きっと仕方のないこと
きっと仕方のないことなのだ。
クローゼットから洋服類が全て取り出されているのも、本棚の中身が全てテーブルの上に積まれているのも。
流川は洋服類の手持ちが少ないし、本棚に至っては大学で使う最小限の教科書代わりの本と辞書ぐらいしかない。だから部屋の中に大嵐が吹き荒れていても比較的被害は少ない。
その嵐は部屋の中に目当てのものが見つけられなかったとみえて、今度は浴室の方へと足音も荒く移動していた。嵐の背中を見送り、もういいかなと判断して少ない私物を元に戻すべく、流川は勉強机も兼ねている中古のダイニングテーブルへと歩み寄った。
大きな一枚板の杉の木の天板は、ガレージセールの店番の男が保証してくれたように、部屋の中の私物一切を受け止めて泰然と構えている。積み上げられていた雑多な品々を一つ一つ本棚やクローゼットに戻しながら、浴室へ消えた三井のことを流川は考えた。するとすぐに湧いてきた少しばかりの罪悪感がちくりと胸を刺したが、浴室から派手に聞こえてくる音が相殺してくれた。何か溢すとか割るとか、そんなことをされなければ浴室はさらに物が少ないから、片づけるのもさほど労力はいらないだろう。
「ねぇ! ねぇねぇねぇねぇー!!」
三井は頭に両手をやって髪をかきむしり、大股に部屋に戻ってくると、まだ嵐の被害を受けていないキッチンへと目をやった。行きかけて、「いや、キッチンなんかにゃあんなもん持ち込まねーもんなー」と足を返し、流川は三井にはわからないように息を吐いた。
「おまえ、ホント見かけてない?」
「…ない」
「マジかー。あーくっそー! どこやっちまったかなー。落とした…?なんてことねーよな…昨日部屋ん中で確認したもんなー」
三井は親指を口元にやって唇の端をなぞった。高校時代から見覚えのある考え事をする時の癖だ。その親指が辿った唇のラインを同じように流川は目で辿り、それからテーブルの上からパーカーを取り上げて広げた。
「あっ! そのポケットん中は?!」
「ない」
ポンポンとポケット辺りを叩いてみせて、クローゼットの上の棚に投げ込んだ。
「もー一回トランクん中漁るかなー」
三井は玄関ドアの前に広げっぱなしのトランクを絶望の目で見やった。ほぼパッキングが終わっていた中身を全てひっくり返して、周りは足の踏み場がない。あれが片付かないことには夕食を摂りに行くこともままならない。三井が部屋の捜索を始めて小一時間経過している。そういえば腹が減ることは考慮の外で、流川は先刻から腹の虫を鳴らしながら、どうやって三井の気持ちを夕食に持っていくかを真剣に考えていた。
「その前に喉乾いた」
「あ」
思わず声が出た。
「あった?!」
「ない。けど」
「紛らわしい声出すなよなー」
口を尖らせ三井は冷蔵庫を開けて頭を突っ込んだ。すぐにミネラルウォーターの入ったボトルを取り出して呷ったのを見て、流川はまた息を一つ吐き出す。
「なあ、腹空かねー?」
「空いた」
腹が空いていたのは三井も同じだったようで、投げられた質問に流川は食いついた。
「おまえ買って来てくれよ。金払うからさ」
「え…」
最後の夜は三井が行きたいと言っていた大学近くのダイナーに行く予定だった。すっかりそのつもりで頭の中にメニューを広げていた流川は、先輩の横暴な口振りに不機嫌な顔を見せた。
「だって見つかんねーんだもん。おまえ行ってきてくれよ。その間探してっから」
そう言いながら、もう三井はジーンズの尻ポケットに入れていた財布に手を伸ばしている。まあその言い分ももっともで、また消えたはずの罪悪感も胸のどこかに残っていて、流川は黙って三井の差し出したドル紙幣を何枚か受け取った。
「なに食いたいの?」
「んーなんでもいいや。おまえのオススメで」
言うと三井は玄関ドアに寄りかからせていたトランクを閉じて、流川の通り道を作った。
「ビールも」
「俺未成年」
「あー。ま、いっか。じゃコーラ」
流川はトランクを跨いでドアに辿り着いた。外廊下から三井を振り返ると、さっきまでの慌てぶりが見えなくて、少し流川は不安になる。口を開く前にドアは目の前で閉じられた。
迷うことなく三井の行きたがっていたダイナーのテイクアウトを仕入れて足早に部屋に戻ると、明日からの仕事だと諦めていたテーブルの上の私物は、予想に反してあらかた片付けられていた。妙にすっきりと落ち着いた部屋の隅に、元通りにパッキングされた大きめのトランクが寄せられている。流川は眉を寄せてそれを眺めた。留守中に三井の探し物が見つかった、となればひと悶着ありそうだった。三井とケンカはしたくない。とりあえず空いたテーブルの上に買ってきた夕食の入ったビニール袋を置いた。
向かいの席にビール缶を置くと、部屋に入ってきた三井が、「あれ?」と声を上げた。
「どーしたの、それ?」
「チームメイトの部屋行ってもらってきた」
「へぇー気が利くじゃんよ」
機嫌はいいようだ、と流川は安心して席に座った。
