が落ちる前にジャンプしてリリース。気持ちよく決まって三井は歯を見せて笑った。
「おし、同点」
「先輩、先攻だし」
「うるせ!」
 視線のフェイクにも小手先の技にも動じない。身体だけでなく確実に実力も一年前を上回っていて、ああ、こいつは本物なんだな、と寂しい思いが胸を横切り、一年前のあの夏が本当に貴重な記憶なのだと三井に実感させた。
 あっという間に5本先に取られて、「あと5本!」と三井の口が勝手に叫ぶ。振り返った流川が歯を見せて笑う。
 なんだ、そんな顔もできんじゃん。
 三井がエリア内からステップバックすると流川が腕を伸ばしてシュートコースを塞いだ。その下をかいくぐって尚も伸びてくる腕を避けてフックシュートを決めた。
「猪口才な」
「マジック三井と呼んでくれ」
 大学に入ってから高身長の選手相手に練習を重ねた。ベビーフックならモーションも小さくてコントロールしやすい。悔し気な顔にボールを投げ渡して、流川の前に三井は四肢を伸ばして立ちはだかった。それまでのようにバウンドから始めず、いきなり流川はエリアに切り込んだ。遅れず貼りつきシュートコースの前に出ようと体がぶつかる。目が合って三井は、こいつとずっと一緒にバスケをしたいと素直に思った。すぐに流川の体が後ろに飛び同時に高い打点からシュートが放たれた。
 転がっていったボールを拾い、そのままポストの下に三井は転がった。真下からリングを見上げたことはなかった。輪っかの後ろに雲の浮かんだ青空が広がっている。空気が鳴って、深く息をすると飛んでいけそうな気がした。
 しばらく眺めているとそこにスポーツ飲料の缶が浮かんだ。手を伸ばすと冷たい缶が自分の手のひらに渡されて、すぐ横に流川が腰を降ろした。カシッとプルトップを開ける音に隣を見上げると流川の喉仏が動いていて、三井はゴールの中の青空に視線を戻した。
「なあ、流川」
「なんっスか?」
「俺と付き合ってくれよ」
 ずっと一緒にバスケがしたい。
 自分達が同じことを思っているということは結局そういうことなんだよな、と三井の中で得心がいった。
 返事がなかった。三井が顔を向けると流川は飲みかけた缶を握り締めたまま、三井を凝視していた。目が合い、「意味わかるか?」と聞くと、流川は口元を反対の腕で乱暴に拭った。
「…いっすよ」
 ぶっきらぼうな声に三井の顔が悪戯に笑う。
「…先輩」
「んだよ」
「好きです」
「知ってるよ、そんなの」 
 悔しそうな顔が自分を睨み、とうとう三井は声を上げて笑った。




end

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