だって仕方のないこと





想像していた以上の人出に三井の足が止まった。
これは、全部あいつ目当てか?
いや、いやいやまさか。
テレビでよく見る著名人の来日や、凱旋スポーツ選手の帰国を待ちかまえるファン達そのままの光景が目の前に広がっていた。
たまたま他の有名人だか芸能人だかの帰国と重なったに違いない。そういえばやつのNBA契約がスポーツニュースで流れていたが、本契約ではない。それでなくともまだまだ日本でのバスケットボール選手の認知度は低い、と三井は己を振り返った。どこへ行くにもファンに捕まって困った、なんてことは残念ながら自分にはない。たまにサインを求められても、「あの人、誰?」と周囲から囁かれる声が耳に痛い。
気を取り直して進もうとして、目に入った懐かしい記憶を刺激する物が、またしても三井の足を止めた。巨大なハートマークを背景に手書きで『流川命』と書かれた、いくぶん疲れた横断幕を持った女性達が、入場を禁止するロープの後ろから、期待に満ちた眼差しをガラスで仕切られた奥のフロアに送っていた。
あの横断幕は見覚えがある。まだ処分していなかったのか。
あの頃はただ呆れるばかりだったが、まだ応援してくれていたのか、と思うと、なんとなく古い友人にでも会ったような気分になった。その周りにもカメラや色紙を持った女性(少数ではあるが男もいる)に溢れ、報道陣もまあまあの数が詰めかけている。
やはり流川目当ての群衆か、ということがわかると、この中を進んで帰国する後輩を迎える勇気は三井にはなかった。
常にチームの話題作りのネタを探し続けている広報担当の顔がチラと頭に浮かんだが、すぐにとんでもねぇ、と頭から蹴り出した。少し離れた大きな柱の陰にとりあえず身を潜め、懐からモバイルを取り出して、履歴の一番上にあった数字にコールする。
早く出ろ。出ろ出ろ。
無機質なコール音は続くが、待ち望んだ応答の声が聞こえてくる気配はない。
あいつのことだから機内モードにしたままなのではないか。いや、そんな面倒はせずに電源を切っちゃってるんじゃないか。
苛つきとともに、大体こういう場面はエージェントだかなんだか知らないが、そういったこうした状況の知識も対策も完璧な人間が迎えに行くものなのではないだろうか、と今更ながらに思う。
『迎えに来て』
なんて電話口で強請られて、
「仕方ねぇなぁ」
と満更でもなく顔を緩めて頷いてしまった、能天気な昨日の自分が恨めしい。
無機質な電子音を流し続けるモバイル片手に焦れ焦れ過ごしていると、ワッと人だかりから声が上がった。首を伸ばして伺うと、報道陣から放たれるフラッシュが帰国ロビーに次々に光り、押し寄せようとする女性達を警備員が体に触れないように困惑しつつ防いでいた。その向こうに、背の高い男が現れた。ドキッと鼓動が一つ跳ねた。
2年振り。2年振りの流川だ。
電話やメールはそれこそ曜日と時間を決めて、不精同士が時間をやり繰りしながらぼやきながら、それでも途切れることなくやり取りしていた。
流川の通っていた大学のチームの公式SNSに上がる動画もチェックしていたし、本人もたまにブレた画像を送ってきた。
だから2年ぶりに会ったとしてもそんなに自分は驚かないと思っていた。
Tシャツによれよれのパーカー、ジーンズにスニーカー。また少し背が伸びて体の厚みが増したような気がする。いつの頃から使い続けているのかわからない、色の褪せたデイバッグを肩に引っ掛けていて、見慣れていたそんな格好に、耳からはイヤホンのコードが垂れて、きっとそこには気に入りの洋楽が流れているのだろう。そんなどこにでもいそうな姿なのに、2年前には確かになかった、遠くから眺めている三井にすら感じ取れるオーラがある。
自分に向けられる周囲の大騒ぎに流川は全く無頓着で、思い出したように耳からイヤホンを外し、ポケットから出したサングラスを今更にかけた。昨日電話口でふざけて三井が笑いながら言った、「おまえこっちでもちょっと有名になったんだからサングラスでもかけて出て来いよ」というセリフを、この大騒ぎを前にしてやっと思い出したのかもしれない。
さらに何かに気が付いたように、手がジーンズのポケットを探り、モバイルを引っ張り出した。その間にも警備員が流川を人混みから庇いつつ動かそうとしているが、それにも全く気付かないように、マイペースに着信を確認して、三井の耳に懐かしい声が飛び込んできて、ようやく三井は自分が電話をかけ続けていたことを思い出した。
『センパイ』
耳に響いてくる声は昨日と同じなのに全く違う。
すぐそばにいる流川から聞こえてくる声が胸に響いて、待ちに待った日だったのに、この事態をどうにかしなければいけないのに、三井はその場から走って逃げ出したくなった。
『センパイ?』
少し訝しげな声に変わって、眺めていた姿が伸びをして、周囲にキョロキョロと顔を向けて自分を探しているようだった。
大きくなり続ける動悸を何とか抑え込んで、三井は柱から顔を出し、大きく流川に向けて腕を振った。流川の顔が自分に向けられて、その目が瞠られたように見えた。
胸にじんわりと広がっていく温かみを感じて、だが、今の状況を三井はすぐに思い出した。流川の視線の先を追うように、自分の方にも報道陣と女性達の視線が送られてくる。また柱の陰に身を潜めて、「バカヤロー!」とモバイルに向かって抑えきれない声を上げた。
「帰国ロビーに出てからグラサンかけたって遅いだろ! 警備員さんの言うこと聞いてあとで、」
「センパイ」
電子に乗せられていない、生の肉声がすぐ後ろから耳に届いて三井は肩を驚かせた。眺めていた流川がいた場所からここまでは、結構な距離があったと思っていたが、息一つ上げていない流川が瞬間移動でもしたようにそこに立っていた。
「おっおまえっ!」
「センパイ」
その声が揺れているように感じられて、三井は息を止めた。
「ただいま」
「お…おう。…おかえり」
「…っす」
相変わらずのきれいに整った男前。
だが、その顔を形作る線はまた少し固く、強く、成長したような気がする。
突然眩しい光を浴びて三井はようやく我に返った。振り返るとゲート付近にいた人の輪がいつの間にかこちらに向いて狭まっていた。
「とにかく車乗るぞ」
「っす」
取り敢えず。
取り敢えず二人きりになれる場所。
三井が踵を返すと、すぐ後ろからついてくる気配がして、それが流川なのだと思うと顔が自然に綻んできて、後ろを走る男に見られないことをいいことに、三井は盛大に顔を緩ませた。



