波の端居




 いきなりブレーキをかけられて肩に勢いよく頭をぶつけた。そこまでの反動はなかったけれども、走っていた道路に自転車を止めなければならない障害は三井には何も確認できなかったので、半分わざと強めに頭突きした。洗濯物の香りと汗の匂い。息苦しくなって顔を離すともう9月も近いぬるい風が運ぶ潮の匂い。
 額に残る熱は三井の脳にまで届いているのに、流川は涼し気な声で「ここで休憩」と告げるとさっさと自分は自転車を降りようとしていて、ぐらつく荷台から三井は渋々と腰を上げた。
「んだよ。もうヘバったのかよ」
 ワンオンワン中にそんなことを言えばすぐにムッとしていつまでも挑んでくるクセに、今は何も言わずに自転車をさっさと防波堤に寄せて、ガタガタと軋む音をさせつつスタンドを立てている。その首筋に流れた汗を見て、三井は背負っていたスポーツバッグからペットボトルを取り出して流川の頭を小突いた。スポーツドリンクは部活が終わって飲み切っていたので、中味は詰め直したただのぬるい水道水だ。流川は自分の頭の上に手を伸ばしてボトルを受け取り、キャップを開けて一息に半分まで飲んで、唇から一筋顎に流れた水を腕で擦った。ボトルは返されずに、防波堤の上に置かれ、その横に流川は腰を降ろして寝っ転がった。
 仕方ない。チャリの動力が復活するまでだ、と三井もその隣に腰を降ろして、でもなんとなく顔は流川とは逆に海へ向けた。
 ようやく暮れ始めた空はそれでも確かに日に日に昼が短くなっていて、自分達の間を吹き抜けていく風にも少し前のあの耐えがたい暑さは感じられなかった。30分ほど前までいた体育館内は相変わらずのサウナ状態だったが、今はシャツをはためかせて吹き抜けていく風が気持ちいい。
 不意に背中にドンと重いものが当てられて、仕返しか?と思ったそれは、待っていても離れていく気配をみせなかった。じわじわとそこから熱が伝わって、体の中でそこだけが熱い。なんでか息までしづらいように感じて、三井は口を薄く開いた。聞きなれた潮騒のなかに大気が鳴る音が聞こえる。その中に聞こえないはずの自身の鼓動まで聞こえてくるようだ。

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 夏の終わりはいつもなんとなく残念だ。言葉にすれば陳腐で、人に話せば笑われそうで、でも何かし忘れたように感じられて落ち着かない。毎年感じられていたそれに今年はこの苦しさまで増えて、三井は観念したように目を閉じて、それから開いた。
「おまえさー、さっきのアレだけど」
 背中の熱が動いた。
「アレ・・って?」
「駐輪場でおまえが言ってきたヤツー」
 インターハイが終わり、夏休み期間の練習がまた始まると、三井は流川の自転車に乗って駅まで送られるようになった。初めはふざけて荷台に跨り、「駅まで送れ」と命令したのに、流川が意外にも素直に言うことを聞いて、それからは二人の習慣と化していた。今日は正門で一人待ってるのもヒマに思えて、流川のあとについてフラフラと駐輪場にまで行ったのだった。
 そこで流川は「俺はアメリカ行くっす」と突然三井に告げた。これについては、こいつならいつかそんなこともあるのかなぁぐらいには考えていたし、アメリカに行くということはイコールNBAを目指すということであるのだろうし、他の人間から聞いたのなら笑うか、らしくない説教でもしてやるかだろうが、しかし相手は流川だった。
「そっか」
 どう答えていいかもわからなくて、それだけ口の中で呟くと、流川の自転車の荷台にさっさと三井は跨った。が、流川は自転車を動かそうとはしなかった。手にした自転車の鍵を弄んでいた手を止めて、「それで」と珍しく口ごもるような様子を見せた。三井もそんないつにない流川に戸惑い、乗った荷台から立つことも出来ずに、肩にかけていたスポーツバッグを背中に背負い直してみたり、意味なく自転車のハンドルに両腕を伸ばしてブレーキを握ってみたりした。それでも流川は口を開かず、三井はいよいよすることがなくなって仕方なく、「なんだよ?」と問い返した。
「俺はずっとあんたといたい」
 三井は握ったままだったブレーキから手を離した。流川はそれを待っていたかのように、今まで三井がブレーキ毎握っていたハンドルをようやく握り、スタンドを勢いよく蹴倒して自転車に跨った。ギッギッと苦し気な音をたてていた自転車が速度に乗り、軽快に走り始めても、二人は口を開かずに黙っていた。