三井は饒舌だった。機嫌よくこの一週間のアメリカ滞在を振り返り、一年前と同じように流川を取り巻く異国の環境、大学や練習場やチームメイトについて論評し、テイクアウトのハンバーガーを食い尽くし、缶ビールをきれいに干した。キッチンに食べた後に出たゴミを持っていって捨て、手を洗い、流川の分までコーヒーをいれて、自分の寝床にしていたソファに座って、テーブルの上にコーヒーを淹れたマグカップを二つ並べた。それからおもむろに、三井と並んでソファに座った流川の膝の上に自分のパスポートを置いた。
「俺はこれを冷蔵庫の中に入れたりしない」
そうだろう。これは三井のデイバッグの中にきちんとしまわれてあった。これを冷蔵庫に入れて冷やしたのは自分だ。流川は頷いた。
「どうしてこんなことをした?」
三井の口調には怒りを抑えている様子はなかった。ただ静かに、流川の買い物中に頭の中で考えて用意していたのであろう質問をゆっくりと流川に投げかけた。
「センパイは来年就職する」
求められていた答えではない言葉が口をついて出たが、三井は激昂する様子もなく、コーヒーのカップに手を伸ばして中味を啜った。そうして静かに次の言葉を待っているようだった。
「入って2,3年は休みは取れないだろうって先輩に言われたってセンパイ言った。そうすると次に会うのは3年後だ。俺はきっとまだここにいる」
そう考え付くと、気が付いた時にはパスポートを冷蔵庫にしまっていたのだ。その時の心境を流川なりに説明してみたが、自分でも人が納得するような内容ではないことはわかっていた。そっと三井の横顔を盗み見たが、三井は何かを考え込むようにマグカップを持ったまま、床に視線を落としていた。流川もつられてその視線の先を追ったが、古い木材の少し浮き上がって艶の出ている節目しかなくて、三井の頭の中に考えられていることを知ることはできなかった。
三井が困ればいいと思って冷やしたわけではもちろんない。いや、少しは思ったかもしれない。そうだ、少しぐらい困れ、と思った。そもそも隠し通せば大事になることはわかっていたし、そんなことをするつもりはなかった。流川にも自分のその時の心情は説明できないものだった。
昨晩はチームメイトの実家の夕食に三井とともに招かれて、そこで出されたアルコールに三井は機嫌を良くし、次になぜか落ち込み、それから卒業してから送ることになるであろう自分の生活を、帰宅途上で訥々と語った。三井がこうして留学した自分の元を訊ねてくるのは今年で2回目だった。そこで流川は三井の渡米が、当面なくなり、それどころかこれで最後になるかもしれないことを知り、抑えきれないもやもやを抱えて帰宅し、シャワーを浴びてすぐに寝た三井の鞄を漁り、パスポートを抜き出して冷蔵庫に入れたのだった。
次に会うのは早くて2年後。どうしたらいいのかわからない焦燥感はパスポートを隠したところで収まるわけもなく、まだこうして胸の中に燻っている。いや、何も言わない三井の横顔を見ていると、いや増して流川の気持ちを暗くする。
バカなことをした、という反省はある。ともに過ごせる貴重な時間を無駄な捜索に費やさせてしまったのだ。これだったら、お節介なチームメイトの母親の勧めに大人しく従って、もう一晩夕食をご馳走になっていた方がはるかにマシだったのかもしれない。
「ごめんなさい」
応えはなかった。三井は難しい顔をしてまだ床の節目を睨みつけている。その顔が不意に上げられて流川を真正面から見つめてきた。
「おまえさ、俺のこと好き?」
好きかどうかで聞かれたら、好きに決まっている。キライなヤツをわざわざ自室に泊めたりはしない。
「好きっす」
「俺がキスしても平気?」
言うや、三井は流川の唇にキスをしてきた。少し乾いた暖かい感触が自分の口を覆い、流川は先刻見た三井の親指が辿った唇の線を思い出した。それはすぐに離れて、三井の真剣な目が流川の顔を覗いてきた。
「どうだ?」
流川は記憶に残ったその三井の仕草を真似していた。親指で唇を辿り、端を強く押す。
「わかんない」
「そっか」
「だからもう一回」
小さく笑って正面に戻した三井の顔の顎を捉えた。驚いたような目が自分を見て、それは唇を重ねた時にも開かれたままだった。
「…わかったか?」
少し離れると、至近距離で動かされた唇から息が漏れて、腹の底が震えた。
「わかんない。もう一回」
強請ると今度は三井からキスを仕掛けてきた。軽く触れて、三井は閉じていた瞳を開き、目を開けていた流川を睨んだ。そのまま触れる。唇が薄く開いて自分のそれに擦れ、またじん、と震える腹を流川は持て余した。
「…どうだ?」
「ん…もう一回」
唇だけでは足りなくなって、両腕を三井の背中に回した。抱きしめると懐かしい香りがして、自分で気づくことのなかった心の欠落が埋められていくようだった。抱き合ったのは高校の時以来だ。高校一年生の夏。遠く感じられたあの夏が、不意に戻ってきたように感じられて、今度は逃がさないように腕の中の身体をきつく抱きしめた。
「おまえがさ、来ればいいじゃん。里帰り」
そんなことを言いながら、腕の中の三井が顔を上げる。もぞもぞする、と思ったら腹の辺りのシャツを三井の右手が掴んでいた。
「そしたら俺さ、」
「なに?」
「帰ってきたら教えてやるよ。だから」
「うん、あんたのとこ行くから。絶対」
「もう冷蔵庫にパスポート入れんなよ?」
「うん」
もうそんなことはしない。
また必ず会えると知っているから。
end