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センパイ、お願い。


 二人の間でケンカは珍しくない。もちろん深刻なケンカにはならない。犬が食わないというヤツだ、と流川は思っている。
 ケンカとはいっても腕力で流川に敵わないことは、三井は高校時代に身に染みたのか懲りたのか、軽くはたくことはあっても手は絶対に出してこない。口下手な流川に効力があるのはやはり口喧嘩だ、と三井は確信しているらしい。
 それはそれで憎らしいが、大体は三井が言いたいことをまくし立てて、流川はムッとした顔で受け止めて、一応は何がいけなかったのか考えてみる。自分が悪いと判断できれば不器用なりに機嫌を取ろうとするが(頭はなかなか下げられない)、その頃にはもう三井は拍子抜けするほどにケロリと忘れている。後に引きずらないタイプであることは大変結構であるが、若干振り回されているような、そんな理不尽な気が流川にはしないでもない。
 大体のケンカの原因は、思い出すのもバカらしい取るに足らない小さなことで、たとえば今回の発端は食事の後の重ねた皿の置き場所だった。
 三井は使い終わった食器は全てがもう汚れ物であるという認識で、すぐにシンクの中に入れて欲しいらしい。それは前にお達しを受けていたので流川は覚えていたが、今日の皿洗い当番は自分だったので、まあいいか、ぐらいに思って流しの隣の調理台に置いておいた。するとすぐに、「前に言ったよな?」、と険のあるキツイ声が飛んできた。振り返るとすでに眉間に深く縦皺を刻んでいる三井が流川を睨みつけていた。
「言った」
「覚えてんの」
「うん」
「覚えてんのにどーしてここに置くの。流しの中に置けっつったじゃん」
「俺、今日皿洗い当番だし」
「あっそ。なら俺の言ったこと聞かなくてもいいってか」
 ああ、面倒くさい。
 思わずそう思ってしまったのが、多分顔に出ていたのだ。それは流川も自覚するところではあった。が、気付くことができたのはいつものことながら遅かったようで、三井の眉がさらにつり上がった。
「あっそ! わかった。ならもう俺は皿ぁ洗わねーかんな」
 どうして今までの会話の流れで、皿洗い当番制の崩壊に繋がるのかはわからないが、正面きって睨み上げてくる三井の両目が流川は好きだ、と目の前の小さな顔を改めて見つめた。
 形のいい眉が真っすぐに斜め上を向き、その下の大きな瞳にさらに力と強い光が宿る。三井は目や唇のパーツが大きめだ。その分、怒ると力がこもって表情の苛烈さが増す。流川はその籠った力強さが好きだ。
 本人には言えないが、あの事件の日、高校時代に体育館に殴り込んできた時に、まず三井の顔に魅入られた。行動の理不尽さ、謎加減も手伝って、この人は一体なんなんだ、と初めて人生で興味を引かれた人間だった。初めて見た表情の力強さ、その後に見た何を繕わない泣き顔との落差に引き込まれたのだ。
 今もなぜ自分が睨まれているのか流川は忘れて、珍しく昔のことなどを思い出し三井の顔に見入っていた。その流川の大好きな三井の眉が、ん?、と不審げに寄せられた。
 あ、ヤベえ。
 我にかえった時にはまたしても遅かった。
「おまえっ! 今なんも考えてねーな?!」
 鋭い。
 いや、考えていないことはなかった。
 この大好きな顔を。めちゃくちゃに歪めたい。
 そんな欲望を抱いたのはインターハイが終わった頃から、今の今までずっとだ。上気した歪んだ顔を自分の腕の中で、三井の身体の中で感じられたら最高だ。快楽に弱いこのセンパイに意地悪を口に出して、またこの顔で睨み上げてきてくれたらもっといい。泣きそうな顔になってくれたらもっともっといい。
 そんなことを考えていました。
「ごめん」
 心にもない謝罪の言葉を口に出した途端、三井の眉が更にこれでもか、というほどに寄せられる。
 ああ、これだと、「何も考えてない」、と言った三井の言葉を肯定することになったんだな、と流川は気付く。
 だが、その時にはもう三井は踵を返して、足音も荒くリビングに行ってしまっていた。どかっと床に腰を落とし、テレビのリモコンを取り上げて電源を入れる。その肩は怒ったように上げられていた。