「俺は…おまえを待ってりゃいいの?」
 言ってしまってから三井はうるさく音をたてる自分の鼓動を自覚した。背中の熱が離れていく。
「待つ…」
 考えるように流川は声に出して、それから体勢を変えて三井と並んで海に顔を向けて座り直した。勢いよく足を振り下ろした流川に驚いて、防波堤からフナ虫が逃げていく。
「…そういうことじゃねーのかよ」
 口を尖らせてやっとそれだけ言うと、自分の顔を覗き込んできていた流川に三井は気が付いた。真っすぐに、問うように視線を投げてくる。
 説明なんかしてやれない。そんな余裕なんかない。
 三井は流川に顔を寄せた。流川の顔も近づいて、お互いの息をお互いの頬に感じた。真っ直ぐな視線はぶれない。三井は至近距離から流川の唇に視線を落とした。肩を揺らせばもう触れる近さで、それが逆に躊躇いを生む。
 風に揺れた流川の前髪が額を擽り、自分の睫毛が流川の頬に触れた。鼻が相手の上唇に掠り、上がった流川の息を感じて、それから三井は唇で流川のそれに触れた。少し開いていた唇が小さく動いて、三井はすぐに離れた。その後を追うように押しつけるように流川の唇が三井の唇を塞いだ。ついさっきペットボトルにつけられていた唇がたどたどしく動き、肩が三井に当たって、防波堤についていた手が離れた。三井は流川の肩にその手をついて体を押し返すように離した。吹いてきた海風で伸ばしっぱなしの前髪が流川の顔に散る。鬱陶しそうに振られた顔と、目が合う前に三井は顔をまた海へと向けた。
「いつ行くの」
「え?」
「アメリカー」
「…日本一になったら」
 もう日本一を倒したじゃん。
 ってことは日本一なんじゃねーの、俺達。
 後押ししたい気持ちも本当で、でも思いついたことを言えば明日にでもこの後輩は海を渡って自分の知らない世界へ飛び出して行ってしまいそうで、今は三井は口にすることができなかった。
「あんたは待つことない。あんたの好きな道を行って。でも俺から離れないで」
「…ハハッ! まずどこ行くか俺も決めねーとな!」
 三井は手をついて立ち上がり、両腕を茜で濃く染まってきた空に突き出して伸びをした。唇が熱を持ったように痺れていて、置きっぱなしのぬるいペットボトルの水でも欲しくて、でも何にも触れさせたくない。
 振り返ると眩しそうに目を細めた流川が自分を見上げていた。手を伸ばすと、手のひらを自分よりも大きな手が包み込んで力が入った。ぐっと引き寄せられて踏ん張って立ち上がるのを手伝ってやる。試合中に倒れたチームメイトによくやる仕草で、耳をつんざくような声援が瞬時聞こえて、また穏やかな凪いだ波の音に変わった。
「休憩終わり。ほら、さっさと駅まで送れ」
 とても顔を見れなくて、防波堤から降りるべく背を向けると、続いて背後から飛び降りた流川が体を三井に当ててきた。
「約束。忘れないで」
「…おー」
 ますます顔を上げられなくなって、三井は流川が引き出した自転車の荷台にさっさと跨った。ギッギッとまた自転車がうめき声のような音をたてて走り始める。三井は背を丸めて、目の前の背中に額をつけた。広いようで、まだ浮き出た背骨が感じられて、肩を並べて戦ったこの後輩が自分よりも二つ年下であることを思い出す。スピードに乗せるべくしゃかりきにペダルを漕いでいた流川の足が、ゆっくりした動きに変わった。
 目を閉じると流川の匂いと波の音。流川はずっと、と言ったけれども、それはきっと無理だ。でも自分はこの夏を、この瞬間瞬間を一生覚えているんだろう。それだけは確信できて、三井は当てた流川の背のシャツに自分の目から流れたものを吸わせた。


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