駐車場まで来ると足止めをされたのか、もう後を追ってくる人間の姿は見えなくなって三井はようやく息をついた。運転席のドアに手をかけて、ふと思い出したことがあって、助手席のドアに手をかけた流川の側まで回り込んだ。
「…なに?」
三井は無言で流川を睨み上げ、手を伸ばしてその顔からサングラスを外した。懐かしい切れ長の一重が現れてびっくりしたように瞬く。落ち着くと見覚えのあるサングラスだった。昨夜ネット上で見たばかりの。
「似合わねぇ」
外したサングラスを乱暴に胸元に突き返す。
「センパイがかけろっていうから」
「全然役に立ってねーし」
言い捨てて、踵を返そうとすると、「あ、待って」と腕を掴まれた。
「んだよ」


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何を思ったのか、返したサングラスをそのまま顔にかけられた。
「あ? なに?」
「センパイの顔がバレないように」
「は?」
冗談か揶揄われたのかと一瞬気色ばんだが、流川はそんなこと面倒はしないか、と思い直して三井は眉を顰めた。流川の顔は真面目で真剣そのものだ。
「俺は別にヘーキだけど。センパイは人に見せたくない」
顔が熱くなる。何を言われたかがじわじわと脳に伝わって、情けないことに口が動かない。
「あんなに人がいると思わなかった。ごめんなさい」
「べっ…別に…」
本当はこのサングラスが不愉快だった。
昨夜またネットで流川を探していて、見つけたSNSにあげられていた画像。
わざわざRUKAWAのハッシュタグがつけられて、これと同じサングラスをかけた金髪美女を見つけた。流川の通っていた大学のコートを背景に、わざわざ『OSOROI』という日本語と一緒に自慢そうにキメ顔で写っていた。見た顔だった。食事をごちそうになりに行ったこともある、流川のチームメイトの妹だ。RTやリプライから推察するに、チアもやっていて学内では結構な人気者らしく、それが余計に三井の胸をざわつかせた。
わかってる。これが匂わせってやつだ。実態のない優越感。
そんなことにざわざわしてしまった自分がまた嫌だった。相手は未成年の女子大生。こっちは社会人3年目のいい年をした大人だ。昨日は流川との電話で浮ついた後に、夜にそんな自己嫌悪で落ち込み、なかなかに感情的に忙しい日だった。
「…これ、餞別だろ。とっとけよ」
息を吐いて外そうとすると、「いい」と言って手を押さえられた。
「別にいらねーから」
「おまえ…」
一晩かけてじわじわと湧いていた悋気が、一瞬でこれと同じサングラスを持つ女の子への同情に変わった。我ながら単純だとは思う。が、そこにまた慌ただしい複数の足音が聞こえてきて、三井はサングラスをしたまま、「やべ。もう来やがった。早く乗れ」と流川を急かして、慌てて運転席に乗り込んだ。
「どこ行く? おまえの実家か?」
「センパイん家」
「いや、まず挨拶ぐらいしに行けよ…」
2年振りの恋人は不満そうに唇を尖らせた。それを横目で笑って見て、三井は余裕を取り戻した手でステアリングを握った。





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