better late than never




 郵便受けを覗くとビニール袋に包まれた新聞と封書が何通か、それにチラシが数枚、押し込まれてあった。全部まとめて取り出し、来たときのままホールに止まっていたエレベーターに乗り、階数ボタンを押してから、上昇する箱の中で三井は封書を自分宛と同居人宛に仕分けた。
 転送シールが貼られた封書を見て、ここにも転居届を出し忘れていたな、と部屋に戻ってからやることのリストに追加する。他の自分宛の封書をチェックしながら玄関のドアを開くと、真っすぐリビングまで伸びる長い廊下の手前の部屋から、のっそり出てきた寝ぐせだらけの流川と行き会った。
「…朝からどこへ」
「新聞取りに行ってたんだよ。おまえ宛の郵便物、テーブルの上に置いとくぞ」
「…しんぶん…?」
 まだ寝ぼけているのか、流川は頭で理解できていないかのような単語を呟くと、Tシャツの中に手をつっこんで腹をかきながらバスルームの方にそのままのそのそと歩いていった。
 その広い背を見送りながら、この朝のやり取りが当たり前のように自然だと感じてそのことがどこかこそばゆくて、三井は微笑みそうになる顔に力をいれて頬を歪ませた。
 リビングに入り、続きのダイニングに置かれている木目の目立つ大きな無垢材のテーブルの上にひとまず仕分けた郵便物を置く。椅子を片側に3脚並べて置いてもなお余裕のある、一人暮らしだった流川には大きすぎるダイニングテーブルで、その事を何度かからかったものだが、キッチンと反対側の窓寄りの端には今は三井のPCが置かれてあり、勉強に使わせてもらうには最適で、見た目のごつさとともに密かに三井のお気に入りになっている。
 新聞を包んでいた薄いビニール袋を破ろうとしてそこに水滴がついていたことに気づき、窓の外に目をやると夜半からの雨はまだ止むことがなく続いているようだった。久しぶりに重なった休みだったから、流川とどこかに出かけようかと話していたが、なんとなくその気が失せていくような雨足だった。
 キッチンに回ってゴミを捨て、手を洗ってこれまたデカい業務用のような冷蔵庫の中を覗き込む。昨夜食べ残したピザやらサラダやら惣菜を取り出し、ピザは電子レンジに突っ込んで、コーヒーメーカーをセットする。
 香ばしい匂いが立ち上ってきたところで、さきほどよりは余程人間らしくなってきた体で流川がリビングに入ってきた。
 匂いにつられるように鼻から先にダイニングにやってきて、皿を並べている三井に背後から抱きつく。
「いい匂い」
「動けねぇよ。座れって」
「雨の匂い」
「そっちかよ」
「センパイから雨の匂いがする」
 三井自身は外に出て雨に打たれてはいないから、ドアの開閉と郵便物についてきた外の空気を感じているのだろう。まるっきり大きな犬のような男の頭に手をやって撫でまわす。シャワーを浴びた濡れっぱなしの髪の毛で、流川の方が雨に打たれてきたようだった。
「腹空いてんだろ」
「うん…」
 返事はしたが三井の体の前に回った腕は解かれずに、却って体重を預けるように流川の体が密着してくる。背中がじんわり熱くなって、それ以上何かを感じる前に三井は腹の前の腕をタップした。
「外、行くんだろ?」
「うん…」
 名残惜しそうに腕が解かれて、駄賃をもらうように三井の耳を流川の唇が掠めていく。随分と大人な真似ができるようになったもんだと、ざわめきだす心を抑えて三井は思った。
 テーブルについたらついたで、流川は不意に自分の空腹状態を認識したようで、並べられた結構な量の皿の上の惣菜を次から次に空にしていく。それは相変わらず見ていて気持ちのいいもので、三井は自分の前に置いた朝食を忘れてしばらくその様子を眺めた。
「食わねーの?」
「おまえ見てると腹いっぱいになるんだよ」
 食いっぷりに見とれていましたとも言えずに、憎まれ口をきいてコーヒーを口にし、新聞を手に取る。
 新聞は流川は購読していなかったもので、三井が同居にあたって手配した。選手時代にはニュース等はテレビやネットで見て済ませていたが、院に通いはじめて会話する人間が多岐に渡ると、己の世間一般の知識の狭さ浅さが身に染みて、遅まきながら手を出してみたというところだった。大学は卒業できたとはいうものの、バスケ漬けの半生では知らない世界が多くあり過ぎた。
 気が付くと今度は流川が自分を眺めていた。テーブルの上の惣菜はいつのまにかきれいに食べ尽くされている。
「なんだ、足りねーか?」
 流川は自分のように照れて誤魔化したりはしない。こっちが気恥ずかしくなるぐらいの視線を寄越しながら「腹はいっぱい」と頷いた。
「そっか」
 こたえて、忘れられていたまた冷めかけてしまったピザに片手を伸ばし齧りながら窓の外に目をやる。
「やみそうにねぇな」
「外、出かけなくてもいい」
「…そうだな」
 雨の音を聞きながらコーヒーを飲んでいると、傍に流川がいればそれでいいような気がしてくる。静かだけれど気が詰まることはなくて、ゆっくりと時間が流れていくのを感じているのは悪くない。昔は静寂が苦手で、相手が流川であれば余計に自分が喋り続けなくてはいけないような、強迫観念じみたものを感じたものだけれど。
「贅沢だな」
 思わず漏れた一言に、流川が問うように首をかしげる。それを説明できる言葉はもとより持ち合わせてはいなかったので、テーブルの上に投げ出されていた流川の手を軽く叩いて、三井は席を立った。
 空いた皿を重ねて持てるだけをキッチンに運び、「あとはおまえ持ってこいよ」と声をかける。シンクの隣の大きな引き出し式の食洗器に並べていると、流川が残りの皿を持って入ってきた。
 広さと天井の高さと窓のデカさが気に入って買ったというマンションは決して築浅ではなく、新築のマンションにないような間取りは、どちらかというと何度か行ったことのある流川のアメリカの家を思い起こさせた。部屋の見た目のセンスだけでなく、実際に使って実感できる動線や勝手の良さは考え抜かれて設計されたものだとわかる。無骨なようにも見える大きな冷蔵庫も食洗器も日本では見たことのないメーカーのもので収納力も段違いによく、リノベーションにあたり設計から照明、家具家電に至るまですべてのプランを練った流川の姉は、インテリアコーディネーターとして卓越した腕の持ち主だと使う度に三井は感心した。
 その事を以前口にした時、「センパイと一緒に住むのに困ることがないように、とだけ伝えた」と頭を抱えたくなるような答えが戻ってきた。が、アメリカから帰ってきて自分の住む家を探す際に、すでに自分と一緒に住むという選択肢は流川のなかでは決定事項としてあったのだと面映ゆく感じたのも確かだった。
 居心地がいいのは、よく知る大切な人間のために考え抜かれて用意されたものだからかもしれない。
「もう一杯」と所望されて二人分のマグカップをリビングに持っていくと、ソファの背もたれに預けられていた頭はすでに船を漕いでいた。
 三井は小さく笑ってマグをセンターテーブルに置き、その横に座った。と思うと、すぐに横から腕が伸びてきて、またしても腹の前に回され、三井の背中は流川の胸の中に収まった。
 視界が正面の大型テレビから流川気に入りの大きな窓に向かう。そこに打ち付ける雨を見ながら、今日は雨が降ってよかったな、と思う。
 規則正しい鼓動を背中に聞きながら、三井もゆっくりと目を閉じた。




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