 流川は溜息をつき、ここはひとまず大人しく皿を洗うべきだと判断して、流し台に向き直った。スポンジに洗剤を落としながら考える。
 どうしたらこの状況から、さっき想像したような顔を三井に浮かべさせるシチュエーションに持ち込むことができるのか。力づくでいったらさらに状況を悪化させることは目に見えている。
 落ち着こう。残り3秒の試合じゃない。
 だが事態はそれよりもっと難解だ。ゲームならばHCも指示を出すし、それによって状況打破のインスピレーションを受けることができる。
 だが相手はこのセンパイだった。
 最後の皿を水切り籠に立てて手を拭くと、ずっとテレビに向いたまま一言も発しなかった背中を流川は眺めた。
 肩は既に下がっている。顔も見れたら対処しやすい、と思いつつ、流川はそっと足を向けた。だが動きは感じ取られたようで、その肩が小さく揺れて、自分の気配を探っているようだった。
 言葉でやり取りするよりも、三井の表情は雄弁だ。眉の上げ下げや、目の動き、口の尖らせ方で、三井の気持ちは大体掴める。…ようになってきた、と思う。だがその顔は今は見ることができない。
 三井はソファには座らずに、その前の床にどっかりと胡坐をかいていた。流川は三井の体を両ひざで挟むように、だが体には触れないように極力気をつけて、背後のソファにそっと腰掛けた。
 赤くなったままの耳や髪を短く刈られた首筋を観ていると、助平心により拍車がかかる。だが待て、と流川は己にブレーキをかける。テレビはクイズ番組を流している。いや、その前にやっていたバラエティからチャンネルは変わっていないから、三井はテレビを見ているフリをしているだけなのだろう。
 まだ怒ってるのかな、と思うと、肩に手を伸ばすことも躊躇われた。
「今度からちゃんと流しの中に置く」
 言って、しばらく待ってみても返答はない。珍しく腹をたてている時間が長いな、と思う。
「ごめんなさい」
 素直な謝罪の言葉は流川の奥の手だった。どんなに怒ってはいても、大体いつもこれで三井は、「しゃーねーな」と笑って許してくれる。
 だが向けられた背中はピクリともしない。「センパイ?」と少し不安な声が出た。
 不意に三井の背中が動いた。震えるように揺れている。面食らっていると、笑った顔が悪戯そうに向けられた。
「おまえ…ホント謝んの嫌いな?」
 少しホッとして腕をその肩に伸ばした。が、パシッと音をたててはねのけられる。
「今テレビ観てんの」
 三井は更に流川の手が届かないように、床に転がってしまった。まだあれだけ怒った手前、照れくささが残っているのかもしれない。
 横になって片手で頭を支えている。流川はソファからずるずると体を落とし、三井の背後に寄り添うように横たわった。
 ねえ、センパイ。お願い。
 こっちを向いて。笑って。
 目の前の首筋に我慢がきかなくなって唇を落とした。
 腰に手が回って、舌で肩を舐めて齧った。
「…おまえ」
「…なに?」
「体でなんとかしようとするクセやめろ。どこで覚えてきた」
 それは心外。
 ただ体が止められないだけ。
 身体だけじゃない。センパイを好きと思う心が止められないだけ。
 好きで好きでその匂いを嗅ぎたくなって、手のひらいっぱいにセンパイの肌を触れたくなって、体全体でセンパイを感じたくなるだけ。
 それをなんとか伝えたくて、猛った腰を押し付けると、ペチッと頭を叩かれた。
「ホンッとおまえはもう」
 振り返ったセンパイの腕が伸びてきて、もう一度叩かれるのかと思ったら、力いっぱい首に回った腕で抱きしめられた。
 鼻孔に広がるセンパイの匂い。幸せだな、と実感できる瞬間で、流川は満面の笑顔を浮かべる。すると目の前のセンパイの顔も笑みに崩れる。
「しゃーないか。俺も」
「センパイ、スキ」
「うん、俺も」
 流川は本当に、本当に幸せだな、と思う。
 センパイと暮らし始めてから何回も思う。
 この幸せがずっと続きますように。
 センパイのこの笑顔がずっと、ずっと見ていられますように。